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第一章「雛祭」
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多恵とは幼馴染で、「男女七歳にして同席せず」までは、一緒に昼寝をしたり、一つの盥で水浴びをしたりした仲であった。
彼は、多恵の左肩に小さな痣があるとか、右の太ももに黒子が二つあるとかまで知っている。
初めての夜、源太郎は床の中で、
『多恵、そう言えば、お前の右の太ももに黒子が二つほどあったが、消えてはおるまい』
と、多恵の右足を覗き込んだ。
多恵は、
『嫌ですわ、そんな恥ずかしい』
と、白い肌を上気させて、身を捩ったものだ。
七歳を過ぎると、源太郎は儒学や剣術の稽古に、多恵も琴の稽古に勤しむようになった。
子どものころのように、一緒に遊ぶということもなくなった。
それでも日に一度は、源太郎が竹刀を持って辻を曲がると、下女を連れ立った多恵とばったり顔を会わせた。
『これは多恵殿、琴の稽古ですか?』
『ええ、源太郎様は剣術でございますか?』
『ええ、それでは』
と、挨拶を交わす程度であったが………………
ばったりというと、さも偶然のように聞こえるが、源太郎の剣術の稽古は昼八ツ(十四時)からなので、昼九ツ半(十三時)に屋敷を出る多恵と顔を会わせることはない。
九ツ半に屋敷を出る源太郎を母の文江は呼び止めて、
『源太郎、なぜこんなに早く屋敷を出るのですか? 剣術の稽古は昼八ツからではないのですか?』
と訊くが、
『あ、いや、はい、あの……、みんなが集る前にも稽古をしようと、作太郎と約束しまして。では……』
と、顔を真っ赤にして出て行く。
母は、そんな源太郎を苦笑しながら見送るのである。
なぜだか分からなかったが、源太郎は多恵の顔を見ると不思議と力が湧いてきて、剣術の稽古も頗る調子が良かった。
逆に、多恵の顔を見ない日の稽古は、師範代の前田与之助から幾度も打ち込まれて、
『神谷、何を呆けておる。顔を洗って、気合を入れ直してこい』
と、怒鳴られる始末であった。
稽古が終わると、五番組与力今井幸太郎の息子作太郎とともに、丸めた胴着を吊るした竹刀を肩に掛けて家路へと急ぐ。
その道すがら、
『お前、今日は中村殿の饅頭娘とは会えなかったのか?』
と、作太郎が訊いてくる。
『な、何を!』
『隠さんでもいいよ。お前はすぐに顔に出るからな』
作太郎が笑うと、源太郎は右手でつるりと顔を撫ぜた。
『しかし、あの饅頭娘のどこがいいのだ? お前なら、もっと器量の良い娘が嫁に来たいと言うぞ』
作太郎や道場の仲間は、多恵のことを饅頭娘と囃し立てる。
だが、源太郎はその饅頭のような多恵の顔が好きだった。
多恵が丸い顔を更に丸くして笑うときなど、春風にそよぐ桜の花のようで、見ているだけでこっちまで心地が良くなるのである。
それでも、作太郎に心の底を見透かされるのはなんとも癪で、
『俺は、あんな饅頭娘のことなど何とも思っておらん』
と言ってしまうのだった。
しかし、大抵その後に、
(なぜ俺は、あんなことを言ったのだろう)
と後悔する源太郎がいるのだが………………
彼は、多恵の左肩に小さな痣があるとか、右の太ももに黒子が二つあるとかまで知っている。
初めての夜、源太郎は床の中で、
『多恵、そう言えば、お前の右の太ももに黒子が二つほどあったが、消えてはおるまい』
と、多恵の右足を覗き込んだ。
多恵は、
『嫌ですわ、そんな恥ずかしい』
と、白い肌を上気させて、身を捩ったものだ。
七歳を過ぎると、源太郎は儒学や剣術の稽古に、多恵も琴の稽古に勤しむようになった。
子どものころのように、一緒に遊ぶということもなくなった。
それでも日に一度は、源太郎が竹刀を持って辻を曲がると、下女を連れ立った多恵とばったり顔を会わせた。
『これは多恵殿、琴の稽古ですか?』
『ええ、源太郎様は剣術でございますか?』
『ええ、それでは』
と、挨拶を交わす程度であったが………………
ばったりというと、さも偶然のように聞こえるが、源太郎の剣術の稽古は昼八ツ(十四時)からなので、昼九ツ半(十三時)に屋敷を出る多恵と顔を会わせることはない。
九ツ半に屋敷を出る源太郎を母の文江は呼び止めて、
『源太郎、なぜこんなに早く屋敷を出るのですか? 剣術の稽古は昼八ツからではないのですか?』
と訊くが、
『あ、いや、はい、あの……、みんなが集る前にも稽古をしようと、作太郎と約束しまして。では……』
と、顔を真っ赤にして出て行く。
母は、そんな源太郎を苦笑しながら見送るのである。
なぜだか分からなかったが、源太郎は多恵の顔を見ると不思議と力が湧いてきて、剣術の稽古も頗る調子が良かった。
逆に、多恵の顔を見ない日の稽古は、師範代の前田与之助から幾度も打ち込まれて、
『神谷、何を呆けておる。顔を洗って、気合を入れ直してこい』
と、怒鳴られる始末であった。
稽古が終わると、五番組与力今井幸太郎の息子作太郎とともに、丸めた胴着を吊るした竹刀を肩に掛けて家路へと急ぐ。
その道すがら、
『お前、今日は中村殿の饅頭娘とは会えなかったのか?』
と、作太郎が訊いてくる。
『な、何を!』
『隠さんでもいいよ。お前はすぐに顔に出るからな』
作太郎が笑うと、源太郎は右手でつるりと顔を撫ぜた。
『しかし、あの饅頭娘のどこがいいのだ? お前なら、もっと器量の良い娘が嫁に来たいと言うぞ』
作太郎や道場の仲間は、多恵のことを饅頭娘と囃し立てる。
だが、源太郎はその饅頭のような多恵の顔が好きだった。
多恵が丸い顔を更に丸くして笑うときなど、春風にそよぐ桜の花のようで、見ているだけでこっちまで心地が良くなるのである。
それでも、作太郎に心の底を見透かされるのはなんとも癪で、
『俺は、あんな饅頭娘のことなど何とも思っておらん』
と言ってしまうのだった。
しかし、大抵その後に、
(なぜ俺は、あんなことを言ったのだろう)
と後悔する源太郎がいるのだが………………
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