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第二章「そら豆」
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一膳飯屋を飛び出した貞吉が駆けつけたのは、神田である。
神田界隈は職人町で、その職人を相手にした小さな一膳飯屋がここにも数軒ある。
貞吉は、その中の一軒に足を運んだ。
飯屋の前で、ひとりの女の子が棒切れを持って道に何かを書いている。
貞吉が近づくと、その女の子が顔をあげ、
「あっ、貞吉」
と、抱きついてきた。
「お滝お嬢様、これ、お土産でやんす」
お滝と呼ばれた女の子に差し出したのは、炒り豆の袋だった。
お滝は、黒目勝ちの大きな瞳で袋の中を覗き込み、卵のような白い頬を桜色に染めたかと思うと、そら豆を一個取り出し、ぽんと口に放り込んだ。
「美味しいですか?」
お滝は、ぽりぽりと音を立てている。
「うん、美味しい」
「そうですか」
貞吉は前歯を剥き出しにして笑みを作り、お滝の頭を撫でた。
「おっかさん、貞吉にお豆もらった」
お滝は、店の中に飛び込んで行った。
貞吉が続いて入って行くと、十畳程の小さな店は粋な職人たちで賑わっていた。
貞吉は、その職人たちの間を抜けて奥に顔を出す。
男が、ひとり釜を使っている。
「おい、確りとやってんのか?」
どすを利かせた声で、その男に呼びかけた。
男は、飛び上がって振り返る。
「これは親分、お久しぶりです。へえ、商いの方は順調で……」
眉毛が太く、目元のきりりとあがった男は、その切れ長の目を瞬かせて言った。
「馬鹿、商売のことじゃねえよ。お嬢様のことだ」
「へい、それはもう」
「卯吉よ。もし、お嬢様を悲しませることがあったら、ただじゃおかねえからな」
「それは、もちろんでございます」
卯吉は、慌てて頭を下げた。
「ちょっと、うちの亭主を脅すのは止めておくれよ」
貞吉が振り返ると、大きなお腹をした女が襷がけで、空になった飯茶碗を手に持って立っていた。
その足下には、お滝が纏わりついている。
黒目勝ちな大きな瞳は、お滝に似ている。
いや、お滝のほうが似ていると言ったほうが正しいだろう。
「脅すだなんて、とんでもございませんぜ、お嬢様」
貞吉は、慌てて手を横に振った。
「貞吉、あたしはもうお嬢様じゃないんだよ。この卯吉の女房だし、この一膳飯屋の女主人なんだよ」
「そりゃ、分かっておりますよ。でも、このお嬢様っていうのは、あっしの口癖みたいなもので……」
「ちょいと退いとくれよ」
女は、貞吉を突き飛ばすようにして奥に入った。
「あんた、お酒、あと二本だって」
「あ、あいよ」
卯吉は、女に言われて慌てたように動きだした。
「で、何の用さ?」
女は、貞吉に訊いた。
「へっ? いや、用ってことのものでもないんですが……、いいそら豆が手に入ったんで、お滝お嬢様にどうかと思いまして」
お滝は、先からぽりぽりとそら豆を食べている。
「そんなこと言って、どうせあの人から様子を見て来いって言われたんだろ」
「とんでもない、旦那はそんなこと……」
「貞吉、あの人に言っておいておくれよ。あたしは、あんたの娘でも何でもないんだって」
「お嬢様、そんな……」
「はい、退いてよ、こっちは忙しいんだよ」
女は、片口を持って店に出て行った。
貞吉は、困り顔で頭を掻いている。
ぽりぽりと、美味しそうな音が聞こえる。
神田界隈は職人町で、その職人を相手にした小さな一膳飯屋がここにも数軒ある。
貞吉は、その中の一軒に足を運んだ。
飯屋の前で、ひとりの女の子が棒切れを持って道に何かを書いている。
貞吉が近づくと、その女の子が顔をあげ、
「あっ、貞吉」
と、抱きついてきた。
「お滝お嬢様、これ、お土産でやんす」
お滝と呼ばれた女の子に差し出したのは、炒り豆の袋だった。
お滝は、黒目勝ちの大きな瞳で袋の中を覗き込み、卵のような白い頬を桜色に染めたかと思うと、そら豆を一個取り出し、ぽんと口に放り込んだ。
「美味しいですか?」
お滝は、ぽりぽりと音を立てている。
「うん、美味しい」
「そうですか」
貞吉は前歯を剥き出しにして笑みを作り、お滝の頭を撫でた。
「おっかさん、貞吉にお豆もらった」
お滝は、店の中に飛び込んで行った。
貞吉が続いて入って行くと、十畳程の小さな店は粋な職人たちで賑わっていた。
貞吉は、その職人たちの間を抜けて奥に顔を出す。
男が、ひとり釜を使っている。
「おい、確りとやってんのか?」
どすを利かせた声で、その男に呼びかけた。
男は、飛び上がって振り返る。
「これは親分、お久しぶりです。へえ、商いの方は順調で……」
眉毛が太く、目元のきりりとあがった男は、その切れ長の目を瞬かせて言った。
「馬鹿、商売のことじゃねえよ。お嬢様のことだ」
「へい、それはもう」
「卯吉よ。もし、お嬢様を悲しませることがあったら、ただじゃおかねえからな」
「それは、もちろんでございます」
卯吉は、慌てて頭を下げた。
「ちょっと、うちの亭主を脅すのは止めておくれよ」
貞吉が振り返ると、大きなお腹をした女が襷がけで、空になった飯茶碗を手に持って立っていた。
その足下には、お滝が纏わりついている。
黒目勝ちな大きな瞳は、お滝に似ている。
いや、お滝のほうが似ていると言ったほうが正しいだろう。
「脅すだなんて、とんでもございませんぜ、お嬢様」
貞吉は、慌てて手を横に振った。
「貞吉、あたしはもうお嬢様じゃないんだよ。この卯吉の女房だし、この一膳飯屋の女主人なんだよ」
「そりゃ、分かっておりますよ。でも、このお嬢様っていうのは、あっしの口癖みたいなもので……」
「ちょいと退いとくれよ」
女は、貞吉を突き飛ばすようにして奥に入った。
「あんた、お酒、あと二本だって」
「あ、あいよ」
卯吉は、女に言われて慌てたように動きだした。
「で、何の用さ?」
女は、貞吉に訊いた。
「へっ? いや、用ってことのものでもないんですが……、いいそら豆が手に入ったんで、お滝お嬢様にどうかと思いまして」
お滝は、先からぽりぽりとそら豆を食べている。
「そんなこと言って、どうせあの人から様子を見て来いって言われたんだろ」
「とんでもない、旦那はそんなこと……」
「貞吉、あの人に言っておいておくれよ。あたしは、あんたの娘でも何でもないんだって」
「お嬢様、そんな……」
「はい、退いてよ、こっちは忙しいんだよ」
女は、片口を持って店に出て行った。
貞吉は、困り顔で頭を掻いている。
ぽりぽりと、美味しそうな音が聞こえる。
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