続 野良猫と藪医者

結城 鈴

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 「早乙女君、今日から脱がなくていいからね。」
諏訪は、コーヒーを入れながら、思い出したように言った。
「いいんですか?」
「うん。今日から下書きに入るから、君はそこに座っててくれたらそれでいいから。」
そう言って、大き目のキャンバスをイーゼルに掛けた。
「いいね。彼氏さんと仲直りできた?すがすがしい顔してる。いい顔だ。」
君が幸せそうだと、私も幸せな気分だよ、と諏訪はコーヒーを飲みながら笑う。
「仲直りっていうか。リセットっていうか・・・。捻じれを正したというか・・・。」
印象としてはそんな感じだった。ケンカだったのかどうかも、今思うとよくわからない。
「君らしい。君は自分に正直だね。」
「・・・そう?ですか?」
「あとで、宿題のデッサン見直してみるといいよ。昨日のと今日のでは全然違う仕上がりになるはず。見るのが楽しみだな。」
諏訪は、クスクス笑いながら定位置についた。深呼吸して、鉛筆を手に取る。脱がなくていいというから、今日はTシャツ姿で、椅子に腰かけていた。
「少し斜めで、こっちに視線くれる?」
要求に、体を動かしてポーズをとる。
今日はこれから、お昼を食べて、友成と宿題をして、その後歯医者に行って・・・夕ご飯は何にしよう。キャンバスの角を見ながら、そんなことに思いをはせる。まだ、さっき朝ごはんを作って送り出したばかりなのに。
そしてまた、二時間はすぐに過ぎた。
お昼ご飯を食べながら、お金の話になった。
「セミヌードだったけど、嫌な思いさせちゃったりしたから、一時間五千円でどう?一日一万円だね。」
「?あの・・・相場がわからないんですけど、多くないですか?」
モデルのバイトが、日給いくらなのか、まだ耳にしたことがなかった。多いような気がする。
「三日分一万円で、後の三日は服着たままでいいから五千円でどう?トータルで四万五千円。痴漢に遭わせちゃったお詫びに、プラス迷惑料五千円で、丁度五万円かな?」
「えっ?だから多くないですか?それ・・・。僕、ほんとに大したことしてないですし、楽しかったし。」
痴漢は、下着のせいもあるかもしれないが、先生がしたわけじゃない。悪いのは、触ったやつで。
「君は、遠慮深いね。黙って受け取ればいいのに。」
「僕は、描いてもらうの楽しみで・・・逆にお金払いたいくらいです。」
それはずいぶん、買われたもんだと諏訪が笑う。
「相場だよ。私も昔やったことあるけど、昔からヌードはちょっといい小遣い稼ぎだった。」
そういうものだろうか。先生が言うんだからそうなんだろうけれど。
「半分でもいいですよ。それに、迷惑料なんていりません。あの時は、先生助けてくれたじゃないですか。」
改めて言うと、諏訪はうーんと唸った。
「じゃぁ、三万円くらいでいいの?安すぎない?」
「僕は・・・働いたことないし、よくわからないけど・・・。
この時間に値段がついちゃうのに違和感があるかなって。
嫌な思い、先生にはさせられてないし、描いてもらうの嬉しかったし・・・。」
嬉しかったというと、諏訪は少し驚いた顔をした。
「・・・ふつうはみんな嫌がるんだけどね。いろいろ見透かされそうって。特に私には。」
「僕は・・・自分のことがあんまり好きじゃなくて・・・。それで一臣さんに出会ったんですけど・・・。」
気が付くと、諏訪に今までのいきさつを話していた。話し終えるまで、黙って聞いていた諏訪は、ゆっくりと食後のコーヒーを飲み干した。
「だから、先生に中性的って言われた時、仕上がった絵が、男よりになるのか、女の子みたいになるのか、興味があったんです。」
「君は、どっちだったらいいと思ってるの?」
「まだ・・・わかりません。あるがままを受け入れたいから、だから、先生には、今話したことに左右されないで、思った通りに描いてほしいんです。」
思っていたことを伝える。この数日、どうしてバイトの話を断らなかったのか、課題を受け取ってもらうためだけじゃなかったことを、きちんと話すべきだと考えていた。
「君、そんなこと考えて、あんな顔していたんだね。わかった。君に見せるのは、学校祭の前日にしよう。もし君がその時、この絵を展示してほしくないと思ったら、今年の展示は無しにしよう。」
「そんな。それじゃぁますますお金はいただけません。」
「君は私に展示させないつもりなの?」
「そうじゃないけど・・・。」
なら、支払いは成功報酬ってことで、学祭の前日まで保留でいいかな?と続けて聞かれ、頷いた。
「君も、夏休み明けたら、学祭の準備だね。あぁ。あとポスターか。捗ってる?」
「友成と、デッサンはもう今日で六枚仕上がる予定なので、なんとか・・・。」
「七月中には片付きそうだね。こんなに根詰めて夏休みに学校に来てる学生あんまりいないよ?」
そういえば、みんな帰省してしまって構内にはあまり人影はない。作業部屋にも、自分と友成以外がいるのは稀だった。
「八月はどう過ごすの?」
「普通に・・・家事したり、描いたり・・・お盆は、お墓参りに連れて行ってくれるって言ってました。」
「彼氏さん?」
「はい。ご両親を亡くされてて、仏壇は山梨らしいんですが、お墓は都内の霊園だって言ってたので。」
「そう。お若いのに苦労してるんだね。」
そうだ。自分は、一臣が一番苦しんでいるときに出会ったのだ。自分の前に、毎月一人、十六人喰い散らかした。いろんなものをいっぺんに失ったゆえの苦しみを、そうやって紛らわせていたそのさなかに出会ったのだ。
僕は、一臣を救えただろうか・・・。
「早乙女君?」
俯いた自分に、諏訪は優しく声をかけた。
「そろそろ桜井君来る頃だよ。」

 今日はもう少し残るという友成に、ごめんねと言って別れると、歯医者の予約に間に合うかギリギリになってしまった。慌てて、電車に乗り、乗り継いで最寄り駅に向かう。電車を降りて、自転車に乗り換え、一臣のかかりつけだという歯医者に向かった。時間の五分前についた。洗面所を借りて歯磨きを済ませると、ちょうど予約の時間になり、受付を済ませた。問診表を書いて待っていると、診察室の扉が開いて、中からマスクをつけた白衣の女性が現れた。この人がうわさのちょっと雑な女医さんだろうか。腕はいいっていいって言っていたが・・・。
「早乙女さんどうぞ。手前の席でお願いしますね。」
ドアをくぐると、診察台は三つあった。手前の席に座る。背後に衛生士さんらしいエプロンの女性が二人いた。ほかに患者はいないようだった。
「佐伯さんから聞いてます。今日はクリーニングと検診?でいいのかな?レントゲン一枚とりますね。気になることはありますか?」
聞かれて迷ったが、頭痛もちと歯並びが関係あるか聞いてみた。
「レントゲンを見てからお話しますが、特に歯ぎしりや噛みしめの癖がないなら、あまり関係ないかもしれませんね。」
そういう癖のある方の頭痛は、マウスピースで改善したりしますよ、と続けて、レントゲン室に案内された。歯のレントゲンを撮るのは初めてで、エプロンのようなものをかけられ、立ったままあごを固定されての撮影だった。撮影自体は数秒で済んだ。レントゲン室から出ると、先生はもうモニターで撮影したばかりの画像を見ていた。
「珍しいですね。男の子なのに親不知がない。生えたのを抜いたとかじゃないですもんね。」
「はい。」
親不知が、ない??そんな人もいるんだろうか。
再び、診察台に乗り、エプロンをかけられる。どうも、この台が苦手だなぁと思いつつ待っていると、先に歯のお掃除始めますねと、衛生士らしき女性がやってきた。言われるがまま口を開ける。
「少しですけど、歯石があるところがあるので、とっていきますね。機械がお口に入りますので。」
はじめますね、と目元にタオルがかけられる。見えないと若干怖い。
そうして、十五分ほどで上下の歯石取りと、歯磨きをしてクリーニングは終わったようだった。歯がつるつるになっていて、気持ちよかった。特に痛みはなかった。その後、女医さんがやってきて、口の中を見ますね、とまた台を倒された。
「歯並びは綺麗な方ですし、かみ合わせも特に問題なさそうです。歯ぎしりですり減っているような所見もないですし、歯科的には頭痛の原因はないと思いますよ。」
言われてホッとする。
「定期的にクリーニングはお勧めします。」
最期にそう言われて、今日は終わりですよとエプロンを外された。受付で会計を済ませて、外に出る。急がないと一臣が帰って来てしまう。夕ご飯、どうしよう。冷凍のから揚げでもいいかな。サラダと、豆腐とわかめのお味噌汁付けて・・・もう一品欲しいところだけど。とりあえずそんな感じで。
自転車を走らす。家まではそう遠くない距離だった。

 「おかえりー。
一臣さん、歯医者さんが、頭痛の原因歯じゃないって言ってたよ。」
帰ってきた一臣に、報告する。
「ただいま。
えらいね。ちゃんと行けたんだ。」
「行くよ。子供じゃないんだし。」
まだまだ子供でしょ、と頭をポンポンされた。
「夕ご飯、冷凍のから揚げでいい?買い物行けなかった。」
「うん。いつもありがとう。」
一臣は、欲しい言葉をくれる。嬉しくなって、夕食の支度にとりかかった。
自分は、一臣の欲しい言葉、掛けてあげられているのかな。
一臣は、何か言ってほしいことあるのかな。
好き、はこの間ちゃんと言ったけど・・・そういうのじゃなくて。
「一臣さん・・・満足してる?」
「え?今日のご飯?」
「・・・それはちょっと物足りないかと思ってるけど。そうじゃなくて。なんていうか・・・僕、満足させてあげられてるのかなって。」
どうしてそんなこと聞くの?と一臣は不思議そうな顔をした。
「僕は・・・一臣さんに幸せにしてもらってるけど、僕はどうなのかなって。一臣さんが欲しいタイミングで、欲しい言葉とか、ちゃんとあげられてるのかな?とか・・・なんとなく。」
うまく言葉にできないが、足りない気がするのだ。
「えっちの時は、割りと満足してる。」
一臣がまじめな顔で言うので、思わず固まってしまった。
「というか、満足してるよ?すばるのご飯美味しいし、ちゃんと肉出してくれるし。」
確かにから揚げも、肉には違いないけれど。
「・・・なんて。心配することないよ。俺も、すばるに幸せにしてもらってるよ。お帰りとか、行ってらっしゃいとか、一人の時はなかった言葉が聞けるし。いてくれるだけで十分だよ。」
そう言うと、一臣は食事を再開した。もぐもぐから揚げを食べている。本当に、現状に不満はないようだ。
「それならいいんだけど・・・。」
「あ、すばる。歯医者さん問題なかったのなら、今度鍼とかどう?俺も、学生時代酷い肩こりになって、通ったことあって。」
「西洋医学勉強しながら、東洋医学のお世話になったの?」
一臣は節操がないな。
「侮れないよ?久しぶりだけど、まだやってるかな。電話してみようか?」
「怖いからいいです。」
「まぁそう言わずに。」
一臣は真剣な面持ちだ。どうしたのだろう?眼科の件から数えても、眼鏡屋に歯医者にと頭痛に関係しそうなところを、少し強引に勧めてくる。今度は鍼ときた。
「一臣さん?頭痛は辛いけど、薬もあるし、うまく折り合いつけてるつもりだよ?この間から、どうしたの?」
不審に思って聞いてみた。すると、一臣は困ったような顔をした。
「もうすぐ、君を預かって一年たとうとしてるでしょう?メンタルはまぁまぁ落ち着いたと言えるけど、それも俺とのセックスありきな気がするし。君を、ちゃんと健康にしてあげたくて。できれば、お姉さんの出産の前に。」
「うーん・・・。」
でも、この頭痛とは、何年もの付き合いになる。そう簡単に治りはしないだろうし、体質だと諦めている部分もある。一臣が頑張ってくれるのは嬉しいが、少々負担でもある。
「なんで出産の前?」
「何かあったら、きみまたボロボロになるでしょう?お姉さんのっていうよりは、お母さんのことで。」
ぴく、と動きが止まった。
「それは・・・ある程度予想してるし、もうあんまり考えないようにしてるから。」
「そうかもしれないけど。・・・それに、君のこと、君のお父さんにも預かった責任感じてるっていうか・・・。何かしら成果が出ないと返せないっていうか・・・。」
え?
今度こそ固まった。
返すって言った・・・?今・・・。
「一臣さん?返すって・・・。」
「あ、いや。ずっとじゃないよ。夏休みだもん、帰省するでしょう?」
「あぁ。そういう意味か。・・・もうドキドキしたじゃない!
帰省するけど、泊りじゃないと思うし、ちょっと顔出すだけだよ。うちはお盆七月に終わっちゃってるし。」
言うと、一臣はそれでもさ、と食い下がった。
「俺といることが頭痛の種になってほしくないんだよ。」
「それは・・・。なってないよ。大丈夫だよ。昨日のだって、雨だったからだろうし。一臣さん、ちゃんと助けてくれたじゃん。それじゃダメなの?足りないの?・・・僕は現状で十分だと思ってる。」
「すばる・・・。」
一臣の顔には、苛立ちとも、諦めともとれる表情が浮かんでいた。
「わかるよ。いろいろ動くのはすばるだもんね。・・・君が今のままでいいなら・・・無理強いはしないけど。」
一臣の声に覇気がない。
「うん。このままでいい。」
そう告げると、一臣は視線をテーブルに彷徨わせた。
明らかに、落胆している顔だった。
気持ちは・・・わからないでもない。
これ以上治療しなくていいと言われた医者の気持ちだ。
存在価値を揺るがされる。
ましてや、一臣にとって、大切だと思われる自分がそう言うのだ。落ち込まないわけがない。
どう取り繕おうかと思案していると、一臣はおもむろに食事を再開した。
「一臣さん、ごめんね。」
「・・・いや。ちょっと、焦りすぎてた。すばるのお父さん・・・早乙女先生にいいとこ見せたかったのかもしれない。
駄目だな。俺は・・・。」
「駄目じゃないよ!駄目じゃない。一臣さん、ごめんなさい。」
一臣があまりに肩を落とすので、涙目になって謝っていた。
「藪でごめんね。」
一臣はまた、自分を藪だと卑下した。
その日の夕食は、その後重たい沈黙のまま終わった。

 一臣さんは、藪なんかじゃない。そう思っているのは自分だけで・・・。
自室のベットで、横になりながら一臣のことを考える。
もしかして、姉の妊娠に振り回されているのは、自分だけじゃなくて、一臣もだったりして。安定期に入ったころの検診に行く途中で、交通事故に遭って亡くしたと言っていた。
丁度今頃だ。直接会ったり話したりしない分、記憶が溢れてきているのかも。鍵の件もあったし・・・。
それでも、おなかの赤ちゃんは育っていくだろうし、いずれは大きく膨らんだお腹を見たりするかもしれない。一臣は車通勤だが、電車やバスで遭遇しなくとも、会社にも妊婦はいるだろう。
どこかで、なにかきっかけになるようなことでも・・・あったのかな・・・?
思い当るのは姉のことだが。
コンコン。
不意にノックの音が聞こえた。起き上がってドアを開ける。
「どうしたの?」
風呂を上がってからは、一臣は勉強の時間にあてているはず。
「・・・一緒に寝ない?」
「えっ?・・・いいの?」
昨夜も一緒に寝たばかりだ。
「一臣さん、勉強は?」
「今は特に読みたい論文とかないんだ。
それより・・・俺といて、君が頭痛になる頻度を減らすには、慣れも必要かなって。君が俺に気を使って生活してるの、わかるから・・・。やっぱり毎日一緒に寝て、慣れたらいいかなって・・・。」
慣れ?
「・・・一臣さん。頭痛はなるときはなるよ。一臣さんとの生活に、慣れがないわけでもないし。気は・・・使うよ。
だって、好きな人相手だもん。一臣さんだって今、気を使ってる。僕は・・・昨日も言ったけど、勉強の邪魔はしたくないし、リズムを壊すのも少し怖い。」
リズムが崩れる方が、頭痛は起きやすい。
「・・・俺は君に何もしてあげられないのかな・・・。」
「一臣さん、どうしたの・・・?僕になにか隠してることない?」
おかしい。
「一臣さん?」
一臣は、ややあってから口を開いた。
「・・・本当は、言わないでおこうと思ったんだけど・・・。
充さん、今年いっぱいで、出向終えて、こっちに帰ってくるんだって。・・・それで、生活落ち着いたら、またたまに会えないかって。もちろん断ったよ。今は君だけ大事にしたいから。でも・・・俺が充さんを取った時、何が起きたか思い出して・・・。怖くなって・・・。」
元奥さんの自殺、未遂か。未遂でも、重い後遺症が残って、未だに療養しているという。手紙は、直筆だったのだろうか。
鍵を返してきたのは、本人だったのだろうか。
「俺は・・・充さんに強く迫られたら断れないかもしれない。
そんなこと、たぶんないと思いたいけど。
俺がいないとき、君が一人で苦しんでるんじゃないかって。
これから台風のシーズンだって来るし、何もしなくても、頻度は上がるよね。どうしたらいいか・・・わからなくなって。」
「まって!一臣さん待って!そんなこと言われて、混乱してるのわかるけど・・・僕の頭痛と、充さんの話は全然別の問題だよ!分けて考えないと変になる。
僕の頭痛は、何もなくても起きたりするんだよ。一臣さんのせいじゃない。
充さんのことは・・・一臣さんが友成に嫉妬するみたいな感覚が、僕にだってあるよ。でも、でも・・・会いたいって言われたくらいでこんなに揺らぐんなら、一臣さんにもやっぱり理解者は必要なんだよ。僕以外に、僕たちのこと話せる人が、必要なんだよ。・・・それが多分、充さんなんだ。」
「すばる・・・。」
「一臣さんは、大人だから大丈夫って言ってたけど・・・。
そうじゃないよ。大人だけど、何かあった時に、ちゃんと相談できる人、他にいる?
僕は・・・僕だって本当は嫌だよ。
だから、条件、一つ出させて?」
一臣は驚いた顔をしていた。
「僕を充さんに会わせて。」
こっちに帰ってきた時でいいから、と告げると、一臣は苦しそうな顔で少し高い位置から目を合わせてきた。
「充さん、いいって言うかな?もう会うことはないって、断ってきちゃったのに。」
「連絡先・・・交換しなかったの?」
「・・・した。でも、電話だと、声を聞いたらどうなるかわからないから、メールアドレスだけ・・・。」
一臣があの日、学会のあった日、どうして会いたくないと言ったのか、なんとなくわかるような気がした。会ってしまったら、声を聴いてしまったら、なし崩しにまた同じ過ちを犯すんじゃないか、それが怖くて。だから、まだ会いたくないと言ったんだ。それほどまでに、自分と一臣の絆はまだ、一臣にとってもろいもので。自分はこんなに依存しているのに。
いや、依存だからこそ・・・。
でも、十も歳の差があって、経済的に支えられていて、住む処を与えられていて、どうして依存しないでいられようか。
なるべく対等になれるように、出来る家事は頑張ってきたつもりだったけど。それじゃ全然足りないんだ。こんな関係、長続きしないと一臣が思うのは無理ないことだった。
いくら言葉で伝えても・・・。
昨日の告白は・・・無駄だった?
「一臣さん、昨日言ったこと覚えてる?噴水で。」
一臣は頷いた。
「僕、頑張るから。頑張るから、一臣さんに必要だったら、充さんにも会っていいよ。」
ちゃんと、送り出せるように。
思ってたよりもずっと、一臣は友成と出かけたことも気にしていたのかもしれない。
こんなに揺れている一臣を見るのは初めてだった。
いつも、冷静で、なんでもそつなくこなして・・・。
気を使っていたのはきっと一臣の方。一臣がまだ、この生活に慣れていないんだ。
自身にとっても予想外だったと。
自分は、一臣との日々の約束も踏まえ、案外すぐにこのルーチンに馴染めたのに。一臣は違ったのだ。だから、手紙一つ、鍵一つ、メールアドレス一つにこんなに動揺してる。
「もっと、甘えていいのに・・・一臣さん。
わかるよ。一臣さんが僕と同じ年だったころ、きっともっと大人だったんでしょう?結婚も早くて、ちゃんと仕事もしていて・・・順調で・・・。
でも、ある日崩れた。幸せが脆いものだって、きっと一臣さんは痛いほど知ってるから。だから、不安になるんだよね?」
ドアをはさんで、向こうとこちら。立ったまま話は続く。
「僕は大丈夫。僕の頭痛は、重大な病気の兆候とかじゃないし、事故にも気を付ける。急にいなくなったりなんか、絶対しないから。だから、もっと安心して、甘えていいんだよ。」
言い終わると、一臣は目に涙を浮かべていた。きっと、今までずっと我慢してきた涙だ。泣かせてあげたい。もう、幸せになっていいんだと言ってあげたい。
「一臣さん。愛してる。」
一臣は一つ頷いた。こぼれた涙が、床に落ちた。
いくつもいくつも・・・。
 結局この日も、一臣の部屋で、一臣に抱かれて眠った。

 七月中に、学校の宿題を終わらせ、それと同時に、諏訪とのバイトも終わった。八月に入ると、学校は閉まってしまう。
友成と会う頻度も減っていた。本格的な夏休みの到来だった。
諏訪も、七月中には、塗りまで仕上げた様だったが、結局仕上がった絵は学祭の前日までお預けとなっていた。学祭は10月。マテの期間は長かった。その間に、自分たちの展示の作品を用意せねばならず、この日は休日を使って、モチーフを探しに写真を撮りに来ていた。小さな植物園だ。
一臣は、夏風邪をひいて、家で休んでいる。早めに切り上げて、アイスでも買って帰ろうかと思っていた。
被写体は、睡蓮だ。モネのようには描けないだろうが、この花が好きだった。特に桃色の大輪の花が。写真をベースに、絵に起こそうと考えていた。
「そろそろいいかな・・・。」
メモリにはたくさんの睡蓮の写真。一枚くらいいいのがとれているだろう。
早く帰ってあげたかった。

「ただいまー。」
バニラとチョコミントのアイスを買って、帰宅する。実はミカンのアイスに少し飽きたのだ。一臣はリビングでテレビを見ていた。
「お帰りすばる。」
声が少し掠れている。喉が痛そうだ。
「アイス買ってきたよ。バニラでいいんだよね?」
寝てなくて大丈夫?と声をかけると、医者の不養生と返された。
「不養生だと思うなら、食べたら少し寝た方がいいよ。薬飲んで寝てるのが一番早く良くなる気がする。」
「すばるは、風邪はひかないね。そうだね、移したら悪いし、寝室にこもるよ。」
一臣は少し拗ねた口調だ。
「夕ご飯、何なら食べられそう?おかゆとかがいいんだろうけど。」
白がゆだけでは、栄養が取れない。卵がゆにしようか。
「風邪ひいたときに、おかゆ作ってくれる人がいるなんて、俺は幸せだなぁ。」
すばる、愛してるよ、とニコニコ笑う。そんな余裕があるなら、治りも早いだろう。
「熱は?」
「もう平熱に近いよ。薬が効いてるだけかもしれないけど。」
「じゃぁやっぱり、アイス食べたら少し寝た方がいいね。」
アイスは、喉を冷やしてくれる。カロリーも高いし、風邪の時はプリンかアイスだ。ゼリー飲料も買ってあるが、一臣はあまり好きではないらしい。普段は、牛乳とオレンジジュースとビールくらいしか飲み物は入っていない冷蔵庫に、ポカリも入っていた。
水分とらせないと。
自分の分のチョコミントは、とりあえず冷凍庫にしまい、棚からバニラスプーンを取り出す。アイスと一緒に、一臣に手渡した。
「汗かいてるよね。着替えとってくるから、それ食べてて。」
言い置いて、一臣の部屋へと向かう。クローゼットから、替えのTシャツと、ステテコと下着を取り出し、階下に戻る。
リビングでは、一臣が大人しくアイスを食べていた。
「これ美味しいね。鼻が駄目でも、ちゃんとバニラの香りがする。」
「うん。コンビニのだけど、評判いいよって、友成が言ってたの思い出して。」
「そうなんだ。」
一臣は、最近、友成の名前を出しても、前ほど動揺しなくなっていた。もちろん、心中穏やかではないのかもしれないが、推し量ることはできない。
充のことも、あれから、話題になることはなかった。
ただ、毎晩一臣の部屋で寝ている。セックスは、金曜の夜にしかしないが、慈しむように抱いて眠る一臣に、まだ不安定なのだと思い知らされる。
あの日、涙を見せた一臣。
緊張の糸が切れたのかもしれない。
一緒に寝よう?と誘われて、寝床を共にする日が続いていた。
「今日は一緒に眠れないなぁ。」
思いを見透かしてか、一臣がぽつりと言った。移したら困るもんねと。
「僕まで風邪ひいたら、看病する人いなくなっちゃう。」
「うん。」
一臣は酷く残念そうだった。
「もー。そんな顔しないで。早く治してまた一緒に寝たらいいよ!」
少し強めに言うと、一臣は、はーいと大人しく返事をした。
「榊は藪じゃないんだよなぁ。ちゃんと処方された薬で楽になってる。」
「風邪なんて、出す薬同じじゃないの?」
「そんなことないよ。ほら、咳も止まってる。」
「あ、ほんとだ。昨夜は苦しそうだったもんね。」
榊先生は、専門は肛門科だが、内科も消化器科も診られる医師だった。いつも賑わっているので、相当数の患者を抱えた町医者だ。一臣が尊敬するのも無理はなかった。
「一臣さんは、バイト先の病院には勤めないの?」
「足りないのは夜勤のスタッフだけだし、内科の俺は半ば無理言って入れてもらってるから・・・。」
やはり、今の会社の医務室で働く方が、堅実なのだろうか。
給料は悪くないし、時間にゆとりもある。比較的定時で帰れるし・・・。自分との生活には合っているけれど。
「心配しなくても、医師会から要請があれば移動もありうるし、どこかの病院に入ることになるかもしれないし。・・・でも、茜さんのことがあるから、普通の病院に常勤は難しいかもね。」
「一臣さんはどうしたいの?」
「・・・君と生活するなら、今のままがいいかな。」
「・・・同じこと考えてた。」
一臣は平和を望んでいる。
医務室に、救急車を手配するような、重篤な社員には来てほしくないのだ。
「そういえば、一臣さんスマホ机に置きっぱなしだったけどいいの?チカチカしてた。会社から着信あったんじゃない?」
充電のスタンドの上に置き去りのスマホが、点滅していた。
「会社はないかな。日曜だし。誰だろう・・・。食べ終わったら見てみるよ。」
一臣は、急ぎではないと判断したらしかった。
それなら、と、冷凍庫から自分の分のアイスを持ってくる。
テーブルの向かいに座って食べ始めると、一臣がふふ、と笑った。
「なに?」
「すばる、それ好きだよね。」
いつも食べてる、と笑う。
「そんなことないよ。今年はミカンのにはまってたし、チョコミントは好きだけど、いろんなとこが出してるからローテーションしてる。」
「同じ味でしょう?」
「違うよ!微妙に!」
一臣は、歯磨き粉みたいと、食べたがらない。
そんなことよりだ。お盆も近い。その前に、世間は山の日の三連休がある。充は、こっちに帰ってきたりしないのだろうか。帰ってくれば、すぐに会える距離に、自宅を構えたと聞いている。そこで、家族と暮らしていると。今は単身赴任だが。
幼い子供がいるのに、父親不在では、奥さん大変だろうな。
そもそも、充は都内の大きい精神科、神経科に勤務しているという。入院患者も多いらしい。となると、夜勤や三交代勤務もありうる。忙しくしているに違いなかった。
その充が、会いたいという理由・・・。考えても仕方ないことだが、思わずにはいられない。榊が言うように、懐かしみたいだけなのか・・・それとも・・・。
そんなことを考えながら、ミントのアイスバーを食べていたから、いつの間にか棒から落ちかけていた。慌てて食べて、片付ける。テーブルに緑色と茶色の雫が落ちていた。ティッシュで拭う。一臣は先に食べ終わていて、キッチンで口をすすぐと、じゃぁおやすみ、と寝室へと上がっていった。
起きた時に食べられるように、おかゆの支度しておこう。
一臣の家のキッチンは、IHだが、対応の土鍋がある。
「お米浸しておこう。」
独り言して、米を一合研ぎ、ざるに上げた。土鍋に水を張り、水を切った米を浸す。自分の昼食はどうしようか。ぼんやり、考えたが、アイスを食べたばかりで、食欲は満たされていた。
すると、階段をパタパタと降りてくる足音が聞こえた。一臣だ。どうしたのだろう。
「すばる・・・メール、充さんだった。」
点滅の要件を見たらしい。相手は相澤充だったようだ。

「どうしよう?連休で、こっちに帰ってくるんだって。」
一臣は動揺している。
「・・・会いたいって言ってきてるの?」
「・・・うん。」
さっきまで充のことを考えていただけに、自分としては予想の範囲内のことだけれど。
「じゃぁまず、僕も一緒でいいかどうか聞いてみて?」
「あ、え?そうなの?会ってもいいの?」
「僕も会いたい。」
一臣が最初に愛した人物だ。どんな人なのか、何のために一臣に会いたがっているのか、知っておきたかった。
「・・・わかった。返信しておく。場所は・・・外がいいよね?」
「個室の居酒屋とかでいいんじゃない?」
食べながらにしようよ、と提案する。自分はお酒は飲めないけれど。それが最適に思えた。
「わかった。知ってる店があるから、そこも送っておく。」
一臣は、余程焦っていたのか、、スマホを寝室に置いてきたらしかった。またパタパタと階段を上っていく。しばらくして、メールを送り終えたのか、今度はスマホを持って降りてきた。
「返事来たの?」
「仕事中、っていうか、たぶんお昼休みに送ってきたんだと思う。仕事終わるまで返事こないかも。」
「うん。わかった。じゃぁ・・・寝られないだろうけど、横になった方がいいよ。風邪のせいじゃないかもだけど、顔色悪いから・・・。」
スマホを両手で包み込むように握りしめるその手が白くなっている。解くように、指先に触れた。冷たい。
「一臣さん、大丈夫。充さんに会うことイコール悪いことじゃないから。悪いことも起きないから。」
彼に会っている間に、茜が薬を大量に飲んだことを思い出しているのだろう。どうしても切り離して考えられない一臣に、大丈夫だと言って宥める。
「僕も一緒に行くから、心配しないで。」
「うん。・・・じゃぁ少し横になってくる。」
一臣は、俯きがちに階段を昇って行った。

 充が指定してきたのは、連休の中日だった。休みとあって、居酒屋は混んでいたが、事前に予約していたために、スムーズに個室に通された。充は遅れているようだった。
「お店わかりづらかったかな?」
充の家からも近いようにと、帰りのことも考えて、タクシーで駅まで来て、電車で数駅のところを指定していた。
「駅からすぐだし・・・一臣さん、相手も子供じゃないんだから、大丈夫だよ。」
一臣はそわそわと落ち着かない。
「すばる、なんでそんなに冷静なの?」
「ドキドキはしてるよ。でも、一臣さんが心配で、それどころじゃないよ。」
ややあってから、遠くの方で、店員のいらっしゃいませーという声が聞こえた。
来たかな?
ほぼ時間通り、その黒い人は現れた。
黒のTシャツに、濃い色のデニム姿の相澤充は、部屋に通されると、一臣に久しぶり、と声を発した。一臣も自分も、立って充を迎える。
「学会からだから、そんなに久しぶりって感じでもないよ。
充さん元気だった?」
「うん。・・・紹介してよ。」
充は、少し首をかしげてこちらを見た。
「うん。今、一緒に住んでる、早乙女すばる。・・・恋人だよ。」
一臣は、手を差し向けて、恋人だと紹介した。
ペコリと頭を下げて、すばるです。と挨拶をする。
「はじめまして。相澤充です。そんなに警戒しないで?一臣には何もしやしないから。」
きゅっと、体の前で手を組んでいたのを指摘される。無意識の防御反応だと、興味本位で見た心理学の本に書いてあった。
あわてて、ぱっと手を後ろに回す。充は、待たせた?と聞きながら、まぁ座ろうよと空いていた座布団に腰を下ろした。
髪は真っ黒の少しくせ毛。思っていたよりも若く見えた。
「とりあえず、何か頼まないとね。すばる君、未成年だよね。ウーロン茶でいいかな?一臣はビール?」
二人頷くと、充は店員を呼んだ。中ジョッキ二つとウーロン茶。とりあえず注文すると、こちらに向き直った。
想像と違い、優し気な印象だった。一臣も、学会から帰ってきたときに、余裕を感じると言っていたが、そんな穏やかな雰囲気だった。
「オレは一臣に会いたかったんだけど・・・すばる君はオレに会いたかったんだよね?」
頷いて見せる。
「で、どう?元彼に会った感想は。」
少し意地悪気な笑みを浮かべて、充がそう尋ねた。
「まだよくわかりません。でも、悪い人じゃなさそう。」
悪い人じゃなさそう、と言うと、充は少し笑った。
「一臣に対して?」
そう聞かれ、また一つ頷く。
「一臣さんは、あなたに会うことを怖がっていたから。あなたがどうこうじゃなくて。あなたと会うと、悪いことが起きる考えから、逃れられないんです。」
言うと、良く分析しているね、と苦笑された。
「悪いことか・・・。悪いこと、起きたもんね。あの時は大変だった。一臣を送っていったら、奥さんが寝室で倒れていて、薬を飲んだのがわかって、救急車を呼んで・・・オレも病院までついていった。」
命は助かったけど・・・ね。と充が少し遠い目をした時、店員が注文したビールとウーロン茶、お通しの枝豆を持ってきた。
「とりあえず、乾杯しようか?」
充がジョッキを手に少し高く上げる。一臣が続いたので、自分もウーロン茶のグラスを上げた。
「再会と、新たな出会いに乾杯。」
乾杯と続けて、少しだけウーロン茶に口を付けた。
「充さんは、その現場にいたんですね。」
初めて聞く話だった。
「うん。奥さんの方は、意識なかったから知らないと思うけどね。薬も、吐かせようと思ったけどできなくて、病院で胃洗浄して・・・でも間に合わなかった。一臣は泣きそうな顔してるし、朝まで一緒に病院にいたんだよ。次の日オレは仕事があったから帰ったけどね。」
それから、数日目を覚まさなかった。
充は、思い出しながらゆっくりと話した。
「一臣の中ではそうか・・・オレと会うと良くないことが起きるって、紐づけされてるんだな。だから拒んだのか。」
嫌われたわけじゃなくてよかったと、充はまた苦笑した。
「すばる君はどう?オレと一臣がまた二人で会うのは、賛成?」
「今のままだと、一臣さんにはストレスでしかないから・・・。」
「すばる。」
ストレスでしかない、と言い切った自分を、一臣が制した。
「ごめん。充さん・・・。すばるを家に一人置いて、こうして会うのはまだ怖い。」
「わかった。手紙のやり取りは、してもいい?」
視線の先は、一臣でなく自分だった。
「折々の葉書程度なら・・・一臣さんも、お中元とお歳暮送りたいって言ってたし。」
「あぁ。そういえば桃が届いた。美味しかったよ。食べきれなくて同僚にも配るほどだった。」
「兄嫁の実家が山梨で、桃を作っていて・・・。親しい人にはそこから送ってもらってるんだ。美味しかったのならよかった。」
一臣は、充を『親しい人』と思っていることが知れた。
「ずるい一臣さん。僕も桃食べたかった。」
ため息交じりに言うと、今度送ってもらおうか?と聞いてきた。頷きで答える。
「まぁまぁ。一臣の桃は、対外的な親しい人への贈り物だから。君はまた位置づけが違うんだと思うよ。」
充が冷静に分析する。それに一臣が同意した。
「さて、何か食べるものも注文しないとね。この店何が美味しいの?」
「刺身はいいものを扱ってるから、ご飯ものが食べたければ、海鮮丼なんかもいいよ。すばるは?」
「あんまりお腹空いてない。ポテトと焼き鳥とかあればそれでいいよ。」
空腹感を感じる余裕はまだなかった。それは一臣も同様だったらしく。
「俺は刺身の盛り合わせ頼もうかな。」
と、軽めのオーダーになった。料理が来るのを待ちながら、また話をする。
「充さんは、どうして一臣さんに会いたかったんですか?」
充はしばらく考えていたが、にっこり笑った。
「体目当てだと思ってる?」
思わず赤面してしまう。
「可愛いな。赤くなってる。ちがうよ。たまにこうして現状報告みたいなのをする友達が欲しかったんだ。これでも奥さんいるしね。娘も。オレはもともとバイだけど、もう男は抱かないと思う。抱かれたりも、ないと思う。いい歳だしね。」
男は、一臣で終わりにした、と暗に言っているのだ。
「友達・・・ですか?」
「うん。だって、一臣には恋人がいるでしょう?裏切らせるわけにはいかないよ。」
充の話に、ほっとしている自分がいた。
そうか。体目当てじゃないのか・・・。
「・・・ほかに友達いないんですか?」
「仕事上の仲間はいるけど、他でもない一臣のことだから知りたいんじゃない。幸せにやってるのかなって。」
「それは・・・今自分が幸せだから?」
充は、そう、と頷いた。
「写真見る?オレに似て可愛いよ?」
充はスマホを取り出した。待ち受けにしているらしく、そこにはくるくる巻き毛の、可愛らしい幼女が映っていた。
「年賀状の写真じゃよくわからなかったけど、確かに・・・。」
どことなく、充に面影の似たその顔は、とても愛らしかった。
充も溺愛しているのがよくわかる。その様子を、一臣は遠巻きに見ていた。充も、一臣にはあえて見せなかった。
「男同士じゃ、子供は望めないからね。こういう幸せは。」
充は、そう言って、スマホをポケットに入れた。
「君たち、猫とか飼うといいよ。癒されるよ。うちにもいるけど、メンタルにもいいし、飼ってる人は、飼ってない人に比べて、病院に行く回数が少ないとかいうデータもある。
二人きりで息が詰まることない?」
「僕はないですけど・・・。猫、いいですか?」
「うん。ペットショップで飼うのもいいけど、保健所に行ったら捨て猫タダでもらえるよ。殺処分される猫が一匹減る。」
充はまじめな顔をして猫について語りだした。
「可愛いよ。」
だからね、と続けた。
「こういう他愛もない話を、一臣としたかった。でも、君もいいね。気に入った。一臣と会うときは、君も来るといいよ。
一臣も心配ごとなく食事と会話が楽しめるだろうし。」
気に入った、と充が言うと、一臣が少し慌てたように声を上げた。
「充さん、すばるは俺の!」
「わかってるよ。手を出したりしないよ。言ったろう?もうそういうのは落ち着いたんだって。」
出向先でだって、浮気なんかしてないよ、と冗談交じりに笑った。
「そんな暇なかったしね。」
「忙しかったんですね。」
なのに、一臣が出席する学会には、休み返上で参加した。
どれほど、機会をうかがっていたか、なんとなくわかった。
料理が届くと、充はさっさと食べ終えて、ビールをお代わりした。一臣は言葉少なだったが、ずっと充を見ていた。
充のビールが空になるころ、自分たちのつまみもなくなって、手持ち無沙汰になった。
「ねぇすばる。また会える?」
充は、一臣にではなく、自分にそう尋ねた。
「僕は・・・たまになら。」
「そう。」
よかった、と充はまたにっこりと笑った。
そしてそれきり、充からのメールは途絶えた。
まるで、一臣が呪縛から逃れて、誘うのを待っているかのようだった。

あんな風に、笑う人じゃなかった。
充と別れ、電車を降りてタクシーの中。一臣がそう言った。
学生時代のあの人は、もっと淡々としていて、いつも何か思案気で・・・と。医師として働くようになってから再会した時も、そう変わりはなかったのに。結婚して、子供ができると、こうも変わるものなのかと。一臣はつぶやくように言った。
「ごめんね。女の子じゃなくて・・・。」
一臣に、子供を産んでやれない。そのことが胸を塞いだ。
「いっそ、本当に猫でも飼おうか?」
「一臣さん、動物大丈夫なの?」
一臣が頷く。じゃぁ飼ってみる?なんて安易な気持ちで言ってはいけない。それなりの覚悟が必要だからだ。猫を飼えば遠出は難しくなる。いろいろな制約も出てくるし、まだ新しい一臣の家も傷つくかもしれない。
「保健所、まずは電話してみようか。」
一臣は前向きに検討し始めた様だった。
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