僕らのイヴェンター見聞録

隠井迅

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LV1.2 パンデミック下のヲタ活模様

第26イヴェ ヲタはパンのみにて生きるにあらず

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 二〇二〇年七月十五日水曜日――

 世界規模の感染症のせいで、春学期の講義は全てオンライン、キャンパスへの入構も禁止だったため、結局、一度も大学に足を踏み入れないまま、冬人の大学一年目の最初の学期は佳境に入っていた。
 テストの実施もレポートの締切も殆どが来週に配されているのだが、冬人は、七月半ばというこの時期には早くも、レポートを全て書き終えていた。
 そして水曜日の十八時、この時間帯に、冬人は、来週金曜日にオンラインで実施される第二外国語のWEBテストのための勉強に勤しんでいた。

 この事を、語学クラスの〈グループ線〉に書き込んだところ、冬人は、〈単位必死系〉、あるいは〈GPAガチ系〉という扱いを受けてしまったのだが、実情は違う。 

 冬人は、〈イヴェント必死系〉なだけなのだ。

 子供の頃から、兄の秋人からは、「やる事をやっときゃ、誰も何も文句は言わない。だから、結果を出せよ」と幾度となく言われてきた。
 もっとも、知的好奇心が旺盛な冬人は、勉強自体が嫌いではないのだが、成績という結果を出すためには、やはりそれなりの対策は不可欠なのだ。
 そして今回、早め早めの対策を講じているのには、実は理由があって、翌週の木曜日から三泊四日の予定で、兄の〈おし〉のホール・コンサート・ツアーの初日に参加するために、秋人と一緒に関西に遠征する予定になっているからなのだ。
 冬人が受験するオンライン・テストの中には、コンサート当日の金曜日の午前中に行われるものや、遠征から戻ってきた翌日の月曜日に実施の試験もある。
 要するに、懸念なくライヴに参加し、〈文ヲタ両道〉を体現するためには、いつ勉強する? 今でしょって、単にそれだけの話なのである。

 さらに、だ。
 今回は、感染症下の東京から遠征する、という事情もあり、開催日から逆算して約三週間前、つまり、七月に入ってからは、緊急事態宣言下にあった四月・五月の時よりも遥かに厳しく自己管理もしてきた。
 例えば、飲食物や生活必需品の買い出し以外には原則外出はせず、帰宅後のうがいはイソジンで、といった徹底ぶりで、誰にも会わず、何処にもいかず、二人兄弟は、ただひたすらに、七月後半に関西で実施されるライヴに備えてきたのである。
 ちなみに、上記の内容を遵守する事が、チケット代金と交通費を全部もってくれる兄・秋人が、遠征する上で、弟の冬人に提示した条件であった。

 二月末以降、ほとんどのイヴェント、ライヴ、コンサートは延期・中止の連鎖反応を起こしていた。
 当局が提示するライヴ開催を可能たらしめる制約、例えば、観客数の制限がネックになって、ほとんどの〈現場〉は開催が不可能になってしまい、結果、延期・中止するか、ガイドライン通りに、入場者を収容可能人数の半分にする代わりに、チケット料金を倍額にするという荒技をするしかなくなっていた。
 だから、赤字になる有観客ライヴの代わりに、苦肉の策として、無観客ライヴを行ったり、観客数半分以下の有観客ライヴと配信のハイブリッドを行ったり、と、それぞれの運営は、苦慮しながら、様々な方法でライヴを開催していたのである。

 二人が参加する、秋人の〈おし〉のホール・コンサートは、〈観客五割〉という当局の条件をクリアする為に、本来、夕方一回のみの予定であった公演を、昼・夜二回に分けて行う、という奇策に打って出た。こうする事によって、チケット料金を上げる事無く、一回の合計参加者を確保できる次第なのだ。

 この方法を考案するのに、運営は時間を要したのかもしれない。
 運営からライヴ開催をどうするのか、告知が全く無い間、ライヴは延期か、それとも、中止か、あるいは、無観客にして有料配信になるかもしれない、などなど、ヲタク達の間で様々な憶測が飛び交っていたのである。
 
 ネット上の噂に右往左往させられながら、二人兄弟、特に秋人は、過度の不安を覚えていた。
 だが、運営から公式な告知が出て、たしかに、変則的な形になったものの、兄の秋人は、ライヴ・ツアーに参加できる事になって、実に嬉しそうであった。
 もちろん、冬人も、参加に興奮は覚えていたが、なにせ、初めてのフル・ライヴの参加なので、嬉しいというよりも、楽しみな感情が勝っている感じであった。
 ところで、兄・秋人の喜びようは、まさに、〈狂喜乱舞〉と呼ぶに相応しいもので、文字通り、部屋の中で奇声を上げながら踊り狂っていた程であった。
 おそらく、その兄の過剰な感情の原因は、ただ単に、数か月ぶりにアニソン関連のイヴェントが実施されるという話だけではなく、そのライヴが、兄・秋人の〈最おし〉の一翼である、アニソンシンガー、〈翼葵(つばさ・あおい)〉さんの公演だからであるにちがいない。

 実は、今から四年前に、翼葵は一度マイクを置いた。
 その当時、高校二年生であった兄の秋人は、志望大学の文化祭に参加する事を大義名分にして、学校を休み、十一月初めに開催された、武道館のラスト・ライヴ・ツーデイズに参加していた。
 そして活動休止中の間は、葵さんの声を耳にしただけで涙が溢れ出てきて、兄は、その葵さんの楽曲を、ただの一曲も聴くことができなかったそうだ。
 その翼葵が、約一年九か月の沈黙を破って復帰した時の、受話器の向こう側の兄・秋人の興奮ぶりを、冬人は今でも忘れる事ができない。

 冬人も、来週のライヴを楽しみにしている事に嘘はないのだが、実を言えば、秋人には全くもって比べるべくもないのだ。
 本当に〈おし〉ているって、あのような状態を言うんだろうな。
 そういう意味では、冬人は、真の〈おし〉を見付けるには未だ至っていない分けで、言ってみれば、単なるただのアニソン好きに過ぎないのだ。

 今回の関西公演では、座席を半分にした昼・夜二回公演というだけではなく、会場周囲での集合の禁止、物販に関しては事前のオンライン購入の推奨、発熱者は入場禁止、マスク着用の上での声出し禁止、公演中に咳をした場合は、理由のいかんを問わず退場、ライヴでの起立は禁じないが、ジャンプは禁止などなどが、モラルやマナーではなく、禁則事項として事細かく明文化されていた。噂では、場合によっては、潜在的な違反者に対する抑止力として、ガイドライン・チェッカーが会場に配置される可能性もあるそうだ。
 こうした長文のルールが公表になった時、SNS上では、「ジャンプできないなんて、地獄」、「棒振り人形してろってか」、あるいは、「叫べず、跳べず、そんなのライヴじゃね~よ」、「つまんね~わ、おれ、行かね」のような、否定的な不平不満者も湧き出ていた。

 この話題について、兄の秋人と話していた時、秋人はこんな意見を述べていた。
「たしかに、楽しみ方は千差万別、人それぞれだよ。コールやジャンプは、ライヴで自分が盛り上がるためのアルコールみたいなものだけれど、それができなきゃ、ライヴで楽しめないって、なんかもったいないよ。
 楽曲を深く理解できていれば、もっともっと違った楽しみ方もあると思う。
 コールは声を出さずに口パクで叫べばよいし、ジャンプポイントは膝の屈伸で代用、演者の世界に没入して、手振りをすれば、単調なボッコ・フリッカーにはならないと思うし、コール禁止、ジャンプ禁止だからって、つまんないなんて事は全くない。
 面白き事は自分で見つけなくっちゃ」
「なるほどね」
「それに、俺が尊敬するイヴェンターがこう呟いていたんだ」
「なんて?」
「目の前で演者が歌ってくれる、これ以上の喜びがあって?」

 至言だ。
 これこそが、真に〈おし〉ているっていう事なのだろう。
 
 そして、七月十五日水曜日十八時十八分――
 スマフォに一通のメールが届いた。

 それは――
 秋人の〈おし〉である翼葵の関西公演の中止を告げるものであった。
 それだけではない。
 その一公演だけではなく、以後の公演全て、つまり、コンサート・ツアーの中止を知らせるものでもあったのだ。
 
 冬人が、そのメールを読んでいる、まさにその時であった。
 兄の部屋から絶叫が迸り、同時に、SNS上に、百四十文字、字数制限一杯のツイートが流れてきたのだ。

「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ」

 その後、中止を英断だとする言及や、中止や返金方法に対する不平不満、演者や運営に対する罵詈雑言などがSNS上で氾濫していた。
「うっせえぇ、うっせえぇ、うっせぇぇぇ~んだよ」

 秋人は、そんな風に荒っぽく空リプした後、TL上からしばらくの間、姿を消し、リアルにおいても、長いこと、部屋から出てこなくなった。

 扉の向こうからは、ただ、秋人の嗚咽だけが漏れ出ているのが、冬人の耳に届いていたのであった。
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