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病
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3、病
和樹が保育園の年中に上がった四月のこと。
今思えばこれが妻に起こった最初の異変だったかもしれない。
保育園に行くため家を出る直前、家の鍵が見当たらないと妻が言った。いつもは玄関の下駄箱の上に置いてあるのだがそこにはないと言う。だが、僕が見に行くとちゃんと下駄箱の上に鍵は置かれていた。妻に伝え鍵を渡す。
「あぁ。これ・・」
どこか気のない言葉が返ってきた。
しっかり者の妻が鍵の在りかが分からなくなることなど今までなかったが、僕は気にならなかった。
五月上旬。
いつものように買い物から帰ってきた妻が機嫌よく話をする。
「今日は大根と人参が安かったの。納豆もなかったから買ってきちゃった。」
僕は缶ビールを取り出そうと冷蔵庫を開ける。
すでに大根・人参・納豆が冷蔵庫に入っているが、妻が今日買い物をした品物はまだテーブルの上に並べられており冷蔵庫に入れていない。
「大根も納豆もまだあるみたいだけど。」
僕が告げると妻は少し驚いた表情を浮かべた。
「あれ・・?おかしいな。勘違いして買ってきちゃったみたい。」
この時も妻が間違えて同じものを買ってくるなんて珍しいと思ったが深く考えなかった。
八月下旬。
その日は会社の同僚の送別会で帰りが遅くなった。玄関を開けると和樹が出迎えに来てくれて僕にきつく抱きつく。
「ただいま。まだ起きてたのか?」
時刻は午後十時を過ぎており、いつもならば和樹はもうとっくに寝ている時間だった。
和樹を抱きかかえながらリビングへ向かうと、こちらに背を向け妻がソファーに座っていた。
周りを見渡すと洗濯物はたたまれず粗雑に重なり、キッチンでは卵が床の上で無残に割れ、切りかけの玉葱が水気を失い長い時間放置されたいたことがわかる。
そして、背中越しでも妻の様子がどこかおかしいことに気付いた。
僕は妻に問いかけた。
「どうかしたの?何かあった?」
「・・・作り方が分からないの、ハンバーグ。いつも作っていたはずなのにどうしても思い出せないの。」
その声は今にも消えてしまいそうで頼りない。そして急に子供の様に泣き始めた。
驚いた僕は抱いていた和樹をその場に降ろし、妻の元へ駆け寄る。
いくら話しかけても泣きじゃくるばかりだ。
妻を寝室に連れて行き、ようやく落ち着かせる。そして泣きつかれた子供の様に目を腫らして眠りについた。あんな風に泣きじゃくる妻の姿を初めて見た。僕はとても大きな不安に駆られた。
キッチンへ戻り和樹に即席のラーメンを作って食べさせる。
妻の様子から夕食を作らなかったのは明らかだった。
お腹が空いていたのだろう、勢いよく麺をすする。
和樹が食べている姿を見ながら、僕は妻のことを考えていた。しっかり者の妻が料理の仕方を忘れるなんて考えられない。
何より息子にご飯を食べさせずにいて平気なはずはない。
それに今日の妻はまるで子供の様に感じた。
よくよく考えてみれば最近様子のおかしいところはなかったか。
どこか体の調子でも悪いのではないか。一度、病院で見てもらった方がいいだろう。
次の日の朝、妻はいつもと変わらない妻に戻っていた。まるで昨日のことが無かったかのようだ。
僕は昨日の出来事について話を切り出し一緒に病院へ行こうと進めたが、妻は疲れが溜まっていただけと頑なに拒んだ。
妻はもともと病院があまり好きではなかったし、もし何か悪いものが見つかったらという不安が病院に行きたくない理由だったのかもしれない。
そして九月半ばのある日の夜、時刻は午後七時十五分。
僕がまだ仕事で会社に残っているとスマホが鳴った。それは和樹の保育園のマコ先生からで妻がまだ和樹を迎えに来ていないという。
「和樹君のお母さんに電話したんですけど出なくって・・・。いつもなら三時過ぎには、保育園にお迎えに来ていらっしゃるのに。」
マコ先生も不思議がっていた。
保育園からの連絡を受け、妻のスマホに電話をするが呼び出しのコールが鳴るだけでいっこうに出ることはなかった。
急いで会社を出ても保育園まで一時間半以上はかかってしまう。
和樹と同じ幼稚園に通うパパ友に連絡をして和樹を迎えに行ってもらうことにした。
僕は退社し、急いで駅に向かい電車に飛び乗る。
妻は今どこで何をしているのだろう。電話にも出ず、メールの返事もない。何か事件にでも巻き込まれたのではないか、それとも・・・。一か月前の出来事が思い出される。気持ちばかり焦るが電車の進む速度は変わらない。もどかしさでさらに焦りが増す。
電車が駅に到着し僕は走り出す。
妻が今どこにいるのか何を考えているのか僕には見当もつかない。
ただ無事にいてほしい、その一心だった。
いつも買い物しているスーパーにいるのではないか、コーヒーがおいしいとお気に入りのカフェに入ったまま時間を忘れてしまったのではないか。
だが、どこを探しても妻の姿は見つからない。交番で相談しようとした時、三人でよく行く公園を思い出した。高台にある海の近くの公園でそこから見える夕日が一番綺麗だと妻が気に入っていた場所だ。
公園へと走る。こんなに走ったのはいつぶりだっただろう。足は思ったように動かず息も切れて横腹が痛い。
やっとの思いで公園に着くとそこに妻の姿があった。ブランコに座わり遠くの暗くなった海を見ている。
「かおり、何してるんだ?」
僕は息も切れ切れになりながら妻に言った。
妻は僕の顔を見ると、わんわんと泣き出した。
「和樹を保育園に迎えに行こうとして家を出たんだけど道が分からなくなって・・・。和樹を迎えに行ってあげて。今頃、寂しい思いをしてるわ。」
妻は僕のスーツの袖を強く握りながら訴える。
「和樹のことなら雄太君パパにお願いしたから大丈夫だよ。だから家に帰ろう。」
泣きじゃくる妻をなだめながら僕は不安で一杯になった。
確実に妻に何かが起きている。疲れているからとかそういうことではない、妻に異変が起こっている。
妻を家に送ってから和樹を迎えに行く。和樹は泣き疲れたのか目の周りを腫らして眠ってしまっていた。今日はこの子にもかわいそうな思いをさせてしまった。
翌日、妻と病院へ向かう。
もともと病院があまり好きではない妻だったが昨日のこともあってか今回は素直に承諾してくれた。
病院の薄暗い廊下で長椅子に座り診察室に呼ばれるのを二人で待つ。
時間の流れがとても遅く感じる。
僕は不安だった。妻もとても不安そうな表情を浮かべている。
だがこんな時どんな言葉をかけてあげればいいのか思いつかない。
何か言葉を・・・そう考えていると突如、僕の脇腹がくすぐったくなり、びっくりして体がのけぞった。横にいる妻が両手を顔の前で開いたり閉じたりしてクシャっとした笑顔を見せる。僕を和ませようと妻がイタズラをしたのだ。
少し緊張がほどけ二人で笑った。
「大丈夫だよ。きっと大したことない。」
僕は笑ってありきたりな言葉と肩を抱き寄せ擦ってやることしかできなかった。
妻は優しい表情を浮かべていた。
診察室に入り問診を受け血液検査・MRI等の検査をした。一通りの検査を終え3日後に検査結果が出るという。
その三日間は僕にとって、とても長く感じた。きっと妻にとってもそうだっただろう。
三日後、病院への道のりが前より遠く感じる。
検査の結果が何でもなっかたと早く安心して笑いあいたい。
でも、何か悪い結果が出るのではないかという不安の方が強く心を支配する。
だが、一番不安でしかたないのは妻のはずだ。
僕らは病院へ続く坂道を二人で歩いた。
診察室に呼ばれ医師の話を聞く。
「かおりさんには脳の萎縮が見られ検査の結果、若年性アルツハイマー型認知症です。」
僕にはその医師が言っていることが分からなかった。
病名は知っている、どんな病気かもだいたい分かっている。
だが妻がその病気に罹っているなんて信じられない、信じたくない。
僕は隣に座る妻に目を向けた。妻は下を向いたまま動かない。
僕はで声を振り絞る。
「何かの間違いなんじゃ・・・。」
医師は表情を変えずは淡々と話しを進める。
「少し前まではアルツハイマー型認知症の診断は難しかったのですが、今はいくつかの検査ですぐに結果が出るんです。間違いありません。」
「でも妻はちょっと物忘れがある程度で次の日は何でもなかったりするんですよ。」
「そういう病気なんです。症状として一時的に忘れてしまうこともあります。
けれど、いずれ完全に忘れて思い出せなくなる。
起こったことすべて本人には無かったことになってしまうんです。若年性アルツハイマー型認知症は進行が速いですから治療は早く始めた方がいいでしょう。」
「治るんですよね?」
「完治はできません。薬を服用すれば進行を抑えることができますが薬の効果には個人差があります。
かつては発症すると寿命が十年から十五年と言われていましたが、今は三十年から五十年近く伸びています。」
「でも妻はまだ三十七歳なんですよ。」
「若年性アルツハイマー型認知症は十代からの発症も報告されているんです。いつ誰がなってもおかしくないんですよ。
大丈夫です本田さん、介護やケアなども充実しています。一緒に頑張りましょう。」
医師の言葉がとても薄っぺらく感じた。
これからのことなんか考えられない。どうして妻が。よりによってなんで、かおりが。
ぶつけようのない怒りと悔しさで手が震える。
こんなにも技術や医学が進歩しているのに進行を抑えることしかできず完治できないなんて。
息子の和樹はまだ四歳で妻も成長を見守るのを楽しみにしているというのに、あの子には母親が必要なのに・・・。そんなことばかりが頭の中をぐるぐる回っている。
医師が治療について話を続けているが、まったく耳に入ってこない。
妻はうつむいたまま動かなかった。
病院の帰り、二人で保育園へ和樹を迎えに行った。
保育園までの道のりは二人とも無言だった。話さなかったのではない、言葉を掛けられなかったのだ。
ただ、黙って妻の手を握りながら歩いた。
保育園に到着し門が開くと和樹が妻のもとへ走って駆け寄る。
妻も嬉しそうに和樹を抱きしめる。日常の光景だ。
だが今日の妻の笑顔からは不安が滲んでいるのが僕にはわかった。
今まで当たり前だと思っていた日常がなくなってしまう、その不安に押し潰されそうになりながらも必死に和樹に笑顔を向けていた。
僕にできることはとても少ないかもしれない。だが、二人が笑顔でいられる日常を守りたいと思った。
妻の病気の診断を受けて僕の生活で変わった事は、会社で残業を無くしてもらったことだ。元々、ハイテク化が進んでいたおかげで残業自体は少なかったが、和樹の保育園への送り迎えは僕ができるようになった。
妻に任せきりだった家事も家族みんなで行うようになった。
週に何回か家にヘルパーさんが来てくれて妻のサポートをしてくれる。
あとはメモ紙が壁や冷蔵庫など至る所に徐々に増え、家の中がカラフルになったと和樹がはしゃいでいた。
最初に妻の病気の診断を聞いた時は、とても自分では妻の面倒を見ることができないと思っていた。だが、周りのサポートもあってなんとかやっていけている。
妻の病気も薬で進行が抑えられ日常生活を送るのに今のところ大きな問題はなかった。日常生活の不安は僕や周りの協力でなんとかなる。
だが、妻の心の不安を取り除くことは難しい。僕にはありきたりな言葉を掛けてやることしかできない。
妻にとって一番の心の薬は和樹の存在だった。和樹の前では妻は本当に楽しそうにしている。
その姿を見ているだけで僕の心も軽くなった。その笑顔を見ている時だけは妻が病気だという事を忘れられた。
だが、薬で進行を抑えられているだけで止まったわけではない。
病は妻の記憶を徐々に、そして確実に消していく。
僕達の前では明るく振舞っていた妻だが日に日に、その明るさも消えていった。
次第に妻は外出も控えるようになっていった。定期的に病院へは行くものの映画やショッピングなどには出掛けなくなり、人との関りを極力避けるようになった。周りに迷惑を懸けたくないという気持ち、何より自分の記憶が消えてしまうことへの恐怖が妻を暗く落ち込ませた。
自分に起こった出来事を自分だけが知らない。
悪い病気のせいだと頭では分かっていても割り切れない思いがあるのだろう。
お腹を痛めて生んだ愛する息子のことさえ、いつか自分の中で存在しなくなってしまう。記憶を無くすというのはそういうことなのだ。
それに母親から忘れられた息子の気持ちを想像と心が痛い。
和樹には妻の病気のことをまだ話していない。四歳の保育園児になんと言って聞かせたらいいのか分からなかったからだ。あまりにも残酷な病気だ。だが、和樹は幼いながら母親の異変をどこか感じ取っているようだった。
和樹が保育園の年中に上がった四月のこと。
今思えばこれが妻に起こった最初の異変だったかもしれない。
保育園に行くため家を出る直前、家の鍵が見当たらないと妻が言った。いつもは玄関の下駄箱の上に置いてあるのだがそこにはないと言う。だが、僕が見に行くとちゃんと下駄箱の上に鍵は置かれていた。妻に伝え鍵を渡す。
「あぁ。これ・・」
どこか気のない言葉が返ってきた。
しっかり者の妻が鍵の在りかが分からなくなることなど今までなかったが、僕は気にならなかった。
五月上旬。
いつものように買い物から帰ってきた妻が機嫌よく話をする。
「今日は大根と人参が安かったの。納豆もなかったから買ってきちゃった。」
僕は缶ビールを取り出そうと冷蔵庫を開ける。
すでに大根・人参・納豆が冷蔵庫に入っているが、妻が今日買い物をした品物はまだテーブルの上に並べられており冷蔵庫に入れていない。
「大根も納豆もまだあるみたいだけど。」
僕が告げると妻は少し驚いた表情を浮かべた。
「あれ・・?おかしいな。勘違いして買ってきちゃったみたい。」
この時も妻が間違えて同じものを買ってくるなんて珍しいと思ったが深く考えなかった。
八月下旬。
その日は会社の同僚の送別会で帰りが遅くなった。玄関を開けると和樹が出迎えに来てくれて僕にきつく抱きつく。
「ただいま。まだ起きてたのか?」
時刻は午後十時を過ぎており、いつもならば和樹はもうとっくに寝ている時間だった。
和樹を抱きかかえながらリビングへ向かうと、こちらに背を向け妻がソファーに座っていた。
周りを見渡すと洗濯物はたたまれず粗雑に重なり、キッチンでは卵が床の上で無残に割れ、切りかけの玉葱が水気を失い長い時間放置されたいたことがわかる。
そして、背中越しでも妻の様子がどこかおかしいことに気付いた。
僕は妻に問いかけた。
「どうかしたの?何かあった?」
「・・・作り方が分からないの、ハンバーグ。いつも作っていたはずなのにどうしても思い出せないの。」
その声は今にも消えてしまいそうで頼りない。そして急に子供の様に泣き始めた。
驚いた僕は抱いていた和樹をその場に降ろし、妻の元へ駆け寄る。
いくら話しかけても泣きじゃくるばかりだ。
妻を寝室に連れて行き、ようやく落ち着かせる。そして泣きつかれた子供の様に目を腫らして眠りについた。あんな風に泣きじゃくる妻の姿を初めて見た。僕はとても大きな不安に駆られた。
キッチンへ戻り和樹に即席のラーメンを作って食べさせる。
妻の様子から夕食を作らなかったのは明らかだった。
お腹が空いていたのだろう、勢いよく麺をすする。
和樹が食べている姿を見ながら、僕は妻のことを考えていた。しっかり者の妻が料理の仕方を忘れるなんて考えられない。
何より息子にご飯を食べさせずにいて平気なはずはない。
それに今日の妻はまるで子供の様に感じた。
よくよく考えてみれば最近様子のおかしいところはなかったか。
どこか体の調子でも悪いのではないか。一度、病院で見てもらった方がいいだろう。
次の日の朝、妻はいつもと変わらない妻に戻っていた。まるで昨日のことが無かったかのようだ。
僕は昨日の出来事について話を切り出し一緒に病院へ行こうと進めたが、妻は疲れが溜まっていただけと頑なに拒んだ。
妻はもともと病院があまり好きではなかったし、もし何か悪いものが見つかったらという不安が病院に行きたくない理由だったのかもしれない。
そして九月半ばのある日の夜、時刻は午後七時十五分。
僕がまだ仕事で会社に残っているとスマホが鳴った。それは和樹の保育園のマコ先生からで妻がまだ和樹を迎えに来ていないという。
「和樹君のお母さんに電話したんですけど出なくって・・・。いつもなら三時過ぎには、保育園にお迎えに来ていらっしゃるのに。」
マコ先生も不思議がっていた。
保育園からの連絡を受け、妻のスマホに電話をするが呼び出しのコールが鳴るだけでいっこうに出ることはなかった。
急いで会社を出ても保育園まで一時間半以上はかかってしまう。
和樹と同じ幼稚園に通うパパ友に連絡をして和樹を迎えに行ってもらうことにした。
僕は退社し、急いで駅に向かい電車に飛び乗る。
妻は今どこで何をしているのだろう。電話にも出ず、メールの返事もない。何か事件にでも巻き込まれたのではないか、それとも・・・。一か月前の出来事が思い出される。気持ちばかり焦るが電車の進む速度は変わらない。もどかしさでさらに焦りが増す。
電車が駅に到着し僕は走り出す。
妻が今どこにいるのか何を考えているのか僕には見当もつかない。
ただ無事にいてほしい、その一心だった。
いつも買い物しているスーパーにいるのではないか、コーヒーがおいしいとお気に入りのカフェに入ったまま時間を忘れてしまったのではないか。
だが、どこを探しても妻の姿は見つからない。交番で相談しようとした時、三人でよく行く公園を思い出した。高台にある海の近くの公園でそこから見える夕日が一番綺麗だと妻が気に入っていた場所だ。
公園へと走る。こんなに走ったのはいつぶりだっただろう。足は思ったように動かず息も切れて横腹が痛い。
やっとの思いで公園に着くとそこに妻の姿があった。ブランコに座わり遠くの暗くなった海を見ている。
「かおり、何してるんだ?」
僕は息も切れ切れになりながら妻に言った。
妻は僕の顔を見ると、わんわんと泣き出した。
「和樹を保育園に迎えに行こうとして家を出たんだけど道が分からなくなって・・・。和樹を迎えに行ってあげて。今頃、寂しい思いをしてるわ。」
妻は僕のスーツの袖を強く握りながら訴える。
「和樹のことなら雄太君パパにお願いしたから大丈夫だよ。だから家に帰ろう。」
泣きじゃくる妻をなだめながら僕は不安で一杯になった。
確実に妻に何かが起きている。疲れているからとかそういうことではない、妻に異変が起こっている。
妻を家に送ってから和樹を迎えに行く。和樹は泣き疲れたのか目の周りを腫らして眠ってしまっていた。今日はこの子にもかわいそうな思いをさせてしまった。
翌日、妻と病院へ向かう。
もともと病院があまり好きではない妻だったが昨日のこともあってか今回は素直に承諾してくれた。
病院の薄暗い廊下で長椅子に座り診察室に呼ばれるのを二人で待つ。
時間の流れがとても遅く感じる。
僕は不安だった。妻もとても不安そうな表情を浮かべている。
だがこんな時どんな言葉をかけてあげればいいのか思いつかない。
何か言葉を・・・そう考えていると突如、僕の脇腹がくすぐったくなり、びっくりして体がのけぞった。横にいる妻が両手を顔の前で開いたり閉じたりしてクシャっとした笑顔を見せる。僕を和ませようと妻がイタズラをしたのだ。
少し緊張がほどけ二人で笑った。
「大丈夫だよ。きっと大したことない。」
僕は笑ってありきたりな言葉と肩を抱き寄せ擦ってやることしかできなかった。
妻は優しい表情を浮かべていた。
診察室に入り問診を受け血液検査・MRI等の検査をした。一通りの検査を終え3日後に検査結果が出るという。
その三日間は僕にとって、とても長く感じた。きっと妻にとってもそうだっただろう。
三日後、病院への道のりが前より遠く感じる。
検査の結果が何でもなっかたと早く安心して笑いあいたい。
でも、何か悪い結果が出るのではないかという不安の方が強く心を支配する。
だが、一番不安でしかたないのは妻のはずだ。
僕らは病院へ続く坂道を二人で歩いた。
診察室に呼ばれ医師の話を聞く。
「かおりさんには脳の萎縮が見られ検査の結果、若年性アルツハイマー型認知症です。」
僕にはその医師が言っていることが分からなかった。
病名は知っている、どんな病気かもだいたい分かっている。
だが妻がその病気に罹っているなんて信じられない、信じたくない。
僕は隣に座る妻に目を向けた。妻は下を向いたまま動かない。
僕はで声を振り絞る。
「何かの間違いなんじゃ・・・。」
医師は表情を変えずは淡々と話しを進める。
「少し前まではアルツハイマー型認知症の診断は難しかったのですが、今はいくつかの検査ですぐに結果が出るんです。間違いありません。」
「でも妻はちょっと物忘れがある程度で次の日は何でもなかったりするんですよ。」
「そういう病気なんです。症状として一時的に忘れてしまうこともあります。
けれど、いずれ完全に忘れて思い出せなくなる。
起こったことすべて本人には無かったことになってしまうんです。若年性アルツハイマー型認知症は進行が速いですから治療は早く始めた方がいいでしょう。」
「治るんですよね?」
「完治はできません。薬を服用すれば進行を抑えることができますが薬の効果には個人差があります。
かつては発症すると寿命が十年から十五年と言われていましたが、今は三十年から五十年近く伸びています。」
「でも妻はまだ三十七歳なんですよ。」
「若年性アルツハイマー型認知症は十代からの発症も報告されているんです。いつ誰がなってもおかしくないんですよ。
大丈夫です本田さん、介護やケアなども充実しています。一緒に頑張りましょう。」
医師の言葉がとても薄っぺらく感じた。
これからのことなんか考えられない。どうして妻が。よりによってなんで、かおりが。
ぶつけようのない怒りと悔しさで手が震える。
こんなにも技術や医学が進歩しているのに進行を抑えることしかできず完治できないなんて。
息子の和樹はまだ四歳で妻も成長を見守るのを楽しみにしているというのに、あの子には母親が必要なのに・・・。そんなことばかりが頭の中をぐるぐる回っている。
医師が治療について話を続けているが、まったく耳に入ってこない。
妻はうつむいたまま動かなかった。
病院の帰り、二人で保育園へ和樹を迎えに行った。
保育園までの道のりは二人とも無言だった。話さなかったのではない、言葉を掛けられなかったのだ。
ただ、黙って妻の手を握りながら歩いた。
保育園に到着し門が開くと和樹が妻のもとへ走って駆け寄る。
妻も嬉しそうに和樹を抱きしめる。日常の光景だ。
だが今日の妻の笑顔からは不安が滲んでいるのが僕にはわかった。
今まで当たり前だと思っていた日常がなくなってしまう、その不安に押し潰されそうになりながらも必死に和樹に笑顔を向けていた。
僕にできることはとても少ないかもしれない。だが、二人が笑顔でいられる日常を守りたいと思った。
妻の病気の診断を受けて僕の生活で変わった事は、会社で残業を無くしてもらったことだ。元々、ハイテク化が進んでいたおかげで残業自体は少なかったが、和樹の保育園への送り迎えは僕ができるようになった。
妻に任せきりだった家事も家族みんなで行うようになった。
週に何回か家にヘルパーさんが来てくれて妻のサポートをしてくれる。
あとはメモ紙が壁や冷蔵庫など至る所に徐々に増え、家の中がカラフルになったと和樹がはしゃいでいた。
最初に妻の病気の診断を聞いた時は、とても自分では妻の面倒を見ることができないと思っていた。だが、周りのサポートもあってなんとかやっていけている。
妻の病気も薬で進行が抑えられ日常生活を送るのに今のところ大きな問題はなかった。日常生活の不安は僕や周りの協力でなんとかなる。
だが、妻の心の不安を取り除くことは難しい。僕にはありきたりな言葉を掛けてやることしかできない。
妻にとって一番の心の薬は和樹の存在だった。和樹の前では妻は本当に楽しそうにしている。
その姿を見ているだけで僕の心も軽くなった。その笑顔を見ている時だけは妻が病気だという事を忘れられた。
だが、薬で進行を抑えられているだけで止まったわけではない。
病は妻の記憶を徐々に、そして確実に消していく。
僕達の前では明るく振舞っていた妻だが日に日に、その明るさも消えていった。
次第に妻は外出も控えるようになっていった。定期的に病院へは行くものの映画やショッピングなどには出掛けなくなり、人との関りを極力避けるようになった。周りに迷惑を懸けたくないという気持ち、何より自分の記憶が消えてしまうことへの恐怖が妻を暗く落ち込ませた。
自分に起こった出来事を自分だけが知らない。
悪い病気のせいだと頭では分かっていても割り切れない思いがあるのだろう。
お腹を痛めて生んだ愛する息子のことさえ、いつか自分の中で存在しなくなってしまう。記憶を無くすというのはそういうことなのだ。
それに母親から忘れられた息子の気持ちを想像と心が痛い。
和樹には妻の病気のことをまだ話していない。四歳の保育園児になんと言って聞かせたらいいのか分からなかったからだ。あまりにも残酷な病気だ。だが、和樹は幼いながら母親の異変をどこか感じ取っているようだった。
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