20 / 45
20 新しくできた街
しおりを挟む
石畳の道筋に月明かりが差している。
傍らに咲く薔薇の香りが生温い風にのって馬車の中にも漂ってくる。
ジャンパール卿は座席に扇子を軽く打ち付けた。
少し蒸し暑いのはオリヴィエも同じだった。
ジャンパール卿とは違い、喉元まできっちりとボタンを留めている。
行く先はジャンパール卿もよく知らないらしい。彼の友人が予約した馬車で、新しい社交場所とやらへ向かっている。
オリヴィエは髪を帽子の中に押し込み、顔の半分を覆う仮面をつけていた。仕事に差し支えがあったら困るからだ。
仮面は白い紙製のシンプルな作りだった。装飾は何もついていない。
王宮警備隊に扮していた公爵は、派手な仮面をつけていたが……
オリヴィエはポケットの中の櫛を握りしめた。それはほどよく冷たくて持っていると気持ちが落ち着いたのだ。
沈黙をジャンパール卿が破った。
「君はどんなタイプが好みなんだ?」
「……お義兄さんはどうですか? 姉が積極的だったと聞きましたが」
「うん。アリーナは理想の人だよ。彼女がまさかわたしを好きになってくれるとは思わなかったんだ。彼女は美人で気立てが良くてデビューしてから注目の的だったからね」
思い出したのか、ジャンパール卿は微笑んだ。
「わたしが初めてアリーナへダンスを申し込んだとき、彼女はびっくりした顔をしていた。年寄りがダンスを申し込んでくるなんて思わなかったんだろう。踊っている間は、若者のように胸が高鳴ったよ。いや、わたしの話なんかどうでもいい。君に尋ねているんだった」
話が返ってきて、オリヴィエは内心ため息をついた。
自分自身のことがわからないのに、好みのタイプなんてわかるわけがない。
ジャンパール卿は手元に用紙を開き、何か書き留め始めた。
「好きな顔とかスタイルとかないのかな」
先日の義兄と姉の会話を思い起こして、ここはなんとかうまいこと言っておかないと、ややこしくなりそうだと感じる。
まだ着かないのか?
架空の想い人でも作っておいたらどうだろう、ふと脳裏にひらめく。しかしジャンパール卿は勝手に会話を終わらせていた。
「わかった。それじゃあいろいろなタイプを制覇してみよう」
「は?」
「いや、一度にじゃなく。少しずつ回を重ねれば、好みのタイプが絞られてくるんじゃないかな」
この一瞬で、オリヴィエの神経は針を振り切った。
内心もうひとつため息を増やし、座席に寄りかかる。
わくわくしているジャンパール卿に対し、オリヴィエの心は冷めていた。
オリヴィエは新しくできたという歓楽街の調査をしておいたほうがいいのではないか、ただそれだけだった。状況を把握したら、ジャンパール卿を置いて帰ろうと考えている。
目の前の人物は、以前違法な薬物がまん延してしまったエリガレーテ地区を、王宮と一緒に摘発したのがオリヴィエだとは知らない。
馬車の速度が落ちたので窓から外を覗くと、瀟洒な一軒家が点在しているのが見えた。
大通りを下ってエメデーレ広場を曲がったので、おおよその場所は推測できる。
オリヴィエの記憶だとこの辺りは以前ラザール侯爵家が所有していたはずだが、ひとり息子と侯爵夫人が亡くなり売りにだされていたはずだった。
道はきれいに舗装され、一軒家は新しく建てられたばかりのようだ。
一定の間隔で立っている街灯が、往来する馬車や紳士の姿を照らし出す。
歓楽街とはまったく異なる趣に、オリヴィエは眉根を寄せた。
街並みは整然とし、客引きや辻立ちをしている女性は皆無だ。呼び込みも漂ってくる白粉の香りもない。酒瓶や瓶の欠片も落ちてはいない。清潔で安全そうに見える。
とうとう馬車は目的の場所に止まった。
「オリヴィエ君、こっちだ」
ジャンパール卿は馬車を降りて、鼻歌交じりに先を進んで行く。
オリヴィエの左側には建物を囲むように、生け垣が続いていた。そこから伸びた枝には小さな白い花がたくさん咲いている。
何気なくその枝に手を伸ばすと、枝葉の向こうに、人が立っているのが見えた。
オリヴィエは思わず白い花のひと束を握りしめた。
黒いシャツを着ている人物がそこに立っていた。
その横顔はとても美しいが、胸が切なくなるような表情を浮かべている。
何かがこみ上げてきて、オリヴィエは胸を押さえた。
どこからか現れた少年がリシエ・ピエレイドを建物の中に手招きすると、彼は音を立てず家の中に消えた。
その数秒は幻のようだった。
ジャンパール卿が戻ってきて、首をかしげた。
「大丈夫か? 君は心臓が悪いのか?」
「……いえ、こういう場所に不慣れなので」
手のひらに残った白い花は、離れていかない。オリヴィエはそのまま手を上着のポケットに入れた。ジャンパール卿は笑った。
「最初は誰でも緊張するんだ」
そして、オリヴィエの腕を取って先を歩いて行った。
***
ジャンパール卿が入っていったのは、その生け垣のある三階建ての一軒家だった。
用心棒の姿はない。建物の内装は白で統一され、案内された部屋にもいかがわしさは感じない。貴族の館には及ばないが、庶民の家よりはるかに立派だ。
バーリーはそれとわかりやすい遊び場をつくったが、ここを管理している人物は真逆の感性の持ち主だ。
ジャンパール卿を迎えた女性は、レースが幾重にもついた豪華なドレスを着ており、街中で出会っても娼館の女将には見えない。つけている香水も控えめだ。
女将はジャンパール卿が渡した紙を読み上げた。
「器量が良くて、スタイル良し。積極的。若くて気立てのいい女の子……」
そう言って、オリヴィエを見つめた。
さきほど何か書いていると思っていたら、それだったのか。
それはお義兄さんの好みのタイプだろう……
オリヴィエが義兄を見つめると、わかっているといったように頷いて、立ち上がった。
「じゃあ、そろそろわたしは帰らなければならない。彼女に何でも聞いてくれ」
オリヴィエは先に帰るか一緒に帰るつもりでいたので、驚いて義兄を見上げた。
おいて行かれるとは思っていなかった。
さすがに見知らぬ街中を夜道彷徨うことは避けたい。
もしかして、本当に一晩買わないといけないのか。
警察だとばれたらどうするんだ?
今後やりにくくなるではないか……
立ち上がりかけたオリヴィエをジャンパール卿は押し戻し、楽しみたまえ、と言い残し去って行った。
傍らに咲く薔薇の香りが生温い風にのって馬車の中にも漂ってくる。
ジャンパール卿は座席に扇子を軽く打ち付けた。
少し蒸し暑いのはオリヴィエも同じだった。
ジャンパール卿とは違い、喉元まできっちりとボタンを留めている。
行く先はジャンパール卿もよく知らないらしい。彼の友人が予約した馬車で、新しい社交場所とやらへ向かっている。
オリヴィエは髪を帽子の中に押し込み、顔の半分を覆う仮面をつけていた。仕事に差し支えがあったら困るからだ。
仮面は白い紙製のシンプルな作りだった。装飾は何もついていない。
王宮警備隊に扮していた公爵は、派手な仮面をつけていたが……
オリヴィエはポケットの中の櫛を握りしめた。それはほどよく冷たくて持っていると気持ちが落ち着いたのだ。
沈黙をジャンパール卿が破った。
「君はどんなタイプが好みなんだ?」
「……お義兄さんはどうですか? 姉が積極的だったと聞きましたが」
「うん。アリーナは理想の人だよ。彼女がまさかわたしを好きになってくれるとは思わなかったんだ。彼女は美人で気立てが良くてデビューしてから注目の的だったからね」
思い出したのか、ジャンパール卿は微笑んだ。
「わたしが初めてアリーナへダンスを申し込んだとき、彼女はびっくりした顔をしていた。年寄りがダンスを申し込んでくるなんて思わなかったんだろう。踊っている間は、若者のように胸が高鳴ったよ。いや、わたしの話なんかどうでもいい。君に尋ねているんだった」
話が返ってきて、オリヴィエは内心ため息をついた。
自分自身のことがわからないのに、好みのタイプなんてわかるわけがない。
ジャンパール卿は手元に用紙を開き、何か書き留め始めた。
「好きな顔とかスタイルとかないのかな」
先日の義兄と姉の会話を思い起こして、ここはなんとかうまいこと言っておかないと、ややこしくなりそうだと感じる。
まだ着かないのか?
架空の想い人でも作っておいたらどうだろう、ふと脳裏にひらめく。しかしジャンパール卿は勝手に会話を終わらせていた。
「わかった。それじゃあいろいろなタイプを制覇してみよう」
「は?」
「いや、一度にじゃなく。少しずつ回を重ねれば、好みのタイプが絞られてくるんじゃないかな」
この一瞬で、オリヴィエの神経は針を振り切った。
内心もうひとつため息を増やし、座席に寄りかかる。
わくわくしているジャンパール卿に対し、オリヴィエの心は冷めていた。
オリヴィエは新しくできたという歓楽街の調査をしておいたほうがいいのではないか、ただそれだけだった。状況を把握したら、ジャンパール卿を置いて帰ろうと考えている。
目の前の人物は、以前違法な薬物がまん延してしまったエリガレーテ地区を、王宮と一緒に摘発したのがオリヴィエだとは知らない。
馬車の速度が落ちたので窓から外を覗くと、瀟洒な一軒家が点在しているのが見えた。
大通りを下ってエメデーレ広場を曲がったので、おおよその場所は推測できる。
オリヴィエの記憶だとこの辺りは以前ラザール侯爵家が所有していたはずだが、ひとり息子と侯爵夫人が亡くなり売りにだされていたはずだった。
道はきれいに舗装され、一軒家は新しく建てられたばかりのようだ。
一定の間隔で立っている街灯が、往来する馬車や紳士の姿を照らし出す。
歓楽街とはまったく異なる趣に、オリヴィエは眉根を寄せた。
街並みは整然とし、客引きや辻立ちをしている女性は皆無だ。呼び込みも漂ってくる白粉の香りもない。酒瓶や瓶の欠片も落ちてはいない。清潔で安全そうに見える。
とうとう馬車は目的の場所に止まった。
「オリヴィエ君、こっちだ」
ジャンパール卿は馬車を降りて、鼻歌交じりに先を進んで行く。
オリヴィエの左側には建物を囲むように、生け垣が続いていた。そこから伸びた枝には小さな白い花がたくさん咲いている。
何気なくその枝に手を伸ばすと、枝葉の向こうに、人が立っているのが見えた。
オリヴィエは思わず白い花のひと束を握りしめた。
黒いシャツを着ている人物がそこに立っていた。
その横顔はとても美しいが、胸が切なくなるような表情を浮かべている。
何かがこみ上げてきて、オリヴィエは胸を押さえた。
どこからか現れた少年がリシエ・ピエレイドを建物の中に手招きすると、彼は音を立てず家の中に消えた。
その数秒は幻のようだった。
ジャンパール卿が戻ってきて、首をかしげた。
「大丈夫か? 君は心臓が悪いのか?」
「……いえ、こういう場所に不慣れなので」
手のひらに残った白い花は、離れていかない。オリヴィエはそのまま手を上着のポケットに入れた。ジャンパール卿は笑った。
「最初は誰でも緊張するんだ」
そして、オリヴィエの腕を取って先を歩いて行った。
***
ジャンパール卿が入っていったのは、その生け垣のある三階建ての一軒家だった。
用心棒の姿はない。建物の内装は白で統一され、案内された部屋にもいかがわしさは感じない。貴族の館には及ばないが、庶民の家よりはるかに立派だ。
バーリーはそれとわかりやすい遊び場をつくったが、ここを管理している人物は真逆の感性の持ち主だ。
ジャンパール卿を迎えた女性は、レースが幾重にもついた豪華なドレスを着ており、街中で出会っても娼館の女将には見えない。つけている香水も控えめだ。
女将はジャンパール卿が渡した紙を読み上げた。
「器量が良くて、スタイル良し。積極的。若くて気立てのいい女の子……」
そう言って、オリヴィエを見つめた。
さきほど何か書いていると思っていたら、それだったのか。
それはお義兄さんの好みのタイプだろう……
オリヴィエが義兄を見つめると、わかっているといったように頷いて、立ち上がった。
「じゃあ、そろそろわたしは帰らなければならない。彼女に何でも聞いてくれ」
オリヴィエは先に帰るか一緒に帰るつもりでいたので、驚いて義兄を見上げた。
おいて行かれるとは思っていなかった。
さすがに見知らぬ街中を夜道彷徨うことは避けたい。
もしかして、本当に一晩買わないといけないのか。
警察だとばれたらどうするんだ?
今後やりにくくなるではないか……
立ち上がりかけたオリヴィエをジャンパール卿は押し戻し、楽しみたまえ、と言い残し去って行った。
0
お気に入りに追加
4
あなたにおすすめの小説
小さなことから〜露出〜えみ〜
サイコロ
恋愛
私の露出…
毎日更新していこうと思います
よろしくおねがいします
感想等お待ちしております
取り入れて欲しい内容なども
書いてくださいね
よりみなさんにお近く
考えやすく
病気になって芸能界から消えたアイドル。退院し、復学先の高校には昔の仕事仲間が居たけれど、彼女は俺だと気付かない
月島日向
ライト文芸
俺、日生遼、本名、竹中祐は2年前に病に倒れた。
人気絶頂だった『Cherry’s』のリーダーをやめた。
2年間の闘病生活に一区切りし、久しぶりに高校に通うことになった。けど、誰も俺の事を元アイドルだとは思わない。薬で細くなった手足。そんな細身の体にアンバランスなムーンフェイス(薬の副作用で顔だけが大きくなる事)
。
誰も俺に気付いてはくれない。そう。
2年間、連絡をくれ続け、俺が無視してきた彼女さえも。
もう、全部どうでもよく感じた。
いっぱい命じて〜無自覚SubはヤンキーDomに甘えたい〜
きよひ
BL
無愛想な高一Domヤンキー×Subの自覚がない高三サッカー部員
Normalの諏訪大輝は近頃、謎の体調不良に悩まされていた。
そんな折に出会った金髪の一年生、甘井呂翔。
初めて会った瞬間から甘井呂に惹かれるものがあった諏訪は、Domである彼がPlayする様子を覗き見てしまう。
甘井呂に優しく支配されるSubに自分を重ねて胸を熱くしたことに戸惑う諏訪だが……。
第二性に振り回されながらも、互いだけを求め合うようになる青春の物語。
※現代ベースのDom/Subユニバースの世界観(独自解釈・オリジナル要素あり)
※不良の喧嘩描写、イジメ描写有り
初日は5話更新、翌日からは2話ずつ更新の予定です。
社畜だけど異世界では推し騎士の伴侶になってます⁈
めがねあざらし
BL
気がつくと、そこはゲーム『クレセント・ナイツ』の世界だった。
しかも俺は、推しキャラ・レイ=エヴァンスの“伴侶”になっていて……⁈
記憶喪失の俺に課されたのは、彼と共に“世界を救う鍵”として戦う使命。
しかし、レイとの誓いに隠された真実や、迫りくる敵の陰謀が俺たちを追い詰める――。
異世界で見つけた愛〜推し騎士との奇跡の絆!
推しとの距離が近すぎる、命懸けの異世界ラブファンタジー、ここに開幕!
元おっさんの俺、公爵家嫡男に転生~普通にしてるだけなのに、次々と問題が降りかかってくる~
おとら@ 書籍発売中
ファンタジー
アルカディア王国の公爵家嫡男であるアレク(十六歳)はある日突然、前触れもなく前世の記憶を蘇らせる。
どうやら、それまでの自分はグータラ生活を送っていて、ろくでもない評判のようだ。
そんな中、アラフォー社畜だった前世の記憶が蘇り混乱しつつも、今の生活に慣れようとするが……。
その行動は以前とは違く見え、色々と勘違いをされる羽目に。
その結果、様々な女性に迫られることになる。
元婚約者にしてツンデレ王女、専属メイドのお調子者エルフ、決闘を仕掛けてくるクーデレ竜人姫、世話をすることなったドジっ子犬耳娘など……。
「ハーレムは嫌だァァァァ! どうしてこうなった!?」
今日も、そんな彼の悲鳴が響き渡る。
【BL】国民的アイドルグループ内でBLなんて勘弁してください。
白猫
BL
国民的アイドルグループ【kasis】のメンバーである、片桐悠真(18)は悩んでいた。
最近どうも自分がおかしい。まさに悪い夢のようだ。ノーマルだったはずのこの自分が。
(同じグループにいる王子様系アイドルに恋をしてしまったかもしれないなんて……!)
(勘違いだよな? そうに決まってる!)
気のせいであることを確認しようとすればするほどドツボにハマっていき……。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる