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一巡目(二〇二二)
第067匙 中年はお皿を抱け:学士会館 THE SEVEN’S HOUSE(E07)
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この日の夜、書き手は、東西線の竹橋駅で下車すると、徒歩で、神田警察通りと白山通りの角に位置している〈学士会館〉に向かった。
学士会館を本拠地としている〈学士会〉とは、北海道大学、東北大学、東京大学、名古屋大学、京都大学、大阪大学、九州大学の学生、卒業生、教員などの約五万人の会員からなる、国立七大学の合同同窓団体で、その創立は一八八六年、明治十九年にまで遡る事ができ、すなわち、百三十年以上の歴史を誇っている。
学士会館それ自体の起源は、一九一三年、大正二年で、この時に、西洋風の木造二階建ての施設が建てられたそうなのだが、その後、焼失などの紆余曲折を経て、今現在の学士会館が開業されたのは、一九二八年、昭和三年五月二十日の事であった。
すなわち、雰囲気のあるレトロな建築物である学士会館は、八十五年の歴史を持ち、二十年前の二〇〇三年、平成十五年には、国の有形文化財に登録された。
この学士会館には、四つのレストランや料理店が入っているのだが、それらは、国立七大学出身の学士会会員以外の者にも開かれている。
学士会の会員ではない、私立大学出身の書き手が学士会館のレストランに入れたのも、こうした一般公開のおかげである。
かくして、書き手が訪れたのは、学士会館の一階に位置しているレストラン「セブンズハウス」であった。この店名は、おそらく〈七つ〉の大学に由来しているのであろう。
独りで入店した書き手は、一番奥、窓際の横並びの席に案内された。
〈おひとりさま〉での来店だから窓際に追いやられたのかな、と思いきや、案内してくださったスタッフによると、その窓際の席は、夜の白山通りを見下ろす事ができ、店内で最も眺めが良い、との事で、勘ぐった自分が恥ずかしくなってしまった。
さて、セブンズハウスでは、様々な洋食が提供されているのだが、その中に、「新クラーク・カレー」がある。
この料理名に入っている〈クラーク〉という固有名詞からも分かるように、その由来は、北海道大学と深い関わりを持つ、あのクラーク博士である。
ウィリアム・スミス・クラーク 博士(一八二六~一八八六年)といえば、「Boys,be ambitious」の名言で有名な人物である。
これは、今の北広島市にて、クラーク博士が教え子達との別れの際に、馬上から発した言葉であるそうだ。
明治時代の初めに、北海道の開拓を司る行政機関として設置された〈開拓使〉は、未来の北海道開拓の新たな指導者を養成するために、札幌に、今の北海道大学の前身で、高いレベルの高等農業を専門にした〈札幌農学校〉を設立する事にした。
そして、当時の北海道開拓使長官であった黒田清隆氏は、明治九(一八七六 )年七月に、アメリカから、クラーク博士を、初代教頭として招聘したのである。
それゆえに、クラーク博士は、〈北海道開拓の父〉と呼ばれており、北海道大学の敷地内や、札幌の〈羊ヶ丘展望台〉に銅像が設置されているのだ。
北海道を訪れた観光客の中には、羊ヶ丘に行って、風を受けはためくコートを着たクラーク博士の像を真似て、右手を掲げた事がある人もいるかもしれない。しかし実を言うと、銅像こそ置かれてはいるものの、残念ながら、クラーク博士と羊ヶ丘に関係はないそうだ。
さらに驚いた事に、クラーク博士が北海道を去ったのは明治十年四月十六日で、札幌の滞在はわずか八か月だったらしい。
こうした短期滞在にもかかわらず、銅像が建てられ、そこが観光スポットになり、後世にまで名言が残っている事を鑑みると、クラーク博士が北海道に残した影響力の強さが容易に想像できよう。
このクラーク博士が札幌農学校に、延いては、札幌に、北海道に、さらには、日本に残した物は、かの有名な名言だけではなく、〈ライスカレー〉もその一つだと言われている。
八か月の札幌農学校の在任中、全て英語で講義をしていたクラーク博士が打ち出した方針は徹底した〈欧米化〉だったようだ。
札幌農学校の寄宿舎の歴史を記した『恵迪寮史』には、次のような記述がある。
「札幌農学校・札幌女学校等はパン、洋食をもって常食と定め、東京より札幌移転の時も男女学生分小麦粉七万三千斤を用意し米はライスカレーの外には用いるを禁じた位である」
すなわち、食事は、毎食洋食で、米はライスカレーにおいてのみ許されていたそうだ。それは、当時の日本人が栄養失調ぎみなのは、米食の偏重に原因があると考えられていたため、パンを主食とする洋食が推奨されたからである。
その一方で、一日おきに、〈ライスカレー〉が提供されていたらしい。
米食を原則禁じていたにもかかわらず、米を使ったライスカレーを供していたのは、矛盾のようにも思われるのだが、クラーク博士が述べたとされる、次のような言説が当時の寮の規則にさえなっていたらしい。
「生徒ハ米飯ヲ食スベカラズ。但シ、ライスカレイハコノ限リニアラズ」
クラーク博士の発言を米食の許可の言質にしているようにも思えるが、とまれ、当時、ライスカレーが、栄養バランスのよい食事だと考えられていた事は確かであろう。
残念ながら二〇二〇年三月に閉店してしまったのだが、三年前まで北海道大学の構内にあったレストラン「エルム」には、「現代にクラーク博士がいたらこのようなカレーを考案したのでは」というコンセプトの〈クラークカレー〉というメニューがあった。
そして、北海道大学を含めた七大学の共同同窓会である〈学士会館〉では、その道大のクラークカレーを学士会風にした〈新クラーク・カレー〉が提供されている。
書き手は、クラーク博士とライスカレーのエピソードを思い出しつつ、学士会館で新クラーク・カレーの皿を抱えながら、過去に思いを馳せたのであった。
〈訪問データ〉
学士会館 THE SEVEN’S HOUSE:神保町・竹橋
E07
十月二十七日・木曜日・二十時四十五分
新クラーク・カレー:一三〇〇円(クレカ)
〈参考資料〉
「学士会館 THE SEVEN’S HOUSE」、『神田カレー街 公式ガイドブック 2022』、五十六ページ。
〈WEB〉
「クラーク博士とは」、『さっぽろ羊ヶ丘展望台』、二〇二二年一月十八日閲覧。
「日本のカレー カレーが国民食になるまでの歩み」、『ハウス食品株式会社』、二〇二二年一月十八日閲覧。
「第18回 日本の学生を教導したクラーク博士とカレーライス」、『キリンホールディングス』、二〇二二年一月十九日閲覧。
学士会館を本拠地としている〈学士会〉とは、北海道大学、東北大学、東京大学、名古屋大学、京都大学、大阪大学、九州大学の学生、卒業生、教員などの約五万人の会員からなる、国立七大学の合同同窓団体で、その創立は一八八六年、明治十九年にまで遡る事ができ、すなわち、百三十年以上の歴史を誇っている。
学士会館それ自体の起源は、一九一三年、大正二年で、この時に、西洋風の木造二階建ての施設が建てられたそうなのだが、その後、焼失などの紆余曲折を経て、今現在の学士会館が開業されたのは、一九二八年、昭和三年五月二十日の事であった。
すなわち、雰囲気のあるレトロな建築物である学士会館は、八十五年の歴史を持ち、二十年前の二〇〇三年、平成十五年には、国の有形文化財に登録された。
この学士会館には、四つのレストランや料理店が入っているのだが、それらは、国立七大学出身の学士会会員以外の者にも開かれている。
学士会の会員ではない、私立大学出身の書き手が学士会館のレストランに入れたのも、こうした一般公開のおかげである。
かくして、書き手が訪れたのは、学士会館の一階に位置しているレストラン「セブンズハウス」であった。この店名は、おそらく〈七つ〉の大学に由来しているのであろう。
独りで入店した書き手は、一番奥、窓際の横並びの席に案内された。
〈おひとりさま〉での来店だから窓際に追いやられたのかな、と思いきや、案内してくださったスタッフによると、その窓際の席は、夜の白山通りを見下ろす事ができ、店内で最も眺めが良い、との事で、勘ぐった自分が恥ずかしくなってしまった。
さて、セブンズハウスでは、様々な洋食が提供されているのだが、その中に、「新クラーク・カレー」がある。
この料理名に入っている〈クラーク〉という固有名詞からも分かるように、その由来は、北海道大学と深い関わりを持つ、あのクラーク博士である。
ウィリアム・スミス・クラーク 博士(一八二六~一八八六年)といえば、「Boys,be ambitious」の名言で有名な人物である。
これは、今の北広島市にて、クラーク博士が教え子達との別れの際に、馬上から発した言葉であるそうだ。
明治時代の初めに、北海道の開拓を司る行政機関として設置された〈開拓使〉は、未来の北海道開拓の新たな指導者を養成するために、札幌に、今の北海道大学の前身で、高いレベルの高等農業を専門にした〈札幌農学校〉を設立する事にした。
そして、当時の北海道開拓使長官であった黒田清隆氏は、明治九(一八七六 )年七月に、アメリカから、クラーク博士を、初代教頭として招聘したのである。
それゆえに、クラーク博士は、〈北海道開拓の父〉と呼ばれており、北海道大学の敷地内や、札幌の〈羊ヶ丘展望台〉に銅像が設置されているのだ。
北海道を訪れた観光客の中には、羊ヶ丘に行って、風を受けはためくコートを着たクラーク博士の像を真似て、右手を掲げた事がある人もいるかもしれない。しかし実を言うと、銅像こそ置かれてはいるものの、残念ながら、クラーク博士と羊ヶ丘に関係はないそうだ。
さらに驚いた事に、クラーク博士が北海道を去ったのは明治十年四月十六日で、札幌の滞在はわずか八か月だったらしい。
こうした短期滞在にもかかわらず、銅像が建てられ、そこが観光スポットになり、後世にまで名言が残っている事を鑑みると、クラーク博士が北海道に残した影響力の強さが容易に想像できよう。
このクラーク博士が札幌農学校に、延いては、札幌に、北海道に、さらには、日本に残した物は、かの有名な名言だけではなく、〈ライスカレー〉もその一つだと言われている。
八か月の札幌農学校の在任中、全て英語で講義をしていたクラーク博士が打ち出した方針は徹底した〈欧米化〉だったようだ。
札幌農学校の寄宿舎の歴史を記した『恵迪寮史』には、次のような記述がある。
「札幌農学校・札幌女学校等はパン、洋食をもって常食と定め、東京より札幌移転の時も男女学生分小麦粉七万三千斤を用意し米はライスカレーの外には用いるを禁じた位である」
すなわち、食事は、毎食洋食で、米はライスカレーにおいてのみ許されていたそうだ。それは、当時の日本人が栄養失調ぎみなのは、米食の偏重に原因があると考えられていたため、パンを主食とする洋食が推奨されたからである。
その一方で、一日おきに、〈ライスカレー〉が提供されていたらしい。
米食を原則禁じていたにもかかわらず、米を使ったライスカレーを供していたのは、矛盾のようにも思われるのだが、クラーク博士が述べたとされる、次のような言説が当時の寮の規則にさえなっていたらしい。
「生徒ハ米飯ヲ食スベカラズ。但シ、ライスカレイハコノ限リニアラズ」
クラーク博士の発言を米食の許可の言質にしているようにも思えるが、とまれ、当時、ライスカレーが、栄養バランスのよい食事だと考えられていた事は確かであろう。
残念ながら二〇二〇年三月に閉店してしまったのだが、三年前まで北海道大学の構内にあったレストラン「エルム」には、「現代にクラーク博士がいたらこのようなカレーを考案したのでは」というコンセプトの〈クラークカレー〉というメニューがあった。
そして、北海道大学を含めた七大学の共同同窓会である〈学士会館〉では、その道大のクラークカレーを学士会風にした〈新クラーク・カレー〉が提供されている。
書き手は、クラーク博士とライスカレーのエピソードを思い出しつつ、学士会館で新クラーク・カレーの皿を抱えながら、過去に思いを馳せたのであった。
〈訪問データ〉
学士会館 THE SEVEN’S HOUSE:神保町・竹橋
E07
十月二十七日・木曜日・二十時四十五分
新クラーク・カレー:一三〇〇円(クレカ)
〈参考資料〉
「学士会館 THE SEVEN’S HOUSE」、『神田カレー街 公式ガイドブック 2022』、五十六ページ。
〈WEB〉
「クラーク博士とは」、『さっぽろ羊ヶ丘展望台』、二〇二二年一月十八日閲覧。
「日本のカレー カレーが国民食になるまでの歩み」、『ハウス食品株式会社』、二〇二二年一月十八日閲覧。
「第18回 日本の学生を教導したクラーク博士とカレーライス」、『キリンホールディングス』、二〇二二年一月十九日閲覧。
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