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第二話 冷たい海へ
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サナトリウムで、僕が目を覚ましたのは明け方だ。今は使われていない病室の窓からは、微かな冬の日差しが差し込んでいる。いつにもなく僕は熟睡した気分だ。こんな朝を向かえたのは、僕にとって久しい。
「おはよう、歩夢」
使われていな病室に、笑みを浮かべた沙羅が入って来る。
「あ、ああ、おはよう・・・・・・」
ぎこちなく僕は朝の挨拶を返す。それは随分長い間、使っていなかった言葉だ。
「朝食の時間だよ」
沙羅に告げられると、僕は彼女と一緒にラウンジへと向かう。どこか嬉しそうな沙羅と一緒に。
ラウンジでは、小麦粉のいい香りが漂っている。おそらく夜の勤務を終えたであろう医者や看護師たちの姿。楽しそうに食事を取っている彼ら。そのとき、僕の耳に入った会話があった。
「最低な夜だった。あの男にはうんざりだ」
「それでもあの子にはいい薬だ。これでしばらくは大人しくなるだろう」
「精神病棟でも、手のかかる患者らしいからな」
「水攻めだぞ? いくらなんでもやりすぎだ」
一体、何の話をしているんだ? 水攻め? この人たちは一体、何を・・・・・・
「歩夢、今日の朝食はサラダだよ」
沙羅の声が僕の疑問をなぎ払う。嬉しそうにラウンジの職員から、コーンとツナと野菜が混ざったサラダをカウンター越しで受け取る。
「このサラダ。きっと気に入ると思うよ」
沙羅は満面の笑み。確かに一目見れば、美味しそうなサラダだと思う。僕はサラダを受け取る。
「よかったら食パンもいかが? ここの手作りなの」
ラウンジのにこやかな女性職員が、僕に食パンを勧める。先ほどからの、小麦粉の香りの正体は、ここで作った食パンらしい。
「貰うよ」
迷うことなく僕は食パンを頂くことにした。久しぶりの朝食らしい朝食だ。いつもなら、どこかのコンビニで買われたパンを食べているところだ。
「歩夢。レモンティーかミルク、どっちにする?」
沙羅は小首を傾げて僕に聞く。カウンターには、レモンティーとミルクが入ったグラスがいくつも置かれている。どれでも自由に取っていいようだ。
「ああ、僕は沙羅が好きなほうでいい」
僕がそう口を開くと、沙羅はどういうわけか困った表情で僕を見た。
「・・・・・・どっちが好きか、よくわからないよ・・・・・・」
「え?」
僕が怪訝な表情を浮かべたときだ。
「でも、レモンティーにする」
次の瞬間には、沙羅は笑顔を見せるのだった。当然、不思議に思う僕。一体どうしたんだ?
「窓際のテーブルが開いているよ。行こう」
沙羅に案内され、僕は窓際のテーブルの席へと座る。手に持ったフォークで、沙羅はサラダを口に運ぶ。
「美味しい」
沙羅は嬉しそうに笑う。
「本当だ。確かにこれは美味しいよ」
口にしたサラダは、かけられたドレッシングが、程よい甘酸っぱさをかもし出していた。小麦粉の風味が絶妙の食パン。ほんのりと甘く、どこか落ち着く味のレモンティー。
「歩夢と一緒にいるからかな? 今朝の朝食はとても美味しい」
そして目の前には、微笑みを浮かべる沙羅の姿が。安らぎの朝。しかし、そんな時間は長くは続かない。知っているだろう?
『そう、あなたにならわかる。私が証人だから』
目の前の少女の姿に、僕は我が目を疑った。疑うにも無理はない。
「君が・・・・・・どうして君がここに・・・・・・?」
狼狽える僕の目の前には、長いポニーテルをした少女が。志保が当たり前のように、先ほどまで沙羅が座っていた椅子に腰かけていた。
『歩夢に。歩夢に会いに来た』
そう口にし、志保が微笑んだとき、僕の体に悪寒が走る。
『寂しかったでしょ? 私もずっと寂しかった・・・・・・』
「よせ・・・・・・」
志保は椅子から立ち上がり、混乱におちいる僕を見つめた。沙羅はどこに消えた? 周りの人間は、この部外者の存在に気づくことなく、朝食を続けている。
『あそこはね、とても暗くて冷たいんだよ・・・・・・もうあんな場所には帰りたくない・・・・・・ここがいい。綺麗で落ち着くこの場所で、歩夢と二人で・・・・・・』
志保の声が、どこか冷たいこの声が、僕の耳に突き刺さるようだった。
頭が痛い・・・・・・今にも割れそうに・・・・・・
「歩夢? どうかしたの?」
気が付くと志保の姿は消え、まるで入れ替わったかのように、沙羅が目の前に席に座っている。小首を傾げ、不思議そうに僕を見ていた。
(あれは幻覚か?)
当然の疑問が僕の脳裏を過ったとき。
「おや? 少し顔色が優れませんね」
そこえやってきた氷室先生。礼儀正しく紳士的な医者の姿は、今の僕を安心させた。
「少し頭痛が・・・・・・」
そう口にする僕だったが、ここで幻覚を見たことを告げるかどうかで迷う。
「大丈夫、歩夢?」
心配そうに声をかけてくれる沙羅に、僕は少し微笑んで返す。
僕はこの子に変だと思われたくない。それはこんな僕と、口を聞いてくれる人だったから。志保の幻覚を見たことを僕は伏せる。
「昨日は寒かったから、少し体調を崩したのかもしれませんね。鎮痛剤を用意します。それと念のために流感薬も」
氷室先生に感謝だ。この人は、本当にいい医者だと僕は思う。その証拠に
「よろしければ、お昼ごろまで、ここで休んでいかれればどうです?」
僕の体調を心配し、先生はそう提案してくれた。しかし、さすがにそれは甘えすぎに思える。
「いや、始発のバスで帰ります。学校もありますから。それに、薬を飲んだら、きっと良くなると思うし」
「そうですか。それならお引止めしません。でも、無理はいけませんよ。おかしいと思ったら、すぐ近くの病院行ったほうがいい。これは医者からの忠告です」
氷室先生の忠告に僕は「わかりました」と一言だけ返事を返す。
「処方箋は私が用意しますので、薬は帰りに薬局で受け取ってください」
「どうもありがとう、先生」
お礼を口にする僕に、氷室先生は
「では、お大事に」
微笑みを浮かべ、僕に頷きを返し、ラウンジを去っていく。
「そう、帰るんだ・・・・・・」
浮かない表情を見せる沙羅。
「また、近いうちに・・・・・・」
「嫌、そんなの嫌」
また近いうちにまた顔を出す。僕はそう言いたかったのだが、沙羅はそんな僕の言葉を遮るのだった。
「私は君と、いつも二人でいたい」
自らの思いを口にする沙羅。そして、まるですねた子供のように、どこかへと去っていく。
「帰るか・・・・・・」
それが空しく一人残された僕の選択肢。ここで沙羅と一緒にいるわけにはいかない。学校もある。それに昨日自宅に帰らなかったことで、きっと母も心配しているだろう。もう帰らなければ。
サナトリウムにある薬局で薬を受け取り、僕は外に出る。青空から差し込む冬の遠い日差しを、妙に眩しく感じてしまうのだった。
「憂鬱だな・・・・・・」
思わず僕は、その言葉を口にしてしまう。今から自宅に帰るのはいいが、その後すぐに学校に登校しなければいけない。嫌な一日の始まりだ。きっと今日も、詩織が僕に話しかけるに違いない。志保の代わりを演じようとして・・・・・・
「歩夢」
そのとき、どこか透明感のある声に僕は呼び止められた。僕が振り返ると、そこには沙羅が立っている。僕と目があった途端、微笑む彼女の姿を見て僕は少しだけ安堵した。もしかしたら、嫌われたのではないのかと思っていたからだ。
「はい、これ」
「え?」
小指ほどのサイズをした透明な小瓶を、沙羅は僕に差し出す。どこか呆気にとられながらも、僕は小瓶を受け取る。
「砂・・・・・・?」
「近くの浜辺でとれた砂だよ。綺麗でしょ?」
しっかりと小さなコルクが閉められた透明な小瓶の中身は、サラサラとした綺麗な白い砂だった。
「これで君は私を感じることができる。私たちは決して離れ離れじゃない」
曇りない笑顔の沙羅は、僕が受け取ったのと同じ白い砂の入った小瓶を、羽織っているセーターのポケットから取り出す。
「孤独なときは、これを見て私は君を感じるから」
この二つの小瓶は、二人の絆だと僕ははっきりと悟った。孤独な僕たち二人の。
「ああ。僕も寂しいときはこの砂を見るよ。沙羅がいれば僕は一人じゃない」
僕がそう口にしたとき、気のせいだろうか? 沙羅がその色白な頬を、一瞬だけ少し赤くしたように見えた。
「歩夢。また二人で夜空を見よう」
「ああ、約束だ。ありがとう沙羅」
僕はサナトリウムを後にする。二人の絆である白い砂の入った小瓶を持って。
僕がバス停に到着し、間もなくしてバスがやってきた。運転手は昨日と同じ、年老いた男性だ。しかし、どういうわけか? この運転手は僕の顔を見るなり、怪訝な表情を浮かべた。
(一体なんだ?)
考えたところで僕にはわからない。そう、わからない。バスは走り出す。美里町の海沿いの道路を走り、僕の住んでいる町へと向かっている。
バスは五十分ほど走り続けた。そして、見覚えのあるショッピングモールの前で停車する。志保によく連れられたショッピングモールだ。僕は自分が住む町へと帰ってきた。
(焦ることはないな)
僕は料金を払いバスから降りる。そして実に落ち着いた足取りで、自宅へと向かう。時刻はとっくに午前十時を回っているはず。学校には当然遅刻だ。焦りながら走って自宅に帰り登校したところで、現実は変わらない。それに少しでも詩織の顔を見ずに過ごせるのだ。そう考えると気が楽になる。
それは僕が自宅の前まできたときだ。
「歩夢君」
詩織だった。僕の顔を見るなり、彼女はいつものように優しく微笑んだ。
「ここで何してる?」
怪訝な表情を浮かべ、僕は訊ねずにはいられない。
「えーと・・・・・・通学路で歩夢君のこと探してもいないし、それに昨日あんなことになったから私・・・・・・」
悲しそうにうつむく詩織。留守にしているとも知らず、どうやら詩織は、僕が自宅から出てくるのをずっと待っていたらしい。
「歩夢君、今までどこにいたの? まさか夜遊び?」
詩織は顔を上げ、次の瞬間には、どこか心配したように聞いてくる。
「違う」
僕は吐き捨てるように一言口を開くと、玄関の鍵を開け、自宅の中へと入った。玄関のドアが閉まったとき、僕はなぜか振り向いてしまう。そこには当然、玄関のドアしか存在しないというのに。
「・・・・・・寒かっただろうに・・・・・・外は・・・・・・」
自分の口から、考えもしなかった独り言が出てしまう。まさか僕は、詩織を心配してしまった?
「馬鹿馬鹿しい」
靴を脱ぎ、苦笑しながら僕はリビングへと入る。食卓のテーブルの上には、いつものようにパンとジュースが。そして一枚の書置きがあった。書置きを手に取る僕。それにはこう書かれていた。歩夢へ、夜遊びも程々にするように。どうやら母も僕が夜遊びしていたと、勘違いしているようだった。たいして心配していない母に安堵するが、酷い言いがかりもいいところだ。溜め息を吐きながら、僕はテーブルに置かれたパンとジュースを冷蔵庫にしまう。朝食ならサナトリウムでとった。お腹は空いていない。コップに水道水を入れると、サナトリウムで貰った鎮痛剤を僕は飲んだ。すでに頭痛は治まっていたが、一応念のためだ。そして僕は自宅の階段を上り、母の自室へと入る。化粧台の椅子にかけられた一枚の灰色のストールを手に取ると、詩織が待つ外に出ようと再び玄関へと向かう。靴に履き替え、玄関のドアを開けると、詩織は待ってくれていた。当然のように僕を待ってくれていた。柔らかく口元を微笑ませながら。僕はゆっくりと詩織に近づく。
「寒かっただろ」
僕は当たり前のようにそう口を開き、詩織の肩に灰色のストールをかけてあげた。彼女は驚いた表情で僕を見ている。
(待て、僕は何をしているんだ・・・・・・?)
まるで我に返ったかのような感覚。これは一体・・・・・・?
「ありがとう。温かい・・・・・・」
考える間もなく詩織は、どこかうっとりとした表情で僕にお礼を告げる。
(どうして僕は詩織に優しくした? どうして? どうしてだ?)
自分に疑問を投げかけながら、僕は詩織を置いて一人歩き出す。
「あ、待ってよ。歩夢君」
嬉しそうな声を出す詩織は、僕の隣に並んで一緒に歩き出す。
「このストールいい香りがするね。歩夢君のお母さんのでしょ?」
「どうしてわかる・・・・・・?」
一応僕は聞いてみる。暗い表情で。
「だってラベンダーの香りだよ。歩夢君のお母さんのイメージにぴったり」
詩織は笑う。頬を赤くしながら。
「歩夢君のお母さんって綺麗な人だよね。実は私の憧れなんだよ・・・・・・」
とても恥ずかしそうで、それでいてどこか嬉しそうな詩織。まさかただの事務員でしかない僕の母に憧れを抱いていたとは。
「歩夢君。私も綺麗になれるかな?」
「あ、ああ、それは・・・・・・」
詩織の問いに何も答えられない僕。言葉に詰まった僕に気にもせず、詩織は僕と一緒に歩いてくれた。一緒に通学路を歩いてくれた。詩織は成績優秀。そんな彼女が遅刻して僕と一緒に学校へ・・・・・・
「遅刻だね・・・・・・」
学校の下駄箱で、詩織は僕に苦笑する。因みにもう授業の三限目が始まっていた。
「ストール、ありがとう」
詩織は僕にお礼を告げる。そして急ぎ足で、自分のクラスへと向かった。
「・・・・・・」
一人残された僕は、呆然としながらも下駄箱から歩き出す。向かっている先は教室ではなく、この学校の屋上だった。重い鉄製の扉を開け、僕は屋上から冬の遠い空を見上げる。
「・・・・・・詩織は志保を演じているだけだ・・・・・・」
僕は自分の中にある正論を口にした。口にしたのだが。どういうわけか、やりきれない思いに支配されてしまう。とっさにポケットから、砂の入った小瓶を取り出す。
「助けて、助けてくれ・・・・・・沙羅・・・・・・」
僕は祈る。小瓶を両手で包み込み、屋上の地面に膝をつき祈った。一人空しく沙羅を想いながら・・・・・・
途中参加した三限目の授業が終わり、十五分間の休み時間が訪れると、僕は一息つく。周りのクラスメイトたちは、こぞって休み時間を満喫している。楽しそうに談笑しながら。僕は今日も一人かと思いきや。
「おい、貧乏人。お前は遅刻してきて何様だ?」
野上が僕に薄ら笑いを浮かべながら、嫌味をぶつけてきた。
「遅刻しちゃいけないか? どうせ僕は落ちこぼれだ。それくらいいいだろう?」
軽い冗談交じりに僕は野上に返すと、彼の表情は見る見るうちに変わっていく。怒りの表情。まるで悪魔だ。
「僕に謝罪しろ。遅刻したことをこの僕に謝罪するんだ」
担任の教師にならともかく、どうしてこいつに謝罪しなくちゃいけないんだ? 僕は疑問に思う。
「さぁ、早くしろ!」
怒声を上げる野上。クラスメイトたちが一気に注目しだす。
(そういうことか)
僕は確信する。野上は僕に恥をかかせたいのだと。
「すまない。遅刻した僕を許してくれ」
言われるがまま、僕は野上に意味のない謝罪をした。周りからは、クスクスと笑い声がする。別に恥ずかしくはない。これで嫌味が終わるのならそれでいい。
「仕方ない貧乏人だ。許してやるよ」
笑いをこらえながら、野上は口を開く。実に腐ったやつだと僕は正直に思う。
「それから。今度僕から永瀬さんを奪ったら、酷い目に会わせるからな。よく覚えとけよ」
野上のこの言動は本気だと僕は悟る。悪魔のような表情と目がその証拠だ。
「それであんたが満足するなら、僕は詩織から距離を置くよ。だけど・・・・・・」
自分でも、どうしてこんな言葉が出たのかよくわからない。
「詩織を傷つけるまねだけは、どうかしないでくれ。あの子はいい子なんだ。あんたが思うよりずっと・・・・・・」
僕が口にすると、野上は「貧乏人が」と僕を罵り去っていく。
どうしてだ? どうして僕は詩織を守ろうとするんだ・・・・・・? やりきれない思いが僕を支配する。
四限目が終わり、昼休みに入る。クラスメイトたちは、こぞって食堂に向かいだす。
「歩夢君。お昼だよ」
詩織がいつものように、僕のいるクラスにやってきた。
「腹は減ってないよ。野上と一緒に行けよ。僕と一緒だと恥ずかしい思いをするだろうから」
詩織に向かって苦笑する僕。そして、まるで詩織の匂いを嗅ぎつけたかのように、野上がやってくる。
「永瀬さん。昼食は僕と一緒がいい。そいつはとんでもないろくでなしだ。きっと永瀬さんの体が目当てなんだ」
野上はあざ笑うかのように僕を見る。話を合わせろということなのだろうか? だとしたら言うとおりにするしかない。僕は酷い目に会いたくない。詩織が無事ならそれでいい。
「詩織、彼の言うことは本当だ。真実だよ」
僕は笑う。作り笑顔で。キョトンとする詩織を見つめて。
「いいよ」
詩織は口にする。僕を見つめて。
「歩夢君は、もう少しスケベなほうがいいと思うよ」
小首を傾げて、嘘偽りを感じさせない笑顔を見せる詩織。僕はというと呆気にとられている。
「こいつは貧乏人だぞ! まさかこんな薄汚いやつがいいのか?!」
こともあろうに、自らが愛する詩織に向かって声を荒げてしまう野上。それは失敗だと、恋愛経験のない僕にだってわかる。詩織は少し驚いた様子だったが、次の瞬間は表情一つ変えずに野上を見ている。
「そうだよ。私は歩夢君と一緒にいたいの。だからもう私たちに構わないで」
それが詩織の答えだった。とても正直な。
「行こう。歩夢君」
圧倒される野上。僕は詩織に手を引っ張られ、ほとんど無理矢理廊下に連れ出される。
「よし、これでもう大丈夫」
にこやかな詩織は、僕に向かってピースサインを見せた。
「大丈夫って、あのな・・・・・・」
僕が怪訝なのも当然だ。
「あいつ、僕を酷い目に会わせるって、自分からそう言ったんだぞ」
「え? どういうこと?」
あっけらかんとする詩織。彼女がとても呑気に見えるのは、僕に気のせいだろうか?
「詩織を奪ったら、酷い目に会わせる。そう言われたんだ」
野上が僕に告げたことを打ち明ける。
「大丈夫、大丈夫。歩夢君は私が守るから」
とても呑気な詩織だった。それにしても、大の男が女の子に守られるなんて。少し情けない気分だ。僕たちは一緒に廊下を歩き、食堂へと向かう。
「今度は平手打ちでもしてやれよ」
「その気になれば、グーで殴れるよ」
僕が冗談で言ったことを、詩織も多分ではあるが、冗談で返してきた。それがおかしくて、僕たちは思わず笑ってしまう。初めて二人で一緒に笑った。詩織は志保ではない。どうしてだ? 今になってちゃんと理解できる。僕は一体どうしてしまったんだ・・・・・・?
(・・・・・・わかってるだろ? こんなことになったのは僕のせいだ・・・・・・)
学生たちでにぎわう食堂。僕と詩織は、食券が売られている自動販売機の前に来ていた。
「私、今日はパスタにするね。歩夢君は?」
「あ、あー、そうだな、僕は・・・・・・」
少し取り乱しながら、適当に販売機のボタンを押す僕。出てきた食券には、カレーライスとある。実のところ僕は、この食堂の雰囲気にめっぽう弱い。単純に人が多くて落ち着かないのだ。僕たちは食券をカウンターに置き、しばらくすると、厨房係が料理をトレ―に乗せて持ってきた。僕と詩織は、カウンター越しに出された料理を受け取り、適当に食堂の空いている席に座る。
「いただきます」
詩織は至福のときのように、クリームのかかったパスタを食べ始めた。カレーを食べようとする僕。しかし、思うようにスプーンが進まない。落ち着かないのだ。
「うーん、幸せな気分」
パスタがよほど美味しいのか? どこか大げさな態度の詩織。
「随分と美味しそうに食べるんだな」
僕は苦笑しながら、幸せそうな詩織を見る。
「食べるのが好きだから」
笑顔で返す詩織。食べることが趣味なのだろうか?
「休日はもっと食べてるよ。モールに売ってるハンバーガーなんか、一度に三個食べちゃった」
「そりゃ凄い」
どうやら彼女は、食べることが趣味らしい。これは初めて知ったことだ。それにしてもハンバーガーを三個も食べて、太らない詩織の体系を僕は不思議に思う。
「大食いの大会に出てみたらどうだ? きっと優勝できる」
僕が笑いながら冗談を口にしたときだ。さっきまで笑っていた詩織は、突然に真顔になり僕を見つめた。
「どうした?」
詩織が真顔になった理由など、勿論わからない僕。
「歩夢君。昨日何があったの?」
「え?」
「歩夢君、私から走って逃げたこと覚えてるよね?」
勿論それは覚えている僕。あのとき僕は詩織が志保に見え、発狂して走り出した。しかし、どうしてだろか? 今となっては、どうでもいいことに思えて仕方ない。
「あの後、何があったの?」
昨日の夕方から夜まで色々あった。歪んだ現実を愛する不思議な沙羅。友達になってくれと、僕に言い寄ってきた裏乃。そして料理上手で、ユーモアのセンスのある氷室先生。もうこの世にはいないはずの志保。サナトリウム。サナトリウム・・・・・・
「あ、ああ、昨日、いや、昨日は・・・・・・」
僕は言葉に詰まる。一体どうしたんだ? 別に隠す必要もないというのに。
「どうしたの? どうして何も言えないの?」
詩織は小首を傾げる。それもどこか悲しそうに。言うんだ。正直に話せばいい。詩織が困ることじゃない。勇気を出せ。僕は自分に言い聞かせ、おもむろに口を開く。
「サナトリウムだよ、そうサナトリウムだ。僕はそこへ行った」
「サナトリウム・・・・・・? 場所は? どこにあったの?」
「美里町だよ、隣町の」
僕は詩織に話した。正直に。別に包み隠すことではない。
「美里町? そんな、だってあそこは・・・・・・」
詩織は言葉途中に、口をつぐんだ。一体どうしたというのか?
「詩織?」
「うんうん、何でもない」
左右に首を振り、どこか悲しげな笑顔を見せる詩織。彼女はそのまま、食事を続けるのだった。
下校の時刻。僕は詩織と一緒に帰り道を歩く。
「それにしても温かいねー」
僕が渡したストールを、嬉しそうに肩にかけている詩織。
「うーん、何だかお洗濯して返すの、名残惜しいな」
母のストールがさぞかし気に入ったらしく、僕の隣を歩く詩織の横顔は残念そうに笑っている。
「返さなくていい・・・・・・もう君の物だ・・・・・・」
「歩夢君?」
どこか生気のない声を出したことが、自分でもよくわかった。思わず下校する足が、止まってしまう。それを耳にした詩織も、足を止め、心配そうに僕を見つめる。
「大丈夫、大丈夫だから、心配しないでくれ・・・・・・」
どうやら風邪を引いたらしい。そんなに酷くはないのだが、少しだけ体に悪寒が走っている。確かサナトリウムで氷室先生が、鎮痛剤と一緒に、流感の薬も処方してくれたのを思い出す。
「ちゃんと歩ける? 救急車呼ぶ?」
偉く大げさな詩織。因みに僕の容体は、歩けないほど酷くはない。
「これくらい平気だ。帰って薬を飲んだらすぐ寝るよ」
ぎこちない笑みを見せ、僕が口にすると、詩織は「わかった」とだけ口にし、僕たちは再び帰り道を歩く。悪寒に不快感を覚えつつも、僕はなんとか自宅へとたどり着いた。
「歩夢君、もしよかったら、今晩泊まろうか・・・・・・?」
軽い風邪で看病でもしようというのか。詩織のその眼差しは本気に思えた。
「寝れば治るよ。また明日」
「うん、また明日・・・・・・」
浮かない表情の詩織に別れを告げ、僕は自宅へと向かう。
ガンガンする頭を片手で押さえながら、自宅にたどり着くと、サナトリウムで貰った流感薬を飲み、二階の自室へと入る。僕は制服のまま、ベッドへと倒れこむように横になった。
「おかしい・・・・・・」
まるで勢いを増すかのように、悪寒がさらに酷くなった気がする。症状が悪化しているのだろうか? 呼吸が苦しい。
「息が・・・・・・」
これは本当に風邪か? 朦朧とする意識の中で僕は思う。肺に空気が入らない・・・・・・
「駄目だ・・・・・・息ができない・・・・・・」
全身に異様なまでの冷たさを感じたとき、僕の意識は消える・・・・・・
薄暗い建物の中に僕はいた。何か薬でも打たれたかのように、僕の思考はボンヤリとしている。
「まさか、夢・・・・・・?」
ボンヤリとする思考でも、自分が夢の中にいることは理解できた。普通の人間なら、ここで目覚めるはずだ。しかし残念なことに、一向にその気配は訪れない。
「欺いている!」
すぐ隣で、ヒステリックな男の声がした。僕がゆっくりと目を向けると、そこには鉄製のドアがある。小さな覗き窓から、男が僕に視線を覗かせていた。
ドン! ドン!
鉄製のドアには鍵がかけられているらしく、男はそのことを知ってか知らずか? 気が狂ったかのように、何度も叩いているようだ。
「お前は欺いている! 自分がしたことを無視して。罪悪感に殺されるのが運命だ!」
罪悪感? そうだ。僕はよく知っている。自分が何をしたのかを。
「よく聞け、誰もお前を許しはしない! 罪深い存在だ!」
男の笑い声が、薄暗い建物の中を木霊する。
「もういい」
僕はこの狂った男を無視し、薄暗い廊下を歩いた。いくつもの鉄製のドア。小さな覗き窓からは、常に僕を見る視線を感じた。
「・・・・・・あいつだ・・・・・・」
「・・・・・・あいつが悪い・・・・・・」
・・・・・・あんなに優しくされたのに・・・・・・」
不気味な連中。僕がしたことは、お前らには関係ないはずだ。
「うん?」
十一と書かれたドアの前で、僕は足を止める。どういうわけか? このドアだけ、半開きになっている。微かに人の気配が。
「誰かいるのか?」
僕は半開きになったドアを開け、部屋の中に入った。薄暗い部屋を見回す僕。部屋の中は狭く、年季の入った真空管のラジオに、粗末なベッド、コンクリートに覆われた部屋の壁には、水道管が破裂しているのか? 小さな亀裂からは水が漏れていた。そして部屋の隅に、うずくまるようにして小柄な人影がある。
「酷いところだな。一体何をしてここに?」
表情一つ変えず、僕は人影に語りかける。
「こ、こ、心が・・・・・・びょ、病気だから・・・・・・」
ガチガチと震え、まるで呂律が回っていない口調。声からして女の子のだとわかる。しかもどこかで聞いたことのある声だ。
「心が病気?」
まるで今の僕自身だ。そう思いながら僕は、女の子であろう人影に近づくと、薄暗い部屋で一人の少女の姿がはっきりとわかった。
「あ、歩夢・・・・・・駄目・・・・・・」
「裏乃?」
忘れもしない。金色の髪に、青い瞳。サナトリウムのラウンジにいた裏乃だ。一体彼女の身に何があった? 全身がずぶ濡れで、今にも死にそうなくらいに凍えている。
「あゆ、歩夢・・・・・・歩夢・・・・・・そばにいて・・・・・・」
裏乃は立ち上がると、震えながら僕に抱き着いた。僕は嫌悪であるはずの裏乃という存在を、振り払うこともできずに、その場に僕然と立ち尽くす。ただ、彼女の柔らかく、軽い感触だけを感じていた。
「お・・・・・・して、お、思い出して、私がいる意味を・・・・・・」
どこか悲痛に訴えかける裏乃。
「君がいる意味? それは? 何だ?」
裏乃に問いかける僕。自分でもその意味は理解しているのだが。
「わからない・・・・・・わからない・・・・・・私は頭が悪いから・・・・・・」
答える裏乃。僕はそれでよかったと思う。ただ沙羅だけを想う。
「志保は生き返らない・・・・・・でも、詩織は・・・・・・違う・・・・・・」
詩織など関係ない。志保の生き写しだ。ただの・・・・・・
「沙羅は生きている」
まるで白昼夢から目覚めるように、僕は我に返る。辺りは冬の夕暮れに包まれていた。
「どうして・・・・・・ここに?」
見覚えがあるのも当然な光景。近くには西洋風の大きな建物。サナトリウムだった。
「やはり、いらっしてくれましたか。必ず来ると思っていました」
僕は驚いて、聞き覚えのある声がした背後を振り返る。そこには微笑みを浮かべた氷室先生が立っていた。きっと僕はまるで、狐にでも化かされたかのような表情を浮かべているに違いない。
「冬の夕暮れはお嫌いですか?」
「あ、いや、好きとか嫌いとかじゃなくて・・・・・・」
僕は、僕自身がどうして?、どうやってサナトリウムに訪れたのかが知りたかった。今現在は嘘のように消えた悪寒。風邪をこじらせ、自室で倒れるように寝込んだはず。あの息のできない苦しさは、当分忘れることはできなさそうだ。そしてその後・・・・・・確か夢の中で・・・・・・駄目だ。どうしても思い出せない。
「沙羅はこういったものに芸術を感じているんです。荒廃や悪魔。負の要素がつまったものにはとくに」
沙羅が歪んだ芸術を愛していることなど、僕はすでに知っていた。死んだ少女を見て笑みを浮かべていた沙羅。確か、お見送りと口にし、微笑みを浮かべていた。この冷たい冬の夕暮れも、彼女にとって歪んだ芸術に違いない。
「沙羅にお会いになられますか?」
「いや、あの・・・・・・勿論会っていきます・・・・・・」
そう口にした僕を見て、氷室先生は笑みを零す。
「沙羅は今、診察を受けています」
「診察? 沙羅は大丈夫なんですか?」
沙羅の顔が一瞬、サブミナルのように頭に浮かぶ。彼女の身に、一体何があったのだろうか?
「ああ、心配はいりませんよ。ここの患者は皆、数日に一度は診察を受ける決まりなんです」
氷室先生の言葉に、僕はほっと胸をなでおろした。
「それより、あなたには心から感謝しなくてはいけない」
「え? 感謝? どうして僕に?」
怪訝な僕。シチューの材料を届けたこと以外、氷室先生に感謝されるいわれはない。ましてや心からなんて・・・・・・
「昼食の後、沙羅が薬を飲んでくれました。あの子の薬嫌いには、私や看護師も手を焼いていたのに。きっとあなたという友人ができたおかげでしょう」
思わず照れてしまう僕は、自分の視点をどこに向けていいかわからない。
「沙羅の診察はもうしばらく続くでしょから、ラウンジで待たれてはどうです?」
氷室先生は僕に提案する。
「あなたがラウンジで待っていると、沙羅には私から伝えておきましょう。きっとあの子も喜ぶはずです」
僕と会えば沙羅は喜ぶ。どういうわけか。僕は沙羅の喜ぶ姿が見たかった。彼女が、僕の生き甲斐になりつつあるとでもいうのだろうか?
「それじゃあ僕は、ラウンジで待ちます」
僕が口にすると、氷室先生は微笑んだ。
サナトリウムのラウンジ。空席が目立つテーブル席に、僕は適当に選んで腰掛ける。
(それにしても・・・・・・)
椅子に座った途端、僕は腑に落ちない疑問を頭の中で考えた。僕はどうしてここに。いや、そもそもどうやって来たんだ? 昨日と同じで、バスに乗って来たのか? もしかしたら誰かに連れてこられた? いやそんなはずはない。あの体調の悪さでは、まともに歩くこともままならないだろう。ましてやこんなに寒く真冬の夕暮れに。
(瞬間移動か・・・・・・?)
到底答えにはなっていないことを思った瞬間。僕は一人苦笑してしまう。僕は超能力者じゃない。
これ以上考えたところで、納得いく答えなど出そうになかった。
「うー・・・・・・」
考えるのをやめたその刹那。後ろのほうで、どこかで聞いたことのある声がした。僕は椅子に腰掛けながら、おもむろに後ろを見ると。
「美味しいのかな? それとも不味いのかな?」
そこには皿に盛りつけられたパンケーキを見て、怪訝そうな表情を浮かべる金色の髪をした少女、裏乃の姿があった。僕をひっかいたあの裏乃だ。
「食べようかなー・・・・・・」
少し湯気の立った、パンケーキだけを見つめる裏乃。僕の視線には、気づいていない様子だ。ここのパンケーキは美味しい。それは食べたことのある僕が、良く知っている。
「どうして食べないんだ?」
僕は裏乃に話しかけていた。いや待て。どうして話しかけたりなんかしたんだ? また泣き出したらどうする?
「歩夢・・・・・・歩夢だ・・・・・・」
裏乃はどこか不満そうな表情を浮かべ、僕を見ている。気のせいだろうか? 僕はまるでデジャブのような感覚を覚える。まるでつい先ほどまで、一緒にいたように錯覚した。
「あのね、パンケーキって美味しいの?」
僕に訊ねる裏乃。駄目だ無視しろ。昨日の小さな怪我のように、きっと面倒なことになるに決まってる。
「美味しいに決まってるだろ? とくに卵の風味が絶妙さ」
どうしてだ? 自分の意思に反し、僕は裏乃に答えた。そして椅子から立ち上がり、すぐ目の前に裏乃が座るテーブル席に腰掛ける。近くで見ると、裏乃は本当に可愛い容姿をしていた。僕の心臓の鼓動は、思わず高鳴る。
「私は、私は・・・・・・あのね・・・・・・食べたことがないからわからないんだよ・・・・・・」
「食べたことがない? 一度も?」
パンケーキを一度も食べたことがない裏乃に、僕は怪訝な表情を浮かべてしまう。そんな女の子も珍しい。僕はそう思った。
「ないよ・・・・・・うん、ない・・・・・・」
悲しそうに俯く裏乃を見て、僕は軽く深呼吸し、裏乃の目の前にあるパンケーキに手を伸ばす。そして無造作にパンケーキを一口サイズに千切ると、口に運んだ。
「うーん、こんなに美味しいのに」
少し大げさな僕。事実、パンケーキは美味しかったのだが。
「美味しいの? そっか、美味しいんだ」
裏乃は安心したかのように表情を変え、フォーク片手にパンケーキを食べ始める。
「ほんとだ。美味しい。ありがとう歩夢」
僕はただ、パンケーキが美味しい食べ物だと伝えただけだった。ただそれだけだというのに、裏乃は微笑みながら僕にお礼を告げる。
「そんな顔もできるんだな・・・・・・」
僕の声は、パンケーキに夢中な裏乃には聞こえていない。嬉しそうな裏乃の顔を見て、僕は胸にどこか温かい感覚を覚える。純粋に今の裏乃を見ていたかった。
「幸せ」
パンケーキを食べ終わった裏乃。僕に目を向けると、無垢な笑顔を見せる。
「歩夢、歩夢」
「うん? 何だ?」
「えーと、えーとね、歩夢に見せたいものがあるの」
「見せたいもの?」
裏乃は突然どうしたのか? 椅子から立ち上がると、僕の服の袖をグイグイと引っ張る。
「わかったよ」
苦笑しながら、僕も椅子から立ち上がり、裏乃に案内されるがまま、何処へと連れ出されそうになっていた。
「それで。どこに連れて行きたいんだ?」
僕が訊ねると、裏乃は
「うーん。それは海だよ。暗くて冷たい海」
少し考え込んで、答えを出した裏乃。確かに美里町には海があるのだが。真冬の今では、観光客など誰一人いないだろう。裏乃はどうして僕を、海に連れ出したいんだ。いや待てよ。サナトリウムの患者が、果たして勝手に外に出ていいのか? 普通、外出願いか何か手続きがあるだろう。
「裏乃。勝手に外に出ていいのか?」
僕は一応聞いてみる。
「それは私と歩夢だけの秘密」
ニッコリと笑顔の裏乃。あの紳士的な氷室先生も、流石に怒り出すに違いない。このとき僕は、廊下で雑談している看護師に一声かければよかった。勝手に外出しようとしている患者がいると。しかもこの患者は、精神病棟の患者であると。だけど、僕はそうはしなかった。海が見て見たい。
終わった場所であるあの海を・・・・・・
日が沈みかけ、辺りは薄暗い微かな光に包まれていた。僕は、裏乃と僕以外誰もいない砂浜に立ち尽くす。すぐ目の前には、薄暗い冷たい海が広がっている。今日は風が穏やかなのだろうか? 海の波はゆっくりとしていた。
「歩夢はここを。この場所を知ってる?」
「いや、僕はここには・・・・・・」
僕はここには、この海には来たことがない。そう言葉にしたいのだが。
「ああ・・・・・・知っている。知っているはずだ・・・・・・」
この海で志保は死んだ。
「歩夢は志保が大切だった?」
どうして裏乃が志保のことを知っている?
「詩織が大切? それとも・・・・・・」
裏乃は僕を見つめ、妖しく笑う。
「沙羅が好き? まだ志保を思う? それとも私? 私が好きならそれでいいよ」
こんな年下の少女に好意がある? 裏乃は確かに可愛いが。僕の心の中には、一人の少女だけが浮かぶ。妖しく笑いつづける裏乃。これは彼女の罠だ。そう思ったときにはもう遅い。酷い頭痛がする。僕は両手で頭を強く抑える。
「やめろ・・・・・・一人にしてくれ・・・・・・」
「一人は駄目だよ。歩夢が本当に壊れた人になるから」
僕は壊れ始めている。酷い痛みの中で、そう確信できた。詩織に優しくしたのも、こうして裏乃と同じ場所にいるのも、全ては僕という人間が壊れ始めていることを意味していた。僕は普通の状態じゃない。確信した。
「歩夢。知ってるでしょ? 歩夢は騙されていたんだよ」
そうだ。その通りだ。僕は志保に騙されていた。ずっと・・・・・・だから僕は・・・・・・僕は・・・・・・
詩織は知らない。僕が罪人であることを。彼女に会って打ち明けよう。衝動に駆られる僕だったが。
「最初から見捨てていたあいつが悪いんだ!」
怒声を上げる僕。頭痛は消え、再び自分自身を欺いていた。目の前には、突然の僕の怒声に怯えた裏乃の姿が。
「あ、歩夢が怒る・・・・・・歩夢が怒るよー・・・・・・」
涙する裏乃。彼女の頬と目は、見る見るうちに赤くなる。
「裏乃・・・・・・」
僕は、泣いている裏乃に声をかけるが。またひっかかれるのでは? そんな不安が少しだけ、頭の中を過る。
「ごめんね・・・・・・私が、馬鹿だから・・・・・・私の頭が悪いから・・・・・・」
裏乃の悲痛な言葉が、彼女のコンプレックスが、痛いほど僕の耳に突き刺さる。
「謝るのは僕だ。急に怒鳴ったりして。すまない・・・・・・」
ひっかかれる不安など、もうどうでもいい。僕は裏乃を優しく抱き締める。小柄な彼女の体が、すっぽりと僕の腕の中で落ち着く。微かな石鹸の香りがする。
「裏乃は馬鹿じゃない。純粋で可愛らしくて、とてもいい子だ」
抱き締められる裏乃は、顔を上げ悲しげな涙目で僕を見つめた。僕は思わず、涙で輝く彼女の水色の瞳から目をそらしてしまう。体の中にある心臓の鼓動が高くなる。
「私は馬鹿じゃない? それは本当・・・・・・?」
まるで、何も知らない無垢な子供のように裏乃は聞く。僕は再び彼女の瞳に目をやる。
「ああ、本当だ。こんないい子ほかにいるもんか」
裏乃は笑顔になる。僕の腕の中で、太陽のように明るい笑顔を見せてくれた。愛らしく。
志保、僕には生き甲斐ができたよ。沙羅と裏乃。この二人と明るい日々をただ過ごしたい。沙羅は裏乃のことを、あまりよく思ってはいないが。きっと沙羅は、裏乃がいい子だと、すぐに気づいてくれるはずだ・・・・・・
『・・・・・・惨め・・・・・・』
薄暗い海から声が聞こえた気がする・・・・・・
「おはよう、歩夢」
使われていな病室に、笑みを浮かべた沙羅が入って来る。
「あ、ああ、おはよう・・・・・・」
ぎこちなく僕は朝の挨拶を返す。それは随分長い間、使っていなかった言葉だ。
「朝食の時間だよ」
沙羅に告げられると、僕は彼女と一緒にラウンジへと向かう。どこか嬉しそうな沙羅と一緒に。
ラウンジでは、小麦粉のいい香りが漂っている。おそらく夜の勤務を終えたであろう医者や看護師たちの姿。楽しそうに食事を取っている彼ら。そのとき、僕の耳に入った会話があった。
「最低な夜だった。あの男にはうんざりだ」
「それでもあの子にはいい薬だ。これでしばらくは大人しくなるだろう」
「精神病棟でも、手のかかる患者らしいからな」
「水攻めだぞ? いくらなんでもやりすぎだ」
一体、何の話をしているんだ? 水攻め? この人たちは一体、何を・・・・・・
「歩夢、今日の朝食はサラダだよ」
沙羅の声が僕の疑問をなぎ払う。嬉しそうにラウンジの職員から、コーンとツナと野菜が混ざったサラダをカウンター越しで受け取る。
「このサラダ。きっと気に入ると思うよ」
沙羅は満面の笑み。確かに一目見れば、美味しそうなサラダだと思う。僕はサラダを受け取る。
「よかったら食パンもいかが? ここの手作りなの」
ラウンジのにこやかな女性職員が、僕に食パンを勧める。先ほどからの、小麦粉の香りの正体は、ここで作った食パンらしい。
「貰うよ」
迷うことなく僕は食パンを頂くことにした。久しぶりの朝食らしい朝食だ。いつもなら、どこかのコンビニで買われたパンを食べているところだ。
「歩夢。レモンティーかミルク、どっちにする?」
沙羅は小首を傾げて僕に聞く。カウンターには、レモンティーとミルクが入ったグラスがいくつも置かれている。どれでも自由に取っていいようだ。
「ああ、僕は沙羅が好きなほうでいい」
僕がそう口を開くと、沙羅はどういうわけか困った表情で僕を見た。
「・・・・・・どっちが好きか、よくわからないよ・・・・・・」
「え?」
僕が怪訝な表情を浮かべたときだ。
「でも、レモンティーにする」
次の瞬間には、沙羅は笑顔を見せるのだった。当然、不思議に思う僕。一体どうしたんだ?
「窓際のテーブルが開いているよ。行こう」
沙羅に案内され、僕は窓際のテーブルの席へと座る。手に持ったフォークで、沙羅はサラダを口に運ぶ。
「美味しい」
沙羅は嬉しそうに笑う。
「本当だ。確かにこれは美味しいよ」
口にしたサラダは、かけられたドレッシングが、程よい甘酸っぱさをかもし出していた。小麦粉の風味が絶妙の食パン。ほんのりと甘く、どこか落ち着く味のレモンティー。
「歩夢と一緒にいるからかな? 今朝の朝食はとても美味しい」
そして目の前には、微笑みを浮かべる沙羅の姿が。安らぎの朝。しかし、そんな時間は長くは続かない。知っているだろう?
『そう、あなたにならわかる。私が証人だから』
目の前の少女の姿に、僕は我が目を疑った。疑うにも無理はない。
「君が・・・・・・どうして君がここに・・・・・・?」
狼狽える僕の目の前には、長いポニーテルをした少女が。志保が当たり前のように、先ほどまで沙羅が座っていた椅子に腰かけていた。
『歩夢に。歩夢に会いに来た』
そう口にし、志保が微笑んだとき、僕の体に悪寒が走る。
『寂しかったでしょ? 私もずっと寂しかった・・・・・・』
「よせ・・・・・・」
志保は椅子から立ち上がり、混乱におちいる僕を見つめた。沙羅はどこに消えた? 周りの人間は、この部外者の存在に気づくことなく、朝食を続けている。
『あそこはね、とても暗くて冷たいんだよ・・・・・・もうあんな場所には帰りたくない・・・・・・ここがいい。綺麗で落ち着くこの場所で、歩夢と二人で・・・・・・』
志保の声が、どこか冷たいこの声が、僕の耳に突き刺さるようだった。
頭が痛い・・・・・・今にも割れそうに・・・・・・
「歩夢? どうかしたの?」
気が付くと志保の姿は消え、まるで入れ替わったかのように、沙羅が目の前に席に座っている。小首を傾げ、不思議そうに僕を見ていた。
(あれは幻覚か?)
当然の疑問が僕の脳裏を過ったとき。
「おや? 少し顔色が優れませんね」
そこえやってきた氷室先生。礼儀正しく紳士的な医者の姿は、今の僕を安心させた。
「少し頭痛が・・・・・・」
そう口にする僕だったが、ここで幻覚を見たことを告げるかどうかで迷う。
「大丈夫、歩夢?」
心配そうに声をかけてくれる沙羅に、僕は少し微笑んで返す。
僕はこの子に変だと思われたくない。それはこんな僕と、口を聞いてくれる人だったから。志保の幻覚を見たことを僕は伏せる。
「昨日は寒かったから、少し体調を崩したのかもしれませんね。鎮痛剤を用意します。それと念のために流感薬も」
氷室先生に感謝だ。この人は、本当にいい医者だと僕は思う。その証拠に
「よろしければ、お昼ごろまで、ここで休んでいかれればどうです?」
僕の体調を心配し、先生はそう提案してくれた。しかし、さすがにそれは甘えすぎに思える。
「いや、始発のバスで帰ります。学校もありますから。それに、薬を飲んだら、きっと良くなると思うし」
「そうですか。それならお引止めしません。でも、無理はいけませんよ。おかしいと思ったら、すぐ近くの病院行ったほうがいい。これは医者からの忠告です」
氷室先生の忠告に僕は「わかりました」と一言だけ返事を返す。
「処方箋は私が用意しますので、薬は帰りに薬局で受け取ってください」
「どうもありがとう、先生」
お礼を口にする僕に、氷室先生は
「では、お大事に」
微笑みを浮かべ、僕に頷きを返し、ラウンジを去っていく。
「そう、帰るんだ・・・・・・」
浮かない表情を見せる沙羅。
「また、近いうちに・・・・・・」
「嫌、そんなの嫌」
また近いうちにまた顔を出す。僕はそう言いたかったのだが、沙羅はそんな僕の言葉を遮るのだった。
「私は君と、いつも二人でいたい」
自らの思いを口にする沙羅。そして、まるですねた子供のように、どこかへと去っていく。
「帰るか・・・・・・」
それが空しく一人残された僕の選択肢。ここで沙羅と一緒にいるわけにはいかない。学校もある。それに昨日自宅に帰らなかったことで、きっと母も心配しているだろう。もう帰らなければ。
サナトリウムにある薬局で薬を受け取り、僕は外に出る。青空から差し込む冬の遠い日差しを、妙に眩しく感じてしまうのだった。
「憂鬱だな・・・・・・」
思わず僕は、その言葉を口にしてしまう。今から自宅に帰るのはいいが、その後すぐに学校に登校しなければいけない。嫌な一日の始まりだ。きっと今日も、詩織が僕に話しかけるに違いない。志保の代わりを演じようとして・・・・・・
「歩夢」
そのとき、どこか透明感のある声に僕は呼び止められた。僕が振り返ると、そこには沙羅が立っている。僕と目があった途端、微笑む彼女の姿を見て僕は少しだけ安堵した。もしかしたら、嫌われたのではないのかと思っていたからだ。
「はい、これ」
「え?」
小指ほどのサイズをした透明な小瓶を、沙羅は僕に差し出す。どこか呆気にとられながらも、僕は小瓶を受け取る。
「砂・・・・・・?」
「近くの浜辺でとれた砂だよ。綺麗でしょ?」
しっかりと小さなコルクが閉められた透明な小瓶の中身は、サラサラとした綺麗な白い砂だった。
「これで君は私を感じることができる。私たちは決して離れ離れじゃない」
曇りない笑顔の沙羅は、僕が受け取ったのと同じ白い砂の入った小瓶を、羽織っているセーターのポケットから取り出す。
「孤独なときは、これを見て私は君を感じるから」
この二つの小瓶は、二人の絆だと僕ははっきりと悟った。孤独な僕たち二人の。
「ああ。僕も寂しいときはこの砂を見るよ。沙羅がいれば僕は一人じゃない」
僕がそう口にしたとき、気のせいだろうか? 沙羅がその色白な頬を、一瞬だけ少し赤くしたように見えた。
「歩夢。また二人で夜空を見よう」
「ああ、約束だ。ありがとう沙羅」
僕はサナトリウムを後にする。二人の絆である白い砂の入った小瓶を持って。
僕がバス停に到着し、間もなくしてバスがやってきた。運転手は昨日と同じ、年老いた男性だ。しかし、どういうわけか? この運転手は僕の顔を見るなり、怪訝な表情を浮かべた。
(一体なんだ?)
考えたところで僕にはわからない。そう、わからない。バスは走り出す。美里町の海沿いの道路を走り、僕の住んでいる町へと向かっている。
バスは五十分ほど走り続けた。そして、見覚えのあるショッピングモールの前で停車する。志保によく連れられたショッピングモールだ。僕は自分が住む町へと帰ってきた。
(焦ることはないな)
僕は料金を払いバスから降りる。そして実に落ち着いた足取りで、自宅へと向かう。時刻はとっくに午前十時を回っているはず。学校には当然遅刻だ。焦りながら走って自宅に帰り登校したところで、現実は変わらない。それに少しでも詩織の顔を見ずに過ごせるのだ。そう考えると気が楽になる。
それは僕が自宅の前まできたときだ。
「歩夢君」
詩織だった。僕の顔を見るなり、彼女はいつものように優しく微笑んだ。
「ここで何してる?」
怪訝な表情を浮かべ、僕は訊ねずにはいられない。
「えーと・・・・・・通学路で歩夢君のこと探してもいないし、それに昨日あんなことになったから私・・・・・・」
悲しそうにうつむく詩織。留守にしているとも知らず、どうやら詩織は、僕が自宅から出てくるのをずっと待っていたらしい。
「歩夢君、今までどこにいたの? まさか夜遊び?」
詩織は顔を上げ、次の瞬間には、どこか心配したように聞いてくる。
「違う」
僕は吐き捨てるように一言口を開くと、玄関の鍵を開け、自宅の中へと入った。玄関のドアが閉まったとき、僕はなぜか振り向いてしまう。そこには当然、玄関のドアしか存在しないというのに。
「・・・・・・寒かっただろうに・・・・・・外は・・・・・・」
自分の口から、考えもしなかった独り言が出てしまう。まさか僕は、詩織を心配してしまった?
「馬鹿馬鹿しい」
靴を脱ぎ、苦笑しながら僕はリビングへと入る。食卓のテーブルの上には、いつものようにパンとジュースが。そして一枚の書置きがあった。書置きを手に取る僕。それにはこう書かれていた。歩夢へ、夜遊びも程々にするように。どうやら母も僕が夜遊びしていたと、勘違いしているようだった。たいして心配していない母に安堵するが、酷い言いがかりもいいところだ。溜め息を吐きながら、僕はテーブルに置かれたパンとジュースを冷蔵庫にしまう。朝食ならサナトリウムでとった。お腹は空いていない。コップに水道水を入れると、サナトリウムで貰った鎮痛剤を僕は飲んだ。すでに頭痛は治まっていたが、一応念のためだ。そして僕は自宅の階段を上り、母の自室へと入る。化粧台の椅子にかけられた一枚の灰色のストールを手に取ると、詩織が待つ外に出ようと再び玄関へと向かう。靴に履き替え、玄関のドアを開けると、詩織は待ってくれていた。当然のように僕を待ってくれていた。柔らかく口元を微笑ませながら。僕はゆっくりと詩織に近づく。
「寒かっただろ」
僕は当たり前のようにそう口を開き、詩織の肩に灰色のストールをかけてあげた。彼女は驚いた表情で僕を見ている。
(待て、僕は何をしているんだ・・・・・・?)
まるで我に返ったかのような感覚。これは一体・・・・・・?
「ありがとう。温かい・・・・・・」
考える間もなく詩織は、どこかうっとりとした表情で僕にお礼を告げる。
(どうして僕は詩織に優しくした? どうして? どうしてだ?)
自分に疑問を投げかけながら、僕は詩織を置いて一人歩き出す。
「あ、待ってよ。歩夢君」
嬉しそうな声を出す詩織は、僕の隣に並んで一緒に歩き出す。
「このストールいい香りがするね。歩夢君のお母さんのでしょ?」
「どうしてわかる・・・・・・?」
一応僕は聞いてみる。暗い表情で。
「だってラベンダーの香りだよ。歩夢君のお母さんのイメージにぴったり」
詩織は笑う。頬を赤くしながら。
「歩夢君のお母さんって綺麗な人だよね。実は私の憧れなんだよ・・・・・・」
とても恥ずかしそうで、それでいてどこか嬉しそうな詩織。まさかただの事務員でしかない僕の母に憧れを抱いていたとは。
「歩夢君。私も綺麗になれるかな?」
「あ、ああ、それは・・・・・・」
詩織の問いに何も答えられない僕。言葉に詰まった僕に気にもせず、詩織は僕と一緒に歩いてくれた。一緒に通学路を歩いてくれた。詩織は成績優秀。そんな彼女が遅刻して僕と一緒に学校へ・・・・・・
「遅刻だね・・・・・・」
学校の下駄箱で、詩織は僕に苦笑する。因みにもう授業の三限目が始まっていた。
「ストール、ありがとう」
詩織は僕にお礼を告げる。そして急ぎ足で、自分のクラスへと向かった。
「・・・・・・」
一人残された僕は、呆然としながらも下駄箱から歩き出す。向かっている先は教室ではなく、この学校の屋上だった。重い鉄製の扉を開け、僕は屋上から冬の遠い空を見上げる。
「・・・・・・詩織は志保を演じているだけだ・・・・・・」
僕は自分の中にある正論を口にした。口にしたのだが。どういうわけか、やりきれない思いに支配されてしまう。とっさにポケットから、砂の入った小瓶を取り出す。
「助けて、助けてくれ・・・・・・沙羅・・・・・・」
僕は祈る。小瓶を両手で包み込み、屋上の地面に膝をつき祈った。一人空しく沙羅を想いながら・・・・・・
途中参加した三限目の授業が終わり、十五分間の休み時間が訪れると、僕は一息つく。周りのクラスメイトたちは、こぞって休み時間を満喫している。楽しそうに談笑しながら。僕は今日も一人かと思いきや。
「おい、貧乏人。お前は遅刻してきて何様だ?」
野上が僕に薄ら笑いを浮かべながら、嫌味をぶつけてきた。
「遅刻しちゃいけないか? どうせ僕は落ちこぼれだ。それくらいいいだろう?」
軽い冗談交じりに僕は野上に返すと、彼の表情は見る見るうちに変わっていく。怒りの表情。まるで悪魔だ。
「僕に謝罪しろ。遅刻したことをこの僕に謝罪するんだ」
担任の教師にならともかく、どうしてこいつに謝罪しなくちゃいけないんだ? 僕は疑問に思う。
「さぁ、早くしろ!」
怒声を上げる野上。クラスメイトたちが一気に注目しだす。
(そういうことか)
僕は確信する。野上は僕に恥をかかせたいのだと。
「すまない。遅刻した僕を許してくれ」
言われるがまま、僕は野上に意味のない謝罪をした。周りからは、クスクスと笑い声がする。別に恥ずかしくはない。これで嫌味が終わるのならそれでいい。
「仕方ない貧乏人だ。許してやるよ」
笑いをこらえながら、野上は口を開く。実に腐ったやつだと僕は正直に思う。
「それから。今度僕から永瀬さんを奪ったら、酷い目に会わせるからな。よく覚えとけよ」
野上のこの言動は本気だと僕は悟る。悪魔のような表情と目がその証拠だ。
「それであんたが満足するなら、僕は詩織から距離を置くよ。だけど・・・・・・」
自分でも、どうしてこんな言葉が出たのかよくわからない。
「詩織を傷つけるまねだけは、どうかしないでくれ。あの子はいい子なんだ。あんたが思うよりずっと・・・・・・」
僕が口にすると、野上は「貧乏人が」と僕を罵り去っていく。
どうしてだ? どうして僕は詩織を守ろうとするんだ・・・・・・? やりきれない思いが僕を支配する。
四限目が終わり、昼休みに入る。クラスメイトたちは、こぞって食堂に向かいだす。
「歩夢君。お昼だよ」
詩織がいつものように、僕のいるクラスにやってきた。
「腹は減ってないよ。野上と一緒に行けよ。僕と一緒だと恥ずかしい思いをするだろうから」
詩織に向かって苦笑する僕。そして、まるで詩織の匂いを嗅ぎつけたかのように、野上がやってくる。
「永瀬さん。昼食は僕と一緒がいい。そいつはとんでもないろくでなしだ。きっと永瀬さんの体が目当てなんだ」
野上はあざ笑うかのように僕を見る。話を合わせろということなのだろうか? だとしたら言うとおりにするしかない。僕は酷い目に会いたくない。詩織が無事ならそれでいい。
「詩織、彼の言うことは本当だ。真実だよ」
僕は笑う。作り笑顔で。キョトンとする詩織を見つめて。
「いいよ」
詩織は口にする。僕を見つめて。
「歩夢君は、もう少しスケベなほうがいいと思うよ」
小首を傾げて、嘘偽りを感じさせない笑顔を見せる詩織。僕はというと呆気にとられている。
「こいつは貧乏人だぞ! まさかこんな薄汚いやつがいいのか?!」
こともあろうに、自らが愛する詩織に向かって声を荒げてしまう野上。それは失敗だと、恋愛経験のない僕にだってわかる。詩織は少し驚いた様子だったが、次の瞬間は表情一つ変えずに野上を見ている。
「そうだよ。私は歩夢君と一緒にいたいの。だからもう私たちに構わないで」
それが詩織の答えだった。とても正直な。
「行こう。歩夢君」
圧倒される野上。僕は詩織に手を引っ張られ、ほとんど無理矢理廊下に連れ出される。
「よし、これでもう大丈夫」
にこやかな詩織は、僕に向かってピースサインを見せた。
「大丈夫って、あのな・・・・・・」
僕が怪訝なのも当然だ。
「あいつ、僕を酷い目に会わせるって、自分からそう言ったんだぞ」
「え? どういうこと?」
あっけらかんとする詩織。彼女がとても呑気に見えるのは、僕に気のせいだろうか?
「詩織を奪ったら、酷い目に会わせる。そう言われたんだ」
野上が僕に告げたことを打ち明ける。
「大丈夫、大丈夫。歩夢君は私が守るから」
とても呑気な詩織だった。それにしても、大の男が女の子に守られるなんて。少し情けない気分だ。僕たちは一緒に廊下を歩き、食堂へと向かう。
「今度は平手打ちでもしてやれよ」
「その気になれば、グーで殴れるよ」
僕が冗談で言ったことを、詩織も多分ではあるが、冗談で返してきた。それがおかしくて、僕たちは思わず笑ってしまう。初めて二人で一緒に笑った。詩織は志保ではない。どうしてだ? 今になってちゃんと理解できる。僕は一体どうしてしまったんだ・・・・・・?
(・・・・・・わかってるだろ? こんなことになったのは僕のせいだ・・・・・・)
学生たちでにぎわう食堂。僕と詩織は、食券が売られている自動販売機の前に来ていた。
「私、今日はパスタにするね。歩夢君は?」
「あ、あー、そうだな、僕は・・・・・・」
少し取り乱しながら、適当に販売機のボタンを押す僕。出てきた食券には、カレーライスとある。実のところ僕は、この食堂の雰囲気にめっぽう弱い。単純に人が多くて落ち着かないのだ。僕たちは食券をカウンターに置き、しばらくすると、厨房係が料理をトレ―に乗せて持ってきた。僕と詩織は、カウンター越しに出された料理を受け取り、適当に食堂の空いている席に座る。
「いただきます」
詩織は至福のときのように、クリームのかかったパスタを食べ始めた。カレーを食べようとする僕。しかし、思うようにスプーンが進まない。落ち着かないのだ。
「うーん、幸せな気分」
パスタがよほど美味しいのか? どこか大げさな態度の詩織。
「随分と美味しそうに食べるんだな」
僕は苦笑しながら、幸せそうな詩織を見る。
「食べるのが好きだから」
笑顔で返す詩織。食べることが趣味なのだろうか?
「休日はもっと食べてるよ。モールに売ってるハンバーガーなんか、一度に三個食べちゃった」
「そりゃ凄い」
どうやら彼女は、食べることが趣味らしい。これは初めて知ったことだ。それにしてもハンバーガーを三個も食べて、太らない詩織の体系を僕は不思議に思う。
「大食いの大会に出てみたらどうだ? きっと優勝できる」
僕が笑いながら冗談を口にしたときだ。さっきまで笑っていた詩織は、突然に真顔になり僕を見つめた。
「どうした?」
詩織が真顔になった理由など、勿論わからない僕。
「歩夢君。昨日何があったの?」
「え?」
「歩夢君、私から走って逃げたこと覚えてるよね?」
勿論それは覚えている僕。あのとき僕は詩織が志保に見え、発狂して走り出した。しかし、どうしてだろか? 今となっては、どうでもいいことに思えて仕方ない。
「あの後、何があったの?」
昨日の夕方から夜まで色々あった。歪んだ現実を愛する不思議な沙羅。友達になってくれと、僕に言い寄ってきた裏乃。そして料理上手で、ユーモアのセンスのある氷室先生。もうこの世にはいないはずの志保。サナトリウム。サナトリウム・・・・・・
「あ、ああ、昨日、いや、昨日は・・・・・・」
僕は言葉に詰まる。一体どうしたんだ? 別に隠す必要もないというのに。
「どうしたの? どうして何も言えないの?」
詩織は小首を傾げる。それもどこか悲しそうに。言うんだ。正直に話せばいい。詩織が困ることじゃない。勇気を出せ。僕は自分に言い聞かせ、おもむろに口を開く。
「サナトリウムだよ、そうサナトリウムだ。僕はそこへ行った」
「サナトリウム・・・・・・? 場所は? どこにあったの?」
「美里町だよ、隣町の」
僕は詩織に話した。正直に。別に包み隠すことではない。
「美里町? そんな、だってあそこは・・・・・・」
詩織は言葉途中に、口をつぐんだ。一体どうしたというのか?
「詩織?」
「うんうん、何でもない」
左右に首を振り、どこか悲しげな笑顔を見せる詩織。彼女はそのまま、食事を続けるのだった。
下校の時刻。僕は詩織と一緒に帰り道を歩く。
「それにしても温かいねー」
僕が渡したストールを、嬉しそうに肩にかけている詩織。
「うーん、何だかお洗濯して返すの、名残惜しいな」
母のストールがさぞかし気に入ったらしく、僕の隣を歩く詩織の横顔は残念そうに笑っている。
「返さなくていい・・・・・・もう君の物だ・・・・・・」
「歩夢君?」
どこか生気のない声を出したことが、自分でもよくわかった。思わず下校する足が、止まってしまう。それを耳にした詩織も、足を止め、心配そうに僕を見つめる。
「大丈夫、大丈夫だから、心配しないでくれ・・・・・・」
どうやら風邪を引いたらしい。そんなに酷くはないのだが、少しだけ体に悪寒が走っている。確かサナトリウムで氷室先生が、鎮痛剤と一緒に、流感の薬も処方してくれたのを思い出す。
「ちゃんと歩ける? 救急車呼ぶ?」
偉く大げさな詩織。因みに僕の容体は、歩けないほど酷くはない。
「これくらい平気だ。帰って薬を飲んだらすぐ寝るよ」
ぎこちない笑みを見せ、僕が口にすると、詩織は「わかった」とだけ口にし、僕たちは再び帰り道を歩く。悪寒に不快感を覚えつつも、僕はなんとか自宅へとたどり着いた。
「歩夢君、もしよかったら、今晩泊まろうか・・・・・・?」
軽い風邪で看病でもしようというのか。詩織のその眼差しは本気に思えた。
「寝れば治るよ。また明日」
「うん、また明日・・・・・・」
浮かない表情の詩織に別れを告げ、僕は自宅へと向かう。
ガンガンする頭を片手で押さえながら、自宅にたどり着くと、サナトリウムで貰った流感薬を飲み、二階の自室へと入る。僕は制服のまま、ベッドへと倒れこむように横になった。
「おかしい・・・・・・」
まるで勢いを増すかのように、悪寒がさらに酷くなった気がする。症状が悪化しているのだろうか? 呼吸が苦しい。
「息が・・・・・・」
これは本当に風邪か? 朦朧とする意識の中で僕は思う。肺に空気が入らない・・・・・・
「駄目だ・・・・・・息ができない・・・・・・」
全身に異様なまでの冷たさを感じたとき、僕の意識は消える・・・・・・
薄暗い建物の中に僕はいた。何か薬でも打たれたかのように、僕の思考はボンヤリとしている。
「まさか、夢・・・・・・?」
ボンヤリとする思考でも、自分が夢の中にいることは理解できた。普通の人間なら、ここで目覚めるはずだ。しかし残念なことに、一向にその気配は訪れない。
「欺いている!」
すぐ隣で、ヒステリックな男の声がした。僕がゆっくりと目を向けると、そこには鉄製のドアがある。小さな覗き窓から、男が僕に視線を覗かせていた。
ドン! ドン!
鉄製のドアには鍵がかけられているらしく、男はそのことを知ってか知らずか? 気が狂ったかのように、何度も叩いているようだ。
「お前は欺いている! 自分がしたことを無視して。罪悪感に殺されるのが運命だ!」
罪悪感? そうだ。僕はよく知っている。自分が何をしたのかを。
「よく聞け、誰もお前を許しはしない! 罪深い存在だ!」
男の笑い声が、薄暗い建物の中を木霊する。
「もういい」
僕はこの狂った男を無視し、薄暗い廊下を歩いた。いくつもの鉄製のドア。小さな覗き窓からは、常に僕を見る視線を感じた。
「・・・・・・あいつだ・・・・・・」
「・・・・・・あいつが悪い・・・・・・」
・・・・・・あんなに優しくされたのに・・・・・・」
不気味な連中。僕がしたことは、お前らには関係ないはずだ。
「うん?」
十一と書かれたドアの前で、僕は足を止める。どういうわけか? このドアだけ、半開きになっている。微かに人の気配が。
「誰かいるのか?」
僕は半開きになったドアを開け、部屋の中に入った。薄暗い部屋を見回す僕。部屋の中は狭く、年季の入った真空管のラジオに、粗末なベッド、コンクリートに覆われた部屋の壁には、水道管が破裂しているのか? 小さな亀裂からは水が漏れていた。そして部屋の隅に、うずくまるようにして小柄な人影がある。
「酷いところだな。一体何をしてここに?」
表情一つ変えず、僕は人影に語りかける。
「こ、こ、心が・・・・・・びょ、病気だから・・・・・・」
ガチガチと震え、まるで呂律が回っていない口調。声からして女の子のだとわかる。しかもどこかで聞いたことのある声だ。
「心が病気?」
まるで今の僕自身だ。そう思いながら僕は、女の子であろう人影に近づくと、薄暗い部屋で一人の少女の姿がはっきりとわかった。
「あ、歩夢・・・・・・駄目・・・・・・」
「裏乃?」
忘れもしない。金色の髪に、青い瞳。サナトリウムのラウンジにいた裏乃だ。一体彼女の身に何があった? 全身がずぶ濡れで、今にも死にそうなくらいに凍えている。
「あゆ、歩夢・・・・・・歩夢・・・・・・そばにいて・・・・・・」
裏乃は立ち上がると、震えながら僕に抱き着いた。僕は嫌悪であるはずの裏乃という存在を、振り払うこともできずに、その場に僕然と立ち尽くす。ただ、彼女の柔らかく、軽い感触だけを感じていた。
「お・・・・・・して、お、思い出して、私がいる意味を・・・・・・」
どこか悲痛に訴えかける裏乃。
「君がいる意味? それは? 何だ?」
裏乃に問いかける僕。自分でもその意味は理解しているのだが。
「わからない・・・・・・わからない・・・・・・私は頭が悪いから・・・・・・」
答える裏乃。僕はそれでよかったと思う。ただ沙羅だけを想う。
「志保は生き返らない・・・・・・でも、詩織は・・・・・・違う・・・・・・」
詩織など関係ない。志保の生き写しだ。ただの・・・・・・
「沙羅は生きている」
まるで白昼夢から目覚めるように、僕は我に返る。辺りは冬の夕暮れに包まれていた。
「どうして・・・・・・ここに?」
見覚えがあるのも当然な光景。近くには西洋風の大きな建物。サナトリウムだった。
「やはり、いらっしてくれましたか。必ず来ると思っていました」
僕は驚いて、聞き覚えのある声がした背後を振り返る。そこには微笑みを浮かべた氷室先生が立っていた。きっと僕はまるで、狐にでも化かされたかのような表情を浮かべているに違いない。
「冬の夕暮れはお嫌いですか?」
「あ、いや、好きとか嫌いとかじゃなくて・・・・・・」
僕は、僕自身がどうして?、どうやってサナトリウムに訪れたのかが知りたかった。今現在は嘘のように消えた悪寒。風邪をこじらせ、自室で倒れるように寝込んだはず。あの息のできない苦しさは、当分忘れることはできなさそうだ。そしてその後・・・・・・確か夢の中で・・・・・・駄目だ。どうしても思い出せない。
「沙羅はこういったものに芸術を感じているんです。荒廃や悪魔。負の要素がつまったものにはとくに」
沙羅が歪んだ芸術を愛していることなど、僕はすでに知っていた。死んだ少女を見て笑みを浮かべていた沙羅。確か、お見送りと口にし、微笑みを浮かべていた。この冷たい冬の夕暮れも、彼女にとって歪んだ芸術に違いない。
「沙羅にお会いになられますか?」
「いや、あの・・・・・・勿論会っていきます・・・・・・」
そう口にした僕を見て、氷室先生は笑みを零す。
「沙羅は今、診察を受けています」
「診察? 沙羅は大丈夫なんですか?」
沙羅の顔が一瞬、サブミナルのように頭に浮かぶ。彼女の身に、一体何があったのだろうか?
「ああ、心配はいりませんよ。ここの患者は皆、数日に一度は診察を受ける決まりなんです」
氷室先生の言葉に、僕はほっと胸をなでおろした。
「それより、あなたには心から感謝しなくてはいけない」
「え? 感謝? どうして僕に?」
怪訝な僕。シチューの材料を届けたこと以外、氷室先生に感謝されるいわれはない。ましてや心からなんて・・・・・・
「昼食の後、沙羅が薬を飲んでくれました。あの子の薬嫌いには、私や看護師も手を焼いていたのに。きっとあなたという友人ができたおかげでしょう」
思わず照れてしまう僕は、自分の視点をどこに向けていいかわからない。
「沙羅の診察はもうしばらく続くでしょから、ラウンジで待たれてはどうです?」
氷室先生は僕に提案する。
「あなたがラウンジで待っていると、沙羅には私から伝えておきましょう。きっとあの子も喜ぶはずです」
僕と会えば沙羅は喜ぶ。どういうわけか。僕は沙羅の喜ぶ姿が見たかった。彼女が、僕の生き甲斐になりつつあるとでもいうのだろうか?
「それじゃあ僕は、ラウンジで待ちます」
僕が口にすると、氷室先生は微笑んだ。
サナトリウムのラウンジ。空席が目立つテーブル席に、僕は適当に選んで腰掛ける。
(それにしても・・・・・・)
椅子に座った途端、僕は腑に落ちない疑問を頭の中で考えた。僕はどうしてここに。いや、そもそもどうやって来たんだ? 昨日と同じで、バスに乗って来たのか? もしかしたら誰かに連れてこられた? いやそんなはずはない。あの体調の悪さでは、まともに歩くこともままならないだろう。ましてやこんなに寒く真冬の夕暮れに。
(瞬間移動か・・・・・・?)
到底答えにはなっていないことを思った瞬間。僕は一人苦笑してしまう。僕は超能力者じゃない。
これ以上考えたところで、納得いく答えなど出そうになかった。
「うー・・・・・・」
考えるのをやめたその刹那。後ろのほうで、どこかで聞いたことのある声がした。僕は椅子に腰掛けながら、おもむろに後ろを見ると。
「美味しいのかな? それとも不味いのかな?」
そこには皿に盛りつけられたパンケーキを見て、怪訝そうな表情を浮かべる金色の髪をした少女、裏乃の姿があった。僕をひっかいたあの裏乃だ。
「食べようかなー・・・・・・」
少し湯気の立った、パンケーキだけを見つめる裏乃。僕の視線には、気づいていない様子だ。ここのパンケーキは美味しい。それは食べたことのある僕が、良く知っている。
「どうして食べないんだ?」
僕は裏乃に話しかけていた。いや待て。どうして話しかけたりなんかしたんだ? また泣き出したらどうする?
「歩夢・・・・・・歩夢だ・・・・・・」
裏乃はどこか不満そうな表情を浮かべ、僕を見ている。気のせいだろうか? 僕はまるでデジャブのような感覚を覚える。まるでつい先ほどまで、一緒にいたように錯覚した。
「あのね、パンケーキって美味しいの?」
僕に訊ねる裏乃。駄目だ無視しろ。昨日の小さな怪我のように、きっと面倒なことになるに決まってる。
「美味しいに決まってるだろ? とくに卵の風味が絶妙さ」
どうしてだ? 自分の意思に反し、僕は裏乃に答えた。そして椅子から立ち上がり、すぐ目の前に裏乃が座るテーブル席に腰掛ける。近くで見ると、裏乃は本当に可愛い容姿をしていた。僕の心臓の鼓動は、思わず高鳴る。
「私は、私は・・・・・・あのね・・・・・・食べたことがないからわからないんだよ・・・・・・」
「食べたことがない? 一度も?」
パンケーキを一度も食べたことがない裏乃に、僕は怪訝な表情を浮かべてしまう。そんな女の子も珍しい。僕はそう思った。
「ないよ・・・・・・うん、ない・・・・・・」
悲しそうに俯く裏乃を見て、僕は軽く深呼吸し、裏乃の目の前にあるパンケーキに手を伸ばす。そして無造作にパンケーキを一口サイズに千切ると、口に運んだ。
「うーん、こんなに美味しいのに」
少し大げさな僕。事実、パンケーキは美味しかったのだが。
「美味しいの? そっか、美味しいんだ」
裏乃は安心したかのように表情を変え、フォーク片手にパンケーキを食べ始める。
「ほんとだ。美味しい。ありがとう歩夢」
僕はただ、パンケーキが美味しい食べ物だと伝えただけだった。ただそれだけだというのに、裏乃は微笑みながら僕にお礼を告げる。
「そんな顔もできるんだな・・・・・・」
僕の声は、パンケーキに夢中な裏乃には聞こえていない。嬉しそうな裏乃の顔を見て、僕は胸にどこか温かい感覚を覚える。純粋に今の裏乃を見ていたかった。
「幸せ」
パンケーキを食べ終わった裏乃。僕に目を向けると、無垢な笑顔を見せる。
「歩夢、歩夢」
「うん? 何だ?」
「えーと、えーとね、歩夢に見せたいものがあるの」
「見せたいもの?」
裏乃は突然どうしたのか? 椅子から立ち上がると、僕の服の袖をグイグイと引っ張る。
「わかったよ」
苦笑しながら、僕も椅子から立ち上がり、裏乃に案内されるがまま、何処へと連れ出されそうになっていた。
「それで。どこに連れて行きたいんだ?」
僕が訊ねると、裏乃は
「うーん。それは海だよ。暗くて冷たい海」
少し考え込んで、答えを出した裏乃。確かに美里町には海があるのだが。真冬の今では、観光客など誰一人いないだろう。裏乃はどうして僕を、海に連れ出したいんだ。いや待てよ。サナトリウムの患者が、果たして勝手に外に出ていいのか? 普通、外出願いか何か手続きがあるだろう。
「裏乃。勝手に外に出ていいのか?」
僕は一応聞いてみる。
「それは私と歩夢だけの秘密」
ニッコリと笑顔の裏乃。あの紳士的な氷室先生も、流石に怒り出すに違いない。このとき僕は、廊下で雑談している看護師に一声かければよかった。勝手に外出しようとしている患者がいると。しかもこの患者は、精神病棟の患者であると。だけど、僕はそうはしなかった。海が見て見たい。
終わった場所であるあの海を・・・・・・
日が沈みかけ、辺りは薄暗い微かな光に包まれていた。僕は、裏乃と僕以外誰もいない砂浜に立ち尽くす。すぐ目の前には、薄暗い冷たい海が広がっている。今日は風が穏やかなのだろうか? 海の波はゆっくりとしていた。
「歩夢はここを。この場所を知ってる?」
「いや、僕はここには・・・・・・」
僕はここには、この海には来たことがない。そう言葉にしたいのだが。
「ああ・・・・・・知っている。知っているはずだ・・・・・・」
この海で志保は死んだ。
「歩夢は志保が大切だった?」
どうして裏乃が志保のことを知っている?
「詩織が大切? それとも・・・・・・」
裏乃は僕を見つめ、妖しく笑う。
「沙羅が好き? まだ志保を思う? それとも私? 私が好きならそれでいいよ」
こんな年下の少女に好意がある? 裏乃は確かに可愛いが。僕の心の中には、一人の少女だけが浮かぶ。妖しく笑いつづける裏乃。これは彼女の罠だ。そう思ったときにはもう遅い。酷い頭痛がする。僕は両手で頭を強く抑える。
「やめろ・・・・・・一人にしてくれ・・・・・・」
「一人は駄目だよ。歩夢が本当に壊れた人になるから」
僕は壊れ始めている。酷い痛みの中で、そう確信できた。詩織に優しくしたのも、こうして裏乃と同じ場所にいるのも、全ては僕という人間が壊れ始めていることを意味していた。僕は普通の状態じゃない。確信した。
「歩夢。知ってるでしょ? 歩夢は騙されていたんだよ」
そうだ。その通りだ。僕は志保に騙されていた。ずっと・・・・・・だから僕は・・・・・・僕は・・・・・・
詩織は知らない。僕が罪人であることを。彼女に会って打ち明けよう。衝動に駆られる僕だったが。
「最初から見捨てていたあいつが悪いんだ!」
怒声を上げる僕。頭痛は消え、再び自分自身を欺いていた。目の前には、突然の僕の怒声に怯えた裏乃の姿が。
「あ、歩夢が怒る・・・・・・歩夢が怒るよー・・・・・・」
涙する裏乃。彼女の頬と目は、見る見るうちに赤くなる。
「裏乃・・・・・・」
僕は、泣いている裏乃に声をかけるが。またひっかかれるのでは? そんな不安が少しだけ、頭の中を過る。
「ごめんね・・・・・・私が、馬鹿だから・・・・・・私の頭が悪いから・・・・・・」
裏乃の悲痛な言葉が、彼女のコンプレックスが、痛いほど僕の耳に突き刺さる。
「謝るのは僕だ。急に怒鳴ったりして。すまない・・・・・・」
ひっかかれる不安など、もうどうでもいい。僕は裏乃を優しく抱き締める。小柄な彼女の体が、すっぽりと僕の腕の中で落ち着く。微かな石鹸の香りがする。
「裏乃は馬鹿じゃない。純粋で可愛らしくて、とてもいい子だ」
抱き締められる裏乃は、顔を上げ悲しげな涙目で僕を見つめた。僕は思わず、涙で輝く彼女の水色の瞳から目をそらしてしまう。体の中にある心臓の鼓動が高くなる。
「私は馬鹿じゃない? それは本当・・・・・・?」
まるで、何も知らない無垢な子供のように裏乃は聞く。僕は再び彼女の瞳に目をやる。
「ああ、本当だ。こんないい子ほかにいるもんか」
裏乃は笑顔になる。僕の腕の中で、太陽のように明るい笑顔を見せてくれた。愛らしく。
志保、僕には生き甲斐ができたよ。沙羅と裏乃。この二人と明るい日々をただ過ごしたい。沙羅は裏乃のことを、あまりよく思ってはいないが。きっと沙羅は、裏乃がいい子だと、すぐに気づいてくれるはずだ・・・・・・
『・・・・・・惨め・・・・・・』
薄暗い海から声が聞こえた気がする・・・・・・
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