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第二章「そら豆」
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奉行所に戻り、神谷源太郎に報告を終えると、小次郎は南町の組屋敷へと戻った。
角行灯に明かりを入れると、冷えきった薄暗い部屋が仄かに明るくなり、小次郎の疲れた顔が浮かび上がった。
小次郎は勝手から湯呑茶碗と酒瓶を持て来ると、行灯の前にどかりと座り込み、湯呑茶碗に酒をなみなみと注いだ。
そして、畳の上に零しながら、ぐいっと咽喉に流し込んだ。
久しくこの生活が続いている。
女房の小枝は、十年も前に亡くなった。
娘のお竹は、貞吉と同じく小次郎の小者だった卯吉にくっついて出て行った。
卯吉は、脛に傷のある男だった。
小次郎が色々と面倒を見てやっていた。
が、これとお竹が恋仲になってしまった。
小次郎がそれに気が付いたときには、お竹はすでに身重だった。
恩を仇で返されるというのはこのことだ。
『てめえ、大事な娘に手を出しやがって!』
小次郎は、卯吉の胸倉を掴んだ。
『すみません、旦那』
卯吉は平謝りするばかり。
お竹は、
『お父さん、お願いだから卯吉さんと一緒にさせて』
と頭を下げた。
お竹には、いい婿を向かえて、秋山の家を継がせようと考えていた。
それが駄目でも、他の同心か、与力の家に嫁がせようと思っていた。
父親であれば、娘の将来を思ってのことである。
一方で、世間体や面子もあった。
『駄目だ、そんなことは許さねえ。こいつは掏児だぞ』
『いまは足を洗って、きちんと働いているでしょう?』
『駄目なもんは、駄目だ!』
『お父さん、あたしはどうしてもこの人と一緒になりたいの。この人の子どもだってここに……』
『う、うるせえ! そんなことは絶対に許さねえ。どうしてもって言うのなら、親子の縁を切ってやら!』
啖呵を切った。
その日の夜、二人は小次郎の前からいなくなった。
いまは神田で一膳飯屋をやっていると聞くが、出て行ってから一度も会ってはいない。
女の子が生まれたそうだが、その顔も見たことはない。
貞吉が言うには、
『そりゃもう、お嬢様に似て目がくりっとして愛らしくて』
とのことらしい………………
いまも、お竹の腹の中にひとりいると貞吉から聞いているが、その子の顔も見ることはないだろう。
(むかしは、お父さん、お父さんって、くっついて、片時も離れなかったのに、いまじゃなあ……)
小次郎は、呷るように酒を飲む。
勝手道具には、蜘蛛の巣が張っている。
部屋の隅には、薄っすらと埃が溜まっている。
屋敷には寝に帰るだけだ。
小次郎は袂から紙袋を取り出し、開けた。
が、勢い余って紙袋が破れてしまい、畳の上をそら豆が四方八方に転がっていった。
「ちっ!」
舌打ちをしたが、面倒で拾うこともしなかった。
そら豆は、隣の部屋まで転がっている。
(そう言えば、毎年、あの部屋に雛人形を飾ったな)
そら豆が転がり込んだ部屋を見た。
酒を注いで飲み干した。
足下に落ちていたそら豆を一粒拾い上げる。
ふと、市左衛門の言葉を思い出した。
「育ち方を間違えたか……」
呟くと、それを口に放り込んだ。
ぽりぽりと、そら豆のいい音が暗い部屋に響き渡った。
角行灯に明かりを入れると、冷えきった薄暗い部屋が仄かに明るくなり、小次郎の疲れた顔が浮かび上がった。
小次郎は勝手から湯呑茶碗と酒瓶を持て来ると、行灯の前にどかりと座り込み、湯呑茶碗に酒をなみなみと注いだ。
そして、畳の上に零しながら、ぐいっと咽喉に流し込んだ。
久しくこの生活が続いている。
女房の小枝は、十年も前に亡くなった。
娘のお竹は、貞吉と同じく小次郎の小者だった卯吉にくっついて出て行った。
卯吉は、脛に傷のある男だった。
小次郎が色々と面倒を見てやっていた。
が、これとお竹が恋仲になってしまった。
小次郎がそれに気が付いたときには、お竹はすでに身重だった。
恩を仇で返されるというのはこのことだ。
『てめえ、大事な娘に手を出しやがって!』
小次郎は、卯吉の胸倉を掴んだ。
『すみません、旦那』
卯吉は平謝りするばかり。
お竹は、
『お父さん、お願いだから卯吉さんと一緒にさせて』
と頭を下げた。
お竹には、いい婿を向かえて、秋山の家を継がせようと考えていた。
それが駄目でも、他の同心か、与力の家に嫁がせようと思っていた。
父親であれば、娘の将来を思ってのことである。
一方で、世間体や面子もあった。
『駄目だ、そんなことは許さねえ。こいつは掏児だぞ』
『いまは足を洗って、きちんと働いているでしょう?』
『駄目なもんは、駄目だ!』
『お父さん、あたしはどうしてもこの人と一緒になりたいの。この人の子どもだってここに……』
『う、うるせえ! そんなことは絶対に許さねえ。どうしてもって言うのなら、親子の縁を切ってやら!』
啖呵を切った。
その日の夜、二人は小次郎の前からいなくなった。
いまは神田で一膳飯屋をやっていると聞くが、出て行ってから一度も会ってはいない。
女の子が生まれたそうだが、その顔も見たことはない。
貞吉が言うには、
『そりゃもう、お嬢様に似て目がくりっとして愛らしくて』
とのことらしい………………
いまも、お竹の腹の中にひとりいると貞吉から聞いているが、その子の顔も見ることはないだろう。
(むかしは、お父さん、お父さんって、くっついて、片時も離れなかったのに、いまじゃなあ……)
小次郎は、呷るように酒を飲む。
勝手道具には、蜘蛛の巣が張っている。
部屋の隅には、薄っすらと埃が溜まっている。
屋敷には寝に帰るだけだ。
小次郎は袂から紙袋を取り出し、開けた。
が、勢い余って紙袋が破れてしまい、畳の上をそら豆が四方八方に転がっていった。
「ちっ!」
舌打ちをしたが、面倒で拾うこともしなかった。
そら豆は、隣の部屋まで転がっている。
(そう言えば、毎年、あの部屋に雛人形を飾ったな)
そら豆が転がり込んだ部屋を見た。
酒を注いで飲み干した。
足下に落ちていたそら豆を一粒拾い上げる。
ふと、市左衛門の言葉を思い出した。
「育ち方を間違えたか……」
呟くと、それを口に放り込んだ。
ぽりぽりと、そら豆のいい音が暗い部屋に響き渡った。
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