上 下
64 / 77
竜太と神楽のむかしのはなし。

16.…デート…あの人と…

しおりを挟む

 自分勝手にキスしといて告白じみた事をしておいて忘れろなどとまた自分勝手をあいつに投げつけた。
 忘れろと言うたのは俺やのに側にいたいなんて矛盾しとる。
 でも、忘れろとゆうた時のあいつの真っ直ぐな眼差しが強く「嫌だ」と言った気がした。


 それは突然。本当に突然に起こった……いや起こったというよりは予想だにしない爆弾が目の前に投下されたという方が正しいだろうか。神楽がそう感じていた。
 曲を流してプログラムの確認をしようとまさにリンクに立つ直前の神楽に竜太はまるで息を吐くようにするりとそれを吐き出した。
「俺が本気で口説いたらお前、俺の事…意識してくれる?」
「……」
 俺は今から曲を流してプログラムを滑るのだ。
 神楽はそう頭で今の状況を整理しながら、その後に自分に向かって投げられた言葉をゴクリと飲み込んだ。
「な、なに言ってんだよ。俺、今からプログラム滑るんだけど……」
 戸惑う神楽にようやくハッとした竜太は慌てて大袈裟に両手を振って声を上げた。
「いや!ほんま、すまん…。口から出すつもりはなかったんやけど、気付いたらでとった…いや、ほんま悪い、忘れてくれ。なんもない、お前に言うつもりもなかった言葉やから…」
 また、忘れろ……か。
 頭から血が引いたように冷たくなったのが分かった。その瞬間、苛立ちから無意識に握り締めた拳がギリッと音を立てて手の平を傷つける。
「……本気で口説いてくれんの?」
 自分の中に黒い感情が広がっていくのを感じ湧いて出た台詞は神楽自身も驚くものだった。
「え…?」
「あ、あんたが本気、なら………考えとく…」
「…………嘘……」
「っ、時間ねぇから滑ってくる!言っとくけど、俺がこけたらあんたのせいだからな!!」
「あ、そっ…いや、こけへんように祈っとく…!」
 竜太の声を背中に受けながら神楽はエッジケースを急いで外しリンクに滑り出すとぐるぐると繰り返す先程の記憶を整理しながら外周を何周か回り短く息を吐いた後、起点の位置で足を止めた。
 竜太の視線を感じる。それは練習中ならば当たり前のことなのだが、高まる鼓動は落ち着かない。
 だけど、頭は冷静だ。失せた血流が柔らかく温度を連れてくる。
 不思議な感覚に神楽は戸惑っていた。
 曲が流れ滑り出すと体が何度も繰り返したプログラムを紡ぎだしていく。意識しなくとも演じれる。それほどまでに体に染み付いている。
 だからこそ頭は竜太の言葉を繰り返す。
 本気で口説いたらって…この前忘れろって言われた事を忘れていいって事だよな?!
 内から溢れる高揚感と躍る心に合わせて神楽の足がテンポ良く跳ね流れていく。
 ここで自分の中に生まれ大きくなっていた感情を神楽はようやく掬い上げ両手で大切に大切に包んで胸の中に静かに溶け込ませた。その瞬間、それは指先から足先まで広がりスポットライトを直視したような眩さに神楽はバランスを崩しかけたが軸足で踏ん張りリンクの中心でピタッと動きを止めると小さな余韻を残しつつ曲も止まり見上げた指先に天井の照明が眩しく光った。

『振り回されてイライラする。でも、この息苦しさはあの人の言葉を借りれば──』

「惹かれてる」というあの曖昧な表現がぴったりくる。

 そう思い至ったところで残っていたスタッフからまばらに拍手が聞こえた。
 ようやく我に返った神楽はもらった拍手に値する演技をしていないだろうと再び冷静に集中していなかった自分を諌めると俯いたままリンクを下り、リンクへの感謝と不甲斐ない演技に対する罪悪感でいつもより深く頭を下げた。
 身の入っていない演技をした代償として説教も怒声も受け入れる覚悟し俯いたまま腕を組み無表情で直立する竜太の前に立った。
 神楽の覚悟が痛いほど伝わってきた竜太はその心情を慮ると、いや、自分が余計なことを言ってしまったことを考えると怒ることなど到底出来なかった。
「…気の抜けた演技をした事は色々言いたいけどそうさせたのは俺やし…こけて怪我とかせんで良かった」
「…あ、あぁ…悪かった…」
 思いもしない言葉に拍子抜けした神楽はスケート靴を脱ぎ竜太から離れ広いスペースにストレッチ用のマットを広げた。複雑な心境のままいつもどおり淡々とストレッチをするが居心地の悪い視線を無視し続けることが出来ず何度か視線だけを向けた。しかし、竜太は神楽の側にしゃがんだまま顔ごと明後日の方向を向いて微動だにしない。
 なにがしたいんだ?
 若干の恐怖を感じつつストレッチを終えマットを片付け始めたところで竜太が邪魔するようにそのマットに手をついた。恐る恐る顔を上げると自分を見つめる視線とばっちり目が合い息を止めた。
「明日予定ある?」
 脈絡のない台詞に目を丸くした。
 明日はオフでとくに予定もなかったから買ったまま部屋のインテリアと化していた小説でも読もうかと思っていた神楽は質問の意図が読めないままそう答えようとした。しかし、対峙する竜太の顔には汗が浮かび顰められた眉根には緊張が込められていた。その様子に違和感を覚えた神楽の脳裏に先刻の「本気で口説いたら…」の台詞が浮かんだ。
 つまり、これは俺を本気で口説くための……デートの誘い…なのか?
 混乱する神楽だが、見慣れない竜太の表情がそれは肯定している。
 それならば神楽には断る理由がない。むしろ「待ってました」と言わんばかりに心臓が期待に跳ね上がった。
「…ない、けど…」
 感情を押し殺しながら控えめに発した返事に竜太は分かりやすく顔を明るくした。
 こういうところ、意外と素直だよな…。
 たまに見せる竜太の子供っぽい仕草に神楽は母性愛のようなものを感じ始めていた。
「そんならデートしよ?」
「マジか…」
 期待どおりの台詞に息を飲む神楽に竜太はぎこちなさを含んだまま優しく微笑み答える。
「大マジや。…とはいえ、顔の知られてる俺達やから行けるところは限られとるけど…そこは権力の使いどころやな」
 不穏な単語に怪訝な眼差しを向けるが柔らかく細められた瞳は揺るがない。冗談みたいな台詞だが本人はどうやらいたって本気らしい。
「夕方、お前のマンションに迎えに行くわ」
「…分かった」
 神楽の返事に竜太は満足げに笑うとようやく手を離し立ち上がり「気をつけて帰れよ」と後ろ手に手を振りながら神楽の元を去っていった。
「変な人…」
 そう呟きながら竜太の姿が見えなくなったのを確認した神楽はマットを抱えたまま急いでロッカーへ走った。そして人気のないロッカー室に飛び込むとマットを抱き締めその場にへたりこんだ。
「…デート…あの人と…」
 制御できない感情が溢れた神楽の心臓はばくばくと大きな音を立て口から飛び出そうになっていた。床を数回叩き痛々しく腫れる手の平に痛みをしっかり感じるとこれが現実だということを認識して一人、声を圧し殺して笑った。
 嬉しい!!
 忘れろと言われてからの息苦しさなどどこへ消し飛んでしまったのかと思うほど神楽は多幸感に包まれていた。
 それから慌てて着替えると家に帰るまでは『神楽愛灯』だ。そう自分を律してスタッフが待つ車に急いだ。
しおりを挟む

処理中です...