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其の肆拾

小子部連鉏鉤の想定外

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倭古京が落ち着いた報せを大伴連安麻呂が
民直小鮪(たみのあたいおしび)と
谷直根麻呂(たにのあたいねまろ)を伴って
訪れて知らせて来たので、大海人は
大伴連吹負に難波へ向けて進み西道将軍として、
西の諸国の国司に駅鈴と正倉の鑰の返還を
伝えるように命じると共に、吉備太宰の留守を
担っている石川王や筑紫太宰の栗隈王からは、
早くから大海人に味方する旨を報せて来ており、
さらに戦が終わった後において、それぞれ西や
隼人の国への伝令の際の中継地点として、
存分に活用出来るように準備をしてくれているので
大いに活用する様に命じた。大海人と共に
対面した大伴連馬来田は、今回の吹負の奮闘を
実に嬉しく思ったようで、帰り際の安麻呂を捕まえて
「馬来田が喜んでおったと伝えてくれ」と言った。
彼らとの面会を終えてから大海人は、
小子部連鉏鉤(ちいさこべのむらじさひち)の
留まっている不破評家に出向いた。大海人皇子の
訪問を小子部連鉏鉤は恐縮して受け入れて、
部屋の中へ招き入れてから小子部連鉏鉤が先に
「この度は真に喜ばしい限りで御座います」
と口を開いたので、大海人は少し申し訳なさそうな
表情で「喜ばしい。確かに喜ばしいことではあるが、
小子部連鉏鉤よ。そなたにとっては喜ばしいとは
言えないことになるだろう」と応えた。
小子部連鉏鉤にはその言葉の意味がよく
呑み込めなかったので、即座に「それはいかなる
意味でしょうか」と訊ねた。その言葉に大海人は
その顔にやや不機嫌な容色を浮かべて
「戦が終わってから、各国の国司の見直しを
するつもりである。早くよりこちらに味方して
頂いたそなたにおいても、一時その任を
解いたうえで改めて精査してから、引き続き
その任を授けるかどうかを決めるつもりである」
と答えた。小子部連鉏鉤としては、みずからの立場を
守るために早くより味方についたつもりであったので、
この大海人皇子の発言に対して話が違うと思い、
さらにその思いは次へと進んで非道な仕打ち
であると思った。小子部連鉏鉤の思いを
読み取った大海人は「実際のところ、そなたの力
ではなく大海連の力によって統治は為されている。
そなたにはそれを心より受け止めて、
本当の国司としての自らの責務を尽くして
打ち込もうとする考えがない」と言い放ったので、
小子部連鉏鉤は困惑するばかりであった。
その困惑に追い打ちをかけるように大海人は
「これからの国司は、その土地の人々を慈しみ
育む中心としての役割を果たすことが出来る者を
任ずるつもりである。そのために必要なことは
無私の心であり、一族の繁栄だけを願うのではなく、
その土地に生きる者たちの繁栄によって、
自らの繁栄を生み出していくことを当たり前
とすることが必要である」と言い放った。
小子部連鉏鉤はその言葉を受けてもまったく
意味が分からないままであった。
ただ、自分の行く末はもはや今のままの
自分によっては開けていかないことだけは
はっきりと分かった。大海人はそこまで告げると、
放心している小子部連鉏鉤を置いて不破評家を
出て野上の行宮へと戻っていった。
戦が終わってから、小子部連鉏鉤は行方を暗ませて、
しばらくしてから山中で無惨な姿で見つけられた時、
大海人が口にした「罪が無いのに何故死んだのか。
陰謀でも考えていたのだろうか」と言う言葉は、
大海人としては実に素直な印象であった。
小子部連鉏鉤のような存在は、大海人の勝利に
よって新しい政が行われるにあたって、
いずれにせよ死ななければならなかったのは
事実なのだが、それが自らのこれまでを
捨て去る意味においての死を選ぶのか、
それとも実際に現世の生を終えるのかは、
その人が自由に選択出来ることであり、
大海人としては前者のほうを選ぶであろう
と思っていたのだが、小子部連鉏鉤は自らの
これまでを捨て去ることが出来ずに
後者を選んだ。その決断は、神より命を
貸し与えられている事実を知っている
大海人にとっては、あってはならないこと
であるのだが、小子部連鉏鉤のように
神より命を貸し与えられていることを忘れて、
命を自らの所有物であると思い込んで
しまっている人間からすれば、至極当然な選択であった。
神の存在などを無いものとして人生を生きて、
それなりの資財を蓄積して安定した地位などを
持った場合、神の存在がそこに介入して来た時には、
それらすべてを引き寄せて来た根拠そのものが
覆されることになるので、言うまでもなく
すべてを失うことになる。
多くの人は神の存在についてそれなりに認めながらも、
現在において常識となっている唯物的な
価値観に照準を合わせて、自らの人生を
設計したうえでこれを実行して、人並みと呼ばれる
生活を送るものである。小子部連鉏鉤も
そのような人であっただけなのだが、
生まれた時代が悪かった。大海人皇子と言う存在は、
神々の理念に基づいた国として倭を造り直すことを
願いながらも、それが不可能であると気づいて
政から身を退けて、貸し与えられ命を全うして
余生を過ごすつもりであったのが、大津宮の
思惑によってそれを乱されたことで仕方なく
戦うことになった人であり、その結果によって
再び神々の理念に基づいた国として倭を
造り直すことになった人であるので、
自らの信念に基づいて政を進めるにあたって
微塵も迷うところがない。大海人皇子が
造り直した倭は、今も私たちの深層心理に
作用していて、必然的に彼の提示した価値観を
常識として受け止めていることに私たちは
気づいていない。その事実に気づいた時、
唯物主義などと言う発想を選び取ることは
私たちには出来ない。そのような考えは
自らの存在と絶対に矛盾することになり、
さらに一歩進めて言うならば、唯物主義なる発想を
選び取ることはどのように努力しても
出来ないようになっているのである。
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