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「それで、どうなったのですか?」
妻のヤヤが、酒を注ぎながら訊いた。
長政は屋敷にいた。
厄介事が一気に片付き、久々にゆっくりと夕餉をとった。
腹の調子も良くなったので、酒も飲んだ。
長政は、注がれた酒を飲み干すと、「いらっしゃった」と、溜息混じりに云った、「右京大夫様が抱いておられた」
「まあ、それはよろしゅうございましたね。それにしても、なぜ淀様のお部屋に?」
「淀様が、捨丸君と一緒にいたいとおっしゃられたそうだ」
「それは、どういうことですか? 母君でしょう? いつもお傍におられるではないのですか?」
「それが、そうでもないらしい。淀様には、捨様の前に拾様という御子がいらっしゃったが……」
わずか3歳で病死した。
だから捨丸は、豊臣家をあげて大切に育てることとなった。
捨丸の世話は、大蔵卿局を中心に、数人の乳母と何十人という侍女が受け持つ。
その中に、実の母親である淀の入り込む余地はない。
『淀様はご心配いりません。捨丸君は、この大蔵たちが立派にお育ていたしますので』
と、生まれたその日に取り上げられた。
淀は、わが子を抱かせてももらえない。
胸はパンパンに張るのだが、乳を与えることもできない。
胸から溢れ出る乳を見ては、涙を流していたという。
それを見ていた右京大夫局は、淀があまりにも可哀想になった。
淀にわが子を抱かせてやりたい。
一度で良いから、乳をやらせてあげたい。
そう思った右京大夫局は、小用に行くふりをして、打掛の中に赤子を隠して松の間から脱け出したという。
謎が解ければ、至極単純なことだ。
それは、ほんの一晩のつもりであった。
が、淀が捨丸を手放すのを嫌がった。
あと1日、あと1日と、今日までずるずると来てしまったという。
右京大夫局は、『差配したのはすべて私です。責めは私が負います』と泣いた。
大蔵卿局は酷く立腹して、極刑を望んだ。
だが、長政は、
『しかし、右京大夫様を極刑にすれば、太閤殿下に今回のことが知れましょう。そのときは、大蔵卿様の責任も問われますが』
と、右京大夫局の罪を問わないこととした。
「それで、捨様はまた大蔵卿様たちがお育てになるので?」と、妻は訊いた。
「いや、それがのう……」
大蔵卿局が、淀から捨丸を取り上げようとしたときだ。
淀が唸り声を上げて、大蔵卿局を威嚇した。
わが子をぎゅっと抱きしめ、鋭い眼差しで睨みつける。
その姿はまるで獣だった。
大蔵卿局は、捨丸を渡すよう説得した、『捨丸君は、淀様だけのお子ではない。太閤殿下の御子、天下人の御子なのだ。天下の宝なのだ』と。
淀は、目を炯々と燃え上がらせて叫んだ。
『違う、この子は私の子じゃ。私が腹を痛めて産んだ子じゃ。太閤殿下の子でも、天下人の子でもない。まして、大蔵卿、お前の子でもない。私の宝なのじゃ!』と。
長政は、淀の目の中に、大蔵卿局が子を取り上げようとしたあの貧しい母親と同じ輝きがあるのを見た。
結局、大蔵卿局が一歩引いて、淀自らが捨丸を育てることとなった。
「あれは、獣だな」と、長政は呟いた。
「当然でしょう」と、妻は横目で長政を見た、「母親は、わが子のためならば獣にもなるのです」
妻の獣のような眼差しに、長政はぶるっと身震いした。
「ところで、あなた、どうして捨様が淀様のお部屋にいるのではないかと思ったのですか?」
それは、治長にも訊かれた。
まず現場で感じた違和感である。
淀の様子があまりにもおかしかった。
最初は、子どもがいなくなってオロオロしているのだと思った。
が、それにしては妙に落ち着いていたし、『捨丸が乳を欲しがっている、もう参ろう』と、居場所を知っているようなことを云った。
何より、妻のひと言のお陰だと、長政は答えた。
「まあ、そんな」
ヤヤはほんのりと染まった頬を両手で覆い隠した。
「年の功だな、ヤヤ」
「バカおっしゃい。お酒、まだ飲まれるでしょう」と、そそくさと奥に下がっていった。
長政は、妻の嬉しそうな後姿に苦笑した。
しばらくして妻が、野々口五兵衛がやってきたと告げた。
彼は、大きな籠をさげていた。
中には美しいトラ柄の子猫が蹲っていた。
すっかりと忘れていた。
「すまぬ、野々口殿、太閤殿下の〝猫〟は見つかった」
長政は、五兵衛が残念そうな顔をするかなと思った。
だが、彼は酷く嬉しそうだった。
「いや~、そうでしたか。それは良かった」、五兵衛の顔にはあちらこちらに引っかき傷が付いている、「実は、この子を取り上げるとき、母猫に引っ掻き回されましてね。いや~大変でした。この子を籠に入れたときの母猫の恨みがましそうな目を見ていると、何とも居た堪れなくなりましてね。ここに来る道すがら、お断りしようかと考えていたところなのですよ」
「それは大変世話をかけたな」
いやいやと、五兵衛は顔の前で手を左右に振った。
「しかし、こんなに引っ掻き回されるとは思いませなんだ」
「母猫も、子を守るために一生懸命だったのだろう。その気持ち、分からんでもない」
長政は、淀の、そしてあの貧しい女の瞳を思い浮かべた。
「母は、わが子のためなら獣になるか」
と、呟く。
五兵衛は、「はい?」と首を傾げる。
籠の中の子猫は、母猫のもとに帰れると知ってか、ニャーと甘えた声で鳴いた。(了)
妻のヤヤが、酒を注ぎながら訊いた。
長政は屋敷にいた。
厄介事が一気に片付き、久々にゆっくりと夕餉をとった。
腹の調子も良くなったので、酒も飲んだ。
長政は、注がれた酒を飲み干すと、「いらっしゃった」と、溜息混じりに云った、「右京大夫様が抱いておられた」
「まあ、それはよろしゅうございましたね。それにしても、なぜ淀様のお部屋に?」
「淀様が、捨丸君と一緒にいたいとおっしゃられたそうだ」
「それは、どういうことですか? 母君でしょう? いつもお傍におられるではないのですか?」
「それが、そうでもないらしい。淀様には、捨様の前に拾様という御子がいらっしゃったが……」
わずか3歳で病死した。
だから捨丸は、豊臣家をあげて大切に育てることとなった。
捨丸の世話は、大蔵卿局を中心に、数人の乳母と何十人という侍女が受け持つ。
その中に、実の母親である淀の入り込む余地はない。
『淀様はご心配いりません。捨丸君は、この大蔵たちが立派にお育ていたしますので』
と、生まれたその日に取り上げられた。
淀は、わが子を抱かせてももらえない。
胸はパンパンに張るのだが、乳を与えることもできない。
胸から溢れ出る乳を見ては、涙を流していたという。
それを見ていた右京大夫局は、淀があまりにも可哀想になった。
淀にわが子を抱かせてやりたい。
一度で良いから、乳をやらせてあげたい。
そう思った右京大夫局は、小用に行くふりをして、打掛の中に赤子を隠して松の間から脱け出したという。
謎が解ければ、至極単純なことだ。
それは、ほんの一晩のつもりであった。
が、淀が捨丸を手放すのを嫌がった。
あと1日、あと1日と、今日までずるずると来てしまったという。
右京大夫局は、『差配したのはすべて私です。責めは私が負います』と泣いた。
大蔵卿局は酷く立腹して、極刑を望んだ。
だが、長政は、
『しかし、右京大夫様を極刑にすれば、太閤殿下に今回のことが知れましょう。そのときは、大蔵卿様の責任も問われますが』
と、右京大夫局の罪を問わないこととした。
「それで、捨様はまた大蔵卿様たちがお育てになるので?」と、妻は訊いた。
「いや、それがのう……」
大蔵卿局が、淀から捨丸を取り上げようとしたときだ。
淀が唸り声を上げて、大蔵卿局を威嚇した。
わが子をぎゅっと抱きしめ、鋭い眼差しで睨みつける。
その姿はまるで獣だった。
大蔵卿局は、捨丸を渡すよう説得した、『捨丸君は、淀様だけのお子ではない。太閤殿下の御子、天下人の御子なのだ。天下の宝なのだ』と。
淀は、目を炯々と燃え上がらせて叫んだ。
『違う、この子は私の子じゃ。私が腹を痛めて産んだ子じゃ。太閤殿下の子でも、天下人の子でもない。まして、大蔵卿、お前の子でもない。私の宝なのじゃ!』と。
長政は、淀の目の中に、大蔵卿局が子を取り上げようとしたあの貧しい母親と同じ輝きがあるのを見た。
結局、大蔵卿局が一歩引いて、淀自らが捨丸を育てることとなった。
「あれは、獣だな」と、長政は呟いた。
「当然でしょう」と、妻は横目で長政を見た、「母親は、わが子のためならば獣にもなるのです」
妻の獣のような眼差しに、長政はぶるっと身震いした。
「ところで、あなた、どうして捨様が淀様のお部屋にいるのではないかと思ったのですか?」
それは、治長にも訊かれた。
まず現場で感じた違和感である。
淀の様子があまりにもおかしかった。
最初は、子どもがいなくなってオロオロしているのだと思った。
が、それにしては妙に落ち着いていたし、『捨丸が乳を欲しがっている、もう参ろう』と、居場所を知っているようなことを云った。
何より、妻のひと言のお陰だと、長政は答えた。
「まあ、そんな」
ヤヤはほんのりと染まった頬を両手で覆い隠した。
「年の功だな、ヤヤ」
「バカおっしゃい。お酒、まだ飲まれるでしょう」と、そそくさと奥に下がっていった。
長政は、妻の嬉しそうな後姿に苦笑した。
しばらくして妻が、野々口五兵衛がやってきたと告げた。
彼は、大きな籠をさげていた。
中には美しいトラ柄の子猫が蹲っていた。
すっかりと忘れていた。
「すまぬ、野々口殿、太閤殿下の〝猫〟は見つかった」
長政は、五兵衛が残念そうな顔をするかなと思った。
だが、彼は酷く嬉しそうだった。
「いや~、そうでしたか。それは良かった」、五兵衛の顔にはあちらこちらに引っかき傷が付いている、「実は、この子を取り上げるとき、母猫に引っ掻き回されましてね。いや~大変でした。この子を籠に入れたときの母猫の恨みがましそうな目を見ていると、何とも居た堪れなくなりましてね。ここに来る道すがら、お断りしようかと考えていたところなのですよ」
「それは大変世話をかけたな」
いやいやと、五兵衛は顔の前で手を左右に振った。
「しかし、こんなに引っ掻き回されるとは思いませなんだ」
「母猫も、子を守るために一生懸命だったのだろう。その気持ち、分からんでもない」
長政は、淀の、そしてあの貧しい女の瞳を思い浮かべた。
「母は、わが子のためなら獣になるか」
と、呟く。
五兵衛は、「はい?」と首を傾げる。
籠の中の子猫は、母猫のもとに帰れると知ってか、ニャーと甘えた声で鳴いた。(了)
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