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消えた存在
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5、消えた存在
イルミネーションを見に行ってから三か月が過ぎた。
季節は春を迎え、和樹が年中から年長へと上がる前の春休みだった。
この日はお昼にお好み焼を作ることになったのだが、マヨネーズがきれていたのを思い出して僕は一人でスーパーに買い物へ行くことにした。スーパーからの帰り道、少し歩くが高台にある海の近くの公園へ行くことにした。一人で散歩するのも久々だった。公園の前の自動販売機で缶コーヒーのブラックを買いベンチに腰掛ける。休日にも関わらず公園には誰もいない。
春になったとはいえ高台に吹き付ける海風がまだ冷たいせいだろう。公園の桜の木も例年では咲いている頃だが今年はまだ蕾が少し膨らんだ程度だった。
この半年間、物事が目まぐるしく過ぎていき一人でゆっくり考えに耽る時間もなかった。
考えるのは妻のこと。今は薬で病気の進行も遅れているが、止まったわけではない。
いずれ僕のことも和樹のことも忘れてしまう日が来るのだ。
医者は寿命が三十年から五十年に伸びたと言っていた。五十年、生きられたとしてその時、僕は八十六歳・和樹は五十四歳だ。
僕が生きているうちはいいが、もし僕が先に死んだら妻の面倒は全て和樹が見ることになる。
今は妻の病状も安定しておりたまに軽い物忘れをするぐらいだが、いずれ自分で食べることもトイレに行くことさえ困難になる日が来る。
そうなった時、和樹にいろいろ負担を懸けてしまうのではないか。将来における重要なチャンスや決断も犠牲にしてしまうのではないか。僕にはそれが大きな気掛かりだった。和樹は何も言わないが今もきっといろいろと我慢をさせてしまっている。
答えの出ない問題にこれまで何度、考えを巡らせてきただろう。
未来のことなんてわからない、けれど考えずにはいられない。
そして答えなんていつだって見つからない。
僕は缶コーヒーを飲み干し公園を出て家へと歩き出す。
今できることは妻と和樹のいるこの日常を力の限り守っていくことしかない、それだけなのだ。
家に着くと玄関前で和樹がしゃがんで泣いている。
「どうした、和樹。ママに叱られたか?」
和樹は泣いたまま何も答えない。嫌な予感がした。
家へ入るとそこはまるで泥棒に入られたかのように荒れている。
廊下には無残に割れたマグカップの破片が散らばっている。リビングに向かうとマガジンラックに入っていた雑誌が床に散乱し、壁に貼られていた和樹の絵も破かれていた。
そして、キッチンの陰に隠れるようにうずくまり震えている妻を見つけると、僕は近づき声を掛けた。
「かおり、何があった?」
妻が恐る恐るこちらに視線を向け僕の腕を両手で強く掴むと泣き出し声を震わせながら話し始めた。
「友弥・・・知らない子供が家の中にいて。私をママ、ママって呼んで近づいてきたの。私、怖くて。」
「えっ・・。何言ってるんだよ。和樹は僕達の息子だろ。」
「息子って・・・友弥なんのこと?」
妻は涙で潤んだ瞳で不思議そうに僕を見つめた。
その時、僕は全てを悟った。妻は忘れてしまったのだ、自分の息子である和樹のことを。
そして、パニックになった妻は手当たり次第に掴んだ物を和樹に投げつけたのだ。
僕は込み上げる怒りを抑えられず勢いに任せ声を荒げた。
「どうして覚えてないんだよ。和樹は君が生んだ息子じゃないか。四年も一緒に育ててきたのに何で忘れるんだよ。」
妻はジッと僕を見てた。
妻の顔を見ていると冷静でいられない。
僕は妻をその場に残し、和樹の元へ向かった。和樹は玄関でしゃがんだままでいる。
「和樹、ごめんな。ケガしてないか?」
見ると和樹の腕には小さな切り傷ができており、そこから血が滲んでいた。
「ママは悪くない、僕が勝手に転んだ。僕が転んだ。」
和樹は涙を流しながら、そう訴えた。
「和樹、ごめん。本当にごめん。」
僕に今言えるのはその言葉だけだった。
和樹の手当てをして二階の子供部屋へ行かせる。僕は散らかった部屋の掃除を始めた。
妻はキッチンの陰でしゃがみこんだまま、こちらをジッと見ていた。
妻はいつか僕らのことを忘れると分かっていた、覚悟もしていた。
頭では分かっていたはずなのに怒りが抑えられなかった。
妻が悪いわけではない、すべては病気のせいだ。
今日、妻が和樹を傷つけたのだって悪い病気のせいなのだ。普段の妻ならそんなことは絶対にしない。
そう頭では分かっているのに行き場のない怒りと悔しさが僕の心の中をぐちゃぐちゃに掻き混ぜる。
もうどうしたらいいのかわからない。ただただ涙だけが零れ落ちる。
自分はなんて無力なんだろう。
割れたマグカップの破片で指が切れた。僕は涙で視界を滲ませながら、指から流れる赤い血を見ていた。
あれから三日が経った。
今朝は雨が窓を激しく打ちつけている。
妻はあの日以来、部屋に引きこもり僕らと顔を合わせようとしない。
和樹も妻を心配しているようだが何も聞いてはこなかった。
そんな和樹に僕はどこかホッとしていた。妻のことをどう説明したらいいのか分からない。僕自身、妻と向き合うことが怖かった。
いつものように和樹を保育園へ送るため家を出る準備をしていると、家の前で一台の車が止まった。
二階の寝室からベージュ色のスプリングコートを着て、スーツケースを持った妻が降りて来る。
何も言わずそのまま玄関に向かう妻に僕は尋ねた。
「どこか出かけるの?」
「新薬の治験に参加しないかって話があって。しばらく帰れない。お願い、会いにも来ないで。」
「そんな話、聞いてない。会いに来るなって、どうして」
僕は強い口調で言った。
妻は僕の目を見ようとしない。僕は玄関から出て行こうとする妻の腕を掴んだ。
「勝手なこと言うなよ。和樹はどうするんだよ。」
和樹がリビングから玄関を覗き込む。
視線に気づいた妻が和樹に歩み寄り小さな体を強く抱きしめた。
「和樹、ごめんね。必ず帰ってくるから」
そう和樹に優しく語りかけると僕の制止も聞かず外に止まった車に乗り込み出て行った。
和樹が年長に上がるのを楽しみにしていた妻は、その姿を見る前に家を出て行ってしまった。
イルミネーションを見に行ってから三か月が過ぎた。
季節は春を迎え、和樹が年中から年長へと上がる前の春休みだった。
この日はお昼にお好み焼を作ることになったのだが、マヨネーズがきれていたのを思い出して僕は一人でスーパーに買い物へ行くことにした。スーパーからの帰り道、少し歩くが高台にある海の近くの公園へ行くことにした。一人で散歩するのも久々だった。公園の前の自動販売機で缶コーヒーのブラックを買いベンチに腰掛ける。休日にも関わらず公園には誰もいない。
春になったとはいえ高台に吹き付ける海風がまだ冷たいせいだろう。公園の桜の木も例年では咲いている頃だが今年はまだ蕾が少し膨らんだ程度だった。
この半年間、物事が目まぐるしく過ぎていき一人でゆっくり考えに耽る時間もなかった。
考えるのは妻のこと。今は薬で病気の進行も遅れているが、止まったわけではない。
いずれ僕のことも和樹のことも忘れてしまう日が来るのだ。
医者は寿命が三十年から五十年に伸びたと言っていた。五十年、生きられたとしてその時、僕は八十六歳・和樹は五十四歳だ。
僕が生きているうちはいいが、もし僕が先に死んだら妻の面倒は全て和樹が見ることになる。
今は妻の病状も安定しておりたまに軽い物忘れをするぐらいだが、いずれ自分で食べることもトイレに行くことさえ困難になる日が来る。
そうなった時、和樹にいろいろ負担を懸けてしまうのではないか。将来における重要なチャンスや決断も犠牲にしてしまうのではないか。僕にはそれが大きな気掛かりだった。和樹は何も言わないが今もきっといろいろと我慢をさせてしまっている。
答えの出ない問題にこれまで何度、考えを巡らせてきただろう。
未来のことなんてわからない、けれど考えずにはいられない。
そして答えなんていつだって見つからない。
僕は缶コーヒーを飲み干し公園を出て家へと歩き出す。
今できることは妻と和樹のいるこの日常を力の限り守っていくことしかない、それだけなのだ。
家に着くと玄関前で和樹がしゃがんで泣いている。
「どうした、和樹。ママに叱られたか?」
和樹は泣いたまま何も答えない。嫌な予感がした。
家へ入るとそこはまるで泥棒に入られたかのように荒れている。
廊下には無残に割れたマグカップの破片が散らばっている。リビングに向かうとマガジンラックに入っていた雑誌が床に散乱し、壁に貼られていた和樹の絵も破かれていた。
そして、キッチンの陰に隠れるようにうずくまり震えている妻を見つけると、僕は近づき声を掛けた。
「かおり、何があった?」
妻が恐る恐るこちらに視線を向け僕の腕を両手で強く掴むと泣き出し声を震わせながら話し始めた。
「友弥・・・知らない子供が家の中にいて。私をママ、ママって呼んで近づいてきたの。私、怖くて。」
「えっ・・。何言ってるんだよ。和樹は僕達の息子だろ。」
「息子って・・・友弥なんのこと?」
妻は涙で潤んだ瞳で不思議そうに僕を見つめた。
その時、僕は全てを悟った。妻は忘れてしまったのだ、自分の息子である和樹のことを。
そして、パニックになった妻は手当たり次第に掴んだ物を和樹に投げつけたのだ。
僕は込み上げる怒りを抑えられず勢いに任せ声を荒げた。
「どうして覚えてないんだよ。和樹は君が生んだ息子じゃないか。四年も一緒に育ててきたのに何で忘れるんだよ。」
妻はジッと僕を見てた。
妻の顔を見ていると冷静でいられない。
僕は妻をその場に残し、和樹の元へ向かった。和樹は玄関でしゃがんだままでいる。
「和樹、ごめんな。ケガしてないか?」
見ると和樹の腕には小さな切り傷ができており、そこから血が滲んでいた。
「ママは悪くない、僕が勝手に転んだ。僕が転んだ。」
和樹は涙を流しながら、そう訴えた。
「和樹、ごめん。本当にごめん。」
僕に今言えるのはその言葉だけだった。
和樹の手当てをして二階の子供部屋へ行かせる。僕は散らかった部屋の掃除を始めた。
妻はキッチンの陰でしゃがみこんだまま、こちらをジッと見ていた。
妻はいつか僕らのことを忘れると分かっていた、覚悟もしていた。
頭では分かっていたはずなのに怒りが抑えられなかった。
妻が悪いわけではない、すべては病気のせいだ。
今日、妻が和樹を傷つけたのだって悪い病気のせいなのだ。普段の妻ならそんなことは絶対にしない。
そう頭では分かっているのに行き場のない怒りと悔しさが僕の心の中をぐちゃぐちゃに掻き混ぜる。
もうどうしたらいいのかわからない。ただただ涙だけが零れ落ちる。
自分はなんて無力なんだろう。
割れたマグカップの破片で指が切れた。僕は涙で視界を滲ませながら、指から流れる赤い血を見ていた。
あれから三日が経った。
今朝は雨が窓を激しく打ちつけている。
妻はあの日以来、部屋に引きこもり僕らと顔を合わせようとしない。
和樹も妻を心配しているようだが何も聞いてはこなかった。
そんな和樹に僕はどこかホッとしていた。妻のことをどう説明したらいいのか分からない。僕自身、妻と向き合うことが怖かった。
いつものように和樹を保育園へ送るため家を出る準備をしていると、家の前で一台の車が止まった。
二階の寝室からベージュ色のスプリングコートを着て、スーツケースを持った妻が降りて来る。
何も言わずそのまま玄関に向かう妻に僕は尋ねた。
「どこか出かけるの?」
「新薬の治験に参加しないかって話があって。しばらく帰れない。お願い、会いにも来ないで。」
「そんな話、聞いてない。会いに来るなって、どうして」
僕は強い口調で言った。
妻は僕の目を見ようとしない。僕は玄関から出て行こうとする妻の腕を掴んだ。
「勝手なこと言うなよ。和樹はどうするんだよ。」
和樹がリビングから玄関を覗き込む。
視線に気づいた妻が和樹に歩み寄り小さな体を強く抱きしめた。
「和樹、ごめんね。必ず帰ってくるから」
そう和樹に優しく語りかけると僕の制止も聞かず外に止まった車に乗り込み出て行った。
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