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第四章 エサだけ売っときゃ大丈夫なワケじゃない

第24話 オモイオモリ

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 日曜日の昼過ぎ、叔父はいったん大洗に戻ってきていた。
 前日の夜の報告の電話において、早朝の八〇パックを皮切りに、大洗店でアオイソメがかなり売れた事を仁海から伝え聞いたので、叔父は、追加のイソメを届けに来たのであった。

 鹿島から持ってきたイソメをクーラー室に入れ、エサの手入れを済ませた叔父は、この二日間の大洗の店の状況を仁海に訊ねてきた。
「ヒトミ、で、ここまでの二日、店、どんな感じだった?」
 仁海は応じた。
「潮見表の事とか、さっきみたいに、ハゼ釣りの場所を訊かれたイレギュラーは幾つかあったけれど、オイちゃんが言っていたみたいに、基本、売れたのはほとんど〈アオイソメ〉だけだったよ」
「なっ。とりま、エサだけ売っといてくれれば、それでいいから」
「分かったよ」
「じゃ、俺は鹿島に戻るわ。この後も、大洗のオフクロの店、よろしくな」
 そう言い残して、叔父は鹿島の店に戻って行ったのだが、叔父の大洗の滞在時間は一時間にも満たなかった。

 大洗から鹿島までの距離は約五十キロメートル、自動車で一時間の道のりである。
 叔父は、連休や土日には鹿島に泊まっているのだが、それ以外は、往復百キロメートルもの距離を、ほとんど毎日、行ったり来たりしているのだ。さらに、場合によっては、この日のようにエサを届けるため〈だけ〉に大洗に戻り、とんぼ返りする事さえある。

 仁海は店の外に出て、叔父の車が見えなくなるまで見送っていたのだが、それから、店の中に戻りながら、こう独り言ちた。
「なんか、目の下のクマ、すごかった。当たり前だけど、やっぱ、オイちゃんも相当疲れてるよね」
 だから仁海は思ったのだ。
 どうしても分かんない事は仕方がないけれど、叔父の負担を少しでも減らすために、できる限り独りでやってゆこう、と。

 そんな事を考えながら、店からお勝手に戻ろうとした時、来客を告げるピンポンの音が鳴って、仁海は慌てて店に戻る事になった。

「いらっしゃいませ」
 店先にいたのは、杖を持った、ごま塩頭の六十代と思しき男性であった。

「わたくし、牛久(うしく)の馬越(うまこし)と申す者です」
 牛久というのは茨城県の南部に位置し、牛久大仏で有名な所で、東京からは約五十キロ、大洗までは約七十キロ、自動車だと一時間半程の道のりである。

「実は、こちらのお婆さまが、先日、お亡くなりになった事を新聞の『お悔やみ欄』で知ったのですが……」
「そ、そうなのですね……」
 仁海は、店に立っていた頃の祖母の姿を思い浮かべ、胸がチクリと痛み、目頭が潤むのを覚えた。
「亡くなったお婆さまには、生前、大変お世話になっていたのですが、なかなか大洗に来る時間が取れなくて、ようやく今日、お伺いした次第なのです」
 そう言うと、馬越氏は香典を仁海に手渡してきたのであった。

 仁海は、叔父から、香典を持ってきた客がいらっしゃった場合には、その方の名前を控えて、お勝手に置いてあるお返しを渡すように、と言われていた。
「そうだっ!」 
 叔父から申し付かった通りに返礼品を渡しながら、仁海はある事を思い付いたのである。
「馬越さま、少々、お待ちいただいても、よろしいでしょうか?」
「はい」
 馬越氏に店で待っていただき、二階に上がった仁海は、祖母の遺影を〈連れて〉きたのであった。

 四十九日が未だ済んでおらず、納骨前の祖母の遺骨は二階にあるのだが、杖を突いている馬越氏は足が悪いらしく、急な階段を昇って、お焼香をしていただくのは難しそうに思えた。そこで、仁海は、祖母の遺影を店まで連れて来る事にしたのである。
「おばちゃん……」
 馬越氏は、一言だけ呟くと、手を合わせ、しばらくの間、黙祷したのだった。

 祖母の写真を二階に連れて行った仁海が、店に戻ってくると、馬越氏が仁海に言った。
「それで今日は、八号の錘(おもり)を一袋いただきたいのですが……」

 えっ! オ、オモリですってっ!
 叔父からは、エサだけ売っていれば、それで大丈夫だから、と言われていた。
 だから、白い箱に入っているコオリとコマセに加え、仁海が先ず優先的に覚えたのは、ウグイ、モエビ、そしてアオイソメといった活き餌の事であった。
 一方、糸や針のような道具に関しては、客が勝手に物色して選んで買ってゆくから、無問題という話だったので、こっちは後回しにし、仁海は未だ道具の事は何一つとして、何処に何があるのかさえ全く把握していないのだ。

「少々お待ちくださいね」
 もう、オイちゃん、エサだけ分かれば大丈夫って言ってたじゃない、と内心で不満を抱きつつ、仁海はスマフォを手に取って、叔父に電話を掛けようとした。
 だがしかし、仁海は思った。
 ちょっと待って。
 ほんの数分前に車で立ち去っていった叔父は、現在、自動車を運転中だ。
 ながら運転は危ない。そんな危険走行を叔父にさせる分けにはいかない。
 なんでもすぐに叔父にクレクレ電話をするのではなく、できるところまで自分でやってみよう。
 そう思い直した仁海は、スマフォをジーンズ製のエプロンの前ポケットに入れると、店の入り口まで行った。
 それから、入り口近くに置いてある端の商品棚の上から下まで、指でなぞる様にしながら、仁海はオモリを探し始めたのであった。
 だが、仁海の店長代理初日の前に、叔父が商品を整理しておいてくれたのか、入り口近くの一番目立つ所は、ハゼ釣り用の針や仕掛けのコーナーになっていた。
 どうやら、錘があるのは入り口近くの一角ではないようだ。
 
 それから、仁海は、少しずつ店の奥へ移動してゆき、棚を一つ一つ見ていったのだが、なかなか目当ての錘が見つからない。
 そうこうしているうちに、潮氷やコマセが入った白い箱のすぐ脇、最後の商品棚まできてしまった。
 その商品棚は、上の方にサビキ用の仕掛けが置かれていて、下方に、二~三個の様々な形の鉛色の物が入った小さい箱がフックに掛けられていた。

 鉛色の物体っ!

 この鉛色のが、きっとオモリに違いない、間違いない。って事は、この辺りがオモリのコーナーなのかしら?
「えっと、は、はちごう、八号は……。あったけど、こうゆう小分けされた小箱じゃなくって、欲しいのは袋だから、えっと、袋、袋は……。あっ、あったっ!」

 商品棚の一番下のさらに下、床の上に置かれた、ビニールに入った袋詰めの重い錘を、ようやく仁海は見付けるに至ったのである。

 よく考えてみれば、重い物が、商品棚にフック掛けされているはずはない。
 そんな事をしたら、棚は壊れてしまう分けだから、床の上に重い物があるのは道理だ。

「お客さま、たしか、八号でしたよね?」
「ええ」
 最初から、床の上に置かれている鉛色の物を探せばよかったのに、そう思いながら、仁海は軽く腰を折って、錘を両手で持ち上げようとした。
「お、おも、重いぃぃぃ~~~」
 錘がたっぷりと入った袋は思った以上に重く、中途半端な姿勢で持ち上げようとしたら、腰を痛めかねない程の重さであった。
 だから、仁海は、しっかりと腰を落として、身体全体を使って、袋詰めの錘を持ち上げた。

「八号って、これでよろしいでしょうか?」
 袋に表示されている錘の重さを確認すると、馬越氏は言った。
「そうです」
 
「ありがとうございました。今後ともよろしくお願いします」
 なんだ、エサ以外の道具も、やろうと思えば、なんとかなりそうね、そう思いながら、仁海は馬越氏を店から送り出したのであった。
 だがしかし、である。
 四十秒も経たないうちに、馬越氏が店に引き返してきたのだ。

「あっ、お嬢さん、すみません。たしかに、八号の錘なんですけど、わたしが欲しかったのは、〈ナス〉じゃなくって、〈中通し〉の錘なんですよね」
 えっ! 錘って、号数、重さだけじゃなくって、種類とかもあるの? わたし、錘の区別なんて分かんないよ。そもそも「中通し」って何?

「すみませんでした。少々お待ちください」
 そう思いながら、仁海は、白い箱近くの商品棚まで戻った。
 錘のコーナーまで行ってよく見てみると、同じ号数の錘にも、幾つかの種類があるようだ。
 だが、どれが〈中通し〉かが分からない。
 そこで、仁海は、袋詰めの八号の錘を、一通り、馬越氏に見せて、選んでもらう事にした。

「あっ、これです、これっ!」
 馬越氏が選んだ袋には楕円形の錘が入っていて、そのビニールの袋の表面に「ナツメ・8」とマジックで書かれていた。
 名称は異なるが、それが「中通し」の錘であるようだ。

 そして、今度こそ、仁海は、馬越氏を店から送り出せたのである。

 それにしても、だ。
 たしかに、エサだけ売っていれば八割くらいは何とかなるけれど、潮見表とか橋の場所とか、大洗で店をやってゆく上で知らなければならない事があるのは確かだし、道具も、必ずしも知らなくても無問題って分けではなかった。
 一気に全部を把握し理解するのは難しいかもしれないけれど、一度対応があった道具に関しては、例えば、今日の錘のように、一つずつ勉強してゆこう、と仁海は思ったのであった。
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