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08.ミレーヌ薬店
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王都の商店街を、アベルはみすぼらしい姿で歩いて行く。
かつて裕福な伯爵令息として過ごした日々は、過去のことになってしまった。
繁盛していた事業は潰れ、このままでは今や名ばかりとなった爵位まで失うかもしれない。
「ミレーヌ薬店……」
かつての婚約者と同じ名を持つ店を眺め、アベルは奥歯を噛みしめる。
失って初めて、存在の大きさに気付いた。彼女は自分のことを好きなはずなので、何をしようと離れていくことはないと思っていたのだ。
だが、彼女はアベルが冗談で言った婚約破棄を真に受け、婚約は解消されてしまった。
「あのとき、婚約破棄さえしなければ……」
思えば、あのときから歯車が狂い始めたようだと、アベルはため息を漏らす。
浮気していた女子生徒は、しょせんは浮気だった。その後、アベルの家の事業が傾き始めると、すぐに手のひらを返したのだ。
家の事業が傾くきっかけとなったのも、かつての婚約者と同じ名を持つ、ミレーヌ薬店のせいだった。
ミレーヌ薬店の薬は、それまでアベルの家が作っていた下級ポーションと同等程度の効果があり、しかも格段に安かった。庶民でも常備しておけるほどに、手頃な値段だったのだ。あっという間に客を奪われた。
しかも、たいした力もない魔術師たちを使ってやっていたのに、彼らはミレーヌ薬店のほうが待遇が良いと、鞍替えしてしまったのだ。
ミレーヌ薬店に圧力をかけようとしても、経営するのがラスペード公爵家の者では、手出しができない。
あっという間に事業は立ち行かなくなり、それからは坂道を転げ落ちるようだった。
「ラスペード公爵家だって、ポーション製造部門があるというのに……」
ラスペード公爵家で取り扱っているのは、上級ポーションだ。客層は貴族や富裕層に限られ、庶民向けであるミレーヌ薬店の薬とは競合しなかった。
打撃を受けたのは、低賃金で魔術師を働かせ、低品質なポーションを作っていた、アベルの家のようなところだけである。
怨嗟の眼差しでミレーヌ薬店を眺め、立ち去ろうとしたアベルだが、そこに立派な馬車がやってきた。
その中から現れた姿を見て、アベルは息をのみ、呆然と立ち尽くす。
「まあ、この薬店を作り上げた伯爵夫妻だわ」
「薬の開発によって、伯爵位を授かったそうね」
周囲の人々が囁くのを、アベルは唖然としたまま聞く。
馬車の中から現れた、上質なドレスに身を包む伯爵夫人は、かつての婚約者であるミレーヌだったのだ。
それも、かつての地味な姿からは想像もできないほど、光り輝くように美しくなっている。穏やかで幸福そうな微笑みを浮かべる姿は上品で落ち着いていながら、みずみずしい華やかさがあった。
顔立ちを見る限り、ミレーヌ本人であるはずなのに、まるで別人のようだ。あれほど美しい女だったのかと、アベルは愕然とする。
「ご夫妻で薬の開発を行っているそうよね。それも、最初は奥さまの発案だったとか」
「有名な話よね。ことあるごとに、旦那さまが奥さまの自慢をして、奥さまが恥ずかしがりながら、夫のおかげだとおっしゃるそうね」
「人前で妻を貶めることが謙遜だと勘違いしている夫も多い中、本当に謙虚だわ。ご夫婦で互いに褒め合うなんて、素敵ね」
微笑ましそうに囁く声が、遠くから聞こえるようだ。婚約破棄以来、ミレーヌの話を避けていたアベルにとっては、初めて知ることばかりだった。
そして、ミレーヌの美しさを引き出したのはその謙虚な夫とやらで、彼女が地味だったのは自分のせいだったのではないかと、アベルは思い浮かんでしまった。
かつてミレーヌは家の事業に口出ししてきたことがあった。そのときは叱り付けて黙らせたが、その結果が今のミレーヌ薬店だ。
彼女はアベルの思うような、地味で無能の役立たずではなかった。
かけらも見抜けず、抑え付けて最後には暴力まで振るった自分は何だったのか。
衝撃を受け、アベルはふらついて建物の壁にもたれる。激しい後悔が襲ってきて、足元がおぼつかない。吐きそうだ。
「つわりを軽減する薬が効くというので、地方の姪に送ってあげようと……」
「まあ、それでしたら……」
周囲の人々が穏やかな会話を交わしながら、アベルの前から消えていく。
流れていく人々の中、アベルは一人取り残されながら、虚ろな眼差しでたたずんでいた。
かつて裕福な伯爵令息として過ごした日々は、過去のことになってしまった。
繁盛していた事業は潰れ、このままでは今や名ばかりとなった爵位まで失うかもしれない。
「ミレーヌ薬店……」
かつての婚約者と同じ名を持つ店を眺め、アベルは奥歯を噛みしめる。
失って初めて、存在の大きさに気付いた。彼女は自分のことを好きなはずなので、何をしようと離れていくことはないと思っていたのだ。
だが、彼女はアベルが冗談で言った婚約破棄を真に受け、婚約は解消されてしまった。
「あのとき、婚約破棄さえしなければ……」
思えば、あのときから歯車が狂い始めたようだと、アベルはため息を漏らす。
浮気していた女子生徒は、しょせんは浮気だった。その後、アベルの家の事業が傾き始めると、すぐに手のひらを返したのだ。
家の事業が傾くきっかけとなったのも、かつての婚約者と同じ名を持つ、ミレーヌ薬店のせいだった。
ミレーヌ薬店の薬は、それまでアベルの家が作っていた下級ポーションと同等程度の効果があり、しかも格段に安かった。庶民でも常備しておけるほどに、手頃な値段だったのだ。あっという間に客を奪われた。
しかも、たいした力もない魔術師たちを使ってやっていたのに、彼らはミレーヌ薬店のほうが待遇が良いと、鞍替えしてしまったのだ。
ミレーヌ薬店に圧力をかけようとしても、経営するのがラスペード公爵家の者では、手出しができない。
あっという間に事業は立ち行かなくなり、それからは坂道を転げ落ちるようだった。
「ラスペード公爵家だって、ポーション製造部門があるというのに……」
ラスペード公爵家で取り扱っているのは、上級ポーションだ。客層は貴族や富裕層に限られ、庶民向けであるミレーヌ薬店の薬とは競合しなかった。
打撃を受けたのは、低賃金で魔術師を働かせ、低品質なポーションを作っていた、アベルの家のようなところだけである。
怨嗟の眼差しでミレーヌ薬店を眺め、立ち去ろうとしたアベルだが、そこに立派な馬車がやってきた。
その中から現れた姿を見て、アベルは息をのみ、呆然と立ち尽くす。
「まあ、この薬店を作り上げた伯爵夫妻だわ」
「薬の開発によって、伯爵位を授かったそうね」
周囲の人々が囁くのを、アベルは唖然としたまま聞く。
馬車の中から現れた、上質なドレスに身を包む伯爵夫人は、かつての婚約者であるミレーヌだったのだ。
それも、かつての地味な姿からは想像もできないほど、光り輝くように美しくなっている。穏やかで幸福そうな微笑みを浮かべる姿は上品で落ち着いていながら、みずみずしい華やかさがあった。
顔立ちを見る限り、ミレーヌ本人であるはずなのに、まるで別人のようだ。あれほど美しい女だったのかと、アベルは愕然とする。
「ご夫妻で薬の開発を行っているそうよね。それも、最初は奥さまの発案だったとか」
「有名な話よね。ことあるごとに、旦那さまが奥さまの自慢をして、奥さまが恥ずかしがりながら、夫のおかげだとおっしゃるそうね」
「人前で妻を貶めることが謙遜だと勘違いしている夫も多い中、本当に謙虚だわ。ご夫婦で互いに褒め合うなんて、素敵ね」
微笑ましそうに囁く声が、遠くから聞こえるようだ。婚約破棄以来、ミレーヌの話を避けていたアベルにとっては、初めて知ることばかりだった。
そして、ミレーヌの美しさを引き出したのはその謙虚な夫とやらで、彼女が地味だったのは自分のせいだったのではないかと、アベルは思い浮かんでしまった。
かつてミレーヌは家の事業に口出ししてきたことがあった。そのときは叱り付けて黙らせたが、その結果が今のミレーヌ薬店だ。
彼女はアベルの思うような、地味で無能の役立たずではなかった。
かけらも見抜けず、抑え付けて最後には暴力まで振るった自分は何だったのか。
衝撃を受け、アベルはふらついて建物の壁にもたれる。激しい後悔が襲ってきて、足元がおぼつかない。吐きそうだ。
「つわりを軽減する薬が効くというので、地方の姪に送ってあげようと……」
「まあ、それでしたら……」
周囲の人々が穏やかな会話を交わしながら、アベルの前から消えていく。
流れていく人々の中、アベルは一人取り残されながら、虚ろな眼差しでたたずんでいた。
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