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返事はいらないけど、覚えておいて。

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 いつものデベロッパーに来ると渡辺さんに手だけでちょいちょい、と呼ばれた。
 呼ばれた先には土地の仕入れ担当者もいて何事かな、と思う。

「ちょっとこれ見てくれる?」

 出された不動産の登記簿謄本をパッと見る。これを見ると、その土地の地積や建物の床面積、現在の所有者、抵当に入っているかどうかといったことが分かる。

「今の登記簿上の所有者はこの方なんだけど、先月亡くなってるの。で、相続人の方たちが売ってもいいって言ってるんだけど、相続人の一人が海外にいてね。こういう場合の手続って」

「遺言がないんですよね? その場合は相続人全員で遺産分割協議をする必要があるんですけど、海外にいらっしゃる相続人の方には現地の領事館で在留証明と遺産分割協議書にサイン証明をもらう必要があります。手続的には、先に遺産分割協議書を作成して、現地に送ります。もし、相続税申告も必要な方であれば、同じものを2部送った方がいいですよ」

 渡辺さんに、にっこりと微笑む。

「……そう、じゃあ相続手続きをお願いしたいんだけど、お客さんに連絡とってもらえる?」

「もちろんです、ありがとうございます」

 心の中でガッツポーズをとる。どーやー!

「『先生それ』っぽくなってきたわね。じゃ、後からお客さんには司法書士から電話があるって伝えておくから、今日中に連絡して。これが連絡先ね」

「え、あ、……はいっ」

 今、一瞬、あの渡辺さんがホメてくれたよね? わー、どうしよう、顔がニヤけちゃう! 



 嬉しくて、早く秀ちゃんに報告したかったのに、仕事終わりに、秀ちゃんからメッセージが入っていた。

【悪い。今日の夜、会社の世話になった人との食事が入った。遅くなるかもしれないから先に寝てて】

 今日は秀ちゃんが一緒にお蕎麦を食べに行こうと誘ってくれていたので、ちょっとガッカリしてしまう。でも、付き合いもあるし、しょうがないよね。

【了解】というクマが敬礼している絵のスタンプを送る。

 久しぶりに一人でご飯かと思うと、やっぱり、ちょっと寂しい。
 たった1日いないだけでこんなんじゃ、秀ちゃんが出て行ったあとが思いやられる。同棲生活が楽しくて嬉しかった分、間近に迫っている同棲の終わりの日が怖くてしょうがない。

「木之下さん、ため息なんかついてどうしたの?」

「あ……いや、なんというか、今日の予定がキャンセルになって、ちょっと寂しいなって」

「今日の予定ってなんだったの?」

「……従兄と、おそばを食べに行く予定でした」

 秀ちゃんのことを何て言おうと一瞬考えたけど、悩むまでもなく表現する言葉はすぐに見つかった。彼氏でも、友人でも、先輩でもなく、ただ生まれただけでその関係になれた『従兄』だった。
 自分で勝ち得たものなんて何一つない。ただ、幸運だっただけの関係。
 自然と視線が床に落ちると、上から明るい声が落ちてきた。


「じゃあさ、代わりに僕と一緒にご飯行こう」

「へっ?」

 伊吹さんの突然の提案にポカンとする。

「独り暮らしでしょ? よかったら御馳走するよ」

「ああそんな、大丈夫ですよ。作り置きがあるので」

「実は前から気になってたお店があるんだけど、一緒に行ってもらえたら嬉しいな」

 気まずそうに視線を逸らした伊吹さんがちら、と私を伺い見る。その姿が叱られた子供のようで、大の男の人にそんな顔をされると、こちらの方が悪い事をした気分になるし、自分の中の母性が急にひょっこり顔を出した。

「あの、行きます。行きたいです」

 落ち込んでいた私へフォローしてくれようとしてるのに、変に意識しちゃっても失礼だよね。

「よかった。じゃぁ、片付けるから少し待っててくれる?」

 破顔した伊吹さんの笑顔の可愛さに、イケメンってズルいなと思った。
 伊吹さんが書類とデスクを片付けている間に秀ちゃんにメッセージを送る。

【私も、今夜は食べに行ってくるね】

 すぐに秀ちゃんから返事がきた。

【誰と?】

【事務所の先輩だよ】

【了解。もし何かあったらすぐ連絡しろよ。迎えに行くから】

 今日はお世話になった人との食事のはずなのに、そんな風に言ってくれる秀ちゃんに温かい気持ちになって口元が緩む。
 Thank youという看板を持ったネコのスタンプを送ってスマホを鞄にしまった。



 伊吹さんは私のゆっくりな歩調に合わせてくれたり、エレベーターのボタンを押してくれたり、ドアを開けて待っててくれたり、完璧にエスコートをしてくれた。やはり王子というあだ名は伊達では無い。

「木之下さんはお酒飲めたよね?」

「少しだけなら」

「そうだっけ? 前に事務所の歓迎会やった時に結構飲むなっていう印象があったけど」

 笑いながら小首を傾げる伊吹さん。覚えていながら聞くとは意地が悪い。

「嗜む程度だけ」

 にこやかな笑みを浮かべて言い切る。

「せっかくだからコースに合わせてソムリエにグラスワインをお任せしようと思うんだけどどうかな」

「いいですね」

「木之下さん、その反応は完全に飲む人間のソレだよ」

 くすくすと笑う伊吹さんに私もえへへ、と笑い返した。強いかどうかは別にしてお酒は大好きだ。
 ソムリエにシャンパンを注いでもらって二人でグラスを掲げる。

「じゃあ、お疲れ様」

「お疲れ様です」

 伊吹さんと、控えめにグラスをチン、と重ねて喉を潤した。

「んーっ、美味しい……!」

「仕事終わりの一杯は格別だね」

「ですね」

 伊吹さんとの食事は思っていたよりもずっと楽しかった。ご飯もお酒も美味しいし、話題も豊富だったし。デザートの時になって、伊吹さんが口を開いた。

「木之下さんって、今、彼氏いないんだよね?」

「そうですね」

 今どころか、ずっと居ないんですけどね。

「でも、恋はしてるんでしょ? コンパとか出会い探してる雰囲気ないもんね」

 ふわりと微笑みながら核心を突いてくるイケメンに心拍数が上がる。なんだか追い詰められているような感じが尋常じゃない。

「不毛な片想いだったりする?」

 完璧な営業スマイルを笑顔を貼り付けていたはずなのに、「そっかー」と頷き始める伊吹さん。
 なにを納得してるんだろう、怖い。

「一応聞くけど、相手は既婚者とかじゃないよね?」

「違います!」

「そっか、よかった。でも、木之下さんが苦戦するって、相手はどんな人なの? 格好いい?」

 思ってたよりもぐいぐい来る伊吹さんにびっくりする。意外と恋バナが好きなのかな。

「格好いいという言葉では収まりきらないくらい格好いいです」

「ははっ、木之下さんは面食いなんだ?」

「どうでしょう、そういうつもりは無かったんですけど」

「ふーん、僕よりも格好いい?」

 自分で言うとは……という気持ちも起きないくらい伊吹さんはイケメンなので、目の前の綺麗な顔をジッと見つめる。
 一方で伊吹さんは面白そうにニコニコして私の瞳を覗き込んでいる。明らかに私の反応を楽しんでるスタンスだ。

「みんな違ってみんないいというか、タイプが違うのでなんとも」

 秀ちゃんは、王道のクールイケメンにワイルドさを少し足したような雄の色気溢れる感じだし、伊吹さんは垂れ目がチャームポイントの王道の爽やか王子様イケメンだ。いずれにせよそれぞれの系統の最高峰であることは間違いない。

「ということは、僕も木之下さんから見て、格好いいという言葉では収まらないぐらい格好いいということ?」

 くす、と艶っぽく首を傾げる伊吹さんに目を泳がす。

「あ、そうですね。そういうことになります……」

「光栄だなぁ。そんな風に木之下さんに思ってもらえていただなんて」

「自分で自分の顔がいいのを知ってて聞いてくるなんて、誘導尋問ですよ」

「あは。分かっちゃった? だって、木之下さんが僕の事を好きなってくれる可能性があるかどうか気になるじゃん」

「はい?」

「やっぱり全く気付いてなかったかぁ。木之下さんには特別に優しく親切にしてたつもりなんだけど」

 いつもの笑みを顔から消した伊吹さんが真剣な眼差しで私を見つめてきた。

「顔は合格したみたいだし、とりあえずは僕にもチャンスがあると思ってもいい?」

「えっ」

「木之下さんの事が好きなんだ。返事はいらないけど、覚えておいて」

 今までとは違う艶っぽい笑みにバクバクと心臓が暴れ始める。

「迷惑なら迷惑って言ってね。パワハラとかセクハラにならないようには気を付けるからさ」

 悲しげに目を伏せられると、なんだか罪悪感が湧く。

「迷惑、だなんて、そんな。ただ、びっくりして……」

「そう。それじゃあ、やっぱり僕にもチャンスがあるってことだね。また食事に誘ってもいい?」

 ころっと笑うイケメンに唖然とする。騙された。さっきの悲しげな雰囲気は演技だったんだ。

「なんで私なんですか? 伊吹さんなら選り取りみどりだと思うんですけど」

「なんでって……」

 ふんわりとした笑みを消した伊吹さんの茶色い瞳が私を見据える。

「明るくて、素直で、一生懸命で、すごく可愛いと思ったんだよ」

 真剣な表情で言われて、顔が熱くなる。

「でも、私、他に好きな人がいるのでやっぱり」

「うん、分かってる」

 伊吹さんは私の言葉を遮ると、笑顔を消した真剣な表情のまま続けた。

「それでも、知ってて。僕はチャンスを狙ってるからさ」

 あまりにも真剣な表情だったから断りきれなかった。
 食事が終わったら、伊吹さんはタクシーでお家の前まで送り届けてくれた。

「今日はご馳走様でした」

「うん。今度はお寿司に行こうよ。明後日、金曜日だし空けておいてくれる?」

「えっ」

「また食事に誘ってもいいか尋ねたら断らなかったでしょ。木之下さんが明確に拒絶しない限りは、僕も積極的にいかせてもらうつもりだから。じゃあ、また明日」

 甘い微笑みを浮かべる美形に呆然としていると、後部座席の窓が閉まってタクシーが静かに発進していった。見えなくなるまま見送って、生温い夏の空気を感じながらアパートに戻ってベッドの上で悶える。

「嘘でしょ……」

 顔が熱い。全然気づかなかった。明日からどんな顔して会えばいいんだろう。
 伊吹さんの気持ちは嬉しいけど、今は秀ちゃん以外の人を見れないし、やっぱりお断りしなきゃな。
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