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其の陸

いざ脱出

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「やはりそうであったか」逢臣志摩(おうのおみしま)の
報告を受けて大海人は呟いた。
言うまでもなく、現実的に考えて政の見方からすれば、
倭姫王を立てる提案そのものが、大海人に皇位継承を
目論む含みがあると思われて当然の話なのである。
大海人の「大王の菩提を弔いながら」というのは、
ある意味において取って付けた言葉であるが、
自由意志に基づいて心に湧きあがった
「授けられた日々を過ごす」という希望は真の思いである。
だがこの希望は、政に侵蝕された大王の思考によって
見事に無視されて、さらにそればかりでなく
大友皇子や重臣にまで、その思考でもって導き出された
見解を押し付けて思考に刷り込み、
不安要素にしかならない私の存在を消し去って、
大陸の流行に乗っかっただけの国家に
やまとを作り変えることを進めようとしているのである。

大海人としては、古くは大陸の前の国家である
隋の天台智顗や、最近では死の直前に藤原姓を賜った
中臣鎌足の息子の定恵(貞慧)に倣って、
出家の立場で政に対して提言を述べる形でもって、
古来の美しき倭の国の在り方の復興を目指しながらも、
新しい流行にも対応できる仕組みを作る
手助けをするつもりであったのだが、
どうやらそのような道筋は誰一人として
思いつかなかったようであり、
古来の美しき倭の国の在り方、
つまりは祭政一致の様式の再編ではなく、
あくまでも大陸の様式に従って、権力でもって
権威を打ち立てる方向に舵を切ったようである。
ようするに簡単に言うならば、天意に逆らって
国を治めることを選び取ろうとしているのである。
天意に逆らって国を治めるのは賊でしかない。
ここで私が滅ぼされて、私に属する人たちが
賊の国家に組み入れられたならば、
いにしえの男大迹王(をほどのおおきみ)に見せかけた
海賊国家に戻ってしまうではないか。
それはそれで古来の倭の国の在り方の
ひとつではあるが美しくはない。
そう言えば大王は、半島に攻め込む目的で
男大迹王がかつて治めていた
敦賀の湊の復興に力を入れていた。
そうなれば海賊国家の考えに近い。
などと色々と思い巡らせたのは瞬時の話で、
実際の大海人は即座に吉野宮からの
脱出の手筈を宮にいる舎人どもに伝えて作業に当たらせた。

急な出立なので輿の準備などはない。
矢治峠を越えて津振川に出る道を行くことになった。
馬は矢治峠を越えられないのでそこまでは
徒歩で移動することにして、
県犬養連大伴(あがたのいぬかいのむらじおおとも)と
数名の舎人には、馬を連れて吉野川と津振川の
合流地点に向かう迂回する道を進んでもらい
津振川で落ち合うことにした。
従った舎人は、最初に一報を届けた
朴井連雄君(えのいのむらじおきみ)と、
先ほど倭古京より戻って来た逢臣志摩(おうのおみしま)、
馬を連れて行くことになった
県犬養連大伴(あがたのいぬかいのむらじおおとも)の
三名に加えて、佐伯連大目(さえきのむらじおおめ)、
大伴連友国(おおとものむらじともくに)、
稚桜部臣五百瀬(わかさくらべのおみいおせ)、
書首根摩呂(ふみのおびとねまろ)、
書直智徳(ふみのあたいちとこ)、
山背直小林(やましろのあたいおばやし)、
山背部小田(やましろべのおだ)、
安斗連智徳(あとのむらじちとこ)、
調首淡海(つきのおびとおうみ)の九名と、
大海人の妻子である鸕野讃良皇女(うののさららひめみこ)、
草壁皇子(くさかべのみこ)、忍壁皇子(おさかべのみこ)、
それから女孺めのわらわ十人ほどであった。
事態が事態だけに幼い子どもたちは
不安そうな面持ちであったが、
鸕野讃良皇女は事態など関係なく
「えっ、歩くのですか。しかも峠越え」と不満げに言った。
相変わらず肝の据わったものだと感心しながらも
「急な話なのだから、仕方ないだろう」と
大海人は声を掛けて宥めてから、
膝を曲げて子どもたちに目線を合わせ、
二人の頬に手のひらを優しく添えて
「心配しなくていい。大丈夫だ」と声を掛けた。
「おーい。そろそろ出かけますぞ」と言いながら、
もうすでに先頭に立って歩き出している朴井連雄君の声が、
これからの道中の不安をかき消すかのように陽気に響いた。
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