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竜太と神楽のむかしのはなし。

9.俺がここのオーナーやから

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 前を歩く竜太の背中を無言のままついてきた神楽は内心焦っていた。
 竜太に言われるまま着替えを済ませるとしばらくして呼びにきた竜太の車に乗せられ助手席の窓を流れる景色だけを無言で見つめていた神楽は車が入っていった建物に愕然とした。
 …高級レストラン…。
 そこはまだ十代の神楽でさえ名前を知っている予約必須でとてもじゃないが普段着で訪れるなど恐れ多い格式のある店だった。
 地下の駐車場に止まった車から降りるように促されると神楽はシートベルトを握り締めおそるおそる竜太の方を向いた。
「…俺…すっごいラフな格好なんだけど…」
 ジーパンにトレーナー。自宅とスケートリンクを往復するだけの楽でカジュアルな格好はとてもこの店に相応しくない。二の足を踏む神楽に竜太は助手席のドアを開きシートベルトを無理やり外すと抵抗する体を強引に車外へ引きずり出した。
「ちょっ…!」
「そんなん気にせんでええよ。どうせ人目になんてつかへんから」
「は?!どういう…っ!力強っ!!」
 抵抗をやめない神楽の腰に腕を回した竜太は華奢な体を引きずりながら店内へ向かった。
「ここは…?」
 竜太に引きずり込まれた部屋は神楽の想像と違い人目につかないどころか店員にすら会わないほど人気がない。店内へ入る時は裏口のようではあるが存在感のある重厚なドアをくぐった。神楽は混乱しながら部屋の中をきょろきょろ見回すとレストランに似つかわしくないパソコンが置いてある執務机に違和感を覚えると部屋の奥にあるテーブル席に案内された。竜太に椅子を引かれ神楽は緊張しながら座ると竜太は目の前の席に座った。
「この店のオーナー室。ここには店のマネージャーしか来ぉへんからそない緊張せんでええよ」
「オーナー…なんで?」
「俺がここのオーナーやから」
「…は?」
「まぁ、ゆーても名前ばかりのオーナーでほとんどマネージャーに任せっきりやけどな。来る前に電話で適当に料理頼んどいたけど飲み物どうする?」
「オーナー…」
 情報を整理しきれない神楽は竜太の問いかけにも反応できずに目を回していると控えめなノック音とともに料理が運ばれマネージャーが部屋を出ていくと竜太は神楽の目の前で手を叩いた。
「はっ?!」
「冷める前にさっさと食うてまお?とりあえず…話は、それから…」
「あ、あぁ…」
 促されるままカトラリーに目を落とすと通常のコース料理とは違い種類が少ない。立場上テーブルマナーは心得ているつもりの神楽だったがまだ若い自分に配慮してくれたのだろうと思うと心遣いがありがたい。おそらくこの部屋も顔が知られている自分を気遣って選んでくれたものなのだろう。
 こういうとこもあるんだ…。
 普段かいまみえる粗雑な姿からは想像出来ない細やかな気配りはどちらかといえばいつも側に付き従う一弥の得意分野だと思っていた神楽は感心する。
 無言の食事、時折聞こえるカトラリーの金属音がやけに大きく響く。
 ナイフとフォークを使って運ばれる料理はどれも神楽の好物で栄養バランスもきちんと考えられていると神楽は再び静かに感心した。
 カチャリ。カトラリーが短い音を立てて終了のサインを象ると神楽は慌てて腕を動かし目の前の食材を口の中に捩じ込んでいく。
「急いで食べんでええよ」
 柔らかい声に口元の笑みが大人の余裕を感じさせて神楽の心臓は一瞬跳ねたあとわずかにだがいつもより鼓動を早くした。
 食器をワゴンに片付けて壁際にあるドリップ式のコーヒーメーカーでコーヒーを注ぐと独特の香りが部屋に広がった。
 初対面の時から感じていたどこか子供っぽい頼りない印象とは真逆の雰囲気に神楽は妙な緊張感に包まれた。
 そうしてようやく食事を終えると慣れた手つきで竜太が空になった食器をワゴンに乗せていく。
「コーヒーいる?」
 竜太の声に神楽は無言で頷いた。
 目の前に置かれたコーヒーの黒い液体が今日の本題と重なり神楽はミルクと砂糖を溶かし混ぜると一気に腹の底へ流し込んだ。
 それを見つめていた竜太は目を丸くしたがこれから切り出す気まずい話題へ向き合う覚悟を決めたように見えどうしたものかと重い息を吐いた。
 カップをソーサーに戻すと神楽は俯いたまま動きを止めたので竜太はゆっくりと口を開いた。
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