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其の参

大王の遺訓

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「駅鈴の発給は認められません」高坂王(たかさかのおおきみ)は
大海人の使いである三人に向かってはっきりと言い切った。
「何故、認められないのでしょうか。
わが主である大海人は出家の身分であり、
世俗とは隔絶しているのですから、
意味のない思い込みは無用かと思われますが」と三人を代表して、
大分君恵尺が問いかけた。
「おっしゃる意味はごもっともですが、
亡くなられた大王の遺訓によって、
大海人皇子に駅鈴を発給することは認められません」
高坂王は言い分を汲み上げながらも、
官人としての職務でもってこれに応えるだけであった。
「大王の遺訓とは如何なることでしょうか」と
今度は黄書造大伴が問いかけた。
「詳細はこちらには知らされておりませんので分かりません」
と高坂王は素っ気なく答えた。
三人は顔を見合わせて、取り付く島のないことを確認すると、
高坂王に対応を労ってから丁寧にいとま乞いをして退出した。
そこから大分君恵尺は大津宮へ、
黄書造大伴は同地の大伴連馬来田(おおとものむらじまぐた)と
大伴連吹負(おおとものむらじふけい)の兄弟のところへ、
逢臣志摩は結果を知らせるために吉野へとそれぞれ向かった。

大王の遺訓とは次のような誓盟のことである。
大海人が吉野に去ってから、大王は、重臣である
大友皇子、蘇我臣赤兄(そがのおみあかえ)、
中臣連金(なかとみのむらじかね)、
巨勢臣人(こせのおみひと)、
紀臣大人(きのおみうし)を集め、
内裏西殿の織仏像(刺繍で描かれた仏像)の前において、
神仏に対して大友皇子を奉じて
大王の命令を実行するための誓いを立てさせた。

誓盟とは以下のごときものである。
ちなみに宣言中の天皇とは大王と同義である。
日本書紀の記述となるので大王が天皇となっているのか、
それとも大王ではなく天皇と呼ばれていたのか
についての実際は明確ではない。
言葉の中に「天皇の詔」とあるが、
その具体的な内容は明らかではない。

太政大臣の大友皇子が香鑪を手にして誓いの言葉を述べる。
「六人心を同じくして、天皇の詔を奉る。
若し違うこと有らば、必ず天罰を被らむ」
続けて、左大臣の蘇我臣赤兄、右大臣の中臣連金、
御史大夫の巨勢臣人、同じく御史大夫の紀臣大人が
それぞれ一人ずつ順番に誓いの言葉を述べる。
「臣等五人、殿下に随ひて、天皇の詔を奉る。
若し違うこと有らば、四天王打たむ。
天神地祇、亦復誅罰せむ。三十三天、
此事を証め知しめせ。子孫当に絶え、家門必ず亡びむか」

まず、大友皇子による天罰を受けるとの発言がある。
次に残り五名によって、四天王、天神(天津神)地祇(国津神)
によって罰を受けるとの発言があり、
須弥山の三十三天に証人となって貰うことが宣言されて、
その罰の内容として家の断絶が謳われている。
ここから読み取れることは、誓盟の対象が
天部に限られているところである。
天罰であって仏罰ではないので、
あくまでも王法の範囲という規定がここには厳然とある。

この誓いは大友皇子の意向により再度行われ、
その後に大王は逝去した。大王とともに現在の政権の礎を築いた
大海人が出家したとはいえ生きていることは、
大王亡き後の政権にとっては脅威でしかない。
大海人本人が壬申紀における記述通りの思いでもって、
余生を全うせんと願っていたとしても、
実際の権力基盤としては盤石であったとは言えない
政権下において、大海人の排除は絶対に必要不可欠な事案である。

本人は意識せずとも、間違いなく政権に対して
不満を抱く豪族などが、彼を担ぎ出して反抗をする可能性があるし、
大海人には大王とは違う国造りにおける理想があったからこそ、
大王の申し出を断ってあえて出家を申し出たうえで
この理想を諦めて一人の人間として生きて死ぬことを
次なる人生の目的としたと言えなくもない。
だが、頭を丸めたからといって即座にその通りに
心を一新出来るかと言うと、人間そんなに簡単なものではない。
また、断る理由として、日本書紀においては
慢性的な病を挙げているのだが、
病は気からとはよく言ったものであり、
政治のような常に緊張を伴う仕事から離れることで、
自然に病から解放されることもよくある話であり、
健康を取り戻すことで欲望が頭をもたげるのが
これまた人間の自然な状態であり、
そうなると静かに余生を過ごすことなど出来なくなってきて、
言うまでもなく国造りにおける理想を実現したいと願うようになる。

中臣連金(なかとみのむらじかね)らが
大海人の吉野への出立を見送った時に、
「虎に翼を与えて野に放つようなものだ」と発言したとあるが、
大海人が武において秀でていることがここから読み取れるので、
いざ武力衝突が起こったときの不利は大津宮の側において
十分に予測出来ていたことである。
一説においては、山陵造営と並行して戦争準備も
行われていたという見解も存在するが、
これは国内に限らず半島における政情不安に対する
準備とも想定できるのではっきりと明言は出来ない。
後に出て来る話であるが、栗隈王(くりくまのおおきみ)が
騒乱への兵の拠出を断る理由として、
半島の政情不安に対しての防備を取り上げている。
福岡の地は昔より対外交易の拠点としての役割が大きく、
物が動けば必然的に人も動き交流が起こるので、
彼の見解は実に信憑性が高いものである。
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