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竜太と神楽のむかしのはなし。

26.名前、アカンかった?

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「ッ!!」
 神楽は布団を跳ねあげて飛び起きた。
 肩を大きく揺らし酸素を取り込みながら暗闇の中、手探りで自分の服を確認すると汗でぐっしょりと濡れてはいたが乱れていないことに深く安堵の息を吐き出した。
 夢だったのか…。
 いまだに身体中を支配する生々しい感覚に震える腕で自身を抱き締め強く目を閉じると何度も何度も繰り返す記憶は瞼裏の闇に飲み込まれていった。
 早鐘を打ちならす胸に細く長い息を吐き出す神楽の耳にパチッとスイッチ音が響いた。反射的にその音の方へ振り向くとベッドサイドにある間接照明に照らされ眩しそうに眉を顰める竜太の姿が目に入った。
「眠れへんの?」
 覚醒していないのだろう薄く開いた両目はそれでも心配そうに神楽を見上げている。
 神楽は静かに息を飲んだ。
 今夜の夢の内容は死んでも竜太にバレるわけにはいかない。
 それ以上に夢で反応して完全に臨戦態勢となっている自身を見つかるわけにはいかない。跳ねあげた布団はそのほとんどがベッドから落ち一部だけが腰回りにかろうじて残っていた。
その布団を頼りなげに握りしめ顔だけ竜太の方へ向けるが、自分を案じるその表情に神楽は妙な罪悪感を覚えた。
 それから逃げるようにそろそろとベッドを降り、竜太に背を向けたまま「汗かいたからシャワー浴びてくる」と吐き捨てるように呟き足早にバスルームに駆け込んだ。
 バレて…ないよな…?
 バスルームのドアを閉めて後ろ手に鍵を掛けると緊張が解けた体は脱力してその場にへたりこんだ。
 しかし視線はパジャマを押し上げてる自身に釘付けになってしまい大きく深く息を吐いた体はがっくりと項垂れてしばらく動けなかった。
 それからしばらくしてのろのろと立ち上がった神楽は服を脱ぐとシャワーを流しながら萎える気配のない自身に手をかけ昨夜のように慰めるとどうにも虚しくなってしまう。
 目を閉じて思い出すのは夢の中の生々しい行為と感覚。荒くなる呼吸に自身を高める手を早めればそれに合わせて呼吸もさらに荒々しくなっていく。
「…ん、っ!」
 耐えることもなく早々に半透明の薄い白濁を吐き出しすぐにシャワーに流すとそのまま頭からシャワーをかぶり壁にかけてあったガウンを羽織った。
 罪悪感やら情けなさやら羞恥心やら…様々な感情がない混ぜになりとにかく痴態を晒したこの場所にいたくないと逃げ出すようにドアノブに手をかけた神楽を記憶が遮った。
『…挿入はいるで、アキ』
 優しく甘い、そして熱を含んだその台詞に体がぞわっと総毛立った。
 切なく顰められた眉根はあまりに扇情的に本能を煽り、あり得ないところへ押しつけられた熱を帯びた陰茎。男性同士の性行為の知識はなかった神楽だがその台詞の意味する行為を理解すると今度は一気に身体中の血が引いてしまった。
「…入るって…俺の中…?」
 押し当てられた割れ目をガウンの上から触れると今度は身体中の血が瞬間的に沸騰したように熱く滾り青白くなった肌は赤く染め上がった。
「んぁ!!」
 そして今度こそバスルームから逃げ出した神楽はドアを開けた先、何もないはずのそこで壁のような固いものにぶつかり不思議に思いながら見上げると再び勢いよく身体中の血が引いていった。
「な、なんで…」
 目の前の壁の正体は立ちはだかる竜太だった。
「なんや違和感があってなぁ」
 神楽は体勢を崩しながら後ずさるが出てきたばかりのドアに背中がぶつかり退路は完全に塞がれてしまった。
 竜太は神楽の足先から頭の上まで舐めるように観察すると「ふーん」とまるで興味のないような相槌を打つ。
 形のいい唇が昨夜のように妖しく弧を描いた。
「夢に魘されとる時もいっつも汗かいとるのになんで今日だけすぐにシャワー浴びに行ったん?」
 いきなり核心を突かれた。
 壁に貼りついている両腕が無意味にその上を足掻くが、全てを見透かしているような竜太の瞳が神楽が隠したい、うまく隠せたと思っている行為も秘密をも白日の元に晒そうとする。
「っ…」
 言い訳は音にならず喉に貼りついたままかろうじて流し込んだ唾と一緒に腹の底に落ちていく。
 体が動いたのはその刹那だった。
 竜太の両腕に閉じ込められ耳元で低い声が「アキ」と空気を震わせると走馬灯のごとく甦る光景と熱が防衛本能をフル回転させ反射的に振り払った腕が竜太の右頬をとらえた。
 よろよろと後退する竜太はそれでも愉快そうに人の悪い笑みを浮かべていた。
「ぁ…悪──」
「名前、アカンかった?」
「えっ、は?名前…?」
 叩かれた右頬を押さえ顔を上げた竜太はなおも愉快そうに笑っている。
「お前って呼ぶよりもやっぱり名前呼びたいと思うてたから。…名前、アカンかった?」
「いや!それはっ、アカンく、ないっ!!」
 笑ってはいたが躊躇いがちに返事を待つ表情が捨てられ雨に打たれ震える子犬のように神楽の心を揺さぶるが、咄嗟に大きくかぶりを振りながら口をついて出た否定の言葉は使ったことのないヘンテコなものだった。
 インタビューはもちろん、たまに出演するバラエティ番組ですら完璧にこなす神楽らしからぬ失態に火を噴き出しそうな顔を両腕で覆うと竜太は腹を抱えながら大きな笑い声をあげた。
 大笑いをする竜太を見たのは昨夜ぶりこれで二度目。素面の状態ではもちろんこれが初めてだ。
 しばらくして笑い声が小さくなり、神楽が腕の隙間からそろりと視線を覗かせ息を飲んだ。下げた目尻を輝かせながら自分を見つめるその表情は自分に親愛や憧憬以上の好意を寄せてくれるファンのそれだった。
 その眼差しに見つめられるたびに思い知らされる。応えられない自分の無力さを…。
くしゃり、歪めた顔を両腕で隠した神楽はそれでも胸の中に灯った温かいものが大きくなっていることに気付いていた。
 それでも神楽はそれを見ないフリをして目を閉じた。
「これからはアキって呼ぶことにする」
「…別に、勝手にすれば?」
「朝飯にはまだ早いな。もう一眠りするか」
 そう言いながら寝室に戻る竜太の後を神楽は追いかける気になれず、ソファーに身を投げると大きく息を吐きながら天井を仰いだ。
 体全体がずしりと重い。この気怠さは先程の行為のせいだけではないだろう。
「勘弁してくれ」
 そう静かに呟いた神楽はしらみ始めた外の空気から逃げるように右腕で顔を覆い重い体をぐうっとソファーに沈ませてから現実からも目を背けるように意識を手放した。



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