カレイなる日々

隠井迅

文字の大きさ
上 下
18 / 147
一巡目(二〇二二)

第016匙 優しさが理由:だし家焼肉ゑびす本廛(A13)

しおりを挟む
 丸の内線の淡路町駅の〈A2〉から出て、靖国通りを背にして、外堀通りを進んで、三本目の路地を左折すると、その右手に在るのが、焼肉店〈だし家焼肉ゑびす本廛(ほんてん)〉である。

 外堀通りにもまた、数多くの細い道が接続しているため、曲がる道を間違えると、迷い人になりかねない。
 さらに、この店が入っているビルには飲食店が他にも在るので、誤って入店してしまう可能性もある。
 しかし、そういう場合にも、神田カレー街・ガイドブックを手に持ってさえいれば、店の人が、「ここじゃないですよ」と指摘してくれるので、間違いに気付かぬまま、という事もない。
 かくゆう書き手も、道に迷った上に、二回連続で店も間違えてしまい、同じ建物であるにもかかわらず、目当ての店に辿り着けたのは、最後の最後であった。
 しかし思うに、例の冊子を持っているだけで、他店の店員が察してくれるのは、それだけ、間違える人が多い、ということなのかもしれない。
 
 ミスにミスを重ねた書き手が地下一階の店に入ったのは、予定よりも遅い十二時十五分くらいの事であった。

 この店は焼肉店なので、焼肉のランチもあるのだが、カレー・メニューに関しては、ステーキとカレーの盛り合わせである〈愛盛りごはん〉や、甘口の〈初代〉のカレー、辛口の〈二代目〉のカレーや、そして、初代と二代目の〈ハーフ&ハーフ〉などがあった。
 来店前には、ステーキも食べられる〈愛盛りごはん〉にするつもりだったのだが、この日の〈愛盛り〉のカレーは甘口のみであるらしく、書き手は、店独自の二種のカレーを一度に味わえる「初代&二代目 挽き肉のスパイスカレー 2種盛り」を注文する事にした。

 程なくして、カレーがやってきた。
 その一皿には、真ん中に白いご飯と緑と橙色の野菜、その人参にはニコニコマークが描かれ、白米の左右にはそれぞれ、初代と二代目のカレーが盛られていた。
 
 まず、左右のカレーを一口ずつ食べてみたのだが、茶色がやや薄く、サラッとしているカレーは甘口だったので、こちらが初代なのだろう。
 もう一方は、茶色味がやや濃く、カレーの表面が挽き肉で敷き詰められ、味は辛口なので、こちらが二代目であるようだ。

 左右交互に食べると、甘口と辛口の味が混じってしまいそうなので、書き手は、先に、初代の甘口カレーの方から食べる事にした。

 ところが、である。
 初代のカレーだけでごはんが無くなってしまったのだ。
 さて、ほとんど手つかずの二代目のカレーをどうしよう。
 だが、心配せずともよい。
 ご飯はお代わり自由だからだ。
 かくして、書き手は、同量の白米をよそってもらい、二代目のカレーを口に運び始めた。
 こちらの辛口カレーは、書き手にとっては、いささか辛かった。
 お代わりをしたので、お腹的には、ご飯の量は十分なのだが、辛さのせいで、お口的には、もう少し白米が欲しくなる程である。

 かくの如く、書き手がカレーを味わっていたのは、十二時半頃だったのだが、書き手の後に入ってきた客の一人が、カレーを注文したところ、その時点で店のカレーは枯れてしまっている、という話が耳に入ってきた。
 危なかった。
 〈迷い大人〉になったせいで、正午を過ぎてしまったのだが、書き手の入店は、カレーを食べられるギリギリのタイミングであったようだ。

 さて、書き手は、カレーを数口、口に運ぶごとに、口をリフレッシュするかの如く、徳利に入っている常陸牛の牛出汁(だし)をお猪口で口に運び続けていた。
 この牛出汁は、料理が出てくるのを待っている間に、あたかも、〈食前汁〉であるかのごとく提供されたものなのだが、しかし、この出汁の真骨頂は、カレーと一緒に口にすることによって、カレー単品では味わえないような、出汁と料理の相互作用を引き起こすものであるらしい。

 そういえば、店の出入口に置いてあった看板にはこう記されていた。

 「お出汁と共に食す新感覚焼肉店」と。
 
 つまり、牛出汁と牛焼肉だけではなく、出汁と咖喱の〈マリアージュ〉というのが、焼肉店であるこの店独自のカレーの粋な食べ方であるようだ。

 ちなみに、〈食前汁〉として牛出汁を口に運んでいる間に、店員さんが、先にスタンプを押してくれた。戻ってきたスタンプ・シートを見ると、そこには、インクが他のページに移ってしまわないように、シールが貼られていた。
 さらに、である。
 ガイドブックを覆うためのビニール・カヴァーもサービスでくれたのだ。

 この店は、創業昭和四年(一九二九年)、もうすぐ百年になるそうだ。
 これだけの長き年月、営業を続けてこられたのは、牛出汁などの食べ方の工夫や、料理それ自体の味もさる事ながら、シールやカヴァーなど、こうしたきめ細かな配慮、つまり、店のこうした〈優しさ〉が理由なのかもしれない。
 
〈訪問データ〉
 だし家焼肉ゑびす本廛:神田・淡路町
 A13
 八月二十六日・金曜日・十二時
 初代&二代目 挽き肉のスパイスカレー 2種盛り:一一〇〇円(現金)

〈参考資料〉
 「だし家焼肉ゑびす本廛」、『神田カレー街 公式ガイドブック 2022』、六十五ページ。
〈WEB〉
 『だし家焼肉ゑびす本廛』、二〇二二年九月五日閲覧。    
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

友達の母親が俺の目の前で下着姿に…

じゅ〜ん
エッセイ・ノンフィクション
とあるオッサンの青春実話です

BL団地妻-恥じらい新妻、絶頂淫具の罠-

おととななな
BL
タイトル通りです。 楽しんでいただけたら幸いです。

会社の上司の妻との禁断の関係に溺れた男の物語

六角
恋愛
日本の大都市で働くサラリーマンが、偶然出会った上司の妻に一目惚れしてしまう。彼女に強く引き寄せられるように、彼女との禁断の関係に溺れていく。しかし、会社に知られてしまい、別れを余儀なくされる。彼女との別れに苦しみ、彼女を忘れることができずにいる。彼女との関係は、運命的なものであり、彼女との愛は一生忘れることができない。

ちょっと大人な体験談はこちらです

神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な体験談です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではPixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

騙されて快楽地獄

てけてとん
BL
友人におすすめされたマッサージ店で快楽地獄に落とされる話です。長すぎたので2話に分けています。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

アルバイトで実験台

夏向りん
BL
給料いいバイトあるよ、と教えてもらったバイト先は大人用玩具実験台だった! ローター、オナホ、フェラ、玩具責め、放置、等々の要素有り

処理中です...