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第一章「雛祭」
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小次郎が砂埃を上げて日本橋から北に抜けて行き、神田界隈を抜けて、さらに北に上ると、本郷の松平加賀守の屋敷が見えてきた。
さらにそれを北に抜けると、中山道と日光街道の分かれ道である本郷追分が見えてきて、毎日外を駆け回っている小次郎も、流石にその辺りで息を切らしてきた。
目当ての自身番に飛び込んだときには、言葉も出ない体になっていた。
穏やかな日差しに、首筋もしっとりと濡れている。
小次郎は上り框にどかりと腰を下ろし、番人が注いだお茶をぐいっと口に含んだ。
口の中でぶくぶくと掻き混ぜ、玉砂利の上へ吐き出す。
口の中が砂だらけで、じゃりじゃりとして喋れた状態ではない。
それを何度かやったあと、小次郎はようやくお茶を咽喉に通した。
三杯飲んだところで人心地がついて、自身番の中をぐるりと見回した。
三畳に家主二人、番人一人、店番二人の五人が詰めるのが普通だが、今朝はさらに、この界隈が縄張りで、小次郎から手札を預かっている岡っ引きの栄助、それから名主の仙太郎も駆けつけていた。
その他に、五十に手が伸びそうな白髪交じりの体躯の良い男と、これとは対照的に小柄の四十を少し過ぎたばかりの女が、いまにも泣き出しそうな顔で窮屈そうに座っていたのだから、狭い自身番がより狭く見えた。
「旦那、ご足労をおかけしやす」
岡っ引きの栄助が頭を下げた。
「で、何があったんでぃ?」
小次郎が最近出てきた額の小皺を寄せて訊くと、名主の仙太郎が、
「ご迷惑をおかけして、申し訳ございません」
と平伏した。
「おいおい、申し訳ねえはいいんだよ、これがこっちの仕事だからよ。事があれば出向くまでだ。で、何があったんでぃ?」
小次郎は、なるたけ優しく訊いてやる。
「はあ、それが……」
部屋の片隅にいた体躯の良い男が前に進み出た。
その男は、追分界隈で八百屋を営んでいる福田屋市左衛門という男で、松平加賀守の屋敷にも出入りのある、なかなか商才に長けた男である。
「うちの娘が、とんだ不始末を仕出かしまして……」
市左衛門が言うと、その隣にいた小柄な女が泣き崩れた。
「馬鹿、お前さんが泣くんじゃありませんよ、みっともない」
市左衛門はその女を責めるが、女は堰を切ったように泣いている。
女は、市左衛門の妻で、おさいといった。
「まあまあ、おさいさん、気を落ち着けて」
仙太郎が、彼女の背中を摩ってやった。
場数を踏んでいる小次郎にとって、そんな場面は幾度となく見てきたので、いささかも動揺することなく、
「で、おめえさんとこの娘が何を仕出かしたんでぃ?」
と、市左衛門に訊いた。
「はあ、それが……」
市左衛門が言い淀んでいると、
「なんでぃ、折角、秋山の旦那に早くから出張ってもらったんだぞ、さっさと話さねぇかい」
入り口付近で、先程までふうふうと肩で息をしていた貞吉が怒鳴り散らした。
「おい、止さねえか。そんなに短気に訊いちゃ、話したくても話せねえぜ」
小次郎が睨みを利かすと、貞吉は急に小さくなって、
「へい、すみやせん」
と押し黙ってしまった。
「で、何があったんでぃ?」
市左衛門の代わりに、栄助が答えた。
「へい、実は市左衛門の娘のお七が……」
僅かに間をおいたあと、小さな声で言った。
「火付けを働きまして……」
「何?」
小次郎は大きな声を上げた。
火付けは大罪である。
小火であっても、火罪。
火付けの道具を持っているだけでも、死罪は免れなかった。
江戸の大部分を焼いた明暦の大火は、二十六年前の話なのに、いまだ色褪せていない。
特に、近年火事が多い。
昨年、天和二(十六八二)年の十二月二十八日には、駒込大円寺から出た火が、風に乗って瞬く間に広がり、本郷から深川辺りまで消失する大火事となった。
年が変わってからも火の災いは止まず、お上はこの正月に、火付け・盗賊などの凶悪犯を取り締まる火付改を創設し、厳しい取り締まりを指示している。
与力からも、見廻りを強化するように沙汰があったばかりだ。
面倒なことだと、小次郎は眉間に皺を寄せた。
さらにそれを北に抜けると、中山道と日光街道の分かれ道である本郷追分が見えてきて、毎日外を駆け回っている小次郎も、流石にその辺りで息を切らしてきた。
目当ての自身番に飛び込んだときには、言葉も出ない体になっていた。
穏やかな日差しに、首筋もしっとりと濡れている。
小次郎は上り框にどかりと腰を下ろし、番人が注いだお茶をぐいっと口に含んだ。
口の中でぶくぶくと掻き混ぜ、玉砂利の上へ吐き出す。
口の中が砂だらけで、じゃりじゃりとして喋れた状態ではない。
それを何度かやったあと、小次郎はようやくお茶を咽喉に通した。
三杯飲んだところで人心地がついて、自身番の中をぐるりと見回した。
三畳に家主二人、番人一人、店番二人の五人が詰めるのが普通だが、今朝はさらに、この界隈が縄張りで、小次郎から手札を預かっている岡っ引きの栄助、それから名主の仙太郎も駆けつけていた。
その他に、五十に手が伸びそうな白髪交じりの体躯の良い男と、これとは対照的に小柄の四十を少し過ぎたばかりの女が、いまにも泣き出しそうな顔で窮屈そうに座っていたのだから、狭い自身番がより狭く見えた。
「旦那、ご足労をおかけしやす」
岡っ引きの栄助が頭を下げた。
「で、何があったんでぃ?」
小次郎が最近出てきた額の小皺を寄せて訊くと、名主の仙太郎が、
「ご迷惑をおかけして、申し訳ございません」
と平伏した。
「おいおい、申し訳ねえはいいんだよ、これがこっちの仕事だからよ。事があれば出向くまでだ。で、何があったんでぃ?」
小次郎は、なるたけ優しく訊いてやる。
「はあ、それが……」
部屋の片隅にいた体躯の良い男が前に進み出た。
その男は、追分界隈で八百屋を営んでいる福田屋市左衛門という男で、松平加賀守の屋敷にも出入りのある、なかなか商才に長けた男である。
「うちの娘が、とんだ不始末を仕出かしまして……」
市左衛門が言うと、その隣にいた小柄な女が泣き崩れた。
「馬鹿、お前さんが泣くんじゃありませんよ、みっともない」
市左衛門はその女を責めるが、女は堰を切ったように泣いている。
女は、市左衛門の妻で、おさいといった。
「まあまあ、おさいさん、気を落ち着けて」
仙太郎が、彼女の背中を摩ってやった。
場数を踏んでいる小次郎にとって、そんな場面は幾度となく見てきたので、いささかも動揺することなく、
「で、おめえさんとこの娘が何を仕出かしたんでぃ?」
と、市左衛門に訊いた。
「はあ、それが……」
市左衛門が言い淀んでいると、
「なんでぃ、折角、秋山の旦那に早くから出張ってもらったんだぞ、さっさと話さねぇかい」
入り口付近で、先程までふうふうと肩で息をしていた貞吉が怒鳴り散らした。
「おい、止さねえか。そんなに短気に訊いちゃ、話したくても話せねえぜ」
小次郎が睨みを利かすと、貞吉は急に小さくなって、
「へい、すみやせん」
と押し黙ってしまった。
「で、何があったんでぃ?」
市左衛門の代わりに、栄助が答えた。
「へい、実は市左衛門の娘のお七が……」
僅かに間をおいたあと、小さな声で言った。
「火付けを働きまして……」
「何?」
小次郎は大きな声を上げた。
火付けは大罪である。
小火であっても、火罪。
火付けの道具を持っているだけでも、死罪は免れなかった。
江戸の大部分を焼いた明暦の大火は、二十六年前の話なのに、いまだ色褪せていない。
特に、近年火事が多い。
昨年、天和二(十六八二)年の十二月二十八日には、駒込大円寺から出た火が、風に乗って瞬く間に広がり、本郷から深川辺りまで消失する大火事となった。
年が変わってからも火の災いは止まず、お上はこの正月に、火付け・盗賊などの凶悪犯を取り締まる火付改を創設し、厳しい取り締まりを指示している。
与力からも、見廻りを強化するように沙汰があったばかりだ。
面倒なことだと、小次郎は眉間に皺を寄せた。
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