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第四章 エサだけ売っときゃ大丈夫なワケじゃない

第23話 橋の名は。

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 「ピンポン」の音が聞こえるや、仁海は、齧りかけていたカンソイモを小皿に置いて、店用のエプロンを手に取った。
 それから、祖父が生前に座っていた座椅子から腰を上げた仁海は、店に出る時のルーチンにしている「あいよおおおぉぉぉ~~~」という祖父の口癖を小声で真似た後で、「いらっしゃいませ」と声を張り、お勝手から店に出たのであった。
 仁海が店に出ると、店の入り口には、小さな右手に千円札を握りしめている、小学生低学年くらいの男の子が立っていた。

「あのねえええぇぇ~~~、そのねえええぇぇ~~~、えっとねえええぇぇ~~~」
 その男の子は何が欲しいのかをうまく表現できないようで、仁海は、つい『はじめてのおつかい』を観ているような気分になってしまった。
「いらっしゃいませ。何が欲しいのかな?」
 仁海は腰を屈めて、自分の目線をその小学生の位置に合わせ、そう尋ねたのであった。
「ぼく、川でハゼ釣りがしたいのです。ハゼのエサが欲しいのです」
「そっか、それじゃ、アオイソメでいいかな?」
 その子は、仁海に大きく頷いてみせた。

「ちょっと待っていてくださいね」
 そう言うと、アオイソメをパック詰めするために、仁海は、店の奥のエサ置き場に向かったのであった。

                   *

 イソメを計りながら、仁海は、研修の際に、あらかじめアオをパック詰めして、冷蔵庫などにストックしておいた方が、サッと客に商品を手渡す事ができるのでは、と叔父に提案した時の事を思い出していた。

「ヒトミの言う事は、よおおおぉぉぉ~~~く分かった。だが断る」
 このように仁海の案は叔父から拒否されてしまった。
「えっ! でも何で?」
「活き餌は新鮮さこそがイノチなんだよ」
「そのイキの良さを少しでも維持するために、パックに砂を敷いているんだよね、たしか」
「その通りだよ。そして、イソメって結構強くって、かなり保つんだけど」
「じゃ、なんで、前もって作っておくのはダメなの?」
「いくら砂を敷いているとは言え、エサ場の水から取り出して、パックに入れちゃうと、なんだかんだで、やっぱ、エサは徐々に弱ってゆくんだよね。だから、売る直前にツクる分けで、つまり、エサの新鮮さこそが、うちの店のウリなんだよ」
「そうなんだ」
 そういえば、チチもよく言っているんだけれど、素人の目から見て、効率が悪いように思える事って、その実、そうせざるを得ない理由があったりするものなのだ。
 だから、前もって生き餌のストックを作っておく方が、素早く売るっていう点では効率が良いように素人には思えるんだけど、少しでも、エサのイキの良さを保つには、客に渡す直前にパック詰めするのがベストなのね、と仁海は思ったのであった。

                   *

 エサ場から戻った仁海は、パック詰めしたアオイソメをビニールに入れ、幼いお客の左手に手渡し、お釣りの四百円を右手にしっかりと握らせたのであった。
「ありぎゃとごじゃいまっしゅっ!」
「はいっ! こちらこそ、ありがとうございます」
 そう言って仁海は、幼き客を送り出したのであった。

 仁海が、ジーンズ製のエプロンの紐を解きながら、お勝手に戻ろうとすると、後方でドアが開く気配がした。
 振り返ると、そこには、先ほどの小学生の客と、その父親と思しき二十代後半くらいの男性がいた。
 仁海は、エプロンの紐を縛りなおした。

「何でしょう?」
「うちの子、明日も釣りをしたいって言っているんですけど、エサって、どんな風に保存しておけばいいんですかね?」
「えっと、ですね……」
 仁海は、脳内にある、叔父から伝えられた雑多な情報に検索をかけてみた。
 パック詰めしたエサを持って行く卸しのお客さんって、エサをどうやって保管しておくのかを尋ねた時に、たしか叔父は……。
「そうですね、冷蔵庫に入れて冷やしておけば、一日二日は保つみたいですよ」
「じゃあ、釣りをするのは今日と明日だから、大丈夫だな」
「もし無くなったら、今日は夜の八時まで、明日も朝の五時からお店をやっているので、いらっしゃってください」
「はい」
 どうやら、小学生の息子さんが釣りにはまって、お父さんの方はその付き添いであるようだ。

「ところで、私たち、大洗の人間じゃなくって、五十一号を通って鉾田から来たんですけど、大洗のハゼ釣りって、どこでやればいいんですかね?」
「えっ!」
 仁海は東京在住者で、大洗の町の地理には未だ詳しくはない。
 だが、叔父がハゼ釣りをするのならば、〈大貫橋〉と言っていたのを、仁海は覚えていた。
「ハゼ釣りは〈大貫橋〉ですね」
「その『オオヌキバシ』って、こっから、どうやって行ったらいいんですか?」
 仁海は大貫橋の場所を知らない。だが、現代には、インターネットという文明の利器がある。

「ちょっと待っていてくださいね。ネットのマップ・アプリで説明いたします」
 分からない振りは微塵も見せずに、仁海は、お勝手にタブレットを取りに行った。

 店に戻った仁海は、タブレットに入っている地図アプリを立ち上げ、その検索窓に「大貫橋」と打ち込んでみた。

 だがしかし、である。
 ヒットした「大貫橋」は、大洗から約一八〇キロメートル離れた所に位置している横浜市内の橋で、その横浜の橋以外に大貫橋は存在しないのだ。
「う、うそ……。な、なんで、なんで……、ひ、引っかかんないのよ……」
 大洗町にあるはずの大貫橋という名の橋が、どこにも見当たらない。

「どうしたんですか?」
「えっと、ちょっと、何故か、大貫橋が検索にかかんなくって……」

 そうだっ!
 仁海は発想を転換させる事にした。
 橋は、大洗の町中を走っている〈涸沼川〉に架かっている橋だ。
 だから、海から川をたどってゆけば、その〈大貫橋〉を見付けられるにちがいない。
 しかし、涸沼川は途中で枝分かれになっていたり、何本もの橋が川に架かっていて、しかも、それらの橋のほとんどには名が無かった。

 ど、どうしよう……。わ、わかんない、
 もう、こうなったら、オイちゃんに電話して訊くしか……。

 仁海がそう思った時、入り口のピンポンが再び鳴り響いたのであった。

 入り口に視線を向けると、そこに居たのは叔父であった。
 叔父は、手伝いの人に鹿島の店を任せて、不足気味になっているエサを届けに、一度大洗に戻ってきたらしいのだ。

「お、オイちゃん、こ、こちらのお客さんが、大貫橋に行きたいらしんだけど、どんな風に道案内をしたら……」
「あっ、大貫橋はですね、行き方は単純で、大洗駅を起点にすると分かり易いんです。
 まず、駅を右手に見て、駅前を通っている〈大洗駅前通り〉をまっすぐ進むと、コンビニがある十字路にぶつかるんですよ。それが〈大貫勘十郎通り〉って呼ばれている〈県道一〇六号〉なんですけど、その大貫通りを右折して、ひたすらまっすぐと進んで行けば、赤い色の橋があって、それが〈大貫橋〉なんです。ここから二、三キロなので、まあ、車で五分くらいですね」
「わかりました。じゃ、行ってみます。ありがとうございました」
 そう言って、父子連れの客は、車で店を後にしていったのであった。

 仁海は、大貫橋の近くに位置している店を「よく使う項目」に追加した後で、タブレットで、大貫橋までの経路をもう一度確認してみた。
 大貫橋までたどり着いた所で、地図の中の橋付近をピンチアウトしてみたのだが、やはりそこには、橋の名は記されてはいない。
「オイちゃん、マップに、大貫橋って橋の名が表示されないんだけど……」
「あっ、それは、大貫橋って大貫町にあって、大貫(勘十郎)通りが通っている橋だから、みんなが『大貫橋』って呼んでいるだけだから」

 それって「大貫には橋がある。名前はまだ無い」みたいな感じじゃない、と仁海は思ってしまったのであった。
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