阿呆になりて直日の御霊で受けよ

其の拾漆

朱鳥色

桑名評家に着いた一行を尾張連大隅に命じられて
待機していた尾張連馬身（おわりのむらじまみ）が出迎えた。
一行はそれぞれ部屋を割り当てられて、やっと急行軍から
一時解放されたのだが、大海人は休む間もなく、
桑名評家に先に着いていた紀臣阿閉麻呂（きのおみあへまろ）と
置始連兎（おきそめのむらじうさぎ）がどうしても会いたいと
願い出ていたので、渋々ながら会うことにした。
特に伊賀では駅家に放火しているので伊賀国司の長官である
紀臣阿閉麻呂に会うのは心苦しいところもあった。
大海人が二人の待ち受けている部屋に入ると、
紀臣阿閉麻呂が大きな声で「よくもまあ、
駅家に火をつけてくれたなあ。直ぐにこちらへ
来てくれたならば、そんなこともなかったろうに」と言った。
大海人は伊賀が大友皇子の母の出身地であることから、
多少なりと彼とは付き合いがあってそれなりに知っていたが、
相変わらず声が大きい。「戦に勝利した時は、
駅家を前以上に美しく新調してもらうからな」と
紀臣阿閉麻呂が大海人の応答を待たずに続けたので、
「耳が痛い」と大海人が返すと、「それは痛いであろう。
駅家に火をつけたのだからな」と紀臣阿閉麻呂が受けて言う。
「違うわ。お主の声が大きいからだ」と大海人が返したところ、
「おおそうだ。忘れておった。駅家に放火したことは
良しとして…」と紀臣阿閉麻呂が話を転換する言葉を発した。
大海人は「駅家に放火したことは良しとして…」とは
滅法な言い様だと思いつつ、先に自分の所へ来いと言うのも
ほとんど「捕縛して下さい。よろしく」と言うような
ものだから、何のために逃げているのか分からなくなる話だ。
などと心で一人呟いていると、「今日ここで待っていたのは
他でもない用件が二つあったからだ」と紀臣阿閉麻呂が
言ってから続けて「一つは、紀臣大人（きのおみうし）から
連絡があった。大友皇子に愛想をつかしたそうだ」言ったので
「それで」と大海人がさらに詳しい話を促すと、
紀臣阿閉麻呂は「それだけだ。それから、群臣会議での
遣り取りも聞いたのだが…忘れた」と言って、
大海人が呆然としているのもそのままに、
「もう一つは置始連兎が美しい染物を作ったのだ。
これが朱と茜のどちらでもない色なのだ。それで持って来た」
と言ってから置始連兎に目で合図をした。置始連兎は
恭しく巻き上げて来た布を大海人に差し出したので、
大海人がこれを受け取って拡げたところ、
「夢の中で鳥が飛んでおりまして、そのような色の翼を
しておりました。仏典にある鳥のように思えましたので、
同じ色を作ろうと思い作ってみたのです」と置始連兎が
突然大きな声で話した。「お、お前も大きいのか」と
大海人は思いつつもそれは横へ置いて、
「見事な色である。どれぐらいある」と尋ねると、
「いくらでも出せます」置始連兎が答えたので、
「この色を我らが軍の目印にしよう」と大海人が告げると、
置始連兎は喜色満面で「はい」と応えた。
「ところでこの色には呼び名がまだ無いが、
どのような名が相応しいと思うか」と大海人が置始連兎に
問いかけると、即座に「朱鳥（あかみとり）」と答えたので、
大海人はそれを受けて「その心は」とさらに問いかけると
「朱に交われば朱となるし、茜は日輪の色です。
鳥は倭武尊の武を意味します」と置始連兎は答えた。
大海人は成程と言う風にうなずいてから、
「我らが軍はこの布を腕に巻くこととする。適度な幅に
切り分けて各自に配れるよう、早急に準備を進めよ」
と命じたところ、置始連兎は「私、置始連兎も我が精鋭の
兎団でお味方致したく思います。どうかお許し下さい」と
願い出たので、大海人はこれを快く許した。
夜になってから大海人が一人別室で物思いに
ふけっていたところ、鸕野讃良皇女が熱を出して
うなされていると言う知らせを受けた。
それで急いで様子を見に行った。
行ったところですでに眠り込んでしまっていたが、
そのまま部屋を後にするのも忍びないと思ったので
傍らに居ることにした。鸕野讃良皇女は
「阿呆になりて直日の御霊で受けよ」と寝言を繰り返していた。
何度か耳にした言葉だと思っているうちに
大海人は眠りへと落ちていった。