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第九章 妖精

28話

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 見渡す限りの緑が広がるその場所で、目の前に咲いた薄紫の小さな花はただ静かにそよいでいた。

「イエルバ、また新しい植物を創っているのかい」
「アイレ兄様。今回は自信作だよ、ほら見て。花びらが風で動くんだ」
「へぇ面白いね。それなら、もっと強い風を吹かせてあげようか?」
「アイレ兄様ならそう言ってくれると思ってた!」

 薄紫の花びらが回る中、楽しげに笑う青年たちの声が、強い風に運ばれては消えていく。それはとても穏やかで、とても幸せな光景だった。


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「ふぁ………」

 なんだか良い夢を見た気がする。大きなあくびをひとつして、寝ぼけ眼のままベッドから足を降ろした。

 椅子を半分引き摺りながら、いつもの定位置まで移動する。朝の日差しに目を細めながらもカーテンを留めようとしたその時、何かおかしなものと目があった。

 シャッ

 反射的にカーテンを閉めて、まだ寝ぼけているのかと瞼を擦る。え、あれ何? 流石に見間違いだよね? そう思って恐る恐る開いてみると、それはまだそこにいた。――というか、さっきよりもずっと近くに来て、僕の方を眺めていた。

「ひっ………人が……浮いてる………?」
『やあ』

 思わず叫び声を上げそうになったが、早朝だということを思い出して慌てて口を塞ぐ。ぷかぷかと宙に浮いている人物は、窓を指差して何か話しているようだった。……開けろってことなのかな。

 少し迷った末、特に害意もなさそうだったので、言う通りに鍵を開けた。冷たい風と共に入ってきたその人は、窓辺に腰掛けたまま、楽しそうに笑っている。

妖精ニンファ……」

 そんな言葉が自然と口からこぼれ落ちるほど、目の前の相手は美しかった。

 ワインのような赤色の髪は両サイドを残してゆるく纏められ、そのまま上の方で固定されている。無造作に伸びた前髪からは濃い紫色の瞳が覗き、白いまつ毛に縁取られて美しく輝いていた。
 陽の光を浴びて笑っている姿は、とても同じ人間とは思えないほど神秘的で、思わず見惚れてしまう。

『やあ、窓を開けてくれてありがとう。見たことない顔だけど、名前はなんて言うの?』

 一見すると女性のようにも思えたけれど、その唇から発せられた声は存外低かった。よくよく見れば喉仏も浮き出ているし、恐らく男性ではあるのだろう。

『へぇ、君の目……黒かと思ったけど、深い緑色なんだね。草の加護持ちなんて珍しい。ねぇなんでこんな場所にいるの? もしかして捕まってたりする? ああいや、それはないか。だって窓さえあれば魔法で逃げられるもんね。ならやっぱり――』
『ま、待って! ルミナーレ語はまだ勉強中で……その……もっとゆっくり、お願いします』

 ルミナーレ語で話しかけられているのはわかるけど、スピードが早くて、耳も理解も追いつかない。未だに続く言葉をジェスチャーで遮り、辿々しい言葉で勉強中であることを説明した。……伝わったかな? 

 窺うように彼の顔を見上げると、紫色の瞳が優しげに細められる。

『この速度なら聞き取れる?』
『うん』
『良かった、じゃあもう一回質問ね。君は誰? なんでこんなところにいるの』

 聞き取りやすい速度で尋ねられ、辿々しいながらも伝わっていたことに、ホッと胸を撫で下ろす。
 ただ、相手から投げかけられた質問に、どう答えるのかが難しかった。最初は素直に答えようとしていたけど、レオから聞いた話がふと頭を過って口をつぐむ。

 悪い人では無さそうだけど、万が一、ヴィラを蹴落とそうとしている人だったらどうしよう。

『……それは、言えない』

 属国の平民で、尚且つ身分すらハッキリしない自分を匿っていることが知れたら、ヴィラの評判に傷がつくかもしれない。そう考えた末に、ひとまず何も話さないでおくことにした。

 相手の素性もわからないのだから、用心するに越したことはないだろう。

『へぇ、結構警戒心は強いんだ。でも名前くらいは教えてくれてもいいんじゃない?』
『じゃあサシェで』
『あは、わかりやすい偽名だね。よっぽど信用されてないみたいだ』
『……あなたの名前は?』
『そうだね、えーと。君がさっき言ってた言葉……なんだっけあれ』
妖精ニンファ?」
『うんそれだ。響きが気に入ったからそう呼んで』

 どうやら彼の方も、本名を明かすつもりはないらしい。どう考えても怪しいけど、あちらにだけ正体を明かせというのも不公平だし、変に探り合うことになっても面倒だから深入りするのはやめておいた。
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