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許されぬ恋路の果て
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山、といえば谷。細かい雨でもひとしきり降れば流れる川の水嵩は増すが、ここ背川谷の背川は暴れることはあまり無い。
日はまだ沈むに早い。雨は止んだ。しかし未だに空は白、谷から湧く霧が視界を漂う。
草鞋の下に積み重なる葉は踏まれる毎に水を滲ませる。深い森、峠を下るは若い男女。
「滑るぞ、気をつけろ」
笠を目深に被った二本差し、姓は宮崎、名は京之介という。
「兄上」
京之介に手を引かれ、慣れぬ山道を恐る恐る歩くのは妹のれんである。並ならぬ理由の旅ゆえに、目立たぬよう地味な小袖姿で、兄と同じく笠の下、髪は上げずに結えてあるだけだ。
「疲れたか」
立ち止まって笠を上げ、京之介が振り返る。
「いいえ」
れんは京之介の目を見、繋いでいる手に力を込めた。
無言。暫しの静止の後、再び歩き出す。
(おかしなものだ)
京之介は口の端を歪めた。疲れれば休み、腹が減れば飯を食う。病にかかれば薬を服し、今は怪我をせぬよう足元を気にしている。
(死に場所を求めた旅だというのに)
同じ親から生まれた者同士が想い合うなど、いつの世においても許される筈が無い。結ばれる時は死ぬ時と、覚悟を決めて家を出た。
すでに、連れ立つこと数日。早くもれんは口数少なく、頬には張りがなくなってきていた。始終家の中にいて、一人では門の外へも出ないような娘だったのだから無理もない。それでも黙ってついてくる。自分から休みたいと言い出すことも無い。武家の娘だ、芯の強さはそれなりにある。
(いっそ、れんが男だったら)
京之介は思う。れんが女でなければ、道ならぬ恋に身を焦がし親に先立つことも家名を汚すこともなかっただろう。
二人して背を向けた家は御目見能わずとも五人扶持、京之介にはまだ許婚はないが、れんの相手は決まっている。
(これが運命というやつか)
心の中で父母に詫び、京之介はれんの手を握り返す。
峠を降りるにつれ水の流れる音が聞こえ、森が切れた。
「川だ、少し休むぞ」
しかし川面は濁として、二人に憩いを与えてくれそうにはない。
「飲めそうな水を探してくる。れんは座って待っていろ」
「れんも参ります」
「いや、岩場は濡れて滑る。すぐに戻る、待っていろ」
不満か、不安か。口を噤むれんをおいて京之介は川上へ足を向ける。連日の雨は川底の砂を上げ、流れも速くしていたが、岩の陰に回り込めば、静かに淵が口を開けていた。
雲の向こうに在処を隠す日の光は水面に男の顔を映した。見たところ澄んだ水、掬い上げても臭みはない。京之介は濡れた手を舐めた。無味。
京之介は竹筒に水を酌んで飲んだ。喉を落ちていく冷たさに渇きが癒える。笠を外し、顔を洗って一息つく。
川の流れの澱む所なら水は腐り、飲めたものではないだろう。とすると、淵の底には湧き水の出どころでもあろうか。川に接していながら清らかさを湛えている。
川上からの流れを避る岩は苔が生し、細い雑木が二本三本生えていた。はらりと落ちてきた葉が風に吹かれて水面を滑る。淵の端まで押し出されると、呆気なく濁流に飲まれていった。淵はただ、佇んでいるだけである。
水の色は暗く川底を塗り籠める。淵を囲む崖の上の雑木林、丁度良い翳り。拾った小石を投げ込めば、沈む先は目で追えぬ。
竹筒に水をくんで戻る。足音に振り返るれんは、血の気のない唇に紅を差していた。
「れんをおいて、どこかへ行ってしまわれたのかと思いました」
言いながら目を潤ませ、京之介を見上げる。
「どこにも行くわけがない」
京之介は笑った。れんの頬に触れれば冷たく、小刻みな震えが伝わってくる。
れんの紅い唇は、胎の中で縒られた獣の仔の如く、対を成して白い肌に横たわっていた。抱き寄せて吸い付けば、奥でもう一匹が蠢く。こじ開けて追えば縋り来る、性に目覚めた肉片は、女。
京之介の指は若葉を喰む虫の如くれんの柔らかさを貪る。着物を潜り腿を這い、乳房にめり込む十本の触角、ぬめりを纏って温もりに突き立つ蛹は、男。
重なり合う二つの影、濁流にはらり、葉が落ちる。
「少し歩く」
乱れた着装を整えて、京之介は言った。はい、と髪を撫でつけながら、れんは答えた。
行く先は、淵。
繋ぐ手は、最早兄と妹ですらない。無論、恋仲や夫婦と認められようもない。男と女、それだけの、隣り合ってもひたすらに遠く、未来のない二人。
岩場で足を止めて京之介が領いただけで、れんは何も言わずに髪を解いた。懐から取り出した櫛を一度水にさらし、髪を梳く。
「貸してみろ」
京之介はれんから櫛を取り上げて、髪を梳いてやった。こびりついた泥で櫛の目が詰まる度、淵の水で濯ぐ。水中で砂粒に解れた泥は、銘々に沈んでいく。京之介の髷はれんが整えた。
れんが髪を纏めていた紐で互いの手を固く結ぶ。京之介の左手とれんの右手が一つに括られれば、後は。
波紋が切れ、沈黙する淵。
いいのか、とは京之介は聞かなかった。しがみついてくるれんの腰を抱き、目を見つめれば頷く。京之介とれんは、揃って足を水に入れた。罪深く哀しい生き物たちの向かう先は、闇。
日はまだ沈むに早い。雨は止んだ。しかし未だに空は白、谷から湧く霧が視界を漂う。
草鞋の下に積み重なる葉は踏まれる毎に水を滲ませる。深い森、峠を下るは若い男女。
「滑るぞ、気をつけろ」
笠を目深に被った二本差し、姓は宮崎、名は京之介という。
「兄上」
京之介に手を引かれ、慣れぬ山道を恐る恐る歩くのは妹のれんである。並ならぬ理由の旅ゆえに、目立たぬよう地味な小袖姿で、兄と同じく笠の下、髪は上げずに結えてあるだけだ。
「疲れたか」
立ち止まって笠を上げ、京之介が振り返る。
「いいえ」
れんは京之介の目を見、繋いでいる手に力を込めた。
無言。暫しの静止の後、再び歩き出す。
(おかしなものだ)
京之介は口の端を歪めた。疲れれば休み、腹が減れば飯を食う。病にかかれば薬を服し、今は怪我をせぬよう足元を気にしている。
(死に場所を求めた旅だというのに)
同じ親から生まれた者同士が想い合うなど、いつの世においても許される筈が無い。結ばれる時は死ぬ時と、覚悟を決めて家を出た。
すでに、連れ立つこと数日。早くもれんは口数少なく、頬には張りがなくなってきていた。始終家の中にいて、一人では門の外へも出ないような娘だったのだから無理もない。それでも黙ってついてくる。自分から休みたいと言い出すことも無い。武家の娘だ、芯の強さはそれなりにある。
(いっそ、れんが男だったら)
京之介は思う。れんが女でなければ、道ならぬ恋に身を焦がし親に先立つことも家名を汚すこともなかっただろう。
二人して背を向けた家は御目見能わずとも五人扶持、京之介にはまだ許婚はないが、れんの相手は決まっている。
(これが運命というやつか)
心の中で父母に詫び、京之介はれんの手を握り返す。
峠を降りるにつれ水の流れる音が聞こえ、森が切れた。
「川だ、少し休むぞ」
しかし川面は濁として、二人に憩いを与えてくれそうにはない。
「飲めそうな水を探してくる。れんは座って待っていろ」
「れんも参ります」
「いや、岩場は濡れて滑る。すぐに戻る、待っていろ」
不満か、不安か。口を噤むれんをおいて京之介は川上へ足を向ける。連日の雨は川底の砂を上げ、流れも速くしていたが、岩の陰に回り込めば、静かに淵が口を開けていた。
雲の向こうに在処を隠す日の光は水面に男の顔を映した。見たところ澄んだ水、掬い上げても臭みはない。京之介は濡れた手を舐めた。無味。
京之介は竹筒に水を酌んで飲んだ。喉を落ちていく冷たさに渇きが癒える。笠を外し、顔を洗って一息つく。
川の流れの澱む所なら水は腐り、飲めたものではないだろう。とすると、淵の底には湧き水の出どころでもあろうか。川に接していながら清らかさを湛えている。
川上からの流れを避る岩は苔が生し、細い雑木が二本三本生えていた。はらりと落ちてきた葉が風に吹かれて水面を滑る。淵の端まで押し出されると、呆気なく濁流に飲まれていった。淵はただ、佇んでいるだけである。
水の色は暗く川底を塗り籠める。淵を囲む崖の上の雑木林、丁度良い翳り。拾った小石を投げ込めば、沈む先は目で追えぬ。
竹筒に水をくんで戻る。足音に振り返るれんは、血の気のない唇に紅を差していた。
「れんをおいて、どこかへ行ってしまわれたのかと思いました」
言いながら目を潤ませ、京之介を見上げる。
「どこにも行くわけがない」
京之介は笑った。れんの頬に触れれば冷たく、小刻みな震えが伝わってくる。
れんの紅い唇は、胎の中で縒られた獣の仔の如く、対を成して白い肌に横たわっていた。抱き寄せて吸い付けば、奥でもう一匹が蠢く。こじ開けて追えば縋り来る、性に目覚めた肉片は、女。
京之介の指は若葉を喰む虫の如くれんの柔らかさを貪る。着物を潜り腿を這い、乳房にめり込む十本の触角、ぬめりを纏って温もりに突き立つ蛹は、男。
重なり合う二つの影、濁流にはらり、葉が落ちる。
「少し歩く」
乱れた着装を整えて、京之介は言った。はい、と髪を撫でつけながら、れんは答えた。
行く先は、淵。
繋ぐ手は、最早兄と妹ですらない。無論、恋仲や夫婦と認められようもない。男と女、それだけの、隣り合ってもひたすらに遠く、未来のない二人。
岩場で足を止めて京之介が領いただけで、れんは何も言わずに髪を解いた。懐から取り出した櫛を一度水にさらし、髪を梳く。
「貸してみろ」
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れんが髪を纏めていた紐で互いの手を固く結ぶ。京之介の左手とれんの右手が一つに括られれば、後は。
波紋が切れ、沈黙する淵。
いいのか、とは京之介は聞かなかった。しがみついてくるれんの腰を抱き、目を見つめれば頷く。京之介とれんは、揃って足を水に入れた。罪深く哀しい生き物たちの向かう先は、闇。
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