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土曜日。いつものように店を開ける。昨日あったことは、早く忘れた方がいいんじゃないかと思い始めていた。あれでも将典は会社の社長だ。自分とは身分が違いすぎる。普段はまじめに働いているだろう。
・・・今日は何をしているのかな・・・。
翡翠堂は、午前中の来客はほとんどない。午後になると、学校の終わった学生がちらほら。やはり、電車までの時間つぶしにやってくる。その時間が済むと、祖父の代からの常連さんが、犬の散歩がてらに寄っていく。その後は、将典が来るまで、誰も来ない。それが平日の流れ。土日の客はもっと少なかった。それでも、店は開ける。もしかしたら、誰か来るかもしれないから。
そしてまた、来客のないまま、土曜は終わった。鳩が鳴くのを見届けて、シャッターを閉めに表に出る。勝手口から母屋に入って、線香をあげ、買い物の支度をする。すると、電話が鳴った。珍しい。リビングの端にある電話を取ると、相手はなんと将典だった。
『こんばんは。携帯にかけようか悩んだんだけど、名刺貰ってたからとりあえずこっちにと思って。』
「あ、はい。・・・こんばんは。」
何の用だろう?
『お店はもう閉めたの?』
「はい。」
時計は七時二十分を指していた。
『今日、俺が行かなくて淋しかった?』
え?
「えっと・・・。」
それは、少しは思い出したけれど・・・。
言い淀むと、将典は深く追求せずに会話を続けた。
『明日もお店あける?定休日ってないのかな。』
「ないんです。明日も十時に開けますよ。」
なんだろう。電話口の、少し弾むような声の将典とは反対に、どんどん声が小さくなってゆく。
『ちょっと提案したいことがあって。』
「提案・・・ですか?それは、コンサルタント・・・的な?」
『仕事じゃないけど、まぁそうかな。昼間、行ってもいい?』
え?でも、明日は日曜日。仕事は休みのはずじゃ。
「かまいませんけど・・・。」
『よし。じゃぁ、決まり!楽しみにしてるね。』
それじゃぁ、と通話は切れた。
仕事じゃないけど、ここに来る?
それがなんだか、とても特別なことのように思えて、胸が高鳴った。提案も気になったが、将典が午後の七時以外の時間に訪れるであろうことが、もう、なんだかドキドキした。
ドキドキしながら店を開ける。日曜の朝十時。今日は雨。昼間、と将典は言っていたが、まさか午前中からは来ないだろうと踏んでいた。ところがお昼少し前、将典は休日らしいラフな格好で現れた。あの傘をさして。
「やぁ。こんにちは。未知、お昼はまだ?」
その格好にも慣れなくて、ドキドキしてしまう。エアコンは効いているのに、少し暑くなったかと思うほどだ。
「まだです。」
「いつも、ここで済ませるの?」
将典は、軽いテンポで話を進める。
「はい。一応店番なので。」
一応、と自分で言っていて少し淋しい。
「うーん。少しの間閉めて、お昼食べに行ったりとか、できない?」
「できなくはないですけど・・・。今までしたことがないです。お昼にそんなにお金かけられないし。」
「普段、何食べてるの?」
将典は質問攻めだ。
「・・・おにぎりか、サンドイッチを作ってます。」
「・・・好きなの?」
おにぎりと、サンドイッチをだろうか?それとも作るのが好きなのかと聞いているのだろうか?どちらにしても答えは一つだ。
「節約です。」
将典は、なるほど、と頷いて、やはり外に食べに行くことにしたらしかった。
「この間の洋食屋さんでいいかな?日曜日は特別メニューがあるんだよ。」
「特別メニュー?」
それは着いてからのお楽しみ、と将典は笑う。そして、紙とペンを用意するように言ってきた。何に使うのかと見ていると、将典はカウンターで、紙にサラサラと、『休憩中です。二時に戻ります』と書いた。そして、さらにガムテープを用意するように言う。用意すると、将典はそそくさと外に出て、ガラス戸を閉め、シャッターを下ろしてしまった。こんなこと、自分が店を継いでから一度だってない。慌てて、勝手口から出て表に回ると、そこにはすでに、先ほどの紙がガムテープでしっかりと貼られた後だった。
「行こう。裏、閉めてきた?」
言われて、素直に勝手口に鍵をかけに行く。ドキドキしていた。
「あ、あの・・・営業中に店閉めるなんて、初めてなんですけどっ!」
精一杯の大声で抗議する。お客さんに申し訳ない。不誠実な仕事はしたくない。
「何言ってるの。日曜の昼くらい、少し抜けても誰も咎めないよ。それにこれはミーティング兼ねてだから。」
「え?」
「ほら、時間ないから歩きながら・・・。昨夜言ったでしょう?提案があるって。」
そういえば。将典はそのために、日曜にこうして出かけてきてくれたのだ。でもそれは、午後でもよかったようにも思う。
いけないことをしている罪悪感と、将典の言う提案のどちらにドキドキしているのかわからなかった。
将典は、言ったように金曜に行った洋食屋を目指しているようだった。駅のロータリーを横目に二人傘をさして歩いていく。自分の傘は、ミントグリーン。
「あの・・・僕本当に、お金なくて・・・。」
こそっと告げると、ご馳走してあげるよ、と返ってきた。
「餌付け、っていうのかな。まずは胃袋掴んじゃおうと思って。気に入ってくれるといいんだけど。」
俺も、日曜は初めてだから、期待してる。そう言いながら、洋食屋のドアを開けた。中からは、デミグラスソースではなく、カレーの香りがしていた。
「日曜はカレーの日。」
なるほど、と誘われるまま店内に入る。窓際の席に案内され、落ち着かずにそわそわしていると、メニューを見終わった将典が、同じものでいい?と聞いてきた。
「何を食べるんですか?」
「カツカレーの、カツ二枚乗せ。スペシャルメニューなんだよ。いつか食べたいと思ってて。」
と、ニコニコしている。
「か、カツは一枚でいいです。」
最近、小食になった、というか節約しすぎて胃が小さくなったというか、食べきれるとは思えなかった。
「遠慮してない?・・・甘えたらいいのに。」
将典は少し不満そうに、お冷を一口した。
「甘えとかじゃなくて。多分、入らないです。」
「そんなに緊張してるの?そうかーまだ慣れないかー。」
それもあるけど、それとは違う。
「あの。よく、人懐こいとか、距離が近いとか、言われません?」
「言われません。」
将典は、きっぱりと否定した。
「普段は、壁を作ってるから。今は、鎧も脱いで、なりふり構わず君を落としにかかってるの。」
でも、ナンパの成功率高そう。そう思い、将典のナンパの相手は男なのだと思い出した。
「・・・僕って、その・・・あなた方から見ると、魅力的、なんですか?」
ゲイの人たち、とは聞けずに言葉を濁した。
「好みはあると思うけど、君みたいに線の細い子はあまりそういう対象にはならないんじゃないかなぁ。俺が単純に、君のこと好きなんだよ。」
ドキ。
「・・・好きって・・・。性的に?」
尋ねたところで、店員が、お決まりでしょうか?とやってきた。慌てて口を塞ぐ。
「カツカレーの二枚乗せと、カツカレーを一つずつ、お願いします。」
将典は、何でもないことのように、普通にオーダーすると、メニューブックを店員に返した。店員が、ありがとうございます、と去っていく。それを見送って、将典は静かに、しかしはっきりと、こう言った。
「多分に、性的に。」
と。
眩暈がした。カレーなんて食べてる場合じゃない。そう思ったが、逃げることもできなかった。
将典の提案はこうだ。少し、本棚を整理して、読書スペースを作ったらどうかと。ウォーターサーバーを置く程度なら、免許も資格もいらないし、もう少しゆっくり本と向き合ってもらえたら、買って行く客も増えるのではないかと。
簡単なテーブルを置いて、店内をもう少し明るいイメージにするために、花でも飾って、と。その程度のことなら、学生時代にバイトでためたお金を切り崩せば、出来ないことはなさそうだった。加えて、それをアピールするビラを、どこかに置かせてもらうか、配るかする。リビングには、古いながらも、パソコンやプリンターはあったから、それも外注せずにできそうだと思った。
毎日、ただぼんやりとカウンターに座っているだけだった自分に、将典は仕事をくれた。それだけで、この暇な毎日から解放される。まずは、書架の整理から始めようと思った。書架を最低一つは空けなくてはならない。大仕事だった。
何とかカレーを食べ終えた帰り道。お客さんに約束した二時までにお店に帰らなくてはならない。少し急ぎ足で、歩いていた。雨はやんでいた。将典とは、駅で別れるものと思っていたが、また店まで来るつもりのようだった。不思議に思いつつ、けれど話し相手が欲しかった。
店につくと、将典はシャッターに貼ったガムテープを丁寧にはがし、シャッターを開けた。自分は、勝手口から中に入って、ガラス戸の鍵を開ける。すると、将典が貼ってあった紙を丸めながら入ってきた。
「翡翠堂、って言うんだね。看板、気が付かなかった。」
綺麗な名前だね、と、将典が微笑む。
「祖母がつけたんです。」
その答えに、さもありなんと頷いて、掃除したら綺麗になるんじゃない?と提案してくる。言われて見れば、確かにいつから掃除していないのかわからないほど、看板は埃まみれだった。しかし、真鍮の打ち出しの看板は、軒下にかけてあり、外すのは容易だが洗っただけではきっと綺麗にならない。専用の研磨剤で磨かなくてはならないのだ。昔、祖父がやっていたのを一度見たことがあった。
研磨剤は確か、納戸にしまってあったと思う。まだ、使えれば、だが。
「それ、時間もかかるし、だれかお店番してくれる人がいないと。洗って磨くのは時間がかかるから。」
「俺がしようか?」
「えっ?店番を?」
そんなことさせられない、そう思っていると、将典はそうじゃなくてと否定した。
「磨く方。これ、真鍮でしょう?ちょっと大変なのは俺も知ってる。ピカールある?」
と、研磨剤の商品名を言ってきた。
「ありますけど・・・古いですよ?」
「そうか。じゃぁ、また来週用意して来よう。いっそ、日曜か土曜を休みにして、一緒にテーブル見に行ったりしないかい?花を買うだけでも車があった方がいいだろう?」
またしても提案だ。
休みにする?一日?
考えたこともなかった。でも、平日より、客の少ない土日の方が、休みやすいと言えば休みやすいかもしれない。これは投資。改善のための。そう思うと、なんだか前向きになれた。
七時に将典が訪ねてくる以外、楽しみのない一週間を過ごし、約束の日曜日。普段なら店を開ける十時に、駅のロータリーの、コンビニの前で待ち合わせた。車で来るのだと言う。
向かうと、将典は十分前にはすでに来ていた。車は、ダークなカラーのスバル車だった。
意外。社長はみんな、外車に乗っていると思ってた。
きょとんと車を見ていると、将典が笑った。
「レボーグっていうの。よく走るよ。」
胸の内を読まれたようで、赤面する。
「国産車、というか、スバル車が好きで、ずっと乗り継いでる。」
そう言うと、どうぞ、と助手席のドアを開けられた。車に乗るのは、引っ越しの時に、父の車に乗って以来だった。
「お邪魔します。」
乗り込み、座りのいいシートの感触を確かめて、シートベルトを締める。
「じゃぁ行こうか。近くにホームセンターあったよね?」
仕事で来る以外は来ない町だったからなぁ、とナビを頼りに車を発進させる。目的地には、さほどかからず着いた。
「テーブルと・・・鉢植えの花がいいかな?長持ちするし。それとピカールと・・・本当は、壁も塗り替えたりしたいけど・・・嫌だよね?」
「え?」
嫌だよね、と聞かれて、確かにと思った。祖父の遺品そのもののあの店を、出来る限りそのまま生かしたかったからだ。
「そうですね。はい。」
「掃除をするのは構わない?」
「はい。・・・高いところまでは、僕届かなくて。」
手伝ってあげよう。将典はそう言うと、高いところのすす払いと、モップも手にした。頭の中で、費用を計算する。テーブルは今日買っても置く場所がないから下見だけにするとして、掃除に必要なものは今日買うだろう。財布の中身を思案しながら、そわそわしていると、将典がお金足りる?と聞いてきた。
「はい。たぶん・・・。」
心もとない返事をしてしまう。
「そうか・・・店の外にもいくつかプランターで花をと思ったんだけど、難しいかな?」
余分には持ってきているが、買ったことのないジャンルの買い物で、いくらくらいするのか見当もつかない。
「とりあえず、じゃぁ外の園芸コーナーも見に行こうか。」
将典はそう言って、手にしたモップやらをサービスカウンターに預けた。何とも買い物慣れしている。
「こういう仕事、いつもしているんですか?」
「いや。いつもじゃないよ。昔、仕事で入った飲食店が、あまりにも殺風景で、ガーデニングのまねごとをしたことがあるんだ。」
そうか。社長ともなるともう、自ら現場に入ったりしないのだろう。
社員のあげたプランに目を通したり、完成した現場を見に行ったりがせいぜいなのでは?そうだとしたらもしかして。
「将典さん、もしかして、楽しんでますか?」
「楽しいよ。今日は一日デートだからね!」
しかし、返ってきた返事は、予想とは異なるものだった。
デート、と言われて、また胸がドキドキしてくる。そうか、将典にとってこればデートなのか。自分に下心のある将典の親切に、おもいっきり甘えてしまっていた自分を恥じた。
もっと、ちゃんと・・・真剣に向き合わなきゃいけないのかな・・・。
将典の思惑は、体を含めた下心だ。ずるずると甘えていたら、流されてどこまでも行ってしまいそうな自分がいた。それは本意ではない。けれど、甘やかされているのは、確かに心地よかった。本当に、自分に「甘え」が必要だったのかと思うほど、それはしっくりと日常に潤いを与えていた。
「未知?」
何度目か呼ばれて、ハッとする。
「未知、どうかした?」
「あ・・・いえ?なんですか?」
将典を思って、考え事をしていた。
「これ、ガザニアって言うんだけど、色も豊富だし、丈夫だから手入れしやすいかと思って。」
一つ三百八十円のそれを、いくつ買うつもりなのか、プランターにと言っていたから、一つではないだろう。
「外の花は、新装開店のお祝いに、俺が買ってあげるよ。」
「えっ?そんな・・・悪いです。」
多分、買えない額じゃない。けれど、将典は譲らなかった。
「俺のプランだし、受け入れてくれただけでもうれしいの。」
やらせて?と微笑まれた。
また、甘やかされている。
「それよりほら、早く帰ってこれを植えてしまわないと。スコップやじょうろはあるの?」
「古いもので良ければ、祖母が昔使っていたものが。」
母屋の方には、小さいながら庭があり、祖母が生きていたころは、花や野菜を育てていたこともあった。外の物置に、多分しまってあると思う。今まで、自分には関係ない場所だと思って、開けて見もしていなかったが。
「朝か、夜の仕事に、水やりが増えちゃうけど、できるよね?」
「はい。それはもちろん。」
ゆとりのある店だ。水やりが増えたところで、何の問題もないように思えた。
「あぁ・・・それから、プランターにしたのはね、台風やなんかの時は、お店の中に入れてあげてほしいからなんだ。それもできそう?」
「大丈夫です。でも、できれば小ぶりなプランターの方が助かります。」
力仕事には向いていない体だ。男ながら情けないが、扱えない花をもらって、傷ませてしまうのは心苦しかった。
「そうだね。土を入れて、未知が扱える重さでないとね。」
将典は分かってくれたようだった。模様のついたレンガ調の、プラスチックのプランター三つと、土とガザニアとマリーゴールドを買い、外の買い物は終わった。あとは、中に預けておいたモップやらを買って・・・。
「将典さん、モップはともかく、すす払い車に乗りますか?」
「大丈夫。ちょっと無理矢理だけど乗せちゃおう。」
長さのある車だ。無理をすればなんとか、かな?と思いつつ、再度店の中に入った。
翡翠堂に帰ると、将典はまずは、と庭の方に買った花とプランターやらを運んだ。
「作業はここでしようか。」
庭があって助かった、と額の汗を手の甲で拭う。そのしぐさが、何とも男っぽい。今日は、ネイビーのポロシャツに、ひざ丈のベージュのパンツ姿だった。
「あ、虫よけとってきます。まだ蚊がいると思うから。」
美味しそうな将典に、蚊が悪さをするかもしれない。母屋に入って、蚊取り線香と、虫よけのスプレーを取ってくる。スプレーをかけてあげると、将典はそれを手のひらで腕と足に塗り伸ばした。
「ありがとう。」
未知にも、と言うので、スプレーを手渡す。後ろの、手の届きにくい場所にかけてもらう。そして作業は始まった。
プランターに、土を半分ほど入れ、苗を入れていく。入れ終わったら、上からまた土を足し、たっぷりと水をやる。それを三つ分。店内用に買った、ラベンダーの寄せ植えにも水をやって、ひとまず落ち着くまで、庭に置いておくことになった。そこで、店の中から、鳩が一回鳴いた。
「あれ?もう一時?」
「十二時半。」
将典は、外していた腕時計をポケットから出して、時間を確認した。
「お昼、行こうか。少し疲れたね。」
「あの、簡単なもので良ければ作りますけど。」
昨夜のうちに、サンドイッチ用の卵は仕込んであった。あとは、ハム、チーズ、レタスを挟むだけ。いつも食べているものだが・・・。
「未知が作ってくれるの?」
「サンドイッチですけど。」
「うん。じゃぁ作ってもらおうかな。手料理楽しみだ。」
将典は嬉し気に、庭の隅にある水道で手を洗うと、パタパタと手を振って水気を切った。それに、ハンカチを差し出す。
「あぁ。ありがとう。」
「いえ・・・。」
自分も手を洗い、将典が使ったハンカチを使って、手を拭う。
どうぞ、と勝手口を案内した。
店は今日、シャッターが閉まっている。そして、将典が書いた、「臨時休業」の紙が貼られていた。
サンドイッチは、将典に満足してもらえたようだった。なんとなく家にあげてしまったが、ダイニングテーブルで昼食をとり、今はソファーでくつろいでもらっている。お腹が落ち着いたら、店の掃除をしようということになっていた。
「未知のサンドイッチ、美味しかった。たまごは自分で味付けしたやつなの?」
こく、と頷いて見せる。
「ブラックペッパーが効いてて美味しかった。料理好きなの?」
「あんまり。レパートリーが少ないから、いつも同じもの食べてます。」
「例えば?」
「卵といて混ぜるだけのかに玉とか・・・。」
「未知は、卵が好きなんだね。」
「安いから、よく買います。」
特売の日の卵なんかは、一個十円しないとか、鶏が可哀想だと思う。けれど、背に腹は代えられない。
「ほんとに、節約頑張ってるんだね。今日の買い物のお金はどうしたの?」
「学生時代にためた貯金から。」
将典は頷くと、悪かったかな、と呟いた。
「そんなことないです。お店のこと、良くしようって思ってくれる人がいるなんて、味方ができたみたいで嬉しいし。」
「それはもちろん、俺は未知の味方だけど・・・。資金繰りのこと考えてなかった。ごめん。」
謝る将典に、いいんです、と両手を振って見せる。
投資は多少必要だと思う。あと数か月、店を維持するためには。将典には告げていない。一周忌が来たら、閉めようと思っていること。ほかに接点はない。それが淋しかった。本当は、心細かったのかもしれない。一人で毎日店を開けていることが。
「・・・さてじゃぁ、掃除、始めようか。」
頷いて、汗をかいた麦茶のグラスを下げた。
掃除を終えると、将典は帰っていった。車を預けた近所のコインパーキングまでを見送った。
七時。鳩が鳴く。明日は月曜日。普通に店を開けなければならない。店内は、壁を磨いたこともあり、全体的に明るい印象になっていた。客は気が付くだろうか。少し楽しみだった。あとは、書架を一つ片づけて、テーブルを置きたい。プランターは、明日の朝、店の前に並べることになっていた。
一息ついて、夕飯の買い物に行こう・・・。
冷蔵庫から麦茶のボトルを取り出す。将典が、美味しそうにサンドイッチを食べていたのを思い出す。
普段、もっといいものを食べてるんだろうに・・・。
でも、一緒に食べたら、いつものサンドイッチが、いつもよりもおいしかったような気がする。気のせいだとはわかっていても、誰かと食事をするのは楽しかった。
麦茶を、ゴクゴクと飲み干して、買い物に出る支度を始める。
財布と携帯を入れたリュックを背負い、自転車に乗る。掃除で疲れて、全身が気だるい。
一番近いところで済ませよう。
そう思って、自転車をこぎだした。
秋の夕暮れを過ぎた時間。風邪は冷たく、少し肌寒い。空は晴れて、月がよく見えた。
・・・今日は何をしているのかな・・・。
翡翠堂は、午前中の来客はほとんどない。午後になると、学校の終わった学生がちらほら。やはり、電車までの時間つぶしにやってくる。その時間が済むと、祖父の代からの常連さんが、犬の散歩がてらに寄っていく。その後は、将典が来るまで、誰も来ない。それが平日の流れ。土日の客はもっと少なかった。それでも、店は開ける。もしかしたら、誰か来るかもしれないから。
そしてまた、来客のないまま、土曜は終わった。鳩が鳴くのを見届けて、シャッターを閉めに表に出る。勝手口から母屋に入って、線香をあげ、買い物の支度をする。すると、電話が鳴った。珍しい。リビングの端にある電話を取ると、相手はなんと将典だった。
『こんばんは。携帯にかけようか悩んだんだけど、名刺貰ってたからとりあえずこっちにと思って。』
「あ、はい。・・・こんばんは。」
何の用だろう?
『お店はもう閉めたの?』
「はい。」
時計は七時二十分を指していた。
『今日、俺が行かなくて淋しかった?』
え?
「えっと・・・。」
それは、少しは思い出したけれど・・・。
言い淀むと、将典は深く追求せずに会話を続けた。
『明日もお店あける?定休日ってないのかな。』
「ないんです。明日も十時に開けますよ。」
なんだろう。電話口の、少し弾むような声の将典とは反対に、どんどん声が小さくなってゆく。
『ちょっと提案したいことがあって。』
「提案・・・ですか?それは、コンサルタント・・・的な?」
『仕事じゃないけど、まぁそうかな。昼間、行ってもいい?』
え?でも、明日は日曜日。仕事は休みのはずじゃ。
「かまいませんけど・・・。」
『よし。じゃぁ、決まり!楽しみにしてるね。』
それじゃぁ、と通話は切れた。
仕事じゃないけど、ここに来る?
それがなんだか、とても特別なことのように思えて、胸が高鳴った。提案も気になったが、将典が午後の七時以外の時間に訪れるであろうことが、もう、なんだかドキドキした。
ドキドキしながら店を開ける。日曜の朝十時。今日は雨。昼間、と将典は言っていたが、まさか午前中からは来ないだろうと踏んでいた。ところがお昼少し前、将典は休日らしいラフな格好で現れた。あの傘をさして。
「やぁ。こんにちは。未知、お昼はまだ?」
その格好にも慣れなくて、ドキドキしてしまう。エアコンは効いているのに、少し暑くなったかと思うほどだ。
「まだです。」
「いつも、ここで済ませるの?」
将典は、軽いテンポで話を進める。
「はい。一応店番なので。」
一応、と自分で言っていて少し淋しい。
「うーん。少しの間閉めて、お昼食べに行ったりとか、できない?」
「できなくはないですけど・・・。今までしたことがないです。お昼にそんなにお金かけられないし。」
「普段、何食べてるの?」
将典は質問攻めだ。
「・・・おにぎりか、サンドイッチを作ってます。」
「・・・好きなの?」
おにぎりと、サンドイッチをだろうか?それとも作るのが好きなのかと聞いているのだろうか?どちらにしても答えは一つだ。
「節約です。」
将典は、なるほど、と頷いて、やはり外に食べに行くことにしたらしかった。
「この間の洋食屋さんでいいかな?日曜日は特別メニューがあるんだよ。」
「特別メニュー?」
それは着いてからのお楽しみ、と将典は笑う。そして、紙とペンを用意するように言ってきた。何に使うのかと見ていると、将典はカウンターで、紙にサラサラと、『休憩中です。二時に戻ります』と書いた。そして、さらにガムテープを用意するように言う。用意すると、将典はそそくさと外に出て、ガラス戸を閉め、シャッターを下ろしてしまった。こんなこと、自分が店を継いでから一度だってない。慌てて、勝手口から出て表に回ると、そこにはすでに、先ほどの紙がガムテープでしっかりと貼られた後だった。
「行こう。裏、閉めてきた?」
言われて、素直に勝手口に鍵をかけに行く。ドキドキしていた。
「あ、あの・・・営業中に店閉めるなんて、初めてなんですけどっ!」
精一杯の大声で抗議する。お客さんに申し訳ない。不誠実な仕事はしたくない。
「何言ってるの。日曜の昼くらい、少し抜けても誰も咎めないよ。それにこれはミーティング兼ねてだから。」
「え?」
「ほら、時間ないから歩きながら・・・。昨夜言ったでしょう?提案があるって。」
そういえば。将典はそのために、日曜にこうして出かけてきてくれたのだ。でもそれは、午後でもよかったようにも思う。
いけないことをしている罪悪感と、将典の言う提案のどちらにドキドキしているのかわからなかった。
将典は、言ったように金曜に行った洋食屋を目指しているようだった。駅のロータリーを横目に二人傘をさして歩いていく。自分の傘は、ミントグリーン。
「あの・・・僕本当に、お金なくて・・・。」
こそっと告げると、ご馳走してあげるよ、と返ってきた。
「餌付け、っていうのかな。まずは胃袋掴んじゃおうと思って。気に入ってくれるといいんだけど。」
俺も、日曜は初めてだから、期待してる。そう言いながら、洋食屋のドアを開けた。中からは、デミグラスソースではなく、カレーの香りがしていた。
「日曜はカレーの日。」
なるほど、と誘われるまま店内に入る。窓際の席に案内され、落ち着かずにそわそわしていると、メニューを見終わった将典が、同じものでいい?と聞いてきた。
「何を食べるんですか?」
「カツカレーの、カツ二枚乗せ。スペシャルメニューなんだよ。いつか食べたいと思ってて。」
と、ニコニコしている。
「か、カツは一枚でいいです。」
最近、小食になった、というか節約しすぎて胃が小さくなったというか、食べきれるとは思えなかった。
「遠慮してない?・・・甘えたらいいのに。」
将典は少し不満そうに、お冷を一口した。
「甘えとかじゃなくて。多分、入らないです。」
「そんなに緊張してるの?そうかーまだ慣れないかー。」
それもあるけど、それとは違う。
「あの。よく、人懐こいとか、距離が近いとか、言われません?」
「言われません。」
将典は、きっぱりと否定した。
「普段は、壁を作ってるから。今は、鎧も脱いで、なりふり構わず君を落としにかかってるの。」
でも、ナンパの成功率高そう。そう思い、将典のナンパの相手は男なのだと思い出した。
「・・・僕って、その・・・あなた方から見ると、魅力的、なんですか?」
ゲイの人たち、とは聞けずに言葉を濁した。
「好みはあると思うけど、君みたいに線の細い子はあまりそういう対象にはならないんじゃないかなぁ。俺が単純に、君のこと好きなんだよ。」
ドキ。
「・・・好きって・・・。性的に?」
尋ねたところで、店員が、お決まりでしょうか?とやってきた。慌てて口を塞ぐ。
「カツカレーの二枚乗せと、カツカレーを一つずつ、お願いします。」
将典は、何でもないことのように、普通にオーダーすると、メニューブックを店員に返した。店員が、ありがとうございます、と去っていく。それを見送って、将典は静かに、しかしはっきりと、こう言った。
「多分に、性的に。」
と。
眩暈がした。カレーなんて食べてる場合じゃない。そう思ったが、逃げることもできなかった。
将典の提案はこうだ。少し、本棚を整理して、読書スペースを作ったらどうかと。ウォーターサーバーを置く程度なら、免許も資格もいらないし、もう少しゆっくり本と向き合ってもらえたら、買って行く客も増えるのではないかと。
簡単なテーブルを置いて、店内をもう少し明るいイメージにするために、花でも飾って、と。その程度のことなら、学生時代にバイトでためたお金を切り崩せば、出来ないことはなさそうだった。加えて、それをアピールするビラを、どこかに置かせてもらうか、配るかする。リビングには、古いながらも、パソコンやプリンターはあったから、それも外注せずにできそうだと思った。
毎日、ただぼんやりとカウンターに座っているだけだった自分に、将典は仕事をくれた。それだけで、この暇な毎日から解放される。まずは、書架の整理から始めようと思った。書架を最低一つは空けなくてはならない。大仕事だった。
何とかカレーを食べ終えた帰り道。お客さんに約束した二時までにお店に帰らなくてはならない。少し急ぎ足で、歩いていた。雨はやんでいた。将典とは、駅で別れるものと思っていたが、また店まで来るつもりのようだった。不思議に思いつつ、けれど話し相手が欲しかった。
店につくと、将典はシャッターに貼ったガムテープを丁寧にはがし、シャッターを開けた。自分は、勝手口から中に入って、ガラス戸の鍵を開ける。すると、将典が貼ってあった紙を丸めながら入ってきた。
「翡翠堂、って言うんだね。看板、気が付かなかった。」
綺麗な名前だね、と、将典が微笑む。
「祖母がつけたんです。」
その答えに、さもありなんと頷いて、掃除したら綺麗になるんじゃない?と提案してくる。言われて見れば、確かにいつから掃除していないのかわからないほど、看板は埃まみれだった。しかし、真鍮の打ち出しの看板は、軒下にかけてあり、外すのは容易だが洗っただけではきっと綺麗にならない。専用の研磨剤で磨かなくてはならないのだ。昔、祖父がやっていたのを一度見たことがあった。
研磨剤は確か、納戸にしまってあったと思う。まだ、使えれば、だが。
「それ、時間もかかるし、だれかお店番してくれる人がいないと。洗って磨くのは時間がかかるから。」
「俺がしようか?」
「えっ?店番を?」
そんなことさせられない、そう思っていると、将典はそうじゃなくてと否定した。
「磨く方。これ、真鍮でしょう?ちょっと大変なのは俺も知ってる。ピカールある?」
と、研磨剤の商品名を言ってきた。
「ありますけど・・・古いですよ?」
「そうか。じゃぁ、また来週用意して来よう。いっそ、日曜か土曜を休みにして、一緒にテーブル見に行ったりしないかい?花を買うだけでも車があった方がいいだろう?」
またしても提案だ。
休みにする?一日?
考えたこともなかった。でも、平日より、客の少ない土日の方が、休みやすいと言えば休みやすいかもしれない。これは投資。改善のための。そう思うと、なんだか前向きになれた。
七時に将典が訪ねてくる以外、楽しみのない一週間を過ごし、約束の日曜日。普段なら店を開ける十時に、駅のロータリーの、コンビニの前で待ち合わせた。車で来るのだと言う。
向かうと、将典は十分前にはすでに来ていた。車は、ダークなカラーのスバル車だった。
意外。社長はみんな、外車に乗っていると思ってた。
きょとんと車を見ていると、将典が笑った。
「レボーグっていうの。よく走るよ。」
胸の内を読まれたようで、赤面する。
「国産車、というか、スバル車が好きで、ずっと乗り継いでる。」
そう言うと、どうぞ、と助手席のドアを開けられた。車に乗るのは、引っ越しの時に、父の車に乗って以来だった。
「お邪魔します。」
乗り込み、座りのいいシートの感触を確かめて、シートベルトを締める。
「じゃぁ行こうか。近くにホームセンターあったよね?」
仕事で来る以外は来ない町だったからなぁ、とナビを頼りに車を発進させる。目的地には、さほどかからず着いた。
「テーブルと・・・鉢植えの花がいいかな?長持ちするし。それとピカールと・・・本当は、壁も塗り替えたりしたいけど・・・嫌だよね?」
「え?」
嫌だよね、と聞かれて、確かにと思った。祖父の遺品そのもののあの店を、出来る限りそのまま生かしたかったからだ。
「そうですね。はい。」
「掃除をするのは構わない?」
「はい。・・・高いところまでは、僕届かなくて。」
手伝ってあげよう。将典はそう言うと、高いところのすす払いと、モップも手にした。頭の中で、費用を計算する。テーブルは今日買っても置く場所がないから下見だけにするとして、掃除に必要なものは今日買うだろう。財布の中身を思案しながら、そわそわしていると、将典がお金足りる?と聞いてきた。
「はい。たぶん・・・。」
心もとない返事をしてしまう。
「そうか・・・店の外にもいくつかプランターで花をと思ったんだけど、難しいかな?」
余分には持ってきているが、買ったことのないジャンルの買い物で、いくらくらいするのか見当もつかない。
「とりあえず、じゃぁ外の園芸コーナーも見に行こうか。」
将典はそう言って、手にしたモップやらをサービスカウンターに預けた。何とも買い物慣れしている。
「こういう仕事、いつもしているんですか?」
「いや。いつもじゃないよ。昔、仕事で入った飲食店が、あまりにも殺風景で、ガーデニングのまねごとをしたことがあるんだ。」
そうか。社長ともなるともう、自ら現場に入ったりしないのだろう。
社員のあげたプランに目を通したり、完成した現場を見に行ったりがせいぜいなのでは?そうだとしたらもしかして。
「将典さん、もしかして、楽しんでますか?」
「楽しいよ。今日は一日デートだからね!」
しかし、返ってきた返事は、予想とは異なるものだった。
デート、と言われて、また胸がドキドキしてくる。そうか、将典にとってこればデートなのか。自分に下心のある将典の親切に、おもいっきり甘えてしまっていた自分を恥じた。
もっと、ちゃんと・・・真剣に向き合わなきゃいけないのかな・・・。
将典の思惑は、体を含めた下心だ。ずるずると甘えていたら、流されてどこまでも行ってしまいそうな自分がいた。それは本意ではない。けれど、甘やかされているのは、確かに心地よかった。本当に、自分に「甘え」が必要だったのかと思うほど、それはしっくりと日常に潤いを与えていた。
「未知?」
何度目か呼ばれて、ハッとする。
「未知、どうかした?」
「あ・・・いえ?なんですか?」
将典を思って、考え事をしていた。
「これ、ガザニアって言うんだけど、色も豊富だし、丈夫だから手入れしやすいかと思って。」
一つ三百八十円のそれを、いくつ買うつもりなのか、プランターにと言っていたから、一つではないだろう。
「外の花は、新装開店のお祝いに、俺が買ってあげるよ。」
「えっ?そんな・・・悪いです。」
多分、買えない額じゃない。けれど、将典は譲らなかった。
「俺のプランだし、受け入れてくれただけでもうれしいの。」
やらせて?と微笑まれた。
また、甘やかされている。
「それよりほら、早く帰ってこれを植えてしまわないと。スコップやじょうろはあるの?」
「古いもので良ければ、祖母が昔使っていたものが。」
母屋の方には、小さいながら庭があり、祖母が生きていたころは、花や野菜を育てていたこともあった。外の物置に、多分しまってあると思う。今まで、自分には関係ない場所だと思って、開けて見もしていなかったが。
「朝か、夜の仕事に、水やりが増えちゃうけど、できるよね?」
「はい。それはもちろん。」
ゆとりのある店だ。水やりが増えたところで、何の問題もないように思えた。
「あぁ・・・それから、プランターにしたのはね、台風やなんかの時は、お店の中に入れてあげてほしいからなんだ。それもできそう?」
「大丈夫です。でも、できれば小ぶりなプランターの方が助かります。」
力仕事には向いていない体だ。男ながら情けないが、扱えない花をもらって、傷ませてしまうのは心苦しかった。
「そうだね。土を入れて、未知が扱える重さでないとね。」
将典は分かってくれたようだった。模様のついたレンガ調の、プラスチックのプランター三つと、土とガザニアとマリーゴールドを買い、外の買い物は終わった。あとは、中に預けておいたモップやらを買って・・・。
「将典さん、モップはともかく、すす払い車に乗りますか?」
「大丈夫。ちょっと無理矢理だけど乗せちゃおう。」
長さのある車だ。無理をすればなんとか、かな?と思いつつ、再度店の中に入った。
翡翠堂に帰ると、将典はまずは、と庭の方に買った花とプランターやらを運んだ。
「作業はここでしようか。」
庭があって助かった、と額の汗を手の甲で拭う。そのしぐさが、何とも男っぽい。今日は、ネイビーのポロシャツに、ひざ丈のベージュのパンツ姿だった。
「あ、虫よけとってきます。まだ蚊がいると思うから。」
美味しそうな将典に、蚊が悪さをするかもしれない。母屋に入って、蚊取り線香と、虫よけのスプレーを取ってくる。スプレーをかけてあげると、将典はそれを手のひらで腕と足に塗り伸ばした。
「ありがとう。」
未知にも、と言うので、スプレーを手渡す。後ろの、手の届きにくい場所にかけてもらう。そして作業は始まった。
プランターに、土を半分ほど入れ、苗を入れていく。入れ終わったら、上からまた土を足し、たっぷりと水をやる。それを三つ分。店内用に買った、ラベンダーの寄せ植えにも水をやって、ひとまず落ち着くまで、庭に置いておくことになった。そこで、店の中から、鳩が一回鳴いた。
「あれ?もう一時?」
「十二時半。」
将典は、外していた腕時計をポケットから出して、時間を確認した。
「お昼、行こうか。少し疲れたね。」
「あの、簡単なもので良ければ作りますけど。」
昨夜のうちに、サンドイッチ用の卵は仕込んであった。あとは、ハム、チーズ、レタスを挟むだけ。いつも食べているものだが・・・。
「未知が作ってくれるの?」
「サンドイッチですけど。」
「うん。じゃぁ作ってもらおうかな。手料理楽しみだ。」
将典は嬉し気に、庭の隅にある水道で手を洗うと、パタパタと手を振って水気を切った。それに、ハンカチを差し出す。
「あぁ。ありがとう。」
「いえ・・・。」
自分も手を洗い、将典が使ったハンカチを使って、手を拭う。
どうぞ、と勝手口を案内した。
店は今日、シャッターが閉まっている。そして、将典が書いた、「臨時休業」の紙が貼られていた。
サンドイッチは、将典に満足してもらえたようだった。なんとなく家にあげてしまったが、ダイニングテーブルで昼食をとり、今はソファーでくつろいでもらっている。お腹が落ち着いたら、店の掃除をしようということになっていた。
「未知のサンドイッチ、美味しかった。たまごは自分で味付けしたやつなの?」
こく、と頷いて見せる。
「ブラックペッパーが効いてて美味しかった。料理好きなの?」
「あんまり。レパートリーが少ないから、いつも同じもの食べてます。」
「例えば?」
「卵といて混ぜるだけのかに玉とか・・・。」
「未知は、卵が好きなんだね。」
「安いから、よく買います。」
特売の日の卵なんかは、一個十円しないとか、鶏が可哀想だと思う。けれど、背に腹は代えられない。
「ほんとに、節約頑張ってるんだね。今日の買い物のお金はどうしたの?」
「学生時代にためた貯金から。」
将典は頷くと、悪かったかな、と呟いた。
「そんなことないです。お店のこと、良くしようって思ってくれる人がいるなんて、味方ができたみたいで嬉しいし。」
「それはもちろん、俺は未知の味方だけど・・・。資金繰りのこと考えてなかった。ごめん。」
謝る将典に、いいんです、と両手を振って見せる。
投資は多少必要だと思う。あと数か月、店を維持するためには。将典には告げていない。一周忌が来たら、閉めようと思っていること。ほかに接点はない。それが淋しかった。本当は、心細かったのかもしれない。一人で毎日店を開けていることが。
「・・・さてじゃぁ、掃除、始めようか。」
頷いて、汗をかいた麦茶のグラスを下げた。
掃除を終えると、将典は帰っていった。車を預けた近所のコインパーキングまでを見送った。
七時。鳩が鳴く。明日は月曜日。普通に店を開けなければならない。店内は、壁を磨いたこともあり、全体的に明るい印象になっていた。客は気が付くだろうか。少し楽しみだった。あとは、書架を一つ片づけて、テーブルを置きたい。プランターは、明日の朝、店の前に並べることになっていた。
一息ついて、夕飯の買い物に行こう・・・。
冷蔵庫から麦茶のボトルを取り出す。将典が、美味しそうにサンドイッチを食べていたのを思い出す。
普段、もっといいものを食べてるんだろうに・・・。
でも、一緒に食べたら、いつものサンドイッチが、いつもよりもおいしかったような気がする。気のせいだとはわかっていても、誰かと食事をするのは楽しかった。
麦茶を、ゴクゴクと飲み干して、買い物に出る支度を始める。
財布と携帯を入れたリュックを背負い、自転車に乗る。掃除で疲れて、全身が気だるい。
一番近いところで済ませよう。
そう思って、自転車をこぎだした。
秋の夕暮れを過ぎた時間。風邪は冷たく、少し肌寒い。空は晴れて、月がよく見えた。
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