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第五章 オレンジ色の夕陽がやけに眩しかった

第33(最終)話 その教室の片隅で

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 三者面談が行われている教室を後にした仁海は、気が動転して、何も考えられなくなり、頭の中がまっしろになってしまっていた。

「危ないわね、気を付けてよ」
「どこに目をつけてるのっ!」
 俯き、行く当てもないまま校内を彷徨っていた仁海は、何人もの生徒にぶつかりそうになって、そのたびに、相手からの注意や叱責を受けたのであった。

 足も思った通りに動かない。

 一歩あるくごとに、足の重みが増してゆくような、そんな錯覚に仁海は捕らわれ、 まるで、鉄球付きの足枷を足首に括り付けられた囚人のようである。

 やがて、仁海は、校舎の四階まで来てしまった。
 仁海の学校では、四階には特別教室が配されている。その階の一番端にあるのが図書室と図書閲覧室で、その隣に在るのが地学室と地学準備室であった。

 地学教室は、放課後には、図書室の第二閲覧室として生徒に開放されていた。
 感染症のせいで、従来の図書閲覧室は一席空けで利用する事になり、そこで、半分になってしまった座席数を確保するために、放課後には使われない、図書室隣の地学室が第二閲覧室として利用される事になっていた。

 仁海は、その地学室の前の扉を開けた。
 教室の中を見回してみても室内には誰もいない。

 第二図書閲覧室は、本来、地学教室であるので、他の一般教室と同じように、横五列、縦八列、四十の学校用の学習机が並べ置かれている。
 誰一人いない、ガラガラの第二図書閲覧室に足を踏み入れた仁海は、ほとんど無意識なまま、クラスにおける今の座席と同じ、一番うしろの窓際の席に向かった。
 
 着座するや、仁海は、両腕を枕代わりにして、そこに額を押し当てた。
 机の上に突っ伏すと、それまで、ほとんどまっしろであった仁海の脳裏で、今度は、様々な思考が巡り出したのであった。

 秋学期が始まってから一週間が経過したものの、仁海は、淑子に何だかんだと理由をつけられて、昼食の誘いを躱され続け、教室の隅の席でずっと独りで〈食餌〉をしていた。
 このような状況が続けば、さすがに仁海も気付く。
 親友だと思っていた淑子に避けられている、と。

 理由は?
 心当たりはある。
 淑子は、彼女の〈おし〉の関東ツアーのために水戸遠征をした際に、ついでに、大洗に立ち寄った。 
 そして、仁海がエサのパック詰めをしていた時に、淑子は、アオイソメを目にするや、逃げるように立ち去って行ったのだ。
 
 シュッコは、きっとアオイソが気持ち悪くって、「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」みたいに、〈イソメキモけりゃヒトミもキモい〉ってなったんだろうな。

 秋休み明け後のこの前の土日、アオイソメのパック詰めをしていた際に、お箸でアオイソメを摘まみながら、仁海はそんな風に思ったのであった。
 その時、箸の端のイソメをじっと見ながら、仁海はこう独り呟いたのだ。
「最初はキモいって、わたしも思っていたけれど、もう、完全に平気になっちゃって、今やむしろ、かわいく思えちゃってるもん」

 そして、週明けの月曜日の体育の授業の時の事である。
 欠席者や見学者もいたため、その日の体育に参加した生徒の数は奇数であった。
 その授業では、ネットを挟んで、テニスのラリーをする事になった。
 しかし、である。
 その際に、誰ともペアを組めず、余ってしまった一人が仁海であった。
 かくして、仁海は独りで壁打ちをする事になっだのだ。
 ラケットを空振りし、コートの方に転がっていったボールを、壁の前にいる自分の所に返してもらおうと頼んでも、クラスメートは誰も反応してくれなかった。
 仕方なく、仁海が自分で球を拾いにコートに近付くや、まるで汚い物でも避けるかのように、クラスメートがさっと場所を開けたのだ。

 さすがに、仁海も気付いた。
 自分はバイキン扱いされ、ハブられている、と。

 さらに、仁海が校内を歩いている時に、その耳に届いてきたヒソヒソ話の中に、「ヒトミ」と「ミミズ」を繋いだかのような、「ヒトミミズ」という語があったのだ。
 
「ミミズじゃなくって、イソメなんだけどな……」
 廊下で独り言ちながら、仁海は察した。
 仁海が、週末や平日に大洗で釣具店をやっているのを知っているのは淑子のみだ。
 さらに、その淑子だけが、店の中で、仁海がアオイソメを扱っているのを肉眼で視認している。
 そういえば、淑子はアオイソメから目を背けつつも、その写真をスマフォで撮っていた。
 おそらく、淑子が、自分が過度の寝坊で休んでしまった秋休み明けの初日の、仁海の不在の隙に、クラスにアオイソメの話や写真を、ミミズとして拡散させたのであろう。
 その結果として、仁海に付けられたのが「ヒトミミズ」というあだ名であるにちがいない。

 普通の女子高生に、虫、特に足のない生き物を扱っている仁海を、無条件に受け入れられるはずはない。
 仁海だって、店で初めて叔父からアオイソメを見せられた時には、同じように「無理」という反応を示してしまったのだから。

 思えば、仁海がいない間に行われた秋休み明けの初日の席替えも、クラスメートにとって汚物となった仁海を、自分たちから遠ざけるために行われたのかもしれない。

 たしかに、仁海の学校の倫理・道徳教育によって、直接的で物理的ないじめが校内で為される事はほとんどない。だが、若い女の子達の、いわゆる〈生理的嫌悪感〉というものは、禁じようと思っても禁じられるものではないのだろう。
 それが、クラスメートからの無視や、仁海に対するあだ名として表われているのかもしれない。

「バアバ……、わたし、学校で独りになっちゃった」

 高校の卒業までの一年半、このまま、仁海は学校で〈ボッチ〉のまま過ごす事になるかもしれない。
 たとえ、平日の学校で独りぼっちだとしても、趣味であるアニソンの〈現場〉に行って、〈身内〉達に会えていたのならば、まだ仁海にも救いがあったにちがいない。

「〈現場〉にも行けんし、わたし、何ひとつ楽しみがないよ」

 仁海は、週末と祝日に大洗に行って店を運営しているので、今、ライヴやイヴェントに行くことはできない。否、今後もそれは、おそらく無理で、もはや、アニソン現場からは〈他界〉するしかないのだ。

 その大洗のお店だって、オモリを売り間違えて以来、叔父のツヨシとの間に見えない亀裂が入ってしまっているし、また、最近、素人店長の仁海に厳しく当たってくる、地元の玄人の釣り人のお客さんもいたりして、ここのところ、店での仁海は、精神的にかなりまいってしまっていたのだ。

「お店、誰も手伝ってくれない。バアバ、夢の中でも構わないから会いたいよ……」

 学校では皆から無視され、気晴らしに、アニソンの〈現場〉に行く事もできず、週末に通っている大洗には頼れる人もいないまま、独りで店をやっている。
 何の楽しみもなく、この悩みを誰にも話せず、それを抱えたまま、このまま独りで、ずっと過ごしていかねばならないのだ。

「どこにも、わたしの居場所がないのよ」

 机に突っ伏したままの、仁海の背中が小刻みに震え始めていた。
 でも、誰もいないとはいえ、ここは図書室の閲覧室、声を出して、泣く分けにはいかない。
 仁海は、漏れそうになる嗚咽を押し留めていた。

 えっ!

 震える仁海の肩に触れる手があったのだ。

 仁海が泣き顔を上げると、そこには、何となく見覚えのある顔があった。
 それは、一番うしろの窓際の仁海の席、その隣の空席を宛がわれているクラスメートであった。
 彼女は、いわゆる〈別室登校〉をしている生徒で、図書室の閲覧室でオンラインで授業を受けている。
 仁海は、彼女の顔を、ミーティング・アプリを使った際にパソコンの画面上で何度か目にしていた。

「地学準備室にいたら、人の気配がしたので……」
 図書室登校をしている生徒が、そう仁海に声を掛けてきた。
「な、なんか泣いているみたいだけど、大丈夫?」
「ええ」
「たしか、河倉さんだよね。わたしは、同じクラスの杉本保子(やすこ)。河倉さんとは、一度も話した事はないけれど、よかったら、わたしに話てみて。ただ、心の中のもやっとした物を吐き出すだけで、きっと、すっきりするよ。わたしの事は穴って思ってくれて構わないから」
「『穴』って……。はは、なんか『王様の耳はロバの耳』みたいね」

 そして、仁海は、彼女の心の中に抱えているものの全てを保子に、まるで叫ぶように語ったのであった。
 保子は、仁海の話を、頷きながら、途中で何も口を挟まずに、黙って聞いてくれた。

 仁海が全てを語り終えた後、保子の手が、仁海の頭を優しく撫で、それから、保子は一言こう口にしたのだ。
「えらかったね」

 その時、窓から差し込んできたオレンジ色の光が、保子と仁海を照らし出した。
 窓の外に向けた二人の視界に入ってきた夕焼けは、これまでに見たことがないほど綺麗であるように仁海には思えた。
 それから、仁海は、泣いた時とは別の意味で震えながら、祖母の事を思い、こう呟いたのであった。

「バアバ、わたし、凹んだりもするけれど、これからも頑張れそうです」
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