翡翠堂の店主

結城 鈴

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 荷物は帰りに取りに寄るから、と。火曜の朝、将典は翡翠堂から出勤していった。それがなんとも気恥ずかしくて、けれど、見えなくなるまで見送った。
 昨夜は、すごいことをされたと思う。次回は、もっとすごいことをするのだと言う。
予習、必要かなぁ。
でも、わからないことは、教えてくれるよね?
将典は優しい。セックスは怖いけれど、それも、身を任せていれば、手を引いて行ってくれるんじゃないかと思う。
けれど・・・。
「お尻使うって、大変なイメージなんだけどな・・・。」
ゴムは将典が持っているとして、アレ・・・買ってほいた方がいいだろうか。中をきれいにするための、浣腸・・・。
買えない。痔の薬と同じくらい買えない!
どうしようか・・・。
カウンターで、こんなこと悩んでるなんて、お客さんに知れたら憤死してしまう。
汚物には・・・触れてほしくないな。
やっぱり、買ってこよう。
今日は、お昼に店を閉めて、お昼ご飯を買いに行くつもり。
その時にでも、ドラッグストアに寄ろう。
もしかして、痔の薬も必要になるのかな・・・。
気が重い。でも、傷を負わないとは思えない。
昨日愛した、将典のモノを思って、ため息をついた。

 将典が作ったチラシを持って、お昼ご飯を買いに自転車で出かける。駅前のコンビニだ。店主に交渉すると、チラシを見えるところに貼ってもらえることになった。ほっと胸を撫でおろして、サンドイッチを買う。タマゴと、ハムとレタス。それにヨーグルト。なるべくおなかの調子を整えておきたい、乙女心だった。
その帰りに、寄り道して、ドラッグストアに寄る。レジには男性店員。素早く目的のものを探して、レジに持って行った。店員が、見えないようにと気を使い、紙袋に入れて、さらに透けない黒いレジ袋に入れてくれる。あわただしく支払いをして、店を出た。
「しばらくいけない・・・。」
店を出ると、脱力して、呟いていた。
さて、帰り道に、あの洋食屋でも交渉してみよう。チラシを置く場所は多い方がいい。できれば駅の掲示板にも貼らせて欲しかった。
駅、寄ってみようか・・・。
将典には、噴水の方には近づかないように言われているが、さっきもロータリーの外側にあるコンビニに、寄ったばかりだ。昼の日中にナンパ目的の男がいるとは思えなかった。
試しに、と掲示板を見に行くと、迷いネコや、お店のチラシがちらほら貼ってある。中には、あやしいものもあったが、駅員に交渉する価値はありそうだ。小さな駅だが、ちゃんと駅長室がある。
「あのー。こんにちは。」
と、近くにいた駅員に話しかけた。
「掲示板を使いたいんですけど。」
これ、とチラシを見せる。
「あぁ、お店の宣伝ですね。駅長室に駅長がいますから、ハンコをもらって貼ってください。」
「ありがとうございます。」
言われた通りに、駅の外側にある、駅長室のガラス戸をノックした。中から返事がして、それらしい人が出てくる。
「こんにちは。チラシの掲示に、ハンコが必要だって聞いて。」
要件を告げると、駅長は二つ返事で手招きすると、中へと入れてくれた。
「どれですか?条例で、アダルトなものは禁止なんですが。」
「古本屋です。」
「それなら大丈夫ですよ。ハンコ押しますね。」
トン、と右端の空いたスペースに、日付と駅名の入ったハンコが押される。画鋲ある?と聞かれて、いいえと答えた。すると、引き出しの中から、金色の画びょうを四つ、手渡してくれた。
「大体一か月を目安に入れ替わっていくので、剥がしに来てください。日付の古くなったもので、引き取りにみえない場合は、こちらで剥がして処分することもあります。」
「わかりました。ありがとうございます。」
掲示板にとって返して、空きスペースになんとかチラシを貼ることができた。
「あとは、洋食屋も・・・。」
独り言して、洋食屋の方に向かった。
 チラシは、洋食屋のカウンターに置いてもらうことになり、五枚ほど置いてい来た。
「コンビニでコピーとればよかった。」
手持ちはまだ数枚あるが、どうしたものか。さすがにポスティングまでするつもりはない。店の休憩は、二時までとしたし、そろそろ帰らなければならなかった。

 店に帰り、スマホをカウンターの引き出しに忘れて行ったことに気が付いた。見ると、メールの着信がある。将典だった。
『良くない知らせがあります』
なんだろう。気にはなったが、仕事中だろう。もやもやしていると、三時に、将典から電話がかかってきた。
「はい。」
『あ、未知。ごめん、不穏なメール送っちゃって。あのね、翡翠堂と、母屋の建物のことで、ちょっと・・・。消防法って知ってる?建築基準法とか。』
「よくわからないです。」
『いろいろ複雑で難しいんだけど・・・。君のお父さんが、翡翠堂を更地にするつもりなのは、法律上の問題があるからかもしれないんだ。』
詳しい話は帰ってからするけど、と将典は言った。
「わかりました。待ってます。」
『うん。ごめんね』
また、と通話は切れた。
 気になって、パソコンで調べてみる。が、将典の言ったように、複雑で難しく、理解するには至らなかった。ただ、今後もここに住み続けるにあたって、リフォームではなく、リノベーションが必要になるかもしれないこと。それも無理なら、取り壊して新築するしか道がないことなどが、ぼんやりとわかった。そういえば、書架の耐震も、アドバイスをもらっていたのを思い出した。地震で倒れたら危ないからと。
翡翠堂、どうなっちゃうんだろう・・・。
このまま、来年の一周忌まで何事もなく過ごせたら、やはり土地は更地にするしかないのだろうか。できれば、家賃のかからないここに住み続けていたかった。お金のためだけではない。祖父母との思い出もある。最近は、将典との思い出も。
どうにかならないのかな。
ならないから・・・電話くれたんだよね・・・。

 七時。最近では、早い時間と言えるこの時間に、将典はやってきた。店を閉め、花に水をやる。将典は、店のテーブルに座って、何やら考え込んでいた。
「お帰りなさい。」
麦茶を差し出すと、将典は少し口をつけ、テーブルの右端に置いた。
「未知、自分で調べてみた?」
「はい。難しくて・・・よくわからなかったんですけど。今の自分の経済状態だと、ここに住み続けるのは難しそうです。」
将典は、そうだね、とため息した。
「とりあえず、専門家に診てもらう手もあるけど、それもお金がかかるし・・・。」
「・・・もともと、春には壊す予定だったんです。仕方ありません。将典さんに会って、ちょっと揺れたけど・・・。仕事が休みの時だけ、店を開ける生活もいいな、なんて・・・。でも、道楽でこれ以上やってちゃだめだなって。」
道楽でやってたつもりはないけれど。
「未知・・・。」
自嘲的な自分を諫めるように、将典が名を呼んだ。
「父には兄弟がいて・・・遺産の相続、ここが最後なんです。わがまま言って後回しにしてもらってたんです。ここは今、父名義になっているけど、取り壊した後は、土地を売って、そのお金を兄弟で分けなければいけないんです。だから、ちょっと夢見てたけど、現実に引き戻されたっていうか・・・。」
多分、どうすれば壊さないで済むかを考えているであろう将典に、どうしようもないのだと告げる。
「本はもともと、図書館に寄贈するつもりでいたので・・・。」
「あぁ、それで前の時も、寄贈って言ってたんだね。」
将典は、またあごに手をやって、考え始めた。
「将典さん?」
「未知は、ずっとこの町に住んでいたいの?」
「住みやすいですけど・・・。」
一人で、半年やってきた町だ。思い入れがないわけではない。
「取り壊しの費用は、未知のお父さんが持つの?」
「それも、兄弟で平等に分割するみたいです。」
「じゃぁさ、この土地、俺が買ったらだめかな。」
いくらくらいで売るつもりなんだろう?と将典は問うた。
「何のために、ですか?」
「ここ、今家賃はかかってないよね?この間家計簿見た時に思ったんだけど。俺のマンション、賃貸で月十万払ってて。
その分をローンに回したら、新築で家を建てられるんじゃないかって。駐車場も月三万払ってて。」
将典さんが、ここに住むってこと?
ぽかんとしていると、お店をやるかどうかは未知次第だけど、と付け足した。
「え?どういうことですか?」
「お店の分を駐車場にして、家を建てちゃうか、駐車場は別に借りて、お店と家を建てちゃうか。」
「・・・将典さんの家ですよね?」
なんでそこに、自分次第のお店の話が出てくるのか。
「翡翠堂、もったいないじゃない。」
「将典さんが、お店やるんですか?」
「やるのは未知だよ。」
だんだん頭が混乱してきた。
「家、建てるから、お嫁さんになってって言ってるの。」
「それ・・・本気ですか?」
どうやら将典は、土地を買って、二人で住むための家を考えているらしかった。それで、やりたければ翡翠堂を続けてもいいと。
「でも、それだと僕、完全にヒモになっちゃいますけど。」
「ちゃんとお仕事してる奥さんだよ。まぁ、早くローンを返したかったら、未知にも働いてもらった方が効率良いけど。」
子育てがあるわけじゃないしね、すぐにお金返せるよ、と将典が言う。
「翡翠堂じゃ儲けは出ないと思います。」
「なら、お店あきらめて、未知はどこかで働く?アルバイトでもいいよ。」
将典はいたって真面目な顔だ。冗談を言っている風ではない。
「まって・・・。待ってください。あの、春までお店続けちゃ駄目なんですか?」
「一周忌って言ってたね。それが済んだらでいいよ。工事に取り掛かるのは。」
降ってわいた急展開に、頭と気持ちがついて行かなかった。

 将典が、本気なのはなんとなくわかった。将典も、仕事でこの町に来るのだから、確かに、ここに済んだら通勤も便利だろう。家賃と、駐車場代と、交通費が浮く。確かにそれなら、若い将典ならすぐにローンが組めそうだと思った。
けれど、一緒に住む?お嫁さん?奥さん?
飽きられてしまったら・・・どうすればいいの。答えは、実家に帰る。働いて、一人暮らしをする、だ。
でもきっと、近い将来セックスはするだろう。身も心も将典に捧げてしまって、果たして自分は離れられるのだろうか。
 そんなことを考えていて、みそ汁を沸かしてしまった。
将典が、今日もうちで食べていくというので、慌てて買い物に行き、御飯を作っている。その間、将典は、自分のタブレットで何か調べ物をしていた。
今日は、冷凍のから揚げと、もやしのナムルと豆腐とわかめの味噌汁。飲むなら、冷蔵庫にビールが買い置きしてあった。
「将典さん、着替え、洗濯してありますよ。お風呂入りますか?」
「うわー・・・魅力的。今日も泊まりたくなっちゃうから、やめておくよ。・・・ご飯何?」
「から揚げです。先に飲みますか?」
うん。と上の空と言った調子で答える将典に、缶ビールとグラスを持っていく。
「ありがと。」
カシュ、とプルタブを開けて、グラスに注ぐ。お疲れ様―と一口した。
「お疲れ様です。・・・何を調べてるんですか?」
「新築と、リノベーション、どっちが安く済むかなって。基礎がしっかりしてれば、古い柱とか残して住めないかな、とかいろいろ。取り壊しの費用もったいないから、それを専門家に診てもらう費用にあてられないかなーとか。」
得意分野だけど、自分の家となるとねぇ、とまたビールで口を湿らせた。
「普段は、古民家を改装したカフェとか、雑貨屋とか・・・そういう案件も手掛けてて、だからここも何とかしたい。」
でも更地にするのが条件だと、厳しいなぁと呟いた。
「将典さん、気持ちだけで十分。僕は嬉しいし、その・・・そんな風に、ずっと住む家建てちゃったら、後悔しない?」
出来上がった料理を、ダイニングテーブルに並べる。
「後悔?・・・どうして?」
将典が居間の方にビールを持って上がってくる。
「・・・僕と、ずっとやっていくつもりなんですか?」
「俺はそのつもりだけど・・・未知は違うの?」
質問は、質問で帰ってきた。男同士だというのは、この際将典には関係ない。けれど・・・その相手が、本当に自分でいいのか、自信がなかった。
「未知、不安なの?」
いただきます、と将典はみそ汁に手を付けた。
「不安・・・。なのかな。僕、お付き合いするの、将典さんが初めてで。今のところうまくいってるとは思うけれど。僕と将典さんをつないでるのは、翡翠堂で。だから、それがなくなったら、どうなっちゃうんだろうって。」
「わかるよ。だからこうして、なくさない方向で検討中なんじゃない。」
未知のことは俺が養ってあげるよ。伏し目がちに言う。未知は嫌かもしれないけど、お金の出所が変わるだけで、今の生活と、そう変わらないよ。と目を上げた。見つめられて、本気なのかもしれないと思った。
「将典さん。返せるものがないです。メリットがない。」
「未知の初めてを、全部俺の好きなようにさせて、って言ったら、どうする?」
体で、払うってこと?一生?
少し、考えた。
「好きなようにする」、にはきっと「飽きたら捨てる」、も込みだろう。
それなら・・・。もう少しだけ、一緒にいたい。
「未知?」
「あ・・・。いえ、なんでも・・・。将典さんが、好きなようにするので、僕はいいですよ。」
将典は、ニッコリ微笑むと、ありがとう、よろしくね、と言った。それに、笑って返す。
切ない作り笑いを、将典は見抜けなかったようだった。

 将典と、家のことを話した翌日から、翡翠堂の将来について、積極的になれない自分がいた。空き時間にちまちまやっていた、しおり作りもする気になれず、ぼんやりと過ごしていた。
まるで、将典と会う前に戻ったみたいだ。
でも、書架の位置は変わっているし、テーブルも置いてある。ポットには新しい麦茶と氷が入っていた。
お昼になったら食べようかと、今日はおにぎりが作ってあった。けれど、食欲はない。心なしか熱っぽいような気がして、のろのろと居間に上がり、体温計を探した。確か、電話の下の引き出しにあったはず。思った通りの場所で、水銀計を見つけて、五分。体温を測ると、八度一分。
風邪かな。お店閉めよう。
ゆっくり、ガラス戸を閉め、シャッターを下ろす。おなじみになった、臨時休業の張り紙をすると、二階に上がり、布団を敷いた。だるくて眠い。そのまま眠ったようだった。

 遠くで、鳩の鳴く音が聞こえた。
え?今何回鳴いた?
慌ててスマホを見ると、七時を回っていた。のどがカラカラだ。とりあえずと、水を飲みに階下へ降りた。コップに水道の水を注ぐ。飲み終わってコップを流しに置くと、コンコンと、勝手口がノックされた。将典かな、思っていると、勝手口が開いて、将典が入ってくる。
「臨時休業ってどうしたの?勝手口、開いてた。鍵、ちゃんとしないと危ないよ。」
「ごめんなさい。熱が出て。今まで寝込んじゃってました。」
「え?どれ。」
将典が額に触れる。
「だいぶ熱いね。薬は?」
首を横に振る。
「何か食べた?食欲は?」
「朝ごはん食べたきりです。食べる気がしなくて。」
「待ってて、おかゆ作るから、少し食べて薬飲んだ方がいい。」
え?将典さんが作るの?
思ったことは、顔に出た様だった。
「おかゆくらい作ります。これでも、自炊してるんだから。」
上で寝てな、と二階に追いやられる。すると、あまり時間をかけずに、将典が二階に上がってきた。
「お釜のご飯流用したから、お米から炊いたおかゆじゃないけど。消化にはいいから。」
食べな、と梅干を添えたおかゆを差し出される。小さな土鍋の中で、梅干を崩して、一口した。
「美味しい。」
「それは、お腹空いてたんだね。」
将典が苦笑する。
「食べたら水分とって、薬飲んで、眠れたら寝るといいよ。」
そう言うと、将典は押入れから客用の布団を取り出し、隣に敷いた。
「将典さんご飯は?」
「冷蔵庫に入ってたおにぎり、チンして食べました。美味しかったよ。もしかして、お昼ご飯だった?」
頷く。
「着替え、あるんだったよね。お風呂借りていいかなぁ。今日暑かったから。外回りだったんだよ。」
「あ、支度しますか?」
「寝てな。洗って、水張って、沸かせばいいんしょう?できるよ。」
将典はそう言うと、階下へと降りてゆく。残されて少し淋しかったが、せっかく作ってくれたおかゆを食べることにした。
ややあって、将典が様子を見に上がってくる。
「今、水張ってる。どれくらいでたまる?」
「七分くらいかな。」
「あーじゃぁ見てた方がいいね。」
いそいそと、階下に戻りかけ、土鍋空いたら下げるよ、と言い置いた。食べないわけにはいかなくなり、せっせと口に運ぶ。やがて、風呂を沸かし始めたのか、また様子を見に来た。
「食べ終わる?」
「はい。御馳走さまでした。」
「お粗末さまでした。・・・体拭いて着替えた方がいいね。」
支度してくるよ、とまた降りていく。せわしなく看病されて、将典の意外な一面を見た気がした。
将典は、電子レンジで蒸しタオルを作ってくると、脱ごうか、とTシャツに手をかけた。裸になるのは初めてのことで、恥ずかしい。将典は、背中や首、わきの下などを拭いてくれ、前は自分でね、と勝手知ったる様子で、着替えを取りに行った。箪笥から、Tシャツと、下着を取り出すと、着替えようか、と言った。
「恥ずかしいんですけど・・・。」
「あぁ。そうだね。お湯加減でも見てくるよ。」
そう言って、席を外してくれる。着替え終わったころを見計らって、洗濯ものの回収にやってきた。
「すみません。ありがとうございます。」
「いいの。それより、バファリン飲める?手持ち、それしかなくて。アレルギーとかは大丈夫かな?」
「飲んだことあるので、大丈夫です。」
「じゃぁ、お水持ってくる。」
将典は、階段を何往復もして、世話をしてくれた。薬を飲んだのを見届けると、じゃぁお風呂いただくね、とまた降りて行った。

 少しうとうとしたらしい。気が付くと、となりに将典がいて、横になってこちらを見ていた。
「あれ?起きちゃった?」
見つめすぎたかな、と苦笑している。
「目が潤んで、色っぽいね。熱がまだ高そうだ。体温計どこ?」
「電話の下の引き出しです。」
将典は、そう、と言うと、下に降りてゆく。体温計を持って、すぐに上がってきた。体を起こして、体温計をもらう。わきの下で計っていると、将典は、しんどそうだなぁと横になった。
「何度?」
「七度七分です。ちょっと下がりました。」
「症状は熱だけ?」
頷く。
「疲れが出たかな。・・・昨日あんな話したからかな。」
そういう将典の顔にも、疲労の色が伺えた。
「今、何時ですか?」
「十二時回ったところ。」
終電はすでにない。本当に泊まるつもりなんだろう。
「あ、洗濯機借りたよ。ワイシャツだけ洗いたかったから。」
「すみません。」
謝ると、将典はまた苦笑した。
「いたずらするには、少し熱が高いかな。抜いたほうが眠れるなら、手、貸すけど。」
あんまりな言い様に、くらりと目が回る。
「まぁ、休んどきなよ。ひとりじゃ心細いかと思って、俺が勝手にいるんだから、気を使わないでいいからね。」
確かに。一人は心細い。甘えてまた目を閉じた。

翌朝、将典が出勤準備をしている気配で目が覚めた。
「あ、ごめんね。おはよう。熱はどう?」
言いながら、額に手を置かれる。
「ん。下がってるね。念のため今日はお休みしときな。休業の紙そのままにしておくから、心配しなくていいよ。
ごめん。朝一、会議が入ってて、俺がいないとみんなが困るから。」
行くけど、メールくらいは豆にするよと、ヨレヨレのワイシャツを着ている。
「ごめんなさい。ワイシャツアイロンかけておけばよかった。」
「いいから。ご飯は炊いて、おにぎり作っておいたから、朝でも昼でも、食べて寝てな。念のため、薬置いていくから。」
と、重たそうなバッグの中から、ピルケースを出して、中身をくれる。
「八度超えそうだったら飲むんだよ。」
そう言って、枕もとの麦茶とグラスを指す。
「麦茶、持ってきておいたから、水分多めに。あとは・・・。」
将典は忙しそうだ。
「将典さん、熱も落ち着いたし、大丈夫です。ありがとうございました。」
「・・・うん。しかし、ここ良いなぁ。朝、一時間はゆっくり寝てられる。やっぱり越してきちゃおうかなぁ。」
「やっぱり?」
「昨夜ちょっと考えてた。俺も、翡翠堂は気に入ってるし、ここに越してきちゃおうかなって。」
「だって、マンションは?家賃がもったいないです。」
「だよねー。ここをどうにかするとき、一時的に住む場所が必要だもんね。俺のうちに、未知が来るのも、魅力的かなって思うから、残しておきたいし。解約して、半年ここに住んで、建て替えの時はマンスリーでも借りればいいかとか、いろいろ考えてた。未知の、翡翠堂の思い出の中に、俺がいれたらいいなぁって。」
ドキリとする。
将典の、視線の先は、半年後を見ていた。
立ち止まったらだめだ。将典と、同じものを見ていたい。
「設計図は・・・間取りとかは、もう考え始めてるんですか?」
「それはまた、日曜にでも、ハウスメーカー一緒に回ろうかと。新婚デートみたいでいいでしょう?」
将典がおどけてみせる。
「未知には悪いけど、一番俺の出費が少ないのは、更地を買って、建て替えなんだよね。貯金は残しておきたいし。」
手が空いたスタッフと、ちょっと考えてみるよ、と将典は出勤していった。
「いってらっしゃい。気を付けて。」
布団の中から見送る。勝手口の鍵は、将典が閉めていった。

 買い物に行けなかったから、夕ご飯は買い置きのパスタにでもしようか。
そんなことを考える、午後七時。将典から仕事終わりました、とメールがあった。
将典の看病のおかげで、体は軽くなっていた。夕ご飯くらいなら作れそうだと思っていると、またメール。夕ご飯は牛丼でいいかと。どうやら、テイクアウトしてくるつもりのようだ。ありがとうございますと返し、将典の帰りまでにと、着替えを済ませる。待っていると、勝手口が開いて、将典が帰ってきた。
「将典さん、お帰りなさい。」
「ただいま。って、なんかいいね、これ。」
新婚みたいと、将典が笑う。つられて笑って、牛丼を受け取った。
「あの、インスタントで良ければ、お味噌汁ありますよ。」
「あぁ、じゃぁもらおうかな。体調はもういいの?」
「おかげさまで。」
もう大丈夫と笑って見せる。
「よかった。お湯沸かそうか。」
将典は、台所の流しで手を洗うと、やかんを手にした。もう、自分の家のように過ごしている。
「未知?」
不思議な感覚に戸惑っていると、将典が気が付いて名を呼ぶ。
「あ、やかんの場所とか、教えてないのにと思って。」
「昨夜、土鍋あるかなって、あちこち探検したからね。大体のことは把握しました。」
ごめんね、と悪びれずに答える。ありがたいことだが。
「なんだか本当に、将典さんがこの家に越してきたみたい。」
それに、ふふ、と笑って、将典はコンロに火をつける。
「未知は病み上がりなんだから座ってな。」
あとはするから、と和室の座卓に追いやられた。牛丼を持って移動する。お湯が沸く間、と将典もやってきた。
「未知、並盛で足りた?俺の大盛りと交換する?」
「いえ。充分です。」
「ねぇ未知・・・そろそろ敬語やめてみませんか?」
唐突に、将典が言った。
「なんででしょう?」
「もっと、距離、縮めたいなぁ。」
うーん、と、思わずうなる。
「僕が出た高校、割とそういうのに厳しめで、慣れちゃってるっていうか・・・。」
「未知は大学出てるんだっけ?」
頷く。
「どんな資格持ってるの?」
「国語の先生と、司書です。」
「なるほど、それで図書館に・・・か。」
寄贈の話をしているのだと思う。
「本棚、ものすごく整理されてるものね。」
言われて、恥ずかしくなった。素人のまねごとレベルを超えないからだ。
「僕は実際図書館で働いたことがあるわけじゃないですから。実習で、ちょっとかじった程度で。」
「そう?未知はもっと、自分の仕事に自信を持った方がいいよ。あ、そうだ、しおり手作りしてるんだよね。今度ラミネーターもって来ようか?丈夫にできるよ。」
「でも、フィルム代かかっちゃうし。」
「うちに余ってるから。活用して?」
そう言われて、頷いた。
「未知は、本が好きなんだね。」
「小さいころから、ここにはよく遊びに来てましたから。」
将典がうん、と頷く。ピーとやかんが鳴った。将典が慌てて火を止めに席を立つ。
「未知、インスタント味噌汁って、かごに入ってるやつ?」
「あ、はい。やります。」
台所から、いいよ、できるよ。と声がする。甘やかされて、座って待っている自分がいた。ややあって、将典がお盆に二つ、お椀を乗せて戻ってくる。
「さぁ、食べようか。」
二人、牛丼の蓋を開け、いただきます、と手を合わせる。
「将典さんは、育ちがよさそうです。」
「うちは・・・両親共働きで、おばあちゃんが半分くらい育ててくれたんだけど、厳しかったから。挨拶大事。」
なるほど、と笑う。自分の作った、つたない料理にも、必ずいただきますと言ってくれる将典が好きだった。
「あぁそうだ。元気になったのなら、日曜も休みにして、少しハウスメーカー見て回らない?」
「住宅展示場、とかですか?」
「うんそう。」
マンションや、アパートが多いこの辺にはないのだが。
「だから少し遠出のデートかな。車で来るから。」
楽しげに語る将典に目を細めた。

 将典がいるから、翡翠堂がなくなるのに現実味が出てくる。
今まで、漠然と、来春にはと思っていたのが、近い将来の話なのだと思えてくる。
でも、その先の未来も見えてくる。
翡翠堂がなくなったら、そこで途切れてしまうだろうと思っていた生活に、続きがあるのだと。
まだ、どうなるかわからないから、父にはこの話をしていない。本当に、将典がここに家を建てる気があるのか、いや、あるのだろうが、実際にできるのかどうかは、調べてみないと分からないことだ。将典は、専門家に診てもらうことも視野に入れている。現実を見ているのだ。
たぶん、夢を見ているだけじゃない。
・・・そこに、僕がいていいのかな・・・。
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