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ねぇ、緑。3

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「お前さー、星見たかったら俺に言えよ」
 緑と土手でこっそり手を振って別れた後の帰りの道、斎藤が頼むからというニュアンスで菜穂を振り向いた。
「クラスの奴らとはいけないの分かってるから。だったら俺を呼べ」
「……」
 俺を呼べと言われても。
 菜穂は心の中で独り言ちた。
 斎藤は星を見ている間中、菜穂が気を利かせて話しかけても「あぁ」とか「うん」とか煮え切らない返事ばかりをしたので、菜穂は辟易してしまっていた。
 男ってこういうものなの?
 そう、土手にいる時、上空の遠い星々に問いかけた菜穂は、途中から諦めて自分も黙り込むことにした。が、暫くして川辺から緑が息を切らしながらやっとのことで戻ってくると、「よう、斎藤。君ってやっぱり好きな子の前ではシャイボーイになっちゃうんだね。そんなことで僕から菜穂を奪おうだなんて百億年早いのもいいところだ。……え? 実際はこうやって俺に愛する菜穂を奪われているじゃないかって? ふん。甘いな、シャイボーイ。今日僕が食べたかぼちゃ味のべじたチップスより甘すぎるよ。この状況で君は、本当に僕から菜穂を奪えているとでも言うのかい? ……ん? 何、言っていることがよく分かりません、詳しく教えてください緑様、だと? ふん、良いだろう、その帽子の鷲君に免じて教えてやろう。いいかい、彼女を真実の意味で奪うということはね、肉体そのものを奪うことなんかじゃないんだ。分かるかい? 心もセットで奪わないと意味なんてないってことだよ。……ほら、だから分かったろう? そう言う意味では斎藤、君は今この瞬間も僕に負け続けている。なぜならば菜穂は君といる今この瞬間こそをも、僕のことを……」と息つく暇もなく緑に気が付くわけもない斎藤に説教を垂れ始めたので、菜穂はたまらず噴き出しそうになった。この先噴き出して斎藤に頭のおかしい女だと本認定されるのは御免だと思い、菜穂は「帰ろう」と早々に斎藤にお開きを切り出したのだった。結局今日も星をあまり見ることは出来なかった。まぁ、本心を言うともういいのだけど。
「いや、いいよ。斎藤だって暇じゃないでしょ」
 菜穂が斎藤の気遣いを無下にしないようにあくまでさりげない口調で言う。
「暇じゃねーけど、夜は暇だよ」
「数学の宿題、やらないで指されてれてしょっちゅう怒られてんじゃん」
 数学の時間、斎藤が宿題をしていないのがばれ、鬼教師に散々怒られるのはもはや菜穂のクラスの恒例の行事となっている。あの鬼に叱られても尚過ちを繰り返すとはいったいどういう構造の鋼のメンタルをしているのか教えて頂きたいものである。
「あー、うん、そうねぇ……」
 斎藤は遠い目をしていた。
「じゃあ、俺じゃなくても親御さんに来てもらうとかさ。とにかく一人はよくねーんじゃねーの?」
 頭の後ろに手をやりながら斎藤はふらふらと歩いていた。
 夜の冷たい風が菜穂の足元を通り過ぎる。
斎藤、体、冷えてないかな。
 ふと、菜穂はそんなことが心配になった。
「斎藤」
 後ろから声をかける。
「ん?」
 斎藤が振り返った。
「ありがとう。ごめんね、汗かいてたのに」
「あ?」
 斎藤が眉を歪めている。
「そんなことで風邪ひかねんだよ、俺は……」
 と、前を向き直った斎藤が突然足を止めた。
 菜穂も足を止める。
 彼の菜穂よりも少し大きい背中が、何かを考え込んでいるように静止していた。
「……どうしたの?」
「……いや……お前、もう少し人のこと頼れよ」
そう低い声で静かに言うと、彼はゆらゆらと歩き続けた。
―助けてほしいときは助けてと言ってほしい……
 ……なんだか、斎藤は緑と同じことを言っているような気がする。
 不意に、菜穂の中に、斎藤になら自分の話をしてもいい、いや、斎藤にこそ自分の話を聞いてもらいたいような気持ちが湧き上がって来た。
「あのね、斎藤……私さ、お父さんと今、離れて暮らしてるんだ」
「え?」
 斎藤が立ち止まり、神妙な顔つきで菜穂に向き直る。
「……どういうこと?」
 そこに何か深い意味があることを彼は珍しく察したようだ。
「……」
 菜穂はあれ? と思った。いざ、父が自分から離れた理由を正直に話そうとすると、やはり、友達同士の会話にしては重すぎる気がしたのだ。まして、普段は明るい斎藤に話すには気が引けた。
「……あの」
「ああごめん、良いよ、無理して言うな」
 斎藤が慌てて菜穂の言葉を遮る。
「まあ、うん……家のことは……色々あるよな……言いにくいし」
 俯きがちにそう言う斎藤を、菜穂は意外な思いで見つめていた。
 菜穂は二つのことに驚いた。
 一つは斎藤にも言いにくいことがあるのだということ。
 もう一つには、あの斎藤が理由を問い詰めもせず、思慮深く菜穂の気持ちを汲み取ってくれたことだった。
「そしたら雨宮の母ちゃんも一人で大変だな。夜に星見に行きてーだなんて言い出しにくいよな……俺で良かったらマジでいつでも付き添うから。宿題とか、どうせ疲れてやんねーし」
 何、どうしたの? 何でこんなに優しいの? あ、もしかして斎藤の中に別の誰かが入っているのかな。最近緑みたいな生き物が見えたりするんだから、そう言うこともあり得るよね?
 そんなことを思いつつも菜穂は不思議な幸福感に包まれていた。
 誰かが自分のことを知ってくれる、誰かが自分のことを思ってくれるって、こんなに幸せなことなのだ、と菜穂はふわふわと力の抜けるような心地がしていた。
「ありがとう……斎藤も、私に何かできることがあったら言ってね」
 何だかとても優しい気持ちになって斎藤に言う。
「お、おう」
 斎藤が手の甲で口を隠しながら了承した。
 ゆっくりと二人は隣に並んで歩き出す。
「学校もさ」
 斎藤がそれとなく切り出した。
「俺が足立とのこと……上手くできるか分かんねーけど、何とかしようか? あいつのこと何とかすりゃクラスの女子も元に戻るんだろ?」
「うん、多分……」
 そりゃあ、樹里とのことは出来ることなら誰かに何とかしてもらいたい。本当は、樹里と面と向かってもう一度話をした方がよいのではないかと、心の奥底でどこか菜穂は考えていた。しかし、面と向かって話しをする勇気など、どこに行けば見つかるのだ。菜穂の胸の内は疲弊していた。話をすることに失敗した結果が、今のこの状況なのだ。もう一度立ち上がる? そんなこともうできないよ。菜穂の心はひどく挫けてしまっていた。
 だから、斎藤の「何とかしようか?」という言葉は菜穂にとってはそのまま前のめりに倒れ込みたくなるほど甘美な言葉だった。
もう闘わなくてすむ?
下唇を斎藤に気づかれないようにそっと噛む。
……ああ。もう全部斎藤に投げてしまいたい。
金魚の糞みたいに斎藤の後ろにくっついて、そのまま事態が収拾していくのを他人事のように傍観していたい。
目の前で樹里に問いを質す斎藤の後ろ姿。その背中をただ見上げているだけの自分。
ちらりと向こう側に立つ樹里の様子を窺ってみる。
斎藤の背中越しに見える彼女の顔は真っ赤に染まりあがり、まるで後で覚えていろよと言わんばかりに鬼の形相でこちらを睨んでいた。
あー、駄目だ。駄目。絶対ダメ。
菜穂はゆっくりと口を開いた。
「ありがとう斎藤……」
 斎藤がくるりとこちらを向いた。
「でも、斎藤が絡むと……なんか余計事態がこんがらがりそうだから……自分で何とかするよ……」
 力なく言う。
ごめんね、斎藤。でも、斎藤じゃ駄目なんだよ。樹里の嫌いな男の斎藤じゃ。私の好きな人って樹里が勘違いしている斎藤じゃ。
 斎藤は数秒の間菜穂を深刻な表情で見つめると、これまた深刻そうに視線を足元に静かに落とした。
「そうか……そうだよな、やっぱ、俺みたいにモテる男が絡むと良くないよな……」
 何かが違っているようだがこのことに関しては諦めることにする。
「斎藤はさぁ」
 斎藤が「ん?」と顔を上げた。
 半ば本気で菜穂は自分の疑問を口にした。
「どうしてそんなにポジティブでいられるわけ?」
 束の間、二人の目が合う。
「……うーん」
 視線をそらしながら、彼は何か思いあぐねるように唇を尖らせ腕を組んだ。
 なんだ? 菜穂はきょとんとしてその様子を見守っていた。
 斎藤がちらりとこちらを見やる。
 菜穂は何も言わずにただただ視線を返す。
 それを確認したように、彼は前を向き直ると、ふぅ、と息を吐きだした。
「……まぁ、これはちょっとカッコ悪い話になってしまうのだけど……」
 首の後ろをポリポリと掻いている。
「お家のことを打ち明けてくれた雨宮さんのために、僕も一肌脱ぎましょうか」
 え?
 菜穂の口が、ぽかんと開いた。
 斎藤が心なしか寂し気に頬を緩めた。
「俺さ、四個上の兄貴がいるんだ、知ってんだろ? よくカト先が話に出してくる……」
「うん、あの勉強も運動もできる、めちゃくちゃ優秀なお兄さんでしょ?」
「そうそう。んでめちゃくちゃ俺はその兄貴と比べられるっていう……」
 斎藤がははっと苦笑いをした。
 中学の英語教師カト先こと加藤先生は、菜穂たちのクラスの英語を受け持っており、斎藤のお兄さんの所属するサッカー部の顧問でもあったらしい。部活で部長を任されながらも、県内でも名高い名門高校に学年で唯一合格し進学した彼のお兄さんのことを、カト先は大層誇りに思っているらしく、斎藤が授業でおかしな回答をする度にそのことを引き合いに出して斎藤をからかうのであった。そこには決して嫌味の感情は見えず、むしろ、斎藤を可愛く思うが故のからかいのように見えた。からかわれた斎藤もいつもと変わらずおちゃらけた調子で、特段嫌そうな顔はしていなかったように思えたのだが……。
「斎藤、もしかしてお兄さんと比べられるの嫌だったの……?」
 あんなにふざけた調子で「いやー、兄貴に勉強を教えてあげてたら自分の勉強をする時間が取れなくなっちゃって……」と頓珍漢なことを言って、クラス中にクエスチョンマークを出現させていたのに……。
「いやいやいや、違う違う。全っ然、あんなの気にしてない」
 斎藤が大袈裟に首を振った。
「比べられるのなんて正直どうでもいい。あんな奴、俺尊敬してないから。むしろ見下してる」
「え?」
 斎藤が珍しく何かを忌避するような苦い顔をした。
「俺がこんなこと言うのも何だけど、あいつ、ちょっとおかしいんだよ。外では相当猫被ってるみたいだけどさ。家ではマジやべーの。本当」
 斎藤の目が、どこか遠くを鋭く捉えていた。
「猫被ってるストレスかお勉強してるストレスか何か知らねーけどさ、あいつめっちゃ俺に当たってくんの。家ですれ違うたびに睨んでくるし、お前何で家にいんの? とか、え、どうしてそんなあほな顔なの? とか。あいつ、俺に似てイケメンなんだよ。俺もイケメンなのにそれには気づかねーらしい。それから遊んでねーで脳みそまず何とかしろよ、とか、まだ生きてたの? 早く死ねよ、穀潰し、とか……ネチネチネチネチして、女かよ。あ、ごめん、女がみんなそうってわけじゃねーよな」
 言っているうちに斎藤は怒りがわいてきたのか早口になっていった。
 菜穂の脳裏にある記憶が蘇って来た。
 緑だ。
「僕は役立たずのこん畜生だ。」
彼の肩が、震えていた。
「菜穂の友達なんだ」
「気づくわけない」
「健気に笑っていたんだ……」
 斎藤の横顔に視線を移す。
……うそ。
もしかして緑の言っていたあの子って、斎藤のことだったの……?
菜穂が黙っていることに気が付いたのか、斎藤ははっとしたように言葉を止め、菜穂に顔を向けた。
「あ、ごめん、思い出したらだんだんムカついてきて」
 ははっと表情を緩め、いつもの斎藤の柔和さが戻る。
「まぁ、とにかく俺の兄貴はむかつく奴なわけ。んで、何とかしようとして歯向かうとボコボコにされるし、あ、見えるところは蹴ったり殴ったりして来ねーよ? 親は兄弟げんかは兄弟で解決しなさいとか言うし。マジ意味わかんねーじゃん」
「うん」
 菜穂はやっとのことで喉から掠れたような声を出すことが出来た。
「だからさ、人間的には負けないような奴になろうと思って。兄貴みたいに他の奴らより優れて人を見下すくらいなら、俺は優れなくてもいいから人を笑かすような奴になりたい。兄貴みたいに陰鬱なこと言って人のこと暗くするくらいなら、俺は楽しいこと言ってその人のことを明るくしたい」
 斎藤がくいっと夜の空を見上げた。
「そのためにはさ、俺がまず暗い奴らに負けねーくらいに明るく輝いてなきゃじゃん? ほら……例えば星のような? 出来れば太陽くらいがいいんだけど、まぁどっちでもいいか。とにかく光り輝く存在でなきゃいけねーわけよ、うん」
 斎藤が首をうんうんと縦に振っている。
「そう、で、俺は二年前? くらいから努めてポジティブでいることにしたわけ。すごくね? 小学生で悟り開いちゃったよ?」
 自分でもびっくり、とでもいうように目を丸くして菜穂を見た。
「それが功をなして俺は今、何者にも屈さないほどのポジティブさを手に入れたってわけよ。凄くね?」
「すごい」
 冗談のつもりで斎藤は最後、自分を称賛する言葉を挟んだのだろうが、菜穂は間髪入れずにそれに同意した。
「斎藤は凄いよ。よく頑張ったね」
 無意識に斎藤の腕を揺すっていた。
「辛かったでしょ。よく頑張ったね。凄い、本当凄いよ」
 彼のぽかんとした表情も気にせず腕を揺すり続ける。
 斎藤は、何でもないことのようにすらすらとたった今目の前で自分の過去を話してみせたが、緑が泣きそうになりながらも斎藤のことを話す姿を思い出すと胸が締め付けられるような思いがした。きっと、斎藤の現実は斎藤が話した話よりももっと痛々しく厳しいものだったろう。けれど、家族も、友達も、そして緑も、誰も知らないうちに斎藤はそれを一人で人のためになる方向に昇華してみせたのだ。
 なんてすごい奴なんだ。私なんてただ鬱屈としているだけだったのに……。
「お、おう……」
 斎藤が困ったように、腕を揺する菜穂を見ていた。
「まあ、あれよ、その、ほら、俺、って名前だから」
「へ?」
 菜穂が手を止めて斎藤を見上げる。
「小学校から一緒なんだから俺の下の名前くらい知ってんだろ? 輝く人って書いて輝人。ちょうど二年前くらいに死んだばあちゃんがつけてくれた名前なんだ……まぁ、ばあちゃん的には人を輝かすって意味だったっぽいんだけどな。まぁとにかく、そんな名前なんだからくすぶってないで人を照らし出すくらいに輝いていないと……」
 と、斎藤は急に照れくさそくなってきたのか、ふい、とそっぽを向いてしまった。
「うん、そうだね。名前に恥じない生き方をしたいよね」
 斎藤、おばあちゃんっ子だったのかな。
 菜穂は思いを馳せた。
 斎藤のおばあさんが亡くなってしまっていたことも、斎藤がお兄さんに酷いことを言われていることも、お母さんがそれを放っておいていることも、小学生の頃学校では仲良くしていたものの、菜穂は何一つとして知らなかった。
 そしてそのことが少し悲しく寂しかった。
 けれど、私たちはそれぞれ、それが当たり前なんだとも思った。
 人それぞれ、知らないうちに色々なことが起きていて、知らないうちにそれを乗り越えたり、乗り越えられずにずっと引きずっていたりする。
 それは当たり前のことで、けれど少し悲しいことだ。
 時にはこうやって、誰かに言葉にして共有することで、自分のその当時の思いや苦しみは、少しだけれども報われるのかもしれない。
「斎藤、ありがとう」
「え?」
「話してくれて」
「あ……あぁ……誰にも言うなよ?」
「分かってるよ」
 菜穂はバシリと斎藤の腕を叩いた。たたっと前へ走り出し斎藤を振り返る。
「お互い秘密を抱えてしまいましたね」
 悪戯をするように笑う。
「……そうですね」
 斎藤がめんどくさそうに頷いた。
 空には蘭々と星が煌めいている。
 ねぇ、緑、何を願おうか。
 菜穂はふと改めて考えてみる。
 緑が寂しくありませんようにっていうのと……
 そうだ。
 斎藤は空に腕を高く伸ばすとふわりと大きく欠伸をした。
 斎藤の幸せもついでに願っといてやろう。
 菜穂はクルリと前を向くと歩きながら目を瞑ってそっと祈った。
 前から歩いてきた散歩中の犬にぶつかりそうになりバウバウと吠えられていると、斎藤がどこ見て歩いてんだよ、と呆れた声で菜穂の腕を後ろから引っ張って寄せた。
 
 家に着くと菜穂は夕ご飯も取らず直ぐに入浴を済ますとそのままベッドへと向かった。
 どうせお母さんはまたタバコを吸うんでしょ?
 布団にくるまりながら菜穂は宙を睨む。
―自分の思いが母の中で消されてしまったのかどうか。
それは、母がタバコを吸うかどうかにかかっているような気がして、けれど彼女は確かめるまでもなく私の眼前でタバコを吸うだろう、という謎めいた確信が菜穂の中では渦巻いていて。
そんな現実、もういらない。
 枕元に置いておいた緑のまっすぐな羽が、すっと菜穂の視界に入り込んだ
 菜穂はその羽に優しく手で触れ、ゆっくりと瞳を閉じる。
明日から学校が始まる。
 樹里の刺々しい声。
 周りの凍てついた空気。
体育の後の、あの一連の出来事が、今はベットの中にいるはずの菜穂の心臓をドクンドクンと鳴らしていく。
 もう、無理だよ……。
 無意識に菜穂は緑の羽を握りしめていた。
 樹里の攻撃は次のフレーズに入った。
 あくまで間接的に私を追い込むものから直接的な攻撃へ。
 何で? 何がきっかけ?
 樹里の行動がエスカレートした理由が分からない。
 私はクラスで座っていられるのだろうか。皆の前でまた面と向かって罵られたら、どう対処していけばいいのだろうか。
―俺が何とかしようか?
……斎藤……。
斎藤の、それとなく切り出した言葉を思い出す。
嬉しかった。あの時私は、斎藤が絡むと余計こんがらがると言って断ってしまったけど、本当は、斎藤がそんなこと言ってくれてすごく嬉しかった。
まるで今それを思いついたかのような斎藤の顔。
けれど彼の体全体から醸し出される雰囲気は、彼がそのことを切り出すかどうかを、菜穂の知らない間に幾分の時をかけて悩んでいたことを物語っていた。
胸の奥がキュッと締め付けられた。
 誰かが心配してくれていること。
誰かが助けようとしてくれていること。
―大切だよ、世界で一番
 優しさを内包しながらも、まっすぐでゆるぎのない声。
 菜穂の体の奥深くに、温かい光が満ちていくような気がした。
 ねぇ、緑。
 あと、ついでに斎藤。
 菜穂は暗闇の中でカッと目を見開いた。
 やるよ、私。

「お母さんおはよう」
 目覚めのいい朝だ。
 頭はまるで昨晩寝ていないかのように冴えており、体中に流々と血が流れている気がした。
「あら、おはよう菜穂」
 菜穂はちらりと母を見やると、リビングのダイニングテーブルへすたすたと歩いて行った。
「今日、もしかしたら早退するかも」
 椅子に腰かけざま、まるで大したことでもないように菜穂は言った。
そのままテーブルの上に並べられた食パンをむしゃむしゃと勢いよく頬張る。
「え?」
 母が怪訝そうな顔をした。
「何? 昨日も夕飯食べてないで、具合でも悪いの?」
「うん」
 食パンをコップに入った野菜ジュースで一気に流し込む。
「そう……」
 そうって。
 菜穂は口にジュースを蓄えたまま顔をしかめた。
 こんなに血気盛んに朝ごはんを食べているのに具合も悪いもあるか。
 と、菜穂は心の中で毒づいてみたが、ま、いいか、と直ぐにしかめた顔を元に戻した。
 問い詰められても厄介だ。
「じゃあお母さんもう仕事に行くけど、あんまり無理しないでね」
 行ってきまーす。母は時間がないのか、少し駆け気味に玄関を出て行った。
 ガチャン。とドアが閉まる音を確認する。
 菜穂はふぅ、とため息をついた。
もし樹里と決闘をして……。
落ち着いて心の中を整理する。
と、その時、つけっぱなしだったテレビの音が急に耳に飛び込んで来た。
「まじ~、仲直りの言葉はいつも愛してるだからうちら。ね、ひろと。やっぱ人類みな求めているものは結局愛なんだっていうか~、愛があればさぁ、結局何でも許しちゃうんだよね、って、あ! ひろと! ちょっと何そっぽ向いてんだよ! ひーろーとー……」
 ブチッ。
菜穂はテレビの電源を切った。
思考の邪魔だ。
菜穂は目を瞑り、努めて心の静けさを取り戻す。
 決闘をして負けたら……もう学校には行かない。
 瞼を上げる。
 洗面所へ向かい丹念に細い三つ編みを二つ編むと、残りの髪を二つに分けて三つ編みと共に束ねる。
 そうだよ。まだ小学生の小林さんの息子さんだって闘ってるんだ。
 周りの目とか、お母さんがどう思うかとか、どうでもいいではないか。
もういいでしょう。私は十分頑張ったよ。
 そう覚悟を決めた途端、菜穂は自分の心を縛り付けるものから解放されたような気がした。
 部屋から洗面所に降ろしてきていたいつものベージュ色のリュックを背負うと、玄関へと向かった。緑に、良い報告が出来ますように……。
 あ、そうだ!
 ふと、大事なものを忘れていたことに気が付く。菜穂は急いで踵を返すと自分の部屋へ続く階段を駆け上がった。
 ドアを開けて部屋に入ると、ベッドの枕元には緑の羽が朝日に照らされ輝いていた。
 良かったぁ、気が付いて。
 羽に近寄り、拾い上げる。
 覚悟を決めたからと言って、不安がないわけではないのだ。
 菜穂は、背負っていたリュックをいったん降ろし、ごそごそと中を探ってリュックの内ポケットに入れていた生徒手帳を取り出した。表紙を開き、カバーそでにしっかりと羽を差し込む。リュックの中に生徒手帳を再び戻そうとした手が止まる。
 ……やっぱり、スカートに入れておこう。
 樹里との闘いの最中も彼に傍にいてほしい。
 そう願いを込めて、菜穂はスカートのポケットに丁寧に手帳をしまい込んだ。

 しまった、学校に着くの、ぎりぎりになるかもしれない。
 どこかから蝉の鳴く声が聞こえる。頭上からは太陽の光がさんさんと降り注ぎ、目の前を直線に伸びるコンクリートがその熱を跳ね返している。
 夏をぶり返したのだろうか。
菜穂のこめかみに、久しぶりに汗が伝う。
 学生の姿が見えない。
菜穂の胸に微かな不安が過り、足を運ぶ速さが自然と速くなる。
 いやいや、別にぎりぎりでも間に合えば良いわけだし。無駄にクラスにいるのもしんどいし、ちょうど良かったかも。
 そう考えてみると、急に肩の力が抜けて足の力も抜けた。
 隣を学生服姿の少年が駆け抜けて行く。
 いや、でもぎりぎりになって目立つのはやっぱ嫌だ。
 と、再び菜穂が足を速めようとしたその時だった。
「菜穂ちゃん!」
 背後から、鈴をリンと思い切り響かせたような声がした。
「え?」
今、私のことを呼んだ?
首だけ振り返る。
「菜穂ちゃん、待って!」
 コンクリートの彼方から、見覚えのあるくりくりとしたショートヘアの少女が、懸命にこちらへ走ってくるのが見えた。
 細い。
 それが、まず最初に菜穂の頭に浮かんだ言葉だった。
 長くて細い足。体の線だって当然のことのように細い。
まるで生まれたての小鹿みたいだ。誰かが守ってあげなくちゃ、すぐさま草陰に隠れるライオンに食べられてしまう。
 樹里の顔が浮かぶ。
私のところに来ちゃダメ。
菜穂は唇を噛み締めると、自分の名を呼ぶ声など聞こえなかったかのように、その少女にさっと背を向けた。
 それでも自分の名を呼ぶ声はまだ続いている。
 何で、私、今無視したんだよ? 振り返った時、目、あったよね?
菜穂の心がちくりと痛んだ。
私がそんなことするはずないって思ってるのかな。
「なっ、菜穂ちゃーん!」
 海堂さん、走り方めちゃくちゃだったな……ゆらゆら色んな方向に揺れちゃって、あれじゃあ全然前に進まないよ……そう言えば金曜日の千メートル走、あの子、見学してたっけ。あんまり走ったことないのかもしれ……。
 はっ。
菜穂は金縛りにあったように突然足を止めた。
 本当は、走っちゃいけないんじゃないの……?
 彼女の生活を思う。
 休みを挟んだとはいえ、学校に続けてこられた。
 それが彼女にとって、どれだけ貴重なことなのか。
「海堂さん!」
 振り向きながら、菜穂はほとんど叫んでいた。
「走んないで! 今そっちに行くから!」
「菜穂ちゃん」
 ほっとしたように顔を緩ませると、美和は膝に手をついてぜぇぜぇと呼吸を繰り返した。
 やっぱりしんどかったんだ。
 菜穂は美和の元へ駆け寄り、背中に手を当て優しくさすった。
「大丈夫? 海堂さん……」
「ご、ごめんね、菜穂ちゃん……き、来た道っ……戻らせちゃった」
 美和がへへへっと力ない笑顔を菜穂へ向けた。
「いいよ、そんなこと。それよりいきなり立ち止まったら心臓に悪いから、ちょっとだけ歩いてクールダウンさせた方が良いかも。足、前に出せる?」
「う、うん」
 美和がゆっくりと足を前に出す。菜穂はそれにを支えるように美和の肩を抱えてやった。
 彼女の肩はぐっしょりと濡れ、額からは汗が滝のように流れていた。
 本当に体が弱いんだ……。
 菜穂は目の前の現実にショックを受けていた。
 少し走っただけで、こんなに体力を消耗してしまうんだ。
 ひょっとして、学校に来ることは彼女にとって、とてもリスキーなことなんじゃないか。
 菜穂の顔が歪む。思わず美和の肩を掴む手に、力が入りそうになる。
 海堂さん、ごめんね。
 菜穂は美和のしんどそうに俯けられている横顔を見ながら思った。
 この間、避けちゃってごめんね。
 今それを声に出して言ってしまうと、美和に話させることになってしまうので、菜穂はぐっと気持ちを堪えた。
 美和の息が落ち着くまで、二人は何も言わずにただゆっくりと歩いていた。
 五分ほど歩いていると、学校が目の前に見えてきた。
「ごめんね」
 そのタイミングで先に口を開いたのは、菜穂ではなく美和の方だった。
「菜穂ちゃん、樹里ちゃんにあんなこと言われてたの、私のせいだよね」
 美和の呼吸はすっかり平穏を取り戻していた。
「え? あんなことって?」
「……先週の金曜日の……」
 ドキリとした。そうだった、海堂さんにも聞かれてしまったのだった、樹里に私が罵倒されているところ。
「え? あぁ、あれ!? 違うよ、何で海堂さんのせいなの? 私がただ邪魔で嫌われているだけだよ」
 菜穂は笑っておどけて見せる。
「海堂さんが関係あるわけないじゃん!」
「……よくは分からないけど……ずっと前に、わ、私といた時に菜穂ちゃん、樹里ちゃんに話があるからって呼び出されてたから……あ、あの後、私のことで……二人の間で何かあったんじゃないかなって……」
 勘のいい子だ、と菜穂は思った。
 いや、斎藤でも気になって多目的室までついてきたくらいだ、あの時の樹里は、よっぽど険悪な雰囲気を纏っていたのだろう。
 菜穂は何事もなかったかのように美和に向ける笑顔を崩さず言った。
「違うよ違う。あの時の樹里さ、後になると言い忘れそうだったから、話があるってことだけでも先に言っておきたかったんだって。ボケてきてるのかな、笑っちゃうよね。だから海堂さんとは関係ないよ」
「……本当に?」
 美和が怪訝そうな顔を菜穂に向ける。
「うん」
 菜穂はにこっともう一度念を押すように笑って見せた。
 きっかけではあったけど、決して海堂さんのせいではない。
それは菜穂の中で確かなことだった。
 これは、私と樹里の問題なんだ。
「……」
 美和はそれでも納得のいかない様子で、瞳を伏せがちに俯け、桜色の薄い唇をきゅっと思い悩むように結んでいた。
 ジジジッ。
 どこかの電柱から、蝉が勢いよく飛び立っていくのが見えた。
 菜穂は、そうだ、と先程言おうとしていたことを思い出す。
「海堂さん、そう言えばさ……あのー……この前話しかけてくれた時はごめんね」
 菜穂が力なく口角を上げた。
「え?」
 美和が長いまつげを上げ、きょとんと瞳を菜穂へ向けた。
 あ、緑の瞳。
菜穂の心臓がドキリと鳴った。
似ている。純粋で、吸い込まれそうになる、あの瞳に。
菜穂は瞬間、言葉が喉に詰まった。
 海堂さんも、そっちの人間なんだ。
 悲しいくらいに、美しい瞳を持つ……。
「ごめんねって……?」
 美和の声で意識が現実に戻される。
「あ、ほらっ、この前着替えの時に二人っきりになったことがあるじゃない? その時、トイレ行くとか言って、私、海堂さんがまだ話の途中だったの分かってたのに、置いてったりしちゃったから……」
「あぁ」
 美和がそんなこと、と柔らかく笑った。
「いいの、全然いいの、トイレを我慢して体育だなんて誰だってやりたくないし、全然、気にしないで……というより……あ、あれ、本当は……私に気を遣ってくれてたんでしょう?」
「え?」
 思わず足が止まりそうになる。
「あ、あの時は気づかなかったけれど……後になってから……もしかしてあれは、私といるところを樹里ちゃんに見られないようにしてくれたのかなって……一緒にグラウンドに出たら、目立っちゃうもんね」
「あ……」
 菜穂は少しの間どう答えるべきか逡巡し、自分でもおかしいくらいに瞳を泳がしていてが、迷うべき選択しなどないことに気が付き、へへっと笑って頭を掻いた。
「あぁ、うん、そう。あの時はまだ海堂さん、私が樹里にされてること知らないみたいだったから……それなのに私といて知らないうちに目を付けられちゃったら申し訳ないなって思って……」
 自分で言っていて、何だか切ない気持ちになってくる。だが本当に切ないのはこれからである。
「あのね、それでね、海堂さん……できれば……私に近づかないでほしいんだ。今私に近づくと、多分、樹里に私と同じことされちゃうよ……?」
 自分の気持ちにとどめが刺された。
海堂さんとこうやって話をするのも、今日が最後になるんだな。
全然話したことなかったけれど、私のために必死に走ってきてくれた海堂さん……。
あーぁ、海堂さんのこと、もっと知りたかったな。友達になりたかったな。
菜穂の心で願いが疼き、こめかみがジワリと熱くなった。
「い、嫌だよっ」
 美和の鈴のような声がリンッと揺れた。
「へ?」
「わ、私っ、菜穂ちゃんといたい。今日は菜穂ちゃんに会えると思って、楽しみに学校に来たんだからっ」
「私に?」
「わ、私……樹里ちゃんには悪いけど、私っ……」
 美和の胸の前で握られた両拳が、プルプルと小刻みに震えていた。彼女の澄んだ瞳が、心なしか涙で揺れているように見えた。
 キーンコーンカーンコーン……
「あ」
 数十メートル先の校舎から、始業のチャイムが鳴り響いた。
 二人は顔を見合わる。
「やば、遅刻だ……私、遅刻って初めてかも……」
 菜穂が唖然とした表情で言った。
 校門の横にはワイシャツの袖を限界までたくし上げた教師が暑さに顔を歪めながら立っていて、こちらをじっと見つめている。
 あー、怒られる。
 菜穂は今から気が滅入った。
 あれ、でも何で私達が見えているのにあの先生は何も言わないんだろう。
「大丈夫だよ」
 菜穂の様子を察してか、美和がふふふっと横で静かに笑った。
「私の親から付き添いを頼まれたって言えば、菜穂ちゃんの遅刻なんてなかったことになるから」
 先程までおどおどと話していた美和が、今度は自信満々そうにそう言った。
 え……? 菜穂は口を半開きにしながら美和を見つめ返していた。
 
 クラスのドアの隙間から、朝の会が終わった頃を見計らって教室に入る。美和が担任の元へ小走りに駆け寄り何かを話すと、担任はにこりと菜穂に視線を向けて頷き、菜穂の遅刻は何事もなかったかのようにスルーされた。
 先生は何も知らないもんなぁ。
 菜穂は何だか呆れたような気持ちになった。
 私がされていること、何も知らないから笑ってられるんだもんなぁ。
 菜穂のクラスの担任はまだ二十代の音楽の教師で、男子生徒からも女子生徒からも優しくて美人な先生、と人気があった。菜穂も彼女のことを好いており、そんな彼女に菜穂が樹里のことを相談しないのは、彼女の幸せを壊したくない、という思いも少なからずあったのかもしれない。
 彼女の隣で、美和が振り返り菜穂に向かって微笑んだのが見えた。菜穂も「ありがとう」と唇を動かし微笑み返す。と、その瞬間、菜穂の目の前を、馬の尾のようにしなやかで美しい髪が颯爽と駆け抜けて行った。
「わー、美和ちゃん、今日も来れたんだ! 嬉しい」
 少女は美和の手を取り嬉しそうにきゃっきゃと握った。
先生はそんな様子を見て微笑ましそうに笑いながらその場を後にした。
 樹里は、今日も髪を頭の高いところで一つに結び、その可憐なうなじを輝かせている。
「今日も一緒に教室移動しようね、昼休みも図書室とか行こうよ」
 樹里がちらりとこちらに視線を向けたのが分かった。
 図書室……。
 菜穂にとって唯一の昼休みの逃げ場だ。
 樹里は知っていたんだ、私が昼休み図書室に通っていること。
 菜穂は遠くから樹里を睨みつける。
 なんてやつ。今まで図書室に入ってくることなんてなかったのに。
「じゅ、樹里ちゃん、ごめんね、私、今日は菜穂ちゃんといるね」
 美和が申し訳なさそうに顔の前で両手を合わせる。
「……は?」
 樹里の口がぱっかりと開いた。自分が今何を言われたのか、理解できていないらしい。
「私、今日は菜穂ちゃんといるね!」
 辺りにいた何人かの女子が、教壇の前のやり取りに耳を傾け、体をこわばらせているのが伝わって来た。
 美和が小鹿のような大きな瞳を力一杯見開いている。
「ふーん、そう……」
 樹里は両眉をくいっと上げ、美和を見下ろした。
「もしかして、金曜日に言ったこと、忘れてんじゃないわよね?」
「……忘れてないよ」
 金曜日に言ったこと?
 美和がごくりと唾を飲み込んだことが遠くからでも手に取るように分かった。
「へー……海堂さんって……面白いね? ちょっとさぁ、こっち来てくんないかな」
 樹里がぐいっと美和の細い腕を引っ張った。
「いたっ」
 美和が顔を顰める。
 あぁ、もう……。
 菜穂はぎゅっと目を瞑った。
 闘うと言っても、朝っぱらからとは思ってなかったのに……!
 スカートのポケットに手を入れる。
 緑、緑、緑! 見守っててね。
 ガタンっと音を立てて勢いよく立ち上がる。
「か、海堂さん!」
 菜穂は教室の後ろからその名を呼んだ。
 あまりの大きな声に、教室中の注意が一斉に菜穂を向いた。
 静まり返る教室。
 分かってる。でもそんなこと、どうだっていい。
「さっき話してた一時間目の国語の課題、今見せたいんだけどさあ、どうかなあ?」
 机の陰では足ががくがくと震えていた。
「菜穂ちゃん……」
 美和と目が合う。
 大丈夫、海堂さんを連れて行かせなんてさせない。
「雨宮さん」
 樹里の瞳がこちらを向いた。
 氷のような、冷たい瞳。
 先程までご機嫌そうに美和に笑いかけていた少女とは、まるで別人のようだった。
「今大事な話してるから、邪魔しないでくれるかな? 課題とか別にいいでしょ。どうせ海堂さんは指されないんだから」
 あ。
 菜穂は美和の顔が一瞬陰ったことを見逃さなかった。
 傷つけた。
 菜穂の鼓動がドクドクと脈を打つ。
 傷つけてしまった。私を助けてくれようとした海堂さんのことを、私のせいで私とは関係のないことで。
 教師たちが美和を授業中にあてることがないのは事実だった。
 けれど、樹里がそれをそのまま言葉にするとまでは、菜穂はこの短い時間で考え及んでいなかった。
「……だとしても、あと五分で授業始まるよ?」
 なんとか樹里を止めようとする。
「じゃあ五分で話し終わらす。行くよ、海堂さん」
 樹里が緩めていた美和を掴む手に再び力を込める。
「……何の話?」
 菜穂の声が震える。
 みっともない。けど、いやだ。海堂さんを連れて行かないで。
 樹里が振り返り、菜穂を睨みつける。
 菜穂の肩がビクリと上がる。
 なんで。
 菜穂は自分の意思に逆らって震える体を責め立てたくなった。
私は今日、樹里と闘う覚悟で……例え激しい言い合いになろうと、真っ向から樹里とぶつかり合うんだって……そういう覚悟で学校に来たはずなのに……。
 何で私はびくびく震えているんだろう。
 なんで私は自分を樹里と対等だと思えないんだろう。
 拳をぎゅっと握りしめる。
「わ、私が……関係あるんでしょう?」
「は? 関係ねーし。勝手に首突っ込まないでくれる? 自意識過剰なの?」
 樹里が間髪入れずに言い返してきた。
教室はしんと静まり返ったままだ。
 菜穂のいじめに関係のないはずの男子も、険悪な雰囲気に黙り込んでいる。
 菜穂は次の言葉を探そうと頭の中を必死に探ろうとしたのだが、樹里に対する恐怖で思考が上手く回らなかった。
 菜穂が何も言わないでいると、樹里が美和を引き連れ廊下に向かう。
「あ、ちょっと……」
 菜穂が手を伸ばし声を出したその瞬間だった。
教室のドアがガラリと開いた。
 助かった! 先生だ。
 菜穂は先生に対する感謝の気持ちでいっぱいになった。。
「ふーう、マジあぶねー、真面目に下痢止まんなくて授業遅れるかと思ったわぁ、焦った~」
 違う。斎藤だった。
 菜穂はガクリと肩を落とした。
 斎藤は腹の辺りをさすると「ん?」と樹里と美和の姿を見降ろした。
「おぉ、海堂さんじゃん!」
と暢気に美和に向けて顔をほころばせる。
「ちょっと斎藤、どいてくれる? 邪魔なんだけど」
 樹里が迷惑そうに斎藤を見上げ、睨みつけた。
「あん?」
 斎藤がとぼけた声を出す。
「もう授業始まるけど」
「トイレに行くのよ、あんたと同じで」
「えー、そうなのぉ?」
 教室を見回す斎藤。静まり返る教室に、斎藤も何かを感じているようだった。
 菜穂と目が合う。
菜穂は必死の思いで首を横に振った。
お願い斎藤、海堂さんを連れて行かせないで!
「なら足立一人で行けよ。わざわざ二人で行くことねーだろ」
 珍しく斎藤の声に棘が含まれていた。
 え、私の思いが伝わった?
 菜穂は呆然と口を開けていた。
 樹里が心なしか怯んだように体を引く。
「だから海堂さんもトイレに行きたいって……」
「へー、そうなの?」
 斎藤が美和に視線を向けた。
「えっ……」
 美和が動揺したのか瞳を泳がせた。
 菜穂にはその気持ちが痛いほどわかった。
 樹里の剣幕は、はたから見ているのと実際に向けられるのとでは威力が桁違いなのだ。
 もう一度逆らう勇気が美和にあるのか。逆らえなかったとしても、それはもはや美和のせいではない。
 菜穂はどうしよう、と頭の中で次の一手を考えていた。
「……嫌ならさ」
 斎藤の穏やかな声が聞こえた。その顔は、遠い日の自分を慰めるかのように微笑んだ。
「嫌って言ってもいいんだよ。海堂さん」
 美和の瞳が見開かれる。
 斎藤と美和が見つめ合う。
 菜穂の視線はその光景にくぎ付けになった。
 斎藤……。
 菜穂の胸が、切なさなのか悲しさなのか、それとも旅の果てに見つけ出した喜びなのか、形容しがたい複雑な思いで一杯になった。
 あんたって。
 美和が静かに首を振った。
「うん……」
 あんたって、すごいよ。
「樹里ちゃん、私、教室で待ってるね」
 樹里が美和を振り返る。
 美和がしっかりと樹里を見つめ返すと、彼女は「ふん」と鼻を鳴らして斎藤の脇をすり抜け廊下を駆けて行った。
 クラスのそこかしこから、緊張を解かれた安堵からか、はああぁ、という大きなため息声が漏れた。
「足立ってさ、ちょっとやばくね? やっぱ違う荒れてる地域から来たやつは違うよな」
「な、女子ってマジこえぇ。海堂さん可哀想」
「てかあれだよな、足立が普段雨宮にしてることってさ……」
 クラスの男子が思い思いの言葉を口に出す。
 それに触発されたように、女子達もひそひそと会話を交わしていた。
「海堂さん大丈夫?」
 ドア付近の席にいた女子生徒が、美和にそっと話しかけた。
「うん。ありがとう」
 美和がほっとした顔でその生徒に笑いかける。
「……樹里ちゃんに目つけられたらやばいからさ、あんまり逆らわない方が良いよ」
 彼女は心から美和を案じているのだろう、声にはどこか重みがあった。
「……うん、ありがとう」
 美和は依然笑顔を湛えたままであったが、その瞳はどこか陰っていた。
 斎藤はそのやり取りを見届けると、ふんふんと鼻歌を歌いながら自席へと向かった。
 途中、ちらりと菜穂に視線を向けてきたので、菜穂はにこりと笑い返した。それを見て斎藤がニヤリと怪しげに片頬をあげたので、菜穂もニヤリと怪しげに片頬を上げた。と、斎藤が突然“ひょっとこ“のように唇をすぼめ、寄り目を向いた。菜穂が堪らず声を押し殺しながら歯を見せて笑うと、斎藤は満足したようにもう一度ニヤリと笑い、菜穂の斜め前方にある自分の席に腰を下ろした。その背中越しでは、ちょうど窓際の席の美和が席に着くところだった。
あー。
二人の背中を一度に捉えると、菜穂は腕を枕代わりに机に突っ伏した。
私、今、一人じゃないんだ。
言葉にできない情動が、菜穂の胸に込み上げてくる。
なんかこれって、信じられない。まるで奇跡が起きたみたい。
目を瞑る。
と、閉じた瞼の裏に、緑の真ん丸に見開かれた大きな二つの瞳が鮮やかに蘇った。
「やっぱり僕が見えるんだ!」
緑の声が耳奥で響く。
「嘘みたいだ、奇跡みたいだ!」
喜び勇んで辺りをぴょんぴょんと飛び回る彼。
あの時の彼の、生まれてきた喜びを噛み締めるかのような笑顔。
彼はずっと願っていた。
いつか私に、出会えますように。
遠くまで跳ねて行ってしまっていた緑がふと菜穂を振り返る。
あぁ、これは奇跡なんだ。
記憶の中の緑が、照れたようにこちらを見て笑う。
緑が私に出会ってくれたことも。
斎藤が私に出会ってくれたことも。
海堂さんが私に出会ってくれたことも。
みんなみんな、奇跡だったんだね。
ガララッ。
鮮やかなスクリーンを突き破るように、教室の戸の音が耳に突き刺さった。
菜穂はハッと顔を上げる。
樹里が教室に足を踏み入れる姿が目に飛び込んだ。
菜穂の開いていた口がぴたりと閉じる。
樹里はぱっとしない表情を浮かべていた。
先程のことをまだ引きずっているのか、後味が悪そうに俯きながら席に座る。
ポニーテールが揺れるその薄い背中が、菜穂には何だか不安げに揺れているように見えた。
菜穂は思う。
樹里と出会えたことだって、きっと奇跡だったんだ、と。
じんわりと布に水が広がるように、菜穂の胸の中に郷愁のような切ない思いが広がった。
だって最初は仲良しだったもの。
だって最初は、憧れていたもの。
「え、最初は女子と仲良くするって、暗黙の了解じゃない?」
「普通そうだよね? 私の小学校だと、男子ばっかと遊んでるやつは、ビッチとか言われてハブにされてたよ? ちょっと可哀想だけど、でも自業自得だし、それが普通だよね?」
樹里の歪んだ口元。
樹里の捲し立てるような、それ以外信じられない、それ以外信じたくないとでも言うような、棘のある口調。
その奥に秘められている思いは、何だったのか。
怒り? 蔑み? それとも……。
ねぇ、樹里。前の学校で何があったの?
菜穂は彼女の振り返るはずもない背中に問いかける。
もしかして緑の言うように、斎藤がそうであったように、私もそうであるように、何か人には言えないことがどこかで起こっているの?
クラスの生徒はもう樹里のことは気にかけていないようで、教室はいつものように授業が始まる前の雑多な賑やかさを取り戻していた。が、その賑やかさの中にいても、菜穂の樹里に対する思考は止まらなかった。
樹里は、本当は樹里自身が……本当は孤独なんじゃないの?
「いやぁ、遅れてごめんごめん、職員室出る前にお前らのプリント床にばら撒いちゃってさぁ、大先生の机の下に潜り込んじゃったりしてもう拾い集めるのが大変大変。ま、そんな言い訳は隅に置いておいて、授業始めるぞー、日直、号令―」
と、国語教師が颯爽と教室に入り日直に号令をさせると、教室は彼の明るい雰囲気に一瞬で飲み込まれていった。

 菜穂はその日一日を美和と行動した。
 誰か一人でも傍にいてくれることが、こんなにも心強いことだとは、と菜穂は改めて実感した。息ができる。体が軽い。何より、顔を上げ堂々とまでは行かなくとも前を向いて歩くことが出来る。前までは当たり前だったことが、今はとても有難く感じた。
 最初の方はちらちらとこちらの様子を窺い、こっそり美和を呼び出しては忠告していた女子達も、美和が自分の思いを伝えたのか、昼食の前には美和を呼び出すことはなくなっていた。樹里は何かもの言いたげにこちらの様子をちらちらと窺っていたが、音楽室への教室移動中に菜穂を追い抜く瞬間、「海堂さんとグルになったって、どうせ海堂さんは滅多に学校に来れないんだから」と、ふんと鼻を鳴らしながらすたすたと前を歩いて行った。樹里の背中を追いかけていく彩音と沙也が一瞬こちらを振り返り、何か心を通じ合わせるようにお互いに顔を見合わせていたが、かと言ってこちらに何か言うでもなく、樹里の背中を小走りに追いかけて行った。
 隣を歩く美和にも樹里の声は聞こえていたようだった。彼女は小さな、けれど確かな輪郭を持った声で「菜穂ちゃん、大丈夫だよ」と菜穂を見て微笑んだ。彼女のその「大丈夫だよ」という声、それはまるで、鈴の音がリンッと響き渡すような、何かお告げを告げられた気持ちになる声だった。
 かといって、本当に大丈夫なのかどうかはその時の菜穂には分からなかった。が、菜穂の中での彼女のイメージが、自分の意思を表に出せない内気でか弱い少女から、体の奥底には確かな意思と勇敢さを持つ、まっすぐな芯のある美しい少女に変わりつつあることは確かだった。
 美和の予言は現実となりつつあった。
 給食の時間、隣に座る眼鏡をかけた女子、坂口さんが、急に菜穂の名前を呟いたのだ。
「菜穂っち……」
「えっ」
 菜穂がすかさず彼女を振り向くと、そこには菜穂も予想だにしていなかった光景が広がっていた。
 目の前の彼女の顔はくしゃりと歪み、瞳には今にも溢れ出しそうな涙がたぷたぷと揺れ流れ出すその瞬間を待っていたのだ。
「ちょっ、え!?」
 菜穂は声をかけられたことよりもその姿に動揺した。
「うっ……菜穂っちぃ……ごめんねぇ……」
 よろよろと潤んだ声で、彼女は菜穂に謝った。
「ちょっ、樹里にバレるよ!?」
 菜穂はその言葉を受け止めるどころではなかった。
 折角今まで坂口さんに迷惑が掛からないように沈黙を守っていたのに!
樹里の姿を探す。菜穂から見て左斜め前方廊下側の班。いない。
教室を見渡すと、樹里は暢気に給食の配膳台でわかめご飯をお替りしているところだった。菜穂はほっと自分の胸に手をあてた。
「私、私……」
 このままでは坂口さんの瞳から涙が溢れてしまう。限界まで堪えた末に一度溢れてしまった涙はなかなか収拾がつかないことは菜穂も知っている。
「坂口さん、話はあとでこっそり聞くから、今は我慢して、ね?」
 菜穂は押し殺した声で必死に少女を励ました。
「ち、違うの」
「え、違う?」
 坂口さんは涙が溢れ出す前に、手の甲でぎゅっとそれを拭った。
「明日になったらもう大丈夫だから。もう終わるから……」
「え……」
 そう言うと坂口さんは口をつぐみ、もぐもぐとその膨よかな頬を動かしながらわかめご飯を頬張りだした。今のは一体何だったのだ。何が違うのだ。なぜ急に取り着かれたようにわかめご飯をむさぼりだすのだ。
―もう終わる?
 もしかして樹里のこと? でも何で坂口さんが? 一体、どういうこと……?
「菜穂ちゃん、大丈夫だよ」
 はっとして、後ろを振り返る。
 美和は楽しそうに肩を揺らしながら、隣の夏海と会話を楽しんでいるところだった。
 良かった、なじめたんだね……。
 菜穂の頬が緩む。
 じゃなくて!
 菜穂は体の向きを元に戻す。机では、まだ手を付けていない自分のわかめご飯がキラキラと輝いていた。
 もしかして、美和が……?
 でもいつ? どうやって?
 わかめご飯は相変わらず輝いている。
 まぁいいや、あとで確認しよう。
 菜穂は自身も大好きなわかめご飯を坂口さんの隣でもそもそと頬張った。
 今日は久しぶりに食欲があった。なのに時間がなくてわかめご飯が食べきれなかったら、勿体ないではないか。
 
 放課後になった。樹里がジャージを入れた袋を片手に、席を立つ姿が見えた。
 彼女がくるりと後ろを振り返る。
彩音と沙也がそこにいると思ったのだろうか、にっこりとしたその顔が急に「あれ?」と言いたげにくぐもり、辺りを見回し始めた。
 チャンスだ。
 菜穂は唾を飲み込む。
 声をかけるなら今しかない。
 菜穂は机に両手をつきガタンと音を立てて立ち上がった。
 樹里。
 その名を口に出そうとした瞬間、誰かに腕をくいと引かれた。
「わっ」
 びっくりして振り返る。
 そこには唇をきゅっと引き締め、どこか悲し気に眉を歪めている彩音と沙也の姿があった。
「菜穂、こっち」
 彩音が菜穂を掴んだ腕を引く。その手からは、樹里の手から感じられたものとは違う、菜穂の腕が痛くならないように注意深く配慮された必要最低限の力しか感じられなかった。
「え? え?」
 思わず樹里と彩音たちを交互に振り向く。
 樹里は口を半開きにしたまま、瞬きもせずにこちらの様子を見つめていた。が、菜穂が自分を見ていることに気が付くと一瞬泣きそうに顔を歪めた。そのままぱっと踵を返すと、彼女は廊下へと走り出てしまった。
「……樹里の方が出て行ってくれたからここでいっか」
 彩音も樹里の姿を確認していたらしく、そう言って教室の出口へと向かう足を止めると沙也と顔を見合わせた。
「菜穂……」
 しばらくの沈黙の後、彩音がこちらを振り返った
「……何?」
 恐る恐る返事をする。
 二人の顔を正面から見るのは久しぶりだった。
 二人とも、瞳には覇気がなく、その目元は心なしかやつれているように見えた。
 すぐ傍で、各々に部活の準備をする生徒達の声が聞こえる。菜穂たちの心の内とは無関係に、教室はざわざわと活気立っていた。
 突然、沙也が勢いよく頭を下げた。
「ごめんなさい!」
 それに続いて彩音もがばっと頭を下げる。
「え、ちょっ……」
 いきなりどうしたの? 菜穂は戸惑い、反射的に美和の姿を探す。
 美和は夏海と共に窓際の席からこちらを見ていた。
 二人とも少し驚いたように目を開いていたが、少しすると二人して顔を見合わせて、おかしそうにくすくすと笑い合った。
 え、何がおかしいの?
 菜穂は困惑した。
 沙也と彩音に視線を戻すと、まだ二人は深々と頭を下げていた。
「やめてやめて、頭上げて?」
 二人の頭の下で手をパタパタと振り、顔を上げさせようとする。
「菜穂、ごめん。謝って済むことじゃないかもしれないけど、私達、間違ってた」
 二人はまだ顔を上げようとしない。
「良いよ良いよ、樹里に命令されてやったんでしょ?」
 まるで常套句のようにその言葉が菜穂の口をころりと滑り出た。
 なんてことだ。今まで自分がどれだけ傷ついてきたのか、私は忘れてしまったのか。
 菜穂は己が今しがた発した言葉に驚愕した。
でも、結局許すことには変わりないからなぁ。
菜穂は謝られるとどうしても許さずにはいられない質だった。
我ながら、損な性格だ。ふと、そんな思いが頭をかすめた。
「違う、私たちがいけないの」
 彩音がばっと顔を上げる。
「樹里に、菜穂が私たちの悪口言ってたよって言われて……菜穂のこと好きだった分、凄く腹が立っちゃって……でも、よく考えたら菜穂が私たちの悪口なんて言うわけないよね……」
 菜穂の目を直視しきれずに、途中で彩音は戸惑いながらも目を反らした。
「確かに樹里にこれは約束だからねって言われて、菜穂のことシカトすることになったけど……私達も最初は菜穂の悪口を言ってたのは事実で……」
 彩音の声がどんどん小さくなっていく。
「だから、樹里だけが悪いわけじゃないの。傷つけて本当にごめんなさい」
 彩音が再び頭を下げた。
「本当は菜穂が大好きだった。いつだって優しい菜穂が大好きだった。途中から、菜穂のことシカトする度に本当にこれで良いのかなって、菜穂が私達を見てびくつく度に、私たちはなんてことしてるんだって……心の中で、ずっと思ってた。樹里にもうやめようよって、勇気を出して言わなくちゃいけないんじゃないかって、何度も何度も悩んでた。でもそしたら今日の朝、海堂さんが、あんなにはっきり、菜穂といたいって樹里に言ってて」
 彩音の隣に立つ沙也は、頭を下げたまま泣いているのか、すんすんと頻繁に鼻をすする音が聞こえた。
「何で私は今までそう言わなかったんだろうって。私達の方が、菜穂とずっと一緒にいて、本当は菜穂とずっと、これからも一緒にいたいのにって……これ以上、菜穂のこと傷つけたくないのにって……」
 彩音が言葉に詰まる。
ぐすんぐすんと二人の泣く声が教室に響く。
 いつの間にか、まだ教室に残っていた生徒たちが菜穂たちの様子を静かに見守っていた。
「……本当にっ、ごめんね……」
 沙也が肩を後悔で揺らしながら言った。
 菜穂は言葉が出なかった。
 一つは感動のためだった。
 二人が、涙を流すほどに心を痛めていたこと、そして自分のことを本当は好いていてくれたことが、心の底から嬉しかった。
しかし、菜穂の中にはもう一つの感情が芽生えていた。
それは、これまでに幾度となく菜穂を苦しめてきた、もう一人の冷徹な自分のためであった。
 この子達、なんか今更ぐすんぐすん泣いて謝ってるけど、結構酷い顔して私のことハブってたよね。
 それは、菜穂が泣くといつもどこからともなく現れてくるもう一人菜穂だった。
 やだ、私また酷いこと考えてる。
 菜穂はもう一人の自分の存在に気が付く。
 駄目だ、この自分に耳を傾けたって、いい方向にはいかない。
 けど。
 閉じた唇に力が入る。
 言葉上、今二人をすんなり許したとして、私の心は本当に二人のことを許せるのかな。またニコニコ笑って、二人のこと信じられるようになるのかな。
 菜穂は指先に触れていたスカートをきゅっと掴んだ。
 あ……。
 右手に感触があった。
 生徒手帳だ。
 そしてその生徒手帳には、羽が挟んである。
 彼からもらった、あの美しい苔色の羽が。
「ねえ、ちゃんと聞いてる!?」
 緑が怒ったように言った。
「ごめんごめん、聞いてるよ。で、何?」
「……自分の気持ちをちゃんと言葉にしてほしいんだ」
 緑の言葉。悲しいように、潤んだ瞳。
「助けてほしいときは助けてほしい、痛いときは痛い、悲しいときは悲しい……」
「言葉にしていいんだよ?」
 お母さんには届かなかった。
 けれど、二人はお母さんじゃない。
 そして、二人は自分がしたことをきちんと理解していて、その上で正直に私に謝ってくれているのだ。許してもらえるかどうかなど分からないのに、勇気を出して私といたいと言ってくれたのだ。
 二人の言葉を受け止められるのは、私だけ。
「本当にもういいから……二人とも頭をあげて」
 そして私の思いを伝えられるのは、私だけ。
 菜穂が静まりかえった湖面のような声で彩音と沙也にそう促すと、二人は恐る恐る顔を上げた。その瞳は赤く充血しており、余程勇気を振り絞ったのか、顔は憔悴しきっていた。
「私は」
 菜穂は二人を正面から見た。
「すんごく傷ついた」
 そう言ってから、やはりどうしてもいたたまれなくなり、菜穂は思わず視線を反らした。
「私は二人の悪口なんて言ってないのに勘違いされてることも分かってたし、二人がこんなこと人にできちゃう子だったんだって知って、正直すんごくショックだった。もう一度二人のこと心から信じられるかどうかなんて正直自分でも分からない」
 再び視線を前に戻すと、二人の顔は菜穂の包み隠すことのない真実の言葉に、ひどく強張っていた。
「あ、ごめん」
 思わず謝ってしまう。
「あの……でも」
 スカートのポケットには、確かに緑の羽が入っている。
「二人が謝ってくれて、私のこと本当は好きだって言ってくれて嬉しかった。私が二人を許すかどうかなんてわからないのに、二人が私のために、勇気を出して言ってくれたことがすごく嬉しかった」
 言っている途中で、意図せずして声が震え掠れた。
 あれ? 私、なんか泣きそう?
「だから……どうもありがとう」
 ぺこりと丁寧に頭を下げる。顔を上げた視線の先には、二人がしっかりと菜穂の言葉を受け止めたことをあらわすように、唇を結んで菜穂をじっと見つめていた。
 菜穂は安心したように少しだけ頬を緩めた。
「二人が私のこと信じられなかったのは、私の日ごろの態度のせいでもあると思うし、もういいよ。今までのことはもう気にしないで」
 そう言ってもくもくとリュックに荷物を詰め込むと、菜穂は「じゃ」と片手をあげて別れを告げ、教室を後にした。
 二人の顔はもう見れなかった。
 泣いているのか泣いていないのか分からない自分の顔を、とにかく誰にも見られたくなかった。
 廊下を歩きながら急いで指先で瞳を拭う。
 良かった。
 足を運ぶスピードがどんどんと速くなっていく。
 良かった。
良かった。良かった。良かった。
 緑。
 緑!

「しまった」
 切り株に座る菜穂が、隣の緑を振り返ると眉間に皺を寄せた。
「海堂さんにお礼言うの忘れてた。てか、バイバイすら言わないで帰ってきちゃった」
 額に手を当て、あーっと声を上げて菜穂は落胆した。そんな菜穂を、緑はダンボール箱の上で胡坐をかいたまま、ぽかんとした表情で眺めていた。
「そんなの大丈夫だよ、きっと彼女も察してくれてるし、もう二度と会えないわけじゃないんだか……」
「あー! てか結局樹里と何にも話できてないよー!」
 菜穂が体をさらに屈め、両膝の間に頭をうずめる。
 そんな菜穂を緑は無言で微笑ましそうに見つめていた。
 朝は太陽がさんさんと照り付け、コンクリートがその熱を跳ね返していたのに、午後以降はどこからともなく雲が一枚のじゅうたんのように押し寄せて来、空はうす暗い雲にどんよりと覆われてしまっていた。にもかかわらず気温は一向に高いままなので、じめじめと蒸し暑く、まるで地面と雲の間に監禁されたような気分になった。雑木林の中でもそれは変わらず、朝はここぞとばかりに鳴いていた蝉も、今はじっとなりを潜めている。
 菜穂は雑木林に飛び込むなり、息を切らしながら緑にこれまであったことを一気に話し始めた。「もうほとんど解決したことなのだけどね!」という前置きから始まった菜穂の話に、緑は途中で口を挟むことはせず、最後まで辛抱強く話を聞き届けた。彩音と沙也が謝ってきたところまでを菜穂が話し終えると、緑は「そうかい。よく一人で頑張ったね」と菜穂の頭にポンと優しく手を置いた。緑は、何故今まで学校でされていたことを僕に隠していたんだ、と菜穂を詰ることは決してしなかった。その彼の大人な対応に、菜穂は少し拍子抜けのする思いがした。が、それと同時に、やはり緑は心が大きいんだよなぁ、と心の底から恐れ入る気持ちがした。
「……別にもうわざわざその樹里って子と話をする必要もないんじゃないかい?」
緑が、大袈裟なほど落ち込む菜穂の背中に優しく声をかけた。
「もう明日からは彩音ちゃんも沙也ちゃんも仲良くしてくれるんだろう? それに坂口さんって子も、明日になったら大丈夫って言っていたんだろう? 誰かがどこかでもうやめようって動いてくれてるんじゃないかな」
 恐らくそうだ、と菜穂も思った。
 彩音か沙也か……それとももしかしてもしかすると海堂さんか……誰かが裏で動いてくれている気がする。でないと今まで膠着していたこの状況が、こうも一気に動き出すとは考えられなかった。
 菜穂は俯いたままぽつぽつと緑に答えた。
「そうなんだけど……でも、やっぱりすっきりしないって言うか……このままじゃ、何か今までのは何だったんだろうって言うか……」
 菜穂がそのまま黙り込んでも、緑は静かに耳を傾けたままでいることが、目を閉じた暗闇の世界からでも感じ取れた。
「変なの。やっぱ私、樹里のこと好きなのかな。あんなに意地悪されたけど、樹里のことを突き放しちゃったことは謝りたいし、だからと言って簡単に許したいとは思わないけど」
 菜穂は体を起こしながら自嘲気味に笑ってそう言った。
「それから……何か引っかかるんだよね、樹里の言動って。何か……どっかが……心が痛いって叫んでるみたい」
 緑の菜穂を見つめる眼差しが、いつしか真剣なものに変わっていた。
「菜穂は……」
 風一つ吹かない静寂の中、緑は静かに口を開く。
「樹里ちゃんを助けたいの?」
 緑の瞳がほんの一瞬、本当に一瞬の間だけ、刃物のように鋭利に尖った。
「いや……助けたいとか……そんな大それた気持ちではなくて……」
「じゃなくて?」
 菜穂は思わず顔を反らした。
そんなの、自分でもよく分からないよ。
「ただ、知りたいというか……」
 なんで?、なんで急にそんな目を私に向けたの?
「緑が話を聞いてくれた時、私、心が楽になったから……私も樹里にそういうことをできたらいいなって……」
 本心だった。
 緑は足を組み直すと少しの間考え込むように唸った。
 菜穂はその間がいたたまれなくなって、自分の足に視線を落としていた。
「……菜穂、僕は菜穂が好きだ。できればずっと一緒にいたい」
 何、また冗談みたいにまっすぐなこと……菜穂は笑いかけたその顔で緑を見た。
 けれど緑の目は未だに、真剣さを手放してはいなかった。
「だから話を聞いた。心の底から、菜穂を支えたいと思ったから。これからも笑っていてほしいと思ったから」
 空気が重い。体中から汗がじんわりと滲み出しているのを感じる。
「菜穂、僕は菜穂から話を聞いているだけだけど、菜穂と同じように樹里ちゃんは心に何か痛みを抱えているのだろうなと思ったよ。菜穂の感じたことは当たっているのかもしれない。でも……意地悪をされていた菜穂がわざわざその問題に踏み込む必要は、どこにもないよ。本当に知りたい? その気持ちはどこから来るの? まだそんなに樹里ちゃんのことが好き? むやみやたらに掘り下げて手に負えなくなったらどうする? 最後まで責任は持てる? 途中で放り投げない自信は本当にある? 途中で彼女を突き放しでもしたら、彼女の傷は余計深まるかもしれないんだよ?」
「……それはっ……」
 何も言えなかった。
両手をぎゅっと握り住める。
 図星だった。
 私はまだ、樹里のことを知るための覚悟を何も決めていなかった。
緑はこれまで、きっと、沢山の人を陰からこっそり見守って来たはずだ。
だからその分、人が抱えている救いようのない影の部分や、救うことのできない環境というものを痛いほど知っている。だから、私に厳しい目向けてでも忠告してくれているのだ。彼はいつしか私に言った。世界は広い。その時はいい意味で彼はその言葉を使った。今いる場所以外にも、きっと私を受け入れてくれる人がいる、と。けれどそれは同時に、世界には私が思っている以上に残酷な現実が存在するということも意味していた。
そもそも知りたいって何? おかしいでしょ、そんな興味本位みたいな言い方。
私は樹里を助けたかったんだ。覚悟がなかったから誤魔化しただけで、本当は助けたかった。
 けど、何それ、助けるって何様?
「ははっ、教えてあげるって、何様?」
 あの日、樹里に言われた言葉が蘇る。
“前から思ってたけど、菜穂って上から目線じゃない?“
「……ごめん、菜穂」
 緑の謝る声を聞いて、菜穂は自分が項垂れていたことに気が付いた。
「これじゃあ菜穂が軽い気持ちで樹里ちゃんに接してるみたいになっちゃったね。けど、そんなことないよね。菜穂は自分に酷いことしてきた子の話をしっかり聞いてあげようとしているんだもんね。ごめん、僕の言い方は意地悪だった。菜穂がしようとしていることは、とても勇気のあることだ。菜穂は素敵だ、菜穂は本当に優しい子だ……」
 緑の瞳には慈しみが宿り、先程迄の厳しさはもう残っていなかった。
「でもね、僕はこれ以上菜穂に傷ついてほしくないんだ。それも菜穂の優しさが故に。樹里ちゃんもね、苦しいと思う。本当は菜穂のことがとっても好きだったんだと思うんだ。でもね、うん……もうこの先は、樹里ちゃん次第なんじゃないかな……菜穂から仲直りしようって、特別行動を起こしたりはしなくていいんじゃないかな。彼女には彼女なりに自分の中で折り合いをタイミングがあると思うし。……謝りたいってさっき言ってたけど、あっちだって菜穂の言ったことの何倍もひどい仕打ちをしてきたのだから、お相子だろ?」
 緑が、ね? と右目を大きく開けた。
「あぁ、でもそうか、謝った方が菜穂はすっきりするのか……あぁ、菜穂は優しいというかお人好しが過ぎるというか……まぁそれが菜穂のいいところであり僕の好きなところでもあるのだけど……いやいや、でもそれでもし樹里ちゃんが菜穂のお人好しなところに漬け込んで高圧的な態度をとってきたら、また事態がこじれるかもしれないぞ。それに進歩がないというか……でもどちらからも謝らないでいるって言うのもなんか違う気が……菜穂が謝った方が、樹里ちゃんも謝りやすくなるのかな……」
 緑がゆらゆらと揺らし出した。きっとこれ以上悩ませると今度はねじり運動を加えてくねくね運動が開始されるだろう
 菜穂は自分のためにこんなに緑を悩ませてしまい申し訳ない思う一方で、何だか心がほっとする気持ちになった。
 自分は焦っていたのだと気が付いた。
 もう焦る必要はどこにもないのだと、気づかぬうちにざわめきだっていた心の波が、ゆっくりと静かに凪いていくような気がした。
そうか、樹里にこの先を任せてみてもいいのか。
それは意外な考え方で、でも確かに必要な考え方だった。
思えばここ数年のうちに、家のことも、クラスのことも、困っている誰かのことも、一度気が付いてしまえば自分が何とかしなくてはならないと、焦る気持ちに駆られていた。
その気持ちは、果たして自分の心からの良心によるものだったのだろうか。
誰かの教え。もう一人の自分。
菜穂にはやはり、見当が付かなかった。
樹里のことは、急ぐ必要はない。
菜穂は思った。
もし樹里と仲直りが上手くできれば、その時にもう、樹里のことを知るかどうかは考えよう。
「緑分かった、取り合えず様子見することにする。また話するね」
 菜穂がすっきりとした顔で緑に言った。
 彼は菜穂の声に気が付いていないのか、腕を組んだまま、う~ん、とまだ唸り声をあげていた。
「ねぇ、緑、そんなに悩まなくてもいいよ、ね? ありがとう」
 緑が納得のいかないように頭をフリフリと左右に振る。
あれ……?
 ちらりちらりと見えるその後頭部に、菜穂は黒い塊を見つけた。
 何だろう?
 緑が反対側を向く度に、菜穂は眉間に皺を寄せ顔を近づけた。
 菜穂ははっと息をのんだ。
 円形脱毛症みたいになってる……!
 その黒い塊の正体は、緑の苔色の羽が円状に抜け、緑の黒い皮膚が剥き出しになったものだった。
 ぷっと噴き出しそうになった口を両手で塞ぐ。
 笑ってしまっては、自分のためにこんなに真面目に悩んでくれている緑に対して失礼だ。
 けれど、その悩まし気に瞳を閉じて考え込む緑の姿と、後頭部の円状に禿げた部分が妙なコントラストを形成していて、とても滑稽で、子供をからかいたくなるような愛しさに駆られた。
「緑、緑!」
 背中をポンポンと叩く。
「もういいよ! 樹里のことは暫く様子見する、様子見!」
 と、叩いたところから、小さな羽が一枚、ひらりと散った。
 うわ、生え変わりの時期って、叩くだけで抜けちゃうの?
 菜穂は少しぎょっとする思いがしたが、緑がようやく菜穂の言葉に耳を傾け、「そ、そう?」とこちらに視線を向けたので、菜穂の意識から羽のことは消えていった。
 ゴロゴロゴロゴロ……。
「あれ、雷?」
 二人が同時に空を見上げ、きょろきょろと辺りを見回す。
「おかしいな、今日の予報では雨は降らないって言ってたのに……」
 空の雲はいつの間にか、薄暗い白から、濃紺の灰へとその色を変えていた。
「って、天気予報より緑の方が正確だよね、やっぱりこれから雨は降るの?」
「……」
 緑はふんふんと鼻を嗅いだ。その顔は平然としていたが、平然としているがゆえにどんな感情を抱いているかが読み取れなかった。
「……分からない」
 緑がぽつりと言った。
「多分、降る。降るけど、どのタイミングかはちょっと分からない。だから菜穂、今直ぐ帰った方が良い」
「え」
 そんなに適当な感じだったっけ?
“もうあと三十分もすれば雨が降り出す”
 緑が自分から自己紹介をしてくれたあの日、彼はそう言って見事に予想
を的中させたのだ。
 “とにかくっ、バケツをひっくり返したように雨が降るんだから”
いつ雨が降り出すかも、その量も、性格に。
「……」
 菜穂が何も言えないでいると、緑は菜穂を見て焦ったように首の後ろを掻きだした。
「ほ、ほら、今日は僕、鼻が詰まってるからっ」
菜穂の心の声が聞こえているかのように答えた。
 鼻が詰まってるって、さっき結構テンポよくふんふんってしてたじゃん。
 じろりと緑に訝しい目を向ける。
 緑はてへっ、てへへへっ、と文字の発音に忠実に笑い声をあげた。
まぁ、いいか。
菜穂は瞳を緩める。
緑は天気予報のための機械じゃないんだから。
 菜穂はすっと立ち上がると、切り株に立てかけておいたリュックを拾い、背負いながら言った。
「じゃあ今日は一応帰るね。緑、話聞いてくれてどうもありがとう」
 緑は菜穂をダンボール箱の上に座ったままきょろりとその丸い瞳を菜穂に向けた。
「また明日も来るね」
 ばいばい、と菜穂は手を振り緑に微笑むと、乱立する木々の中に入っていった。
 緑はその後ろ姿をじっと見届けると、おもむろにダンボール箱の中から青色に白の水玉模様の、以前菜穂からもらった合羽を取り出した。ころりと一緒に未開封のべじたチップスの袋が出てきた。緑は一瞬それに視線をやったが、すぐに視線を合羽に戻すと、両手で丁寧にそれを広げて慣れた手つきで前の襟のボタンをニ、三個外し、大きな頭が通るようにしてからスポンと被った。その後で足元で転がるべじたチップスを拾い上げ、少しの間袋に印刷されているポップな野菜たちの楽しそうな様子を眺めると、合羽のポケットにそっとしまった。
まるでハシビロコウのように、彼は暫くその場で立ち止まって、じっと静かに固まっていた。
 雨は、降らなかった。

 次の日になっても雨は降らず、むしろ清々しい天気になった。
 季節の変わり目特有の強い風が吹いていたが、秋をはらむ涼しい風だった。
 教室のカーテンは四六時中大きく揺れていた。
 窓際に座る生徒たちが迷惑そうにカーテンの内に巻き込まれたり、カーテンの外に追いやられたりしていた。
 美和の席は空席だった。窓際から数えて二列目の彼女の席に、カーテンの先だけが時折ひらひらとはためいていた。
ふとした瞬間に、雲が太陽にかぶさっては、教室全体に陰で覆っていく。
菜穂は、どうして雨が降らないのだろう、と朝の会で担任の教師が所連絡をする中、頬杖をついて首をひねっていた。
「昨日さ」
彩音の両腕には理科の教科書やらノートやらが抱えられていた。
「一応……部活が終わった後樹里に、私達、もう菜穂のことハブにするのやめるからって言ったんだ……もう菜穂にも謝ってあるって」
彩音がそう菜穂に打ち明けてくれたのは、一限後の、理科室への移動中のことだった。
「そしたら私はひとりでもいいって。勝手にしろって言われちゃった……」
 彩音の瞳が曇った。
「何か……やっぱり順番間違えちゃったかな……」
 はぁ、と彩音は肩を丸めてため息をついた。
「いやっ、でも、樹里は……私達が一緒に謝ろうって言っても嫌だって言ったと思う私を裏切るつもり? って」
 沙也が彩音の言葉を振り払うように言った。
「……こんなこと言ったら樹里に失礼かもしれないけど、菜穂に私達が謝れないようにもしかしたら邪魔してきたかもしれない……。だから、これで良かったんだと思う。あとは樹里次第だよ」
 沙也が彩音の後悔を、そして自分のした行動への不安を断ち切るかのように語気を強めた。
「うん。私も後は樹里次第だと思う」
 菜穂も沙也の言葉を同じように繰り返した。
 二人が申し合わせたようにほぼ同時に菜穂を向いた。
 菜穂は朗らかな表情で二人に答えた。
「樹里から謝ってくれるかどうかは樹里次第。だけど私ね、ちょっと様子見て私から謝れそうだったら樹里に謝ろうと思ってるんだ。それでもし樹里も私に謝ってくれたら、今までされたことは勿論許そうと思ってる……」
「え……」
 二人は目を丸くしていた。
「酷いことって、でも、樹里のしたことの方が断然ひどくない? いや、私達が言える立場じゃないけど……」
 彩音が戸惑いがちに目を伏せた。
「そうだよ。菜穂が謝ることないよ」
 沙也も彩音に続き、言葉を付け加える。
「ううん。どっちがより酷いとか、どっちがより悪いとか、そういうことじゃなくて、樹里を傷つけたことは事実だから……そのことに対して私は謝りたいんだ」
 菜穂の瞳には、傷心と後悔の念が滲み出ていた。
 彩音も沙也も、「菜穂……」と思い思いに、複雑に顔を曇らせた。
「それに、もう私はひとりじゃないし……ほら、夏海も今朝一番に私のところに来て謝ってくれたんだ。坂口さんも」
 菜穂はにこりと頬をあげた。
「海堂さんが昨日のうちに二人に言っておいてくれたみたい」
 今朝菜穂が教室に足を踏み入れたその時だった。夏海と坂口さんが、憑き物がとれたように頬を紅潮させ、けれど大きな後悔と後ろめたさを持って、菜穂に話しかけ、謝ってきたのだった。
 菜穂は驚き目を見張ったが、昨日の美和の「大丈夫だよ」という確信めいた声と、夏海と二人でこちらを見ておかしそうに笑う様子を思い出して納得した。

「菜穂、今ハブられてるんだよ」
 美和の座っている背後の席から、夏海は、彼女の身を案じてそう警告した。
「……ハブられてる?」
 美和は夏海の真意を探りたくて、わざと理解していない素振りを見せた。
「私も本当はそんなの嫌なんだけど、それを仕切ってる樹里ちゃんって、めっちゃ怖いからさ。上の学年にお姉さんもいるし、下手したら呼び出されるかも」
 夏海は声をより一層潜めて言った。
 美和の眉が僅かに歪んだ。
「や、違うの。私……私だって本当はこんなことしたくないんだよ? ……菜穂に昔、
助けてもらった事もあるんだから……本当は……本当はこんなことしたくないんだよ? でも、もう仕方がなかったって言うか……」
 自分は何を言っているんだろう。
 夏海は自分が滑稽に思えて口をつぐんだ。
 美和の身を案じていたのは事実だが、本当はそれだけではなかった。少しだけ、少しだけ美和に嫉妬をしていた。
樹里ちゃんに逆らうなんてそんなのあり? あの日樹里ちゃんから回って来たライン、海堂さんは知らないから、今朝みたいなことが出来たんでしょう?
菜穂へのシカトが始まる前日の夜、樹里からクラス中の女子にラインのグループへの正体が回った。その時はまだクラスの女子のライングループは出来ていなかったので、恐らく自分を含む女子生徒はワクワクしながらその招待を引き受けただろう。
しかし、樹里から一番最初のメッセージが送られてきた時、夏海は戦慄した。
グループのメンバーに彼女の名前を探す。
ない。
招待を受けた時に気が付くわけもない。いや、気が付いていたからと言って、こんなことが起きるなんて予測できただろうか。
けれど、グループに入ってしまったからにはもう逃れられない。
樹里には逆らえない。
菜穂のことは、助けられない。

 私だって、出来ることならシカトしたくなかった。菜穂を助けたかった。おかしいと思っていた。

ずっと胸に秘めていた思い。でも、樹里にその気持ちがバレるのが怖くて、誰にも言うことのできなかった思いだった。
「……夏海ちゃん……」
「え?」
 夏海は驚いて伏せていた顔を上げた。考え事をしていたからではない。まさか、美和が自分の下の名前を知っているとは思わなかったのだ。
「私は、何も樹里ちゃんのことを知らないし、学校にもあまり来れない。だからこんな無鉄砲なことが出来るのかもしれないけど……」
 美和はためらいがちに視線を反らした。
「でも」
 美和の瞳が見開かれた。それとともに樹里の瞳も見開かれた。
 それくらい、彼女の瞳は美しかった。
「だからこそ、この貴重な時間だけは、本当に一緒にいたい子と過ごしたいって思ったの。例え樹里ちゃんにいじめられたとしても、お姉さんに呼び出されたとしても、そんなことどうだっていい、知らないよ! 私は菜穂ちゃんがいれば大丈夫。菜穂ちゃんと一緒なら乗り越えたい! ……でも、もしどうしようもなくなったら……」
 美和は途中で言葉を止めた。何かを少し考え込んでいるようだった。
「いいよ、この学校を捨てる。誰もいじめをどうにもできないような、そんな学校にいるくらいなら……学校なんて行かない方がまし。菜穂ちゃんと一緒に他の学校に転校してやる!」
 美和はそこまで一気に言い終えると、興奮しているのか、それとも彼女の割には少し大きい声を出したために息が切れてしまったのか、肩をはぁはぁと上下に揺らしていた。
「ま、まぁ菜穂ちゃんとは転校の相談も何もしてないけど」
 夏海はガクッと肩を落とした。
 けれど、同時に恐れ入る気持ちもあった。
 菜穂のためにそこまで……。
 見くびっていた。
 私はこの子を見くびっていた、
「海堂さん……」
 何と声をかけたらいいのか、夏海には分からなかった。
 すごい。でも、えらい。でもない。
 どうしてそこまで……。
 そんな疑問は愚問だった。だって、彼女が守るべき相手が菜穂だったから。
 この気持ちは何なのだろう。
 私は一体、今まで何をしてきたのだろう。
「夏海ちゃん」
 美和が夏海の両肩をそのか細い指でそっと掴んだ。
 意図せずして夏海の背中がこわばる。
「協力して」
「え」
 声が漏れた。
 美和の目は、真剣だった。
「こんなこと、もうやめよう。無理にとは言わない。でも、協力してほしいの。夏海ちゃんだって菜穂ちゃんにもうこんなことしたくないって気持ちがあるんでしょう? 苦しいんでしょう? 苦しんで来たでしょう? きっとみんなも同じことを感じている……さっき坂口さんと廊下ですれ違った時に、海堂さんは勇気があるねって言われたの。私にはとても真似できないって。でも、そんなことないよ。皆で協力してこの状況から抜け出そうよ。坂口さんだって、他に仲間がいれば頑張れるって言ってた。私一人だけじゃ心細いみたいで……でも、菜穂ちゃんを助けたい気持ちは、嘘じゃないって。ねぇ、夏海ちゃん、お願い、協力してほしいの」
 協力してほしいの。彼女はそう言った。だが、その瞳は、協力を仰ぐというような単純なものでは決してなかった。何か鬼気迫るような、追い詰めているような、追い詰められてような、何かを訴えかけるような迫力があった。
「海堂さん……」
「お願い……」
 不意に美和の瞳が緩んだ。
「菜穂ちゃんには私がいない時でも笑っていてほしいの……」
 なんで。
 樹里はその瞳の急な緩みに戸惑いを覚えた。
 学校にもほとんど来れず、人とあまり話すこともせず、いつももの静かに座っていたこの子が。何で菜穂のために今にも泣きそうな瞳をしているの?
―いや、違う、だからかな。
 ふと、夏海の脳裏に、美和が斎藤達に囲まれ困っていたあの背中と、微かに覗くその横顔が浮かんだ。夏海はその光景を、また斎藤が何かやっているよ、ただ傍目から眺めているだけだった。
―学校に来るのは久しぶりで、一人で、孤独で、なかなか仲の良い友達も出来なくて。その上男に囲まれても誰も助けてくれなくて。けど……菜穂は助けてくれた。あの時は教室の後ろ、決して近いと言える場所にいなかったはずの菜穂が、わざわざ自分を助けるために来てくれた。彼女にとってはそれはとても……。
 ただ輪の外から眺めていた美和の後ろ姿。菜穂はその彼女の緊張した薄い体を、いとも簡単にくすぐったそうに揺らしてみせたのだ。
―嬉しかったんだろうな……。
「……分かった」
 美和がはっと息をのむのが分かった。
「私が海堂さんに協力したら、坂口さんも協力してくれるのは確実なんだよね? ……分かった……」
「夏海ちゃん……」
 何が分かっただ。何が確実なんだよね? だ。夏海は自分の卑怯さに舌打ちしたくなった。
「私も協力してくれそうな他の子に今日中に声かけてみるよ……。協力するのは明日からでも良い? 菜穂にどう謝るか、ちゃんと家で考えてきたいし……」
 美和の瞳孔が、見て取れるほどに開かれた。と、その瞳がうるうると震え始める。
 うん、うん! と彼女は嬉しそうに首を縦に何度も振った。
 はぁ、私、何偉そうに協力するとか言っちゃってるんだろう……。
 本当は、やっと、菜穂を傷つける苦しみから、菜穂を裏切った苦しみから解放されると思って安心しているくせに。……海堂さんがいてくれて、良かったって思ってるくせに。
 夏海は久しぶりに息をつくことが出来た気がした。
 自分はあの日からまともに呼吸すらできていなかったのだと、その時初めて気が付いた。
 すぐに坂口さんをこっそり女子トイレに呼び出して話を付けた。菜穂はその時斎藤と何やら久しぶりに口喧嘩をしていた。別に本当に喧嘩をしているわけでもなくて、クラスがおかしくなる前のように、二人とも楽しそうに言い合いをしていたからそっとしておいた。坂口さんは嬉しい嬉しいと何度も言って、海堂さんと、そして私にまで抱き着いてきてお礼を言った。坂口さんも、小学校の頃にダサいとか、根暗とかオタク、とか言われて何となくみんなから避けられていた時期があった。それでも菜穂は、坂口さんを避けるようなことは決してしなかったし、かといって腫れ物に触るように特別扱いすることもなかった。私は、自分の肩に腕を回し抱き着く坂口さんに対して、小さく、ごめんね、と謝った。坂口さんは腕を話すと、何で? と本当に不思議そうに首を傾げた。小学生の時…、と小さく言うと、坂口さんは、あぁ、三年の時の? と言った。でも夏海ちゃん、私にしょっちゅう声かけてくれてたよね? と。私は泣き出したい気持ちに駆られた。
だってそれは、菜穂の真似をしていただけだったから。
 あの日の放課後、時をすれ違うようにして、彩音と沙也が急に泣きながら菜穂に謝りだしたものだからびっくりした。
 海堂さんと二人で、私達が出しゃばらなくても大丈夫そうだったね、と午前中にしたあの緊張感ある会話を思い出して笑った。
 
「他の子にも、夏海が何人かラインで連絡回してくれたみたいで……クラスの雰囲気が昨日までとは何か違うというか……うん、居やすさが全然違うから、きっと、もう終わったんだと思う」
 ありがとう、と菜穂は二人に笑いかけた。
「あとは樹里次第だね」
 と菜穂は理科室の戸をがらりと開けた。
「家の都合でって休んでた部活も、そろそろ復帰できるかなぁ。あー、久しぶりのバスケだ、嬉しすぎー!」
 開いている片腕をのびのびと伸ばしながら後ろを振り返ると、二人が固い表情をして固まっていた。
「え、何、どうしたの? もしかして私がいない間に何かあった?」
 菜穂が怪訝そうに眉を顰める。
「いや、違うの」
 彩音が言った。
「本当に、菜穂に悪いことしたなって思っただけ」
 菜穂は束の間、ぽかんと瞳を見開いて唇をすぼめたが、いししっと意地悪をするように笑うと二人の背中を叩いて教室へと歩を進めさせた。
「ほんとだぞ? 覚えとけよ二人ともっ」

「菜穂っち覚えてる?」
 後ろの席から坂口さんがまるでこれから二人で秘密の話をするかのように身を乗り出して聞いてきた。
「菜穂っちが初めて私に話しかけてきてくれた時のこと」
「え?」
 坂口さんはニコニコと嬉しそうに笑顔を携えている。
「このキーホルダー可愛いねって言ってくれたの」
 と、彼女はジーンズ生地の筆箱につけられたキーホルダーを菜穂に見せた。それは、坂口さんの好きな漫画の女の子のキャラクターをモチーフにしたものだった。
「え、そうだったっけ?」
「えー菜穂っち覚えてないの!? ひどい!」
 坂口さんは丸い頬をぷっくりとフグのように膨らませたが、その顔は本気で菜穂のことを非難しているわけではなく、ちょっといじけて見せるだけのあいさつ程度のものだった。
「その時は菜穂っち、このキャラのこと絶対知らないだろうなって思ったんだけど……実際知らないって言ってたし……でも、それでも可愛いねって言ってくれたから嬉しかった。だから私の推しのキャラは他にも実はいるんだけど、この子をずっとつけてるの」
「アイリンとかね」
「そう! アイリン! アイリン大好きなの! あのピンク色の髪がほんっとーにアイリンにはお似合いで……ってそうじゃなくて!」
 坂口さんは好きなものの話になると基本忙しい。
「それからね、菜穂っちは、私が……オタクとかキモイとか陰で言われてる時も……私も何かそれくらい堂々と好きになれることがあったらなぁって言ってくれたし」
 彼女は手元で先程菜穂に見せたキーホルダーを弄びながら話し続けた。
「おたふくちゃんって言われて気にしてたほっぺだって、可愛いね、癒し系だねって言ってくれたし」
「うん、可愛いよ、坂口さんのほっぺたってついつい触りたくなるもん」
「……菜穂っちは、私のこと当たり前のように肯定してくれる」
 坂口さんがゆっくりと顔を上げた。
「菜穂っち、仲良くしてくれてありがとう。そのままの私を受け入れてくれてありがとう。あんなことしちゃったのに友達止めないでくれてありがとう。弱虫な私を責めないでくれてありがとう。いつも優しくしてくれてありがとう」
 泣いていた。
 坂口さんはぽろぽろと、声を乱すことなく泣いていた。
 それはいつもおろおろとしている彼女ではなかった。
 私への思いのために、彼女は泣いているのだった。
 菜穂も思わずつられて泣きそうになった。
 坂口さんのキーホルダーを褒めたことも、坂口さんの好きなものに対する気持ちを羨んだことも、坂口さんのほっぺが好きなことも、それはすべて偽りでもなく、空気を読んだわけでもなく、ましてや助けようとしたわけでものなく、過去の自分が発した本当の言葉だった。
 坂口さんの中には、私がいつも見下し卑下していた自分ではなく、私が私を好きになれるような、そんな「雨宮菜穂」の姿が映し出されていたのだ。
 何で私は涙を堪えているのだろう。
 泣いてもいいのかな。
 菜穂は思った。
 だって、これは、嬉しくて泣きそうなのだもの。
「ありがとう」
 菜穂は彼女へ言った。
「私こそ、ありがとう、坂口さん」
 坂口さんは一瞬ぽけっとしたあどけない表情をしたが、黒縁の眼鏡を手の甲でそっと上げると瞳から溢れる涙を拭い、そしてにかっと嬉しそうに菜穂に笑ってみせた。

「良かったね、私に復讐できて」
 放課後、帰りの会が終わった後、トイレで用を済まし、手を洗っていたその時だった。
「彩音のことも沙也のことも、上手く懐柔できたみたいだし、良かったじゃない。さぞかし私の悪口を二人に吹き込んだことでしょうね」
 後ろの個室の扉が開く音がしたと思ったら、次に聞こえてきたのは樹里の声だった。
 菜穂は驚きを隠さずに、彼女が蛇口をひねり手を洗い始める姿を振り返った。
 部活動開始の時間はとうに過ぎていて、樹里がここにいるはずがなかった。
 突然の出来事と発された言葉の内容に、菜穂は言葉を喉に詰まらせていた。
 彼女はこれから部活に行くようで、体育着姿の彼女の肩には、体育館用のシューズを入れる学年共通の巾着袋がかけられていた。
「……早く部活に行かないの?」
 
 菜穂は蛇口の水を止めて、樹里に顔を向けたまま言った。
「は? 何? 嫌味?」
 樹里の蛇口を締める音が二人だけのトイレに響き渡った。
 彼女が顔を上げてこちらを見た。
その目は菜穂を非難するように見開かれ、右の口角はぴくぴくと震えていた。
「私が今どんな気持ちか分かってんの? あんた、サイコパス?」
 菜穂を非難し、傷つけようとする言葉。
しかし、その裏には弱さがあった。痛みがあった。悲しみがあった。
 菜穂にはもう、彼女を恐れ、震える必要はなかった。
今目の前にいる彼女を守る心の牙城は、早くも脆く崩れ始めていた。
 このまま一思いに崩壊させてやろうか。
 そんな思いが脳裏をかすめた。
 今ならできる。
私ならできる。
「……そうだね、サイコパスかも」
 菜穂はぼそりと囁くように言った。
 樹里が眉をひそめる。菜穂の吐いた言葉が聞こえなかったのか、それとも理解できなかったのか。
今度ははっきりと口を大きく開けて言った。
「樹里の気持ちが分かってなかったらサイコパスなんでしょ? だったら私はサイコパスだよ」
 菜穂は緑の羽の入っていない方のポケットから薄地のハンカチを取り出し、両手を丁寧に拭いながら言葉を続けた。
「だって何も分からないんだもん。どうして私にあそこまでする必要があったのか。沙也と彩音はまだいいとして、どうしてクラスの女子全員を巻き込む必要があったのか」
 拭う手を止める。ゆっくりと視線を樹里に向けていった。
 樹里が「それはっ……」と口をもごつかせ、視線を反らすのが見えた。
「それにさっき樹里が言ったことの意味だって分からない。どうして樹里が、私が彩音と沙也を懐柔したと思ったのか、どうして私が、二人に樹里の悪口を吹き込んだと思ったのか、どうして私が、樹里に部活に行かないのって聞いただけで嫌味になるのか、どうして」
 樹里を睨みつける菜穂の目が自然と険しくなる。
「私にあんな質問が出来るのか」
“私が今どんな気持ちか分かってんの?”
樹里がふいっと菜穂から視線を反らす。
が、菜穂はそれにかまうことなく話を続けた。
「樹里が今どんな気持ちかって? 知らないよ、知るわけないじゃん。ねぇ、それで私を責めるくらいなら、ちゃんと一から教えてよ。ねぇ、樹里、今どんな気持ち? ねぇ、今何を考えているの? 私にそんなこと聞いてスカっとした? 楽しかった? 楽になった? 後悔しなかった? おかしいと思わなかった?」
 抑えようとしても、その意思に反比例するように語気が強くなっていく。呼吸が浅くなっていく。あとは樹里に任せるのではなかったのか。微かにそんな思いが頭を過った。けれど、菜穂の喉に込み上げてくるその言葉は、その気持ちは、自らのエネルギーの逃げ場を他に見つけることが出来ずに喘いでいた。苦しかった。すべて吐き出せれば、この苦しみから解放されるのではないかと思った。
菜穂は使い終わったハンカチを乱暴にポケットにねじ込んだ。
「ねぇねぇ、私が今まで苦しくなかったとでも思ってるの? 辛くなかったとでも思ってるの?傷つかなかったとでも思ってるの? 私が樹里を」
 憎んでないとでも思う?
 本気でそう言おうと思った。
けれど、その言葉を口にする前に、菜穂の唇は動かなくなっていた。
ポケットにねじ込んだ自分の右手に、硬い感触と、わずかにくすぐったいような感触を感じた。
一つは生徒手帳。もう一つは、それからはみ出した緑の羽の先だった。
あ、間違えた。
菜穂の頭の中が、しんっと瞬く間に静まり返った。
はみ出した部分を傷つけないように、ハンカチは反対側に入れとくって決めてたのに。
ハンカチを握る力を緩め、菜穂は力なくそれをあるべき方のポケットへ入れ直した。
樹里は菜穂を険しい瞳をこちらに戻していたが、菜穂から見る彼女の姿は、どこかフィルターを通して見えているように感じられた。
あぁ、何をしているんだろう。
緑の羽がボロボロになっちゃったかもしれない。
例えそれが羽先だけだとしても、菜穂には許しがたいことだった。
ポケットの中の、緑の羽の状態が気になった。
自分の怒りのせいで傷つけてしまったかもしれない。
この世で何よりも大切な彼の羽を。
―一体この怒りに何の意味があるというのか。
菜穂は悲しいような、やるせないような気持ちに襲われた。
―ただ破壊する為だけの怒り。吐き捨てるだけの怒り。
この怒りは、私自身をも破壊して、さらなる苦しみを生むだけではないのか。
「私を、何よ?」
樹里の声が耳に飛び込んで来た。
「この際だからあんたのその“私って可哀想な子”アピール、最後まで聞いてあげるわよ。その代わり、聞いたからって絶っ対に謝らないけど」
樹里の唇の端は引きつるように歪み、目は依然、攻撃的な鋭さを宿したままであった。
 菜穂はその挑発的な彼女の態度に、胸の奥にある自身の純粋でか弱い部分が、ジュワっと焼かれるような思いがした。可哀想な子アピールってなんだ、謝らないってなんだ。菜穂は自分が傷ついたと伝えた気持ちを、被害妄想のように捉えられたくなかった、謝らないなんて言わないで、本当は仲直りしてほしかった。そんな風に、自分を突き放してほしくなかった。
 受け入れてもらえなくて、悲しかった。
思わず菜穂は我を忘れ、怒りを爆発させそうになった。
が、菜穂はハタと気が付いた。
―最後まで聞いてあげる?
樹里ってわざわざそんなこと言ってくれる子だったっけ?
今までとは何かが違う気がした。
―これはチャンスだ。
そう思うと、熱くなっていた気持ちが自然と冷静さを取り戻した。
 落ち着こう。
 昨日、緑といた時の自分は何を考えていたか。
 私が樹里に言葉にして伝えたかったことは、本当は何だったのか。
「ねぇ、樹里……樹里はさ、私が……」
 彼女を見つめる。
「樹里に悪いことしちゃったなぁって、少しも後悔してないと思う?」
 えっ、という声だけがその場に残された。
彼女の鋭く尖った瞳が一瞬緩んで揺れた。
直ぐに再び彼女は眉をひそめたが、その唇はわずかに震えたままだった。
菜穂が後悔していただなんて、そんなこと、聞いていない。
彼女の心の内が、菜穂には透けて見えるようだった。
「後悔してるよ、私は」
 樹里が質問に答える前に、菜穂はきっぱりとそう言い放った。
 今度こそちゃんと、彼女に自分の本心を伝えたかった。
たとえそれが、受け入れられなかったとしても。
「は? は? だから何、だから何?」
 樹里は黒い瞳をきょろきょろと泳がせながら、意味もなく同じ言葉を繰り返した。
 彼女は明らかに動揺していた。
「ははっ、何急にいい子ちゃんモードに入っちゃってんの? ははっ、気持ち悪っ。何、私に今更謝るつもり? ははっ、遅すぎっ、意味わかんない、意味わかんないんですけど」
 彼女はもはや、うろたえる自分を隠せていなかった。いつもは人の心を貫くまでに芯を宿した彼女の瞳は、今や見るべき場所を定められずに宙をさまようだけだった。彼女の美しく確信を持って動かされていた手足は、落ち着きなく小刻みに動かされ、最終的な居所を見つけ出せずにいた。
その姿は、菜穂の心を悲しいくらいに締めつけて離さなかった。
「ねぇ、樹里……私ね」
菜穂はもう、彼女に対する怒りなど忘れていた。
樹里が震える瞳をゆっくりとこちらへ回した。
「私ね、あの日……樹里と喧嘩したあの日、自分の意見と樹里の意見がちょっと違ったからってさ、“もういいよ”って樹里を突き放すような言い方しちゃったじゃん? ……もう関わらないでって……。あれさぁ、酷いよね、樹里はさ、私に腹が立つとは言ってたけどさ、少なくとも私がそんなこというまでは、友達のままでいてくれるつもりだったじゃん」
 今思えば、あの時の自分の怒りに身を任せた発言が、こんな事態を招く大きな一因になってしまったのだ。
「……あの言葉はさ、樹里にこんなことさせるくらい、樹里のことをひどく傷つける言葉だったんだよね……私って、本当にバカだなって思うんだけど、樹里に……その……“いじめ”られてから気が付いたんだ……」
 菜穂は本当は“いじめ”という言葉を使うのにまだ若干の抵抗を覚えていたのだが、それでもあえてこの言葉を使った。それは、自分が“いじめ”をしたことをきちんと彼女に自覚してもらうためでもあったし、“いじめ”という言葉を使うことによって、自分がそれほど傷ついてきたという事実を、彼女に伝える為でもあった。
「言っとくけど、いじめられてよかったって思ってるわけじゃないよ。あんなことしないで、普通に言葉でちゃんと“傷ついた”って伝えてほしかった。……でも」
 あぁ、やっとだ、と思った。
 やっと言える。
 これできっと……。
「私が酷いこと言ったことに関しては、ごめん」
 菜穂は樹里にむかって頭を下げた。
 頭を下げるリレーをしてるみたいだな、と昨日の彩音と沙也や、今日の夏海たちの姿を思い出してふと思った。
 返事が怖くて目を瞑って待っていると、菜穂の脳裏にはまるで走馬灯のように様々な映像が浮かび上がっては消えていった。
 お父さんの冷たい背中。
 プラットホームに立つお母さんの眼差し。
 机の上のマドレーヌ。
 鳥たちが一斉に飛んで行く姿。
緑のぎょろぎょろと動く瞳。
太陽の光に輝く羽毛。
斎藤のあほ面。
 必死で駆けてくる美和の表情。
 全てを見通す、緑のあの美しく深い瞳。
「やめてよ。もういいよ」
 声がした。
 その声に、菜穂の意識はハッと現実に引き戻された。
 勢いよく頭を上げる。
許してくれるということだろうか。
菜穂の口角が、無意識に僅かに上がっていた。
「じゅ」
「もう遅いよ」
自分の顔がその瞬間、口角を上げたまま硬直したことに気が付いた。
「え……?」
 息が止まる。
どういうことか、まるでさっぱり分からなかった、いや、分かりたくなかった。
―こんなことって……。
 信じられなかった。
 例え受け入れてもらえなかったとしても、それでもいいと思って言った自分の覚悟は覚悟ではなかったことに気が付いた。
 受け入れてもらえないはずがないと、心の底のどこかでは思っている自分がいた。
樹里はこちらを見ようともせず、視線を横に泳がせたまま、はぁ、と深々とため息をついた。
「もう遅い。何もかも遅い」
 彼女は腕を組むと肩を軽く上げ、気持ちを落ち着けるようにもう一度大袈裟にため息をついた。
「……謝ってくれたのはありがとう。私も悪かった……ごめん」
 樹里の長いまつげが、伏せられた瞼の上で微かに揺れていた。
「でも、もう無理。もう終わり。菜穂はこれからクラスで幸せに暮していけばいいよ。私はもう無理。どうせ無理だから。私はどうせこうだから。私はずっとこのままだから、性格悪いから、何やっても嫌われて終わりだから」
「え……?」
 菜穂の唇からもう一度力なく声が漏れた。
「……なんで?」
 どうしてそうなっちゃうの?
 そう言えば、以前もこんな風な違和感を樹里に抱いた気がする。
 樹里と言い争ったあの日。樹里がいきなりどこか違う世界へ飛んで行ってしまったような感覚。
 菜穂の困惑した表情を見て、樹里は嘲るようにくすりと笑った。
「なんで? 知らないよ、そんなの私が聞きたいよ。まぁ、生まれる前から全部決まってたんじゃない? 菜穂は性格が良くて皆に好かれるように、私は性格が悪くて皆に嫌われるように……決まってたんだよ、きっと」
 樹里は卑屈な笑みを顔に浮かべながら、くすくすと笑っていた。
「そんなわけないじゃん!」
 菜穂は考えもせずに否定していた。
「樹里は嫌われてなんかないよ! 嫌いって言ってる子、私、聞いたことないよ!?」
 無意識のうちに叫んでいた。
「はっ。そんなの今はともかく、前まで私とずっと一緒にいた菜穂にわざわざ言うわけないでしょ」
「でもっ……!」
 嫌われてなんかいない。そう信じたかった。
 確かに樹里を怖がっている子はいる。けれど、樹里の芯の強さや、行動力は皆の憧れの対象でもあったはずだ。それに、皆が皆樹里を嫌うわけないじゃないか。どうしてそんな悲しいことを言うのだ。どうしてそんなに悲しいことしか考えられないのだ。
「菜穂は分かんないんじゃない? ほんっと鈍感って言うか……でもしょうがないか、普通にしてるだけで皆に好かれるもんね。普通にしてるだけで恵まれた環境にいられるもんね……けどね、私は違う。私はね、前の学校では男子とちょっと話しただけで次の日には上履きがなくなってたし、そのうち机には花瓶が飾られるようになった。家に帰っても居場所なんかない。ブサイクが帰って来た、ブサイクが笑った……私はあのくそ姉のストレス発散口」
 こちらにギロリと向けられた樹里の瞳が、赤く充血しているのが菜穂の目に映った。
「何? びっくりした? こんなの普通だよ。こんなの全っ然普通だよ? これが私の普通だよ。分かんないでしょ、分かんないよねえ? 菜穂はいっつも恵まれてるからさあ!」
「……」
 言葉が見つからなかった。
 何か不用意に口にすれば、それが樹里の開いた傷口をさらに広げてしまうような気がした。
 緑を思い出した。
 自分が甘かったと思った。
 前の学校で何かあったのではないか。家の中で何かが起きているのではないか。
そんなこと、分かっていた。
けれど、想像は所詮、想像に過ぎなかった。
 目の前にいる樹里の瞳が、声が、息遣いが、怒る肩が、彼女の受けた苦しみを残酷なまでに物語っていた。
 目の前にいる彼女は、現実だった。
 一人孤独に闘ってきた、行き場のない悲しみと怒りに苦しむまだ幼い少女だった。
「びっくりでしょ? 知らなかったでしょ? もうひとつ教えてあげようか。今度は私が性格悪いエピソード。私がこの学区に引っ越してきたの、前の学校でいじめられてたからだから。でも結局また失敗したよね。仲良くしてくれてた菜穂の言うこと信じないで、私を追い込んだ前の学校の普通を信じたから。てかそれが全てだったから。バカだよね、私、バカだよね? 笑えるよね? おかしいよね? 分かってる、分かってるよ? でも無理なんだもん。だってそうなっちゃうんだもん。何なのさ。何なんだよ! 菜穂とも結局こんなんになっちゃってさあ! 菜穂が謝ってくれても、もう無理なんだよ、戻れないんだよ……ははっ、もうめちゃくちゃ、私めちゃくちゃだよ、うける……」
 樹里は話している間中、菜穂に一度たりとも目を向けようとしなかった。赤く充血した彼女の瞳の表面で、涙がゆらゆらと揺れているように見えた。彼女は、笑って口をつぐむと、わずかに緩んだ水道の蛇口から水がぽたっ、ぽたっと一定の間隔で垂れていくのを意味もなくじっと眺めていた。
 やっと、分かった。
 菜穂は思った。
 樹里の心の内が、やっと分かった。
 いや、決して全てが分かったわけではないけれど、あの時感じた違和感の意味が、やっと理解できた気がしたのだ。
彼女は、混沌の中にいた。
それが大きな原因だったのだ。
彼女は彼女自身であって、彼女自身ではなかった。
彼女は苦しみに、悲しみに、怒りに、傷に、踊らされ、操られていたのだ。
 それは、緑と出会う前の自分のようだった。
「……樹里、めちゃくちゃなんかじゃないよ。大丈夫だよ。私はまた樹里と友達に戻……」
―戻りたい。
「無理」
 樹里が言葉を挟んだ。
「もう無理。疲れた」
 その言葉は、樹里が菜穂を傷つける為ではないことは分かっていた。
 樹里はもう限界なのかもしれなかった。
「疲れたんだよ……もう……」
 彼女がこのままでは本当に、壊れてしまいそうな気がした。
 菜穂は焦った。
「疲れたなら休もう、休んでいいよ!」
 どんな言葉を彼女にかければいいか、菜穂は必死に頭の中を探った。
「一度ゆっくり休んでもいいよ、私、待ってるから、いつでも待ってるから! 良かったら、前の学校のことでも、家でのことも、ちょっとずつでもいいから聞かせてよ。前の学校もおかしいし、家で樹里のことバカにするお姉さんも、勝手に言って申し訳ないけど私はおかしいと思うよ!? おかしいのは樹里なんかじゃない、樹里は何にも悪くない! ねぇ、樹里、怒ったっていいんだよ、泣いたっていいんだよ!?」
 あ。
菜穂の頭に、ふと、斎藤のことが頭に浮かんだ。
 菜穂は小さく息をのんだ。
 私は何にもわかっていない。
樹里も同じなんだ。
斎藤と同じなんだ。
 樹里の表情が束の間迷うように和らいだ気がしたが、すぐにまた光を失い、瞳には怒りではなく暗い影が宿った。
「あいつに怒っても虚しくなるだけだよ」
 そう言うと樹里は、菜穂を諭すように力なく笑った。
 しょうがないなぁ、菜穂は。とでもいうように。
「あのくそ女に怒ったって何も変わらないんだよ。怒った顔もブサイクだなってまたバカにして笑ってくるだけだから。あの人には私の気持ちなんて言っても伝わらない。勿論泣いたって同じこと。お母さんも何でそんなことで怒るのかしらってとぼけた顔して、私のこと守ってくれないよ。……なのに前の学校でいじめられてるって分かった途端学校に対してキレだしてさ、ちょうどいい時期だしあいつらがいない中学の学区に引っ越す、とか言い出しやがって。その時私は小六で、もう二月頃だったからどうでも良かったんだけどさ、くそ女は中二だったからさ、何であんたのために私が転校しなきゃいけないの、あんただけ転校すればいい話じゃんって。まぁ、学校側が学区外に私がいじめが原因で転校するの渋ったらしくて……色々面倒だったらしいからお母さんは引っ越すって決めたらしいんだけどさ。中学受験ももう無理な時期だったし。お姉ちゃんはマジギレでさ。そりゃそうだよね。私も逆の立場だったら嫌だもん。死ねとか毎日のように言われたよ。部屋のドアとかも通りがかりに殴られたり。でももう何も言い返せないよね。家と学校のいじめ、どっちがひどかったんだろうって話。まぁ、だから、そう、もうお姉ちゃんにはどっちみちもう何にも怒れないよね」
 残念でした……樹里は小さく呟いた。
「はっ、何言ってんだろう、私」
 無理に笑おうとして、彼女の唇が左右非対称に引っ張られた。
「ごめんね、何であんたの話なんて聞かなきゃなんねーんだよっ、て感じだよね」
 彼女の声は、淡かった。とてもとても、淡かった。
怒りの色など、もう微塵も残されてはいなかった。
「菜穂にしたことは本当に悪かったなって思ってる。菜穂がもう一度……もう一度私と友達に戻ってくれるなら……そうだね、それって信じられないくらい幸せなことだよね。感謝しなくちゃいけないことだよね。でもね、私は……もう、疲れたんだよ。もう、無理なんだよ。こんなんで菜穂といたらまた菜穂を傷つける。また菜穂に……嫌われる……」
「樹里……」
 樹里の肩がピクリと揺れた。
 樹里の傷ついた瞳が菜穂にそっと向けられた。
「いいよ」
 菜穂は言った。
 まっすぐに彼女の瞳を捉えた。
「私のこと、傷つけてもいいよ」
 あれ、私は一体何を言っているのだ。
 今しがたそう言葉を発した自分は、どこか別の場所にいるようだった。
 あんなに傷つくことを、恐れていたのに。
 けれど先程自分の言ったことは嘘ではないように思えた。
本当の気持ちのように思えた。
「だって、私はもう知ってるんだもん」
 自分が自分に重なる。
樹里を真正面から見つめる。
「本当は、私のこと傷つけたくないんだって樹里が思っていること。それから、樹里が沢山傷ついてきて、その傷を抱えながら、自分と闘いながら生きているんだってこと」
 樹里の目がゆっくりと見開かれていく。
 苦しそうに眉が歪められ、「何で」と彼女は薄い唇から掠れた声を漏らした。
「私も同じ。私も闘ってる。だから、聞いてよ、だから、聞かせてよ、ねぇ樹里、私達、また友達に戻って、また一緒に話をしようよ」
 泣いていた。
 涙が頬をするすると滑り落ちていく感触がした。
 思いを口にしたその唇が、震えて抑えがきかなくなる前に、菜穂はきゅっと結んで閉じ込めた。
 あんなに泣くことが嫌いだったのに、菜穂は溢れ出る涙を止めることが出来なかった。
 あふれる涙は菜穂の思いそのものだった。
 遠く彼方に消えた樹里への憎悪。
 目の前で心細そうに肩を震わせている少女。
 菜穂は思った。
 もしかしたら、その憎悪はまた何かの拍子に―樹里が何かを決めつけた時、樹里が何かを否定した時―に菜穂のもとにひょいと姿を現すかもしれない。
 けれど。
その時の私は、これまでの私とは違う。
 その時の私は、この子の悲しみを知っている。
 例え全てを知ることができないとしても、理解することは出来ないとしても、それでも私は、今までの自分よりも遥かに彼女という存在を理解している。
言葉にしたから、言葉があるから。
「菜穂も闘ってるって何? 友達に戻ろうって何? ……何で、何で私の話聞いて菜穂が泣いてるのよおぉ!」
 樹里の瞳から、大粒の涙がボロボロと溢れ出し、顎の先から零れていった。
「とっ、友達に戻ったってっ…どうせ私はっ、わだしはっ、またっ、また酷いことをっ……言っちゃうっ……言っちゃうのにっ……」
 両手で涙を拭い取りながら、彼女はひくひくと肩を揺らしながら嗚咽を漏らしていた。
「いいよ」
 菜穂も自分の濡れた頬をそっと拭いながら、鼻をズッとすすって微笑んだ。
「その時はその時で……お互いまた謝ろう」
 菜穂は涙の止まらない樹里をそっと包み込むように抱きしめ「ごめんね」と呟いた。
 その“ごめんね”は、今回自分が樹里を突き放したことに対する“ごめんね”だった。
 樹里もそれを感じ取ったのか、暫くの間菜穂の胸に顔をうずめて泣いた後、そっと菜穂を見上げるて「私もごめんね」と菜穂に言ったのだった。
私も菜穂と友達に戻りたい。
うん、戻ろう。友達に戻ろう。
 皆にも、変な命令してごめんねって早く謝らなくちゃ。
 うん。でも無理してすぐにすることないんだよ?
ううん。すぐに言わないと、また気が変わっちゃうかもしれないから。
彼女は困ったような顔で笑った。
 樹里が女子トイレからそのまま部活へ向かった後、菜穂の体はどっとした疲れに襲われていた。それは菜穂にとって、向き合うことが、言葉にすることが、どれほど勇気と気力を必要とすることかを指し示していた。
 教へ戻る途中、菜穂は気持ちを落ち着かせるために下を向いて深呼吸を繰り返していた。
 よかった……上手くいって良かった……言って良かったんだ……。
―緑、私、ちゃんとできたよ。
 自分の思いを、言葉にしたよ。
早く言いたい。
緑に会いたい。
緑への思いに顔を上げようとしたその瞬間、額の辺りにどんっと衝撃が走った。
「うわっ!」
「おぅおぅおぅ」
「あ、すみまっ……」
 言葉を飲み込む。
見上げた先で目に飛び込んできたのは、斎藤のぽけっとした表情だった。
 その刹那、菜穂の胸には嬉しいような、ほっとしたような気持ちがどっと底から込み上げてきた。
「さいと……」
菜穂は思い浮かぶままに彼の名前を口にし、湧き上がるままに微笑もうとした。
が、その時にはもう彼の顔はお得意のひょっとこ顔にすり替わっていて、体とは不釣り合いに大きい両手と長いのだか長くないのだか分からない微妙な長さの両足のうちの片方が、振り上げられたまま時を止められていた。
何を考えているのだ、こいつは。
そう言えば、ぶつかった時に彼があげた声もなんだか驚いたというよりも……。
 一つ咳払いをする。
先程の波立つ感情はどうやら私の勘違いだったらしい。
「斎藤……何でまたトイレの周りをうろついてんのよ、てかぶつかる前に声かけてよ、今の分かっててぶつかったでしょ、変なポーズなんかとっちゃってさ!」
「あー、やっぱり雨宮には分かっちゃうのかぁ、驚いたふり一応したんだけどなぁ」
 あれは驚いたふりだったのか。ピエロのものまねか何かかと思った。
 斎藤は嬉しそうにニヤニヤと頬を緩めていた。
「いやぁ、なんか雨宮が下向いたまま黙々とこっちに向かって歩いてくるからさ、ぶつかってくるかどうか実験してみようと思って。そしたらお前、全然俺の存在に気が付かないで頭突きしてくるから普通に面白かったわ。一体何考えてたんだよ」
 斎藤はあははっと笑った。
「何考えてたって……」
 緑のことだった。
「あ?」
「何でもない! トイレの周りばっかうろつくなこの頻尿野郎!」
 斎藤がむっと顔を顰めた。
「違いますぅ、君と違ってトイレに用があったんじゃないんですぅ、教室に用があったその帰りですぅ。てか俺らのクラス、トイレから近いんだからしょうがねーだろうがよ、うろちょろしてても」
 じゃ、俺部活戻るから、と斎藤は急に真面目な顔に戻ると、手をひらひらと振りながら走り去っていった。
「あ」
 思わずその背中を振り返る。
 ユニフォーム姿が眩しく見える。
バスケをしている時の斎藤は、少しだけかっこいいことを菜穂は知っている。
逆に言えば、バスケをしていない時の斎藤は、優しいところもあるけれどいつもあほ面ばかりをしていてとにかく明るいお調子者の空気がちょっと読めない子供な男子……とばかりに思っていた。
けれど、今はまるで違って見えた。
それはあの日、斎藤と二人で話してしまったせいに違いなかった。
「……ありがとうね」
 菜穂はその背中に向かって小さく呟いた。
 やっぱり斎藤がいてくれるのと、いてくれないのとじゃ、私の気持ちは違ったと思うから。
「あ!」
 ビクリっと菜穂の肩がすくむ。
 斎藤がいきなり立ち止まって大きく声をあげたのだ。勢いよくこちらを振り返る。
 どきり。
もしかしてもしかすると。
菜穂は焦った。
今の言葉、もしかしてもしかすると運悪く人っ子一人いないこの廊下の壁と壁と天井と床を、自分の思いとは正反対に効率良く反射して反射して反射していって、まさかのまさかで彼にまで届いてしまったのではないか。
身体の内側でドクリドクリと心臓が波打っていた。
いや、良いんだけどさ、お礼は言いたかったから良いんだけどさ!
「そう言えばさ!」
 彼の声がひっくり返った。
そのことが恥ずかしかったのか、決まり悪そうに、んんっ! と拳を口にあて咳払いをする。
「じゅっ、十月の八日と九日にさあ、なんか、流星群がくるらしいぞ!」
 と一言だけいうと、彼は菜穂をじっと見つめたまま黙ってしまった。
 何だ、さっきの言葉は聞こえてなかったみたい、良かった。
菜穂はほっと胸を撫で下ろした。
「……へえ!」
今度はちゃんと聞こえるように、大きめの声で返事をした。
「へぇって……あの土手だったらさあ、すげえ沢山見れるんだろうなあ!」
「うん! そうだねええ!」
「こ、今年はさあ! 十三年? に一度かのなんか特別な年らしくてさあ! なんか、すんごいらしいぞ!?」
「へえぇ! そうなんだあ!」
「そうなんだあって……よ、八日ならさあ、日曜だからさあ! 見れるよな!」
「ね、そうだねえ、斎藤、良かったねえ!」
歩いていたわけでもないのに斎藤がガクリと前につんのめるのが見えた。
 体勢を立て直すと彼はまだ何か言いたげに額に手を当て天井を扇いだり、首の後ろをぼりぼりと掻いて視線を挙動不審に泳がせたりしていた。が、菜穂が曇りのない眼を自分に向けてじっと見つめていることに気が付くと、首を掻いていた手をピンと振り上げて、じゃ! と逃げるようにして廊下を走り去っていった。
 何なんだ、星の話なんて急に。
 菜穂は斎藤が廊下の角を曲がっていったのを見届けてから、眉間に皺を寄せて考えた。
 しかもなんか、中途半端に詳しかったし。
 ……ま、いっか。
そんなに大事なことでもないように思えてきたので、菜穂は止まっていた足を再開させた。
 十月の八日……流星群かぁ。
菜穂は流星群を見たことがなかった。もしそれが本当に来るのであれば、是非とも見てみたいものだ。
そうだ、緑と一緒に見よう。
その考えが頭に閃いた瞬間、誰かの存在がきらりと音を立てて消えてしまったような気がしたが、あまりにも潔く綺麗に跡かたもなく消えてしまったので、きっと気のせいなのだと菜穂は首を縦に振った。
頭の中が、緑との未来でいっぱいだ。
夜空を駆けて行く無数の星々。
爛々と瞳を輝かせ、高揚した緑の横顔。
緑の瞳には世界が映る。
美しい瞳だから、美しい世界をありのままに映し出す。
緑は大はしゃぎするだろうな。
そう思った。

「そうか、もう樹里ちゃんと仲直りできたんだ、良かった……!」
 ダンボールの上に座る緑が顔を両手で覆いながら安心したように肩を撫で下ろした。
 緑はいつもダンボールに座る。菜穂が「私がダンボールに座るよ」と切り株から腰を上げても「いやだ」と言って譲らない。
「本当に良かった……」
 緑はもう一度、深く息を吐きだしながら呟いた。
「緑……ありがとう……」
「いや、僕は何もしていないよ、菜穂が勇気を出して樹里ちゃんと向きあったからだ。僕はむしろ保身に走って菜穂の足を引っ張ろうとしていた。菜穂が傷つくのが怖かったから。でも菜穂はちゃんと自分で向き合った。偉い、本当に偉かった……」
 彼はそう言って両手を顔の前で合わせ、向かいにある遠くの木々を眺めていた。
 菜穂は緑のそんな横顔を見て、なんだか胸の奥がむず痒いような気持になった。
 緑は私のこと、本当に好きでいてくれているんだな……。
彼はいつだって、菜穂のこと自分のことのように考えてくれた。
 菜穂はそんな彼の様子を見る度に、彼が菜穂に言ってくれた「好きだ」という言葉は、菜穂を励ますためだけの嘘偽りではなく、本当の言葉なのだ、と改めて実感して、胸の奥の方がこそばゆくなるのだった。
「これで学校は大丈夫だ。……あとは菜穂のお父さんがしっかり休んで、元気になるのを待つだけだね……」
「うん……」
 それはきっと、かなりの時間を要することだろう。
 戻ってきてからも、私達の間にできた溝は果たして元通りなかったことになるのだろうか。お父さんは、自分自身を許すことが出来るのだろうか。
“僕はもう、菜穂のそばにいる資格なんてない“
 あの時彼は、泣いていたんだ。
私は伝えなくちゃいけない。
 資格がどうかとかじゃなくて、私がお父さんと一緒にいたいんだって、何度も何度も、お父さんが理解してくれるまで、私は伝えなくちゃいけないんだ。
 でも今はまずは、お父さんが安心して実家で休めますように……。
 緑がふと空を仰いだ。
 サワサワと、すがすがしい風が緑の耳を揺らしていた。
 あ、そうだ。
 流星群。
 菜穂は緑のわくわくする顔を想像して頬が緩んだ。
「緑、来月の上旬に、流星群が来るんだって! 今年は十三年に一度の特別な年らしいよ! 一緒に見に行こうよ!」
 緑に笑って話しかける。
「え」
緑がちらりとこちらに目をやった。
が、何か隠し事でもするかのように、即座に視線を菜穂から外した。
「……どうしたの?」
 菜穂は違和感を覚えた。
 そう言えば、今日はまだまともに緑と目を合わせていない。
「な、何でもないよ。流星群か、うん、流星群ね、いいね、行きた……」
 緑が一瞬、考えるように言葉を詰まらせた。
「行きたいけど、やっぱり夜は危ないよ。うん、そんなにしょっちゅう行ってたら危ない、誰かに待ち伏せされるかも」
「まあた、そんなに心配して」
 菜穂はハハハっと何でもないことのように軽く笑った。
「大丈夫だよ、流星群の日ならきっと近所の人も出てくるって」
「……いや、でも僕はいい、僕は行かない」
 緑の態度は頑なだった。
 そんなに私のことが心配なのだろうか。
 何か意固地になっているようにも感じた。
 残念だけど、仕方がないか……あぁ、残念……。
 菜穂はしょんぼりと肩を落とした。
 緑は黙って空を見上げていた。つられて菜穂も空を見上げる。
……昨日、雨降らなかったな。
 ふとそんなことを思い出す。
 あの時は本当に鼻が詰まってたんだな。
 菜穂は疑って悪かったなと彼に申し訳なく思った。
「ねぇ、緑、今日は鼻の調子大丈夫なの?」
 彼にそれとなく話しかける。
彼がびくりと身体を揺らした。
「え、は、鼻? 何、急に?」
 一瞬こちらを振り向いたと思えば彼はまたすぐに顔を反らしてしまった。
 おかしい。
「何でって、昨日鼻が詰まってるって言ってたから」
「あ、あぁ、そうだ、そうだったね。うん、今日も詰まってる、きっと明日も詰まってる、そして明後日も明々後日も……というよりこれからずっと詰まってるかも」
「何それ、そんなわけないじゃん!」
 菜穂は思わず噴き出した。
「ちゃんと寝てればそのうち治るよ」
「へ、うへへ、そうかな?」
 緑は鼻の先を手で覆い隠した。
 ……おかしい。
 やはり何かがおかしい。
「何、緑、そんなに洟垂れ小僧なの? 大丈夫?」
 菜穂が緑の顔を覗き込む。
「わ!」
 と、緑はのけぞってバランスを崩し、縦長に置いてあった段ボールともども地面の上に倒れ込んでしまった。段ボールの中にあった合羽とべじたチップスが転げでる。
「あ! ごめん緑、大丈夫?」
「いてて、う、うん、大丈夫、こんなのなんともない、へっちゃら」
 緑は打ち付けた右の尻をさすりながら合羽を拾いに四つん這いになった。
 え。
 菜穂は目を見張った。
 緑のお尻、禿げてる。
 言葉にすることが出来なかった。
 地面の上には緑の苔色の羽が、差し込む太陽の光に青で反射しながら散らばっていた。
 今地面に打ち付けた時に、ずる向けたの? こんなに?
 四つん這いになっている緑の背中を見た。
 よく見ると所々剥げて、黒色の皮膚が剥き出しになっていた。
 あと一本残っていたはずの尻尾だって、いつの間にかもう消えていた。
「……」
 言葉にできなかった。
 緑の剥き出しになった黒い皮膚は、何かを暗示するかのようにパサパサとしわがれて居た。
「ねぇ、緑」
 ん? と緑が顔を上げずに答えた。正座になり合羽を丁寧に折りたたんでいる。
 菜穂は転がるべじたチップスを拾い上げ段ボールの中に閉まった。
「あのさ、変なこと聞くけどさ、羽ってまた生えてくるんだよね? 今抜けてるのって、生え変わりのためだよね?」
 平静を装っていうつもりが、声が震えてしまった。
 心臓がドクンドクンと激しく脈を打ち止まらなかった。
 緑が、合羽を折りたたむ手を止めた。
「……菜穂」
 何を言ってるんだ、そんなのあたり前じゃないか!
 そうでしょ、そう言ってくれるんでしょう?
「……緑?」
「ごめんっ」
 緑の声が雑木林に響いた。
「……ごめん。僕は嘘をついていた。僕の羽が生え変ったことなんて一度もない。というより、羽が抜けたことだって一度もなかったんだ……一度も……」
 緑は頭を項垂れたまま言った。
「ち、違うなら、違うって私が最初に“生え変わり”言ったときに、言ってくれればよかったのに……」
“もう秋だもんね。きっと生え変わりの時期なんだ”
 菜穂は緑の抜けた羽を指で摘みながら、顔の前で暢気にくるくると回していた自分を思い出した。なぜあの時に言ってくれなかったのだ。
「僕も最初は、そうなのかなって思ったんだ。僕の姿が急に菜穂に見えるようになったし、もしかして僕の身体の体質も変わったのかなって。生え変わるようになったのかなって」
 緑は俯いたまま、言い訳をするように焦って言った。
「でも最近ちょっと触っただけで、どんどん抜けていくし、抜けた部分はそのまま皮膚が剥き出しのまま何も生えてくる様子はないし」
 緑は合羽をぎゅっと握りしめた。
「僕は気づいたんだ」
 彼がやっと顔を上げた。
 久しぶりに菜穂に向けられたその瞳は、膜を張ったように白く濁っていた。
 菜穂は息をのんだ。
「緑っ、目が……」
 緑のきれいな瞳が。
「……あぁ、目? やっぱり変になってる? なんか、朝起きたら急に靄かかって見えずらくなっちゃって……」
 緑が目をこすってシパシパと瞬かせた。
「やだなぁ、やだなぁ、羽も抜けて、皮膚もボロボロで、こんな姿、菜穂に見られたくないのに……」
緑がまた頭を項垂れた。
「菜穂、僕は……」
 緑が消え入りそうな声で何かを呟いた。
「え?」
 緑の前にしゃがみ込む。
 緑の耳が、力なく垂れていた。
「……僕はもう、長くない」
 ピシリ。
 そんな音が聞こえてきそうなくらい、菜穂の体は硬直して動かなかくなった。
“ぼくはもうながくない?”
 まって、りょく、いったいそれはどういうこと?
 そう聞こうとしたが、唇がぴくぴくと動くだけで、菜穂の喉からは声が出てこなかった。
 代わりに両方の瞳から、涙が勝手に溢れて頬を伝った。
 緑の言っていることの意味は、まだ理解できていないはずなのに、涙が溢れて止まらなかった。
「菜穂……」
 緑が顔を上げてこちらを見ていた。
「……泣かないで」
 緑が困ったように掌で菜穂の頬を拭った。
「なんて言ったら、菜穂は苦しいのか。泣かないでなんて、つまらない言葉だな」
 ごめんよ。と緑が顔を逸らした。
 違う、私は緑を困らせたいわけじゃない。
 今辛い思いをしているのは緑の方なんだ。
 私が緑を支えなくちゃ。
「私が緑と出会ったから……?」
 言葉が勝手に口をついて出た。
 押し寄せる思いが勝手に口から零れた。
 緑がぎょっと目を見開いてこちらを見た。
 表面が濁っていても、緑の瞳の奥の方で、まっすぐに輝く美しさを感じた。
「そ、そんなわけないだろう……!?」
 緑が真剣な表情を菜穂に向ける。
「だって、今まで羽が抜けたことないって」
「確かに、菜穂に姿を見られるまではっ……抜けたこと無かったけど……」
「私のせいだ」
「違うよ」
「私が緑を見ちゃったから」
「違うって!」
 うぅっ、と菜穂はうめき声をあげて顔を伏せた。
「菜穂……」
 緑は合羽をそそくさと段ボールにしまうと、そっと菜穂の肩に手を置いた。
 木漏れ日の匂いが微かに漂う。
 初めてであったころは、こんなに近づかなくてもそこら中にいい匂いが漂っていたのに。
 私の大好きな匂い。
 その匂いの微弱さが、緑の命の切なさを物語っているようで辛かった。
 いとおしかった。
 涙がぼたぼたと音を立ててスカートの上に落ちる。
「緑、ごめんねっ、ごめんねぇ緑、ごめん、ごめんね……っ」
 嗚咽が止まらなかった。
 緑が何も言えずに困っているのを感じた。
 困らせたくないのに。
 緑を励ましたいのに。
 緑に笑っていてほしいのに。
 緑に喜んでほしかったのに。
 緑に幸せになってほしかったのに。
 こんなことになるなら……こんなことになるなら……。
「見えなければよかった。緑のことなんて見えなければよかった!! 見えなくてもいいから、出会えなくてもいいから、私は緑に生きててほしかったのに……!!」
「そんなこと言うな!」
 怒りを帯びたその大きな声に、菜穂は驚いて顔を上げた。
「そんなこと言わないでくれよ、菜穂」
「緑……」
「あぁ、一体どうやったらこの気持ちを菜穂に伝えられるんだ」
 緑がもどかしそうに額に手をやった。
「僕は……菜穂、僕は! 君に見つけてもらえるんだったら何度だって同じことを繰り返すよ。何度だって菜穂を見つけて、何度だって言葉を覚えて、何度だって孤独を乗り越えて、何度だって……何度だって馬鹿みたいに同じ人生を辿って同じように菜穂に出会って、同じようにこの世から消えてやる!」
 緑がハァハァと肩で呼吸をしていた。
 菜穂は今までに見たことも無い緑の勢いに圧倒されてその場に立ち尽くしていた。
「それくらい……菜穂に出会えて幸せだったんだ……僕は……」
 そう言うと、彼はダンボールを縦に置きなおし、すとんと腰を下ろした。
「……菜穂を見つけたあの日から、僕の人生は一変した。学校を知って、言葉を知って、人間を知って、自分を知って……菜穂を見てると心が和らいだ。どんな生き物にも君は優しかった。繊細で、我慢強くて、いつも明るく笑っていた。いつか菜穂と話せたらと覚えた言葉は、時に僕を苦しめたけど、それでもいつか菜穂と話せたらなんて、そんな想像をしては胸が躍った。そんな菜穂の笑顔がいつしか曇って、中学に入ってからは雑木林に来てくれた時にしか様子も見れなくて……僕はどうしたらいいものかって、どうか彼女をお助けてくださいって、さんざん神様に祈ったものだよ……。おかしいだろ? 神様なんていたらそもそも僕みたいな変な生き物なんて存在しないよ。でも、そしたらさ、出会えたんだ。たまたま僕が最初に興味を持って、好きになって、助けたいって願った女の子にだけ、たまたま僕の姿が見えるようになったんだ。ねぇ、菜穂、これ以上の幸せなんてあると思うかい?」
 緑がくいっと首をひねって立ち尽くす菜穂を見上げた。
「願ってもない奇跡。本当に、これは僕にとってとんでもない奇跡だったんだ、だから僕はこの人生に感謝する。この運命を喜んで受け入れる」
 菜穂は何も言葉にすることが出来なかった。
 緑の思いが、緑の人生が、菜穂の胸を掴んで離さなかった。
 緑がこの運命を幸せだったと受け入れるのなら、一体だれがそれを否定できるのだというのだろうか。
 私も受け入れなくてはいけない。
 菜穂は唇を噛み締めた。
「緑」
「ん?」
「見つけてくれて……出会ってくれてありがとう」
 緑がへへっと笑った。
「それはこっちの台詞だよ、菜穂」

 家に帰るとリビングの食器棚からガラス花瓶をくすねて部屋へ運んだ。
 菜穂が背負っていたリュックを外しひっくり返すと中からは緑の羽がわっと飛び出しひらひらと舞った。
 拾い集めて花瓶に詰め込む。緑は止めたけど、菜穂は持って帰ると言って聞かなかった。
 少しでも、緑の欠片を自分の元に残したかった。それは、いくらあっても足りないくらいだった。
 丁度下から、母の帰ってくる声がした。
「菜穂、今日は夜ごはん出来たもの買ってきちゃったから!」
 下に降りて来て食べなさいという意味だった。
 はーい、と声を張って返事はしたものの、菜穂は気が進まなかった。
 息の詰まるような感覚があった。
 どうせまた、タバコを吸うんだ。私の言ったことなんて忘れて。
 暗く陰りそうになった心を、目の前にある緑の羽を見て励ます。
 勇気が湧くのと同時に、緑がいなくなってしまうことも思い出して悲しくなった。
 とぼとぼと下の階に降りると、デパートの総菜コーナーで買って来たらしいエビチリと、シーザーサラダがレジ袋に入ったままテーブルの上に置いてあった。菜穂は棚から何のへんてつもない白い皿を四つ出してテーブルに並べ、総菜の蓋を開けさらに移し始めた。
母は疲れた様子で、ソファーの上でふぅっ、とため息をついていた。
タバコはまだ吸っていないようだ。
「お母さん、お疲れ」
 なんとなく、そう言わなくてはいけない気がして菜穂はその言葉を口にした。
「ん? あぁ、ありがとう菜穂」
 母はにこりと微笑んだ。
「洗濯物取り込んでおいたから」
「あー、本当? ありがとう。助かるわぁ、菜穂は言わなくてもやってくれるから……」
 菜穂はその言葉に少しイラっとした。
 言われなくてもやるけど、言われてやってるのと同じような気持ちで私はやっているんだ。
 しかし、こんな些細なことでイラっとする自分もどうかと思い、菜穂はその言葉を胸にしまった。第一、言われていないのにやっていることは事実なのだ。
 皿に盛り付けるのが終わると、母と二人で椅子につき、ご飯を食べ始めた。
 母は菜穂が何も話さないでいると、ぺらぺらと思いつくままに話し始めた。
 今日さー、お母さんが帰ろうとしたところで、会社の上司が書類作成頼んできたのよー。しかも今日中だって言うの。お母さん、菜穂がごはん待ってるのにふざけないでくれるー? って思ったけど、仕事だから仕方がないかって……。
 そう言えばお母さんの同期のお子さんがね、今まで知らなかったんだけど、あの有名な高校に通ってたのよ! ほら、あの……あれ、何だっけ……度忘れしちゃった。
 この前言ってた新商品のチョコレート! あれ、お昼休みにたまたま食べてる人見つけたってさ、ひとつ分けてもらったんだけど、もうほんと美味しいの! 今度買ってくるね! ちょっと高いんだけどね……。
 今日はいつにも増してよく話すな。
 菜穂は、うんうん、と相槌を打ちながらうんざりしていた。
 私の話は聞かないくせに、自分の話ばっかりして。
 私のこととかどうでもいいんだろうな。
 ……面倒くさい。
 菜穂はごちそうさま、と一言いうと、自分の食器を流し台に運びささっと洗い始めた。
「菜穂」
キュッと蛇口のレバーをあげて水を止める。
「……何?」
 背中を向けて座る母が、こちらを振り返った。
「お母さん、家でタバコ吸わないようにするね」
「え」
 手から皿が滑り落ちそうになった。
「ごめんね、菜穂の気持ちに気が付けなくて……」
 そう言うと彼女は横を向いて座り直し、上体をひねって菜穂に向けながら言った。
「お父さんがいなくなったからってタバコまた吸い始めるなんて、菜穂のこと全然考えてなかったよね。菜穂だって、家でタバコ吸われたらいやだよね。ほら……いろいろあったからさ、お母さん、何かイライラしちゃったというか不安になっちゃったというか……タバコって手軽にできる良いストレス発散なのよ」
 ストレス発散……。
 菜穂は手を止め母を見つめていた。
「ごめんね、もう家では吸わないから。菜穂が自分の気持ち、ちゃんと言ってくれてよかったよ、言われなかったら多分ずっと気が付かなかった……ありがとう」
 母は微笑んでいたが、その瞳はくぐもっていた。
「……ストレス発散になるなら、吸ってもいいよ」
 菜穂は思わずそう口にしていた。
 自分でも何を言っているのだと思ったが、母が自分の言ったことのせいでストレスの発散口をなくしてしまうと思うと、何だかとてつもなく悪いことをしてしまった気になったのだ。
「ダメダメ。そう言うのは良くない。菜穂を犠牲にしてお母さんだけストレス発散をするのは良くない」
 母は机に向き直りながら言った。
「大丈夫、お父さんがいた時なんて会社でも吸ってなかったし、本当はなくても大丈夫なのよ。何とかなる」
 この話はもう終わり! と立ち上がると、母も皿を持って流し台に向かってきた。菜穂が場所を開けると、母が代わりにそこに立ち皿を洗い始めた。
「ごめんね、菜穂。お母さん、言ってくれないと分からないのよ。お父さんと菜穂みたいに優しくないから」
「……ううん。優しくないなんて、そんなことないよ」
 どうしようもなく、切ない気持ちが菜穂の心を覆いつくした。
 大の大人である母が、いじらしく見えた。
 今まで母のことを心の中で見下し、叱責していた自分が恥ずかしくなった。
 皆、知らないところで苦しんでいる、悲しんでいるんだ。
 彩音も、沙也も、坂口さんも、
樹里も、斎藤も、海堂さんも、
 お父さんも、お母さんも、私も
 小林さんも、その息子さんも、通りすがりの親子だって
 皆みんな、心の中に何かを抱えて生きているんだ。
 私の大切な、あの緑だって。
「お母さん」
 菜穂は母の顔を見上げた。
「ん? 何?」
 母が菜穂を振り向く。
「お母さんも、ちゃんと自分の気持ちを言葉にしないとだめだよ。それは私に対してだけじゃないよ」
 母がはっと顔をこわばらせた。
「会社の人にも、お父さんにも、お父さんのお母さんにも、近所の人にも」
 こんなの子供の戯言かもしれない。
 大人になると、演技をして生きることが正解なのかもしれない。いや、きっとそうなのだ。だけど……。
「誰かがきっと、お母さんの気持ちを受け取ってくれるよ」
 ジャーと水がシンクを打つ音だけが響いていた。
 菜穂はそれを言い終えると静かに二階へと上がって行った。
 改めて見直すと、花瓶の中緑の羽は、窮屈そうにしなっていた。
 これは良くない。菜穂は本棚から小学生の頃に使い残した自由帳を取り出し、空のページを開いて床に広げた。引き出しの中から小型のセロハンテープを取り出して床に正座する。花瓶から一つ一つ緑の羽を取り出し、白いページに丁寧に止めていく。
 こんなことしてどうなるんだろう。
 ペタペタと標本のようにノートに羽を貼っていきながら、菜穂は静かに思った。
 こんなことしても、緑がここにいてくれるわけじゃないのに。
 羽を貼る手が小刻みに震える。
 母の何かに気が付いたようなはっとした顔が脳裏に浮かんだ。
 私は……。
 ねぇ、緑。
 緑のおかげで私は……。
 嗚咽が止まらなかった。
 涙が、羽に弾かれノートに浮かぶ。
 菜穂の心臓は破裂しそうだった。
 緑がくれたものを思い出すたびに、緑への思いが募っていった。
 菜穂にとって、緑を失うことは、世界を失うことだった。自分を失うことだった。
 それでも何度だって。
 何度だって、私も緑みたいに同じ人生を繰り返したい。
 菜穂の辿り着いた答えも、またそこにあった。

「菜穂ちゃん……!」
 菜穂が教室に入り机にリュックを置く否や、美和が菜穂の元に駆け寄り手を取った。
「良かったね、樹里ちゃんと仲直りできたんだね……!」
 美和の大きな瞳がゆらゆらと涙に潤んでいた。
 樹里を探すと、彼女は教室の角にいる女子数人と、何やら話をしているところだった。深々と頭を下げている。周りの女子が驚いて彼女の肩に手をあて一生懸命に顔を上げさせようとしていた。
「さっきから樹里ちゃん、あんな風に皆に謝って回ってるの、私にもついさっき謝ってくれて……」
 美和もそんな樹里の様子に顔を向けながら菜穂に言った。
「本当は昨日、私も学校に来たかったんだけど、なんか一昨日に力を使い果たしちゃったみたいで、熱が出ちゃって……」
 そりゃあそうだ、斎藤に何も言えなかった彼女が、樹里に真っ向から向き合ったのだから。
「海堂さん、体調、今もう大丈夫なの……?」
 この一週間のうちに美和は三回も学校に姿を見せていた。
 それは一学期の美和の出席回数を考えると信じられないことだった。
 菜穂は美和が自分のために無理をして学校に来ているのではないかと不安になった。
「私のことなんて心配しないでよ」
 美和は艶やかな頬を持ち上げて笑った。
「菜穂ちゃんの傍にいるんだって思ったら、何だか力が湧いちゃって、何でだろう、今日はすっごく気分が良いんだ」
 ほら、お肌の調子もいいし、と彼女は自分の頬をぺんぺんっと軽くたたいて見せた。
「海堂さん……どうしてそんなに……」
 どうしてそんなに私のことを……。
 菜穂が繋がれている二人の手に視線を落とした。
 その手が不思議と、緑の手と重なった。
「だって菜穂ちゃんは私のこと助けてくれたもん」
「そんな、あれくらいのことでっ」
「菜穂ちゃんにとってはあれくらいのことでも、私にとってはあれくらいのことじゃないの。それに……」
「それに……?」
 美和の菜穂を握る手の力が、キュッと強くなった。
「なんか……こんなこと言いったら変な子って思われるかもしれないけど……」
「何? 言ってみて?」
「菜穂ちゃんが近くで笑ってるのを見た時、私、やっと会えたって、何でか思ったの」
「え……」
 美和の瞳が一心に菜穂に向けられた。
 菜穂は、予想外の彼女の発言にどう返せばよいか分からず戸惑った
 と、彼女が握っていた菜穂の手をぱっと解くと、小さな顔の前で忙しそうに振りながら言った。
「ご、ごめん、ごめん! こんなこと言われたら気持ち悪いよね、菜穂ちゃんはそんな風に感じなかったよね、やだ、私、もしかしたら菜穂ちゃんもそんな風に思ってたかなと思っちゃって! ……そんなわけないのに……」
「はーい、皆席についてー。朝の会始めるよぉ」
 と美和の言葉を遮るかのように、担任が教室に入って来た。
「わ、私は……」
 菜穂は言葉を言いかけたが、美和は、じゃっと手を振って菜穂に背を向けると、いそいそと自分の席に退散していった。
 私は、そんなこと思わなかったけど……でも、なんか……嬉しかったけどな、そう言ってもらえて……。
 菜穂は椅子を引いて腰を下ろすとリュックの上に顔を突っ伏した。

 雑木林に寄り添うように、木の影を走って進んでいく。
 ハァハァと肺が呼吸を荒げている音が聞こえる。
 それとは対照的に葉が風に揺れ、サワサワと触れ合い爽やかに合唱している。
 遠くできゅるりきゅるりと鳥が鳴いている。山奥でもないのに、この鳴く鳥は、一体どこからわいて出てきているのだろう、と考える。
 季節は変わる。
 蝉の鳴き声も、ふとした瞬間に聞こえ、ふとした瞬間に消える。
 その数は、確実に、静かに減っていく。
 有刺鉄線の途切れる場所。
 菜穂はミシリと音を立てながら雑木林の中に足を踏み入れていく。
 虫たちがブンブンバチバチ音を立てながら焦ったように逃げていく。
 足元でガササっと音を立てているのはきっと菜穂の苦手なトカゲだろう。
 菜穂は目を閉じ心の中で念仏を唱える。
 今は遠回りをしている場合じゃない。
 少しでも早く彼に会いたい。彼の傍にいたいのだ。
「わっ」
 焦る気持ちに足が絡まり、危なくこけそうになり地面に手をつく。
「危ない、また怪我するところだ……」
 と目の前の地面を見ると、そこでは尻尾の抜けたトカゲがうようよと激しく走っている姿があった。
 自分の手は見ない、見てはいけない。
「ああああああああ!」
 菜穂は後ろにのけぞると大きな叫び声を上げていた。
 きゃー、という可愛らしい声などではない。
 腹の底から出る、野太い声であった。
 舌が長いとか舌が割れているとか、そんなことはもはやどうでもよかった。
 避けようと意識していたものが急に目の前に現れたことが菜穂にとっては衝撃だった。
 鳥が菜穂の声に気が立ったようにキュロロロロロロ! と鳴き声をかえた。お前は何の鳥なのだと思った。
「菜穂ぉおおおおお!」
 遠くから自分の名を呼ぶ声が聞こえた。
 誰の者かは考えるまでもなかった。
 忍者のように俊敏な動作で、黒い影がシュンシュンと木を華麗に避けながらこちらへ向かってくる。それはさながら電光石火。死が近づいている者の動きとは到底思えなかった。
 黒い影は尻餅をつく菜穂の隣に寄り添い、彼女の背中を支えた。
「菜穂、何があったの? どうしたの、大丈夫!?」
「……緑?」
 黒い影は黒いままだった。
 黒い影は剥き出しになった彼の皮膚だった。もう羽は、ほとんど残っていなかった。
 菜穂はそっと彼の体に触れる。
「一日でこんなに……?」
「あ、あぁ、これ?」
 緑はへへっと申し訳なさそうに笑った。
「違う違う、一日でこんなに抜けたわけじゃないよ。抜いたようなもんだよ。なんか、羽がぶらぶら抜けかけたままになってるとさ、痒くて痒くて……、菜穂に隠す必要ももうないから、昨日思いっきり一晩中掻いてたんだ。そしたらこんなんになっちゃって……へへっ、掻きすぎだっつーの、ってね」
「……」
 緑の黒い皮膚は、乾燥していて、そこには白く粉をふいている無数の掻き傷が散らばっていた。
「そんなに痒かったなら、もっと前から掻いてれば良かったのに……」
 菜穂は緑の顔を覗き込んだ。
 緑の体に刻まれた掻き傷が、緑が今までどれほど我慢していたかを物語っているように思えた。
「……だって……まだ……菜穂はもう大丈夫だなって思えるまで……本当は言いたくなかったんだ……。それに、なるべく綺麗なままの姿を菜穂に見ていてほしかったし……菜穂が、綺麗だねって褒めてくれたから……」
「え?」
「僕の羽を」
 緑がわき腹に残っていた小さな羽をプチンと抜いて菜穂に差し出した。
「はい、プレゼント」
「ぷ、プレゼントって……わざわざ抜かなくても」
「もうこの際だから全部抜いたほうがすっきりするだろう?」
 そう言って緑が立ち上がったので、菜穂も羽をリュックの中のクリアファイルに急いでしまうと立ち上がって付いて行った。
「で、さっきは何があったんだい? 大丈夫?」
「あ、うん、大丈夫、トカゲがいただけだから!」
 ははっと笑って菜穂は肩をすくめた。
「トカゲ!?」
 緑がくるっと菜穂を振り向いた。
「そっか、そうだ、菜穂はトカゲたちが嫌いだったんだっけ、忘れてたよ……トカゲたちにもちゃんとお願いしないとな、菜穂が来るときには隠れててって……」
「い、いいよ、緑、悪いよ」
「いんや、大丈夫だ。別に出てけって言ってるわけじゃないし、菜穂が来るときだけなんだから、大丈夫さ」
「そう?」
「うん」
「……ありがとう」
 いつの間にか、緑は菜穂の手を握って引いていた。
 菜穂は何も言わずに引かれるがままに緑の後ろを歩いていった。
 木漏れ日の匂いが、わずかだがした。
 彼の後ろ姿は、黒色で、カサカサで、皺も寄っていて、まるで別の生き物のようだった。
 けれど、その姿は変わらず菜穂の心の緊張を解き、変わらず菜穂を包み込んでくれるのだった。
 彼の傍にいる時は、もう菜穂は闘わなくてよかったのだった。
 ありのままの自分でいても、許されるような気がするのだった。
「緑」
 声をかける。
 緑が「ん?」と振り返る。
「どんな姿でも、私には関係ないよ」
 緑が不思議そうに首を傾げた。
「緑は緑だよ。私は緑の心を見てる。魂を見てるから」
 緑がハタと立ち止まった。菜穂も一緒に立ち止まった。
「……それは……」
 緑は菜穂を見つめた。その瞳は昨日と変わらず白く濁っていたが、深い洞察力と生命の輝きは失っていなかった。
「……ありがとう。僕も同じだよ、菜穂」
 知ってる。
 菜穂は小さく呟いた。
 緑との思い出は、菜穂の中で宝石のように輝いているのだった。
 緑のくれた大切な言葉を、緑、私は忘れなんかしないよ。
 どっこいしょ、と緑が段ボールの上に座ると、菜穂は、どいてどいて! と緑を立たせた。
「ちょっと菜穂、だから僕は切り株じゃなくていいんだって、菜穂が切り株に……」
「違うの違うの、この中のものを出したくて……」
 というと、菜穂は段ボールを横にし、中から合羽を取り出した。
「被っときなよ。そのままだと木の枝とかにぶつかった時すぐ怪我しちゃうし、夜は寒いでしょ?」
 緑の上からポンチョ型のそれをポンっと被せる。
「うーん、やっぱ似合うね、緑。かわいい」
 菜穂がいししっと子供のように笑った。
「確かに、夜は冷えるなと思ってたんだ。なるほど、これを被っとけば良いわけだね」
「……あつい?」
 緑は少しためらって見せた後、口を開いた。
「うん、暑いというより、ちょっとムシムシするなぁ……羽とは違うから……やっぱり羽は残しておいた方がよかったかなぁ、水も弾くし」
「あ!」
 菜穂が突然大きな声を上げた。
「な、何!? どうしたの」
 緑がびっくりしてその場に飛び跳ねた。
「そうだよ、羽って水を弾くから別に合羽なんていらなかったんじゃん! あー、私ってバカ、よけいなお世話だったね……」
 菜穂は顔を手で覆った。
 緑はほっとしたように肩を撫で下ろした。
「なんだ、そんなことかぁ……余計なお世話なんかじゃなかったよ、菜穂。あればあるに越したことないし、合羽も僕、着てみたかったんだ。だから嬉しかったよ」
「……本当に?」
「うん、本当に。ありがとう、菜穂」
「……そっか、良かった……。まぁ、それはともかく、緑が普段切れるものがないか、今日家に帰ったら探してみるよ。サイズ合わないかもしれないけど。明日また持ってくるね」
「わぁ、いいの、菜穂!」
 緑の耳がピンと上に伸びた。
「ありがとう」
 彼はにっこりと嬉しそうに笑顔を向けた。
「というか、この合羽もサイズちょっと合わなかったよね、裾が変に上がっちゃってる」
 と、菜穂が視線を止めた。
「あれ、何この盛り上がり。 緑、何かポケットに入れてる?」
 改めて緑の合羽を着ている姿を眺めるとポケットの部分が不自然に張り、膨れていた。
 緑もその声に自分の着ている合羽を見下ろす。
「あぁ」
 彼の黒い乾燥した手がおもむろに動かされ、ポケットの中にごそりと入れられた。
「これだよ」
 緑の手に握られて出てきたのは、まだ未開封のべじたチップスだった。
 菜穂はそう言えば昨日、合羽と一緒にべじたチップスが地面転げでたことを思い出した。
「なくしちゃったら嫌だなと思って、ポケットに突っ込んでおいたんだ」
「そうだったんだ。というか食べようよ、そのために買ったんだから」
 菜穂が緑の手からべじたチップスを取ろうとする。
「や、やだよ!」
 緑がばっと袋を持つ手を引いて体の背後に隠した。
「毎日夜一緒に寝てるんだから!」
 束の間二人は見つめ合った。
 キュロっ……とどこかで鳥の鳴きかける声がしたが、その続きが聞こえてくることはなかった。
「え……」
 菜穂が眉を顰める。
 緑がコホンと、体裁悪そうに咳払いをした。
「まぁ、そう言うわけで、これは食べるためのものではないのです」
「いや、お菓子は食べるためのものだよ」
「それでも僕は食べないのです。毎日一緒に寝たいのです」
「あ、もしかして枕にしてるの?」
 以前彼が落ち葉をかき集めて枕代わりにしていたことを思い出す。涙だかよだれでびしょ濡れになっていたけど。
 なるほど、あれと比べればべじたチップスは願ってもない良質な枕かもしれない。
 なぜなら商品の酸化を防ぐために、窒素がたっぷりと袋の中に詰められているのだから。
「ばか! 菜穂、そんなわけないだろ!」
「ば、ばかって……」
 緑がプンプンと頬を膨らませて怒った。腕をブンブンと上下に振るので、片手で掴んでいるべじたチップスの中身がシャカシャカと小気味の良い音を立てた。
「菜穂から貰った大事なものなんだから、頭の下に敷くわけないだろう。それにもしよだれでべと……いや、とにかくちゃんと大事に抱えて寝てるんだっ」
 と、緑は振り回していたべじたチップスを大事そうに胸元で抱え込んだ。
「緑、でも食べないと勿体なくない?」
 菜穂は子供をあやすような眼差しを向けた。
「……いいんだっ、食べたいけど……無くなる方が僕にとってはつらいっ」
 緑がキュッと小さな子供が現実から目を背けるように目を瞑った。
「……そっか……」
 菜穂は折れることにした。
「そしたらまたべじたチップス買ってくるよ。一緒に食べよ」
「ええええ!? そんな!」
 彼は目を見開きのけぞった。
「そそそ、そんなことしたら、菜穂のお小遣いがなくなっちゃうよ!」
 緑がくねくねとべじたチップスを抱えながら体を揺らし始めた。
「大丈夫だよ、べじたチップス、百円もしないから」
 菜穂は渋い顔で答えた。
「そんなこと言って……菜穂の月々のお小遣いは一体いくらなんだい」
「千円だよ」
「そしたらすぐお金無くなっちゃうじゃないか! この間だってお昼買ってたし!」
「お昼代はお母さんが出してくれるから大丈夫」
「けど、菜穂だって他に欲しいものあるだろう? 千円だったら、菜穂の好きなお菓子、月に十回も買えないだろう? そのうちの二回を、もう僕に捧げてしまっているだろう?」
「いや、お菓子もお母さんが食べたかったら買ってくれるよ、べじたチップスは別で私が買ってるだけで……とにかく、私が緑に食べてほしくて買ってるんだから、緑は気にしないでいいの!」
「えー」
 緑が瞳をぎょろぎょろと泳がせた。
 何だか黒い皮膚にぎょろぎょろとした瞳だったので、巨大魚のような迫力があったのだが、一方で緑の声はおとぼけてのどかで、そのちぐはぐさが緑そのものだなと思った。
「ひょっとして、僕はヒモ? それとも菜穂が貢ぎちゃん?」
 そんな言葉、どこで覚えたのだ。
 菜穂は世の中の親の気持ちが分かった気がした。
「そんなわけないでしょ!」
 と、声を荒げつつも、菜穂は心の中で「確かに、緑のためなら何でも私はホイホイ買ってしまいそうだな」と危ぶんでいた。
「まぁとにかく、明日買ってくるから、楽しみにしてて」
 と言うと、菜穂は「どっこらせっ」と切り株に腰かけリュックを緑とは反対の方の足元に置いた。
 あ、いけない、座るときにこんな掛け声を上げるなんて、私、緑みたいになってる。
 咄嗟に菜穂は、なーんて! と笑っていた。それは、どっこらせっ、という言葉に対してなのだったのだが、勿論そんな意図が隣の緑に伝わるわけもなく、彼は困惑した表情で「え、買ってきてくれないの?」と菜穂の顔を覗き込んできた。
「え、違う違う、そうじゃないの、何でもないの、買ってくるよ! 絶対!! 絶対!!」
 菜穂は焦って顔の前で手を振りながら言った。
「良かったぁ、菜穂に意地悪されたのかと思ったぁ……」
「ごめんごめん、変なこと言っちゃって」
 へへへっと肩をすくめる。
 一瞬でも緑を悲しませるようなことを言ってしまって申し訳なかった。
「……そう言えば、緑、歯は大丈夫なの?」
 菜穂は真剣な表情に戻っていった。
「歯?」
「うん、抜けたりしてない? べじたチップス、食べられるの?」
「ああ!」
 そういうこと、と緑がぱっかりと口を開けた。
「実は何本か抜けちゃってるけど、まだ全然残ってるよ、大丈夫」
 大きく開けられた緑の口の中には、臼型の歯が所々その数を減らしながらも、まだ十分なほどに残っていた。
「何でか歯はあんまり抜けないんだよね、物理的な衝撃をあんまり加えてないからかな。僕、普段はモノを食べる必要がないからね。じゃあそもそも何で歯が生えてるのって話だけど、でもそんなん言ったら何で口があるのって話になるじゃん。話し相手なんかいないし、呼吸だって鼻さえあれば十分できるのに……あ、鼻が詰まった時のため? 予備? というよりさ、これは僕が常々思っていることなんだけどさ、例えば目はさ、見るためにあるじゃん? 生きるのに役立つからあるじゃん? でも、じゃあそもそも何のために僕たちは生きてるの? や、僕は生きることを否定しているわけではないんだよ? でも、何のために生まれてきたの? ってやっぱり……うん、考えちゃうんだよね。特に誰からも認識してもらえていなかった時は……僕の存在は、神様のいたずらか何かですかねぇ、って、神様をちょっと恨んだもんだよ」
 緑が膝に置いた手を弄びながらははっ、と苦々しく笑った。
「緑」
 菜穂の声に緑がはっと顔を上げる。
「……苦しかったんだね……」
 目を丸く開けたままの緑の耳だけが、ピクリと僅かにその言葉に反応した。
「い、いや、苦しいとか、そういうわけじゃ……」
 慌てて緑が耳をパタリと抑え込む。
「うん……」
「いや、あの……」
 菜穂は緑の言葉を待った。
 緑は何か自分の心の中を探るように、瞳をきょろきょろと揺らしていた。
「……そうだね、苦しかった……」
 緑が耳から手を離すと、耳はへにゃりと倒れたまま起き上がってこなかった。
「ずっとずっと、苦しかったんだ……」
「うん……」
「今はもう、いいんだ。菜穂に出会えたから。菜穂が僕を見つけてくれたから。今までの苦しみは全て報われた。そんな気がする。でも……やっぱり僕は欲深いね。心のどこかでは……もっと早く菜穂に出会いたかったって、もっと沢山の時間を菜穂と過ごしたかったって、菜穂の成長を見ていたかったって、菜穂が悲しい時や苦しい時は傍にいてあげたかったって……もっともっと……これじゃあ足りないよ、僕は、菜穂を」
 緑が今どんな瞳をしているのか、彼のしわくちゃの手に隠れて見えなかった。
「幸せにしたかった。僕が、僕が菜穂を幸せにしたかった……」
 手の向こう側から、涙がすっと、流れ落ちた。
 菜穂は唇を噛み締めた。
 いつも私を支えてくれた緑。
 いつも私を想ってくれた緑。
 彼はいつだって、私の幸せを願ってくれて、一生懸命に素敵な言葉をくれたではないか。
 私は彼に、一体どんな言葉をかけてあげられる?
 この世から消えていこうとしている、この世に一人しか存在しない彼に。
「菜穂の幸せを願ってる。僕は、この世にいなくなっても、もし生まれ変わったとしても、ずっとずっと、ずーっとずーっと……っ!」
 彼が手を降ろし菜穂を見つめた。
 その瞳は涙で揺れていて、少し充血しているようにも見えた。
 白く濁っていて、充血もしていて、それでも彼の瞳はまっすぐで、そして美しかった。
かけがえがなかった。
「でも本当は、僕が幸せにしたかったんだ。菜穂の幸せを願っているくせに、本当は菜穂を幸せにするのは僕が良かったんだ。僕はわがままなんだ。でも僕がいなくたって菜穂に幸せでいてほしいのは本当なんだ。でも僕が良かったんだ。僕が……僕は、僕はっ」
 緑が力を籠めるようにぐっと体を前に屈め顔をうずめた。
「……悔しい……っ!」
 震える緑の細い肩。
「緑……」
 彼の肩が、体が、荒れる呼吸に合わせて上下に揺れていた。
「僕は昨日、強がって、何度でもこの人生を繰り返すって言った、でもそれは本当であって、やっぱり本当じゃなかったんだ。菜穂ともっと一緒にいたかった。菜穂の笑った顔を見ていたかった。来月、菜穂と一緒に土手に座って、流星群を見ていたかった。そこでまた菜穂の色んな話を聞いていたかった。僕が菜穂を振り返ると菜穂もこちらを振り返って、僕が菜穂に話しかけると菜穂はにっこり笑い返して……そんな世界に、僕はもっともっと、生きていたかったんだ……!」
 緑の心は湖面のようにゆらゆらと揺れていた。
 それは、菜穂を思うがあまりの、抑えつけた感情が、悲鳴を上げている証拠だった。
 僕は、菜穂を悲しませたくない。
 不安にしたくないんだ。
 一人で孤独に泣いてほしくない。
 ずっと笑っていてほしいんだ。
 僕といたこの日々が、どうか彼女にとって幸せな、楽しい思い出であってほしいんだ。
 でも、僕は、菜穂になんていった?
 自分の思いを言葉にしてほしい?
 じゃあ僕はどうなんだ。
 きっとその思いを受け止めてくれる人がいるから?
 じゃあ僕にとってのその人は誰なんだ?
 誰なんだよ。
 分かっているだろ、信じているんだろう?
 それは、目の前にいる、彼女じゃないか。
 彼女に自分を偽ったまま、僕はこのまま死んでいくのか?
 それで、僕はいいのか。
 彼女はそれを、望んでいるのか?
「僕は菜穂とずっと一緒にいたかった……!」
 絞り出すような、喘ぐような声が出た。
 ふと菜穂の顔を見上げた。
 菜穂の瞳は、深くて、悲し気で、慈愛に満ちていた。
 いつだって彼女はまっすぐに僕を見つめてくれて、温かく優しく僕を包み込んでくれた。
 僕をこの世に見つけてくれた、最初で最後の、最愛の人。
 ポロリ、とまた緑の瞳から大粒の涙が転げ落ちた。
 膜を張ったように朧げな視界の中でも、彼女の瞳は洞窟の中の光のように、彼の生きる道標となる。
「私もだよ、緑。私もずっと緑と一緒にいたかった……」
 彼女がゆっくりと僕の身体を包み込んだ。
 彼女に包まれると、僕の頭にはこんな風景が浮かぶ。
 空は広くて柔らかい風が稲穂を揺らしている。と思えば小さな白い花が咲き乱れ、小鳥たちがおしゃべりをするように歌っている。さわさわと穂の乾いた匂いと土の渋い香り。僕は優しい風に吹かれて思わず顔に笑みを浮かべる。
 生まれてきて良かったあ。
 僕はずっと、こんな世界を探していたんだ。
「何年たったって、何十年たったって、私を幸せにしてくれたのは緑だよ」
 菜穂の声が聞こえた。
 緑の意識は現実に引き戻された。
「緑が私にかけてくれた言葉が、愛情が、優しさが、悲しい時だって苦しい時だって、この先きっと、私を幸せに導いてくれる」
 菜穂は「今は緑のために」と泣かないよう自分を戒めていたのだが、どうやら最近は涙腺が緩くなっているらしい。声は震え、頬には涙が伝う感触がした。
「だからこれからもずっと一緒だよ。ずーっと一緒」
 出来る限りの力で菜穂はにこりと笑って見せた。
 どうか、どうかこの言葉が、この笑顔が、緑の中でずっとずーっと残っていって、緑のことを、ずーっと支えてくれますように。
 緑は声がのどに詰まってしまったのか、ただ目をぎゅっと瞑りながら、首をブンブンと縦に振っていた。
 振り終わると、緑もニコッと笑ってくれた。
 緑はいなくなってしまうんだ。
 緑はいなくなってしまう。
 菜穂の顔が引き締まった。
 それでも、私達はずっと一緒だ。
 私達は、ずっと一緒だ。

 ゴロゴロゴロゴロゴロ……。

 遠くで雷の唸る音がした。
 はっとして空を見上げると、いつの間にか空は灰色の怪しい雲に辺り一面覆われていた。
 季節の変わり目。空の気分はすぐに移ろう。
「……雷だね」
 空を濁る目でぼんやりと見つめたまま、緑が静かに呟いた。
 今まで緑が何も言わなかったのは、もう天気を予測するための五感がうまく機能していないからだろう。緑は心なしか申し訳なさそうな表情を浮かべていた。
「そうだね……」
「菜穂、今日はもう帰った方がいいんじゃない?」
「うん……」
 うん、と言いつつも、それじゃあ、と言ってすぐ帰る気にはならなかった。
 けれども帰らなくてはいつ雨が降ってくるかもわからない。
 気が付いてみれば、辺りには水気を含んだ土や葉のにおいが、菜穂の鼻でも分かる程に漂っていた。雨がすぐそこまで迫っているのかもしれない。
 緑と別れなければならない寂しさで、菜穂は緑の顔を見ることが出来なくなっていた。
 いつの間にか、自分でも可笑しなってしまうくらいに手をもじもじと動かしていた。
 けれど、そんな菜穂の姿を見ても、緑は笑わずに見守ってくれた。
「帰る……帰る、けど……」
 菜穂はもぞもぞとスカートのポケットから生徒手帳を取り出した。
「緑、何かここにメッセージを書いてよ、それ見て緑のこと思い出すから……っ」
 開いて差し出した生徒手帳から、はらりと緑の羽が滑り落ちた。
「あ」
 ひらひらと揺り篭のように左右に揺れながら、その無垢な羽は二人の足と足の間に音もなく着地した。
 緑がじっとその羽を見つめていた。
 菜穂は何も言わずにその羽を拾い、照れくさそうに口を尖らせながら、表紙裏のカバーそでに再び羽を挟み直した。
「だって綺麗だったんだもん」
 この期に及んでまだそんな言い訳が口をつく。
 バカだなぁ、私は。
 と内心ため息をついていた。
 さっきまで恥ずかしいくらいに自分の気持ちを言ってたんだから、お守り代わりにしてたって言っても全然不思議じゃないのに。
 緑の顔をちらりと眉を上げて覗いてみると、彼は「あははっ」と声を出して笑った。
「菜穂は僕の羽が本当に好きだねぇ」
 と言って緑はまた肘の裏に残っていた羽をむしり取ろうと反対側の手を回した。
「ちょっ、いいよ、緑、わざわざ抜かなくても! 家に沢山あるから!」
 緑は相変わらず天然だった。いや、分からないものか? うーん、でももし緑が、「綺麗だから」と言って私の髪の毛を常時持ち運んでいたら、私のことよっぽど好きなんだなって思うけどな……というか気持ち悪い? え、私って気持ち悪い!?
「いいよ、菜穂。何か書くものを貸して」
 緑が菜穂から生徒手帳を片手で受け取り、うーんと顎に手をあて考え始めた。
 菜穂はリュックから筆箱を取り出しシャープペンシルを緑に渡す。
「ふふーん、なんて書こうかなぁ……」
 緑が得意げな顔をしてカチカチとそれを鳴らした。
 中の芯がびよんびよんとリズミカルに次から次へと飛び出していく。
「ちょっと緑、シャー芯出しすぎっ」
 菜穂が緑の手からシャープペンシルを取り上げ芯を中へ慎重に戻した。
 緑が瞳をぱちくりと瞬かせている。
「あ、ごめん、僕慣れてなくって」
 菜穂がちょうどよい具合に芯の長さを調整してまたそれを緑に返すと、緑はプルプルと手を震わせながらペンを拳で握りしめ、手帳のメモ欄にペン先を合わせた。
 ポキッ
 芯が折れた。
「あー、緑、ちょっと力が強いかも、もっと力を抜いて」
 菜穂が緑の握るシャープペンシルのノックを二、三回押し、芯を出してやる。
「む、難しいっ」
 ポキッ
 緑はまた芯を折った。
 それもそのはずだ。緑はシャープペンシルを実際に使って字を書くのは初めてのことだったのだ。小学生たちが学校でもっぱら使っている物は“鉛筆”であったし、シャープペンシルにも緑は興味はあったものの、実際にこっそり小林さん宅で触ってみたのは、やっぱり鉛筆の方だった。木の匂いと鉛の匂いが、緑のハートを掴んでいたのだ。
「そっか……ごめん、緑。普段字を書く必要なんてなかったもんね……私が書くから、緑、何か言って」
 字が書けないなら書けないと言ってくれれば良かったのに。
 菜穂は、はい、手を緑へ差し出し生徒手帳を受け取ろうとした。
「いやだ」
「え」
 緑はぷいっと体をひねって生徒手帳を菜穂から見えない方へ遠ざけた。
「い、いやだって……」
「……菜穂、鉛筆……は、ないかなぁ……」
「鉛筆!?」
 ないとは思いつつも、菜穂は膝に置いていた筆箱の中を漁った。
 やはりなかった。
「あ、じゃあボールペンは?」
「ボールペン。うん、良いね」
 菜穂にシャープペンシルを返すと緑はボールペンを受け取った。
 緑から受け取ったシャープペンシルには、緑の生温かい体温がありありと
残っていた。
「あ、何これ!」
 緑がボールペンのボディを覗き込み目を険しく細めた。
「え、何?」
 菜穂は何事かとボールペンを覗き込んだ。
「ハシビロコウじゃん!」
 緑が菜穂を向いた。
「あ、そうだね……」
 菜穂は、ははっと笑う。
「一時期グッズ集めてたから……ごめん、違うのが良い?」
 筆箱の中を漁る。
「……いんや、これでいい」
 緑は静かに言った。
「……何か、僕、以前ほどこいつに嫌悪感を感じなくなってるな……何でだろう、何でかは、分からないけれど……」
 緑はボールペンを顔に前に掲げ、まじまじとその鋭い眼光のハシビロコウと真剣なひょ上で対峙していた。
「なんか、もうどうでも良いことのように思えるというか……」
「……なんかさ、出会ったばかりの頃、緑のこと、ハッシーって名前つけそうになってたよね」
 菜穂はくすりと笑った。
「あと“モス”とか」
「モスグリーン色だからね。あとその色が流行ってたからだっけ。安直だなぁ、菜穂は」
 緑がからかうように菜穂は目を細めた。
「緑の気に入ってくれたこの名前も、みどりって感じを音読みにしただけだけどね」
 菜穂は仕返しとばかりに意地悪く言った。
「違うよ、そうだけど、木の要素が入っていて、しかも龍みたいでかっこいいんだ。だから安直なんかじゃない、これで良いんだっ」
 緑がぷんぷんとボールペンを握る手を揺すった。
 ごめんごめん、と菜穂は謝る。
 こうしてみると、緑がこの世からいなくなってしまうなんて嘘みたいに思えた。
 だって、体の表面は随分と変わってしまったけれど、その中身はまるで変っていないのだもの……。
 緑がじっと動きを止めて菜穂を見つめると、うーん、と小さく唸り声をあげて、生徒手帳に向き直った。
 何やら考え込んでいる。
 緑のボールペンを握り込む手が気になった。グーで握っているのである、グーで。
 やはり文字を書くことは難しいのではないか。
「緑……文字書けるの?」
 菜穂は率直に緑に聞いてみた。
 自分の思い付きで緑に無理をさせているのではないかと心配になった。
「書けないよ」
 緑はケロリとそう言った。
そしてそのまま、菜穂の小さな生徒手帳に向かって、まるで魔法使いが鍋に入ったスープを煮込むみたいに、グーの手を慎重に動かしながらボールペンを操っていった。
「ふふふ、でも大丈夫。これで伝えたい事は伝わるはず」
 途中で菜穂が覗こうとすると、まだ駄目! と言いながら、ちらちらと菜穂の様子を不自然に窺う。
 何を企んでいるのやら。菜穂は頬に渋い笑みを浮かべた。
できたーっ! と緑が手帳を持ちながら大きく伸びをした。
ゴロゴロゴロ、と雷が鳴った。
ピーヒョロロロロロと鳥が鳴いた。
だからどこの鳥なんだ。
「はい、菜穂。これを見てちゃんと僕のこと、思い出してね?」
 緑が満足げな表情で開いた手帳を菜穂に差し出してくる。
不安な反面、少しワクワクする気持ちもあった。一体どんなことを書いてくれたのだろう。受け取った手帳に目を落とした。
 そこにかかれていたのは、にこにこと楽しそうに笑っている女の子の顔だった。
 丸に、曲線に、三角に、ギザギザ。
「これ……」
「どうだい、見てるとこっちまで元気になっちゃうだろう?」
 単純な線で描かれた少女は、まるで穢れなき太陽のようだ。
 緑が得意げに人差し指を顔の前に立てた。
「菜穂の笑顔は、最高なんだ。見てるこっちまで幸せな気分になる」
 と、彼は菜穂の手元に顔を寄せ、自分の描いた絵をもう一度覗き込む。
「うん、上出来だ」
 顔を上げて、緑が笑った。
 私って、こんな顔してた?
 菜穂は思わず自分の頬に手を当てた。
 もっとこう、私って、俯きがちで、むっとしていて、いつもつまらなそうな顔してなかった?
「このギザギザはね」
 緑は菜穂の戸惑いに気づかず続ける。
「菜穂のあれよ、えーっと、そう、可愛い髪型をね、表している。とっても可愛い」
 二つ結びに入れこんだ、三つ編みのことらしかった。
 緑が絵の少女の髪先から、すっと頬へ指を動かした。
「……そう言えば菜穂、顔の傷すっかり良くなったね。描いてて気が付いたよ。本当に、良かった。僕がいなくなる前に、ちゃんと治った姿が確認できて、本当に、良かったよ」
 ここに傷があっただなんて、もう誰も思い出せやしないよ。
 そう小さな声で呟きながら緑が、頬に当てられた菜穂の右手に、そっと自分の手を重ね合わせた。
 緑の体温が、手の甲にじんわりと伝わってきた。
 もう誰も思い出せやしないよ。
そんな言葉、全然嬉しくなんかなかった。
「菜穂、僕は……菜穂に知ってほしい」
 緑の目が伏し目がちになった。どう自分の気持ちを伝えればよいか、言葉に迷っているようだった。
「その……これは菜穂だ……素敵だろう?」
 さっきまで自信満々に自分の絵を見せてきた緑が、急に恐る恐るといった声音で、訪ねてきた。
「……うん、素敵」
 正直に答える。
 だってそこに描かれている少女は、あまりにも楽しそうに笑っていたから。
「だろ!?」
 緑の表情が、ぱっと明るくなった。
「菜穂だよ、これは。菜穂はこんなに素敵なんだ。菜穂の中にはこんなに素敵な菜穂がいるんだ!」
「緑だからだよ」
 菜穂は堪えきれずに言葉を挟んだ。
 緑が生徒手帳から菜穂へ驚いたように視線を移した。
「私の目の前にいたのが緑だから、私はこんな風に笑えたんだよ?」
 責めるような言い方になってしまった。
 でも、事実だった。
 私は他の人の前じゃ、きっとこんな風に笑えない。
 笑える日がくるとも、思えない……。
 あぁ、駄目だ。久しぶりに自分の中の陰鬱な部分が。止まれ。止まるんだ。
「……そんなことないよ。僕の前でなくたって、菜穂はきっとこんな風に笑える」
 緑は菜穂から目を話すと、腰を浮かしてダンボールに座りなおした。
「菜穂、菜穂は僕がいなくても大丈夫。大丈夫だよ」
「大丈夫じゃ……ないよ!」
 首をぶんぶんと横に振る。
「樹里ちゃんのことだって、解決するところまで自分で何とか出来たじゃないか」
「それはいざとなったら緑が話を聞いてくれるって分かってたから」
「これからは菜穂は、他の人にだって自分の気持ちを言えるだろう?」
「……分からない……そんなの分からないよ」
 一瞬、美和の顔や、斎藤の顔が脳裏に浮かんで消えた。
「大丈夫、菜穂。自分を信じて。未来を信じて。僕を信じて。菜穂の未来を信じる、僕を信じて」
 その未来に、緑はいないのに?
 私が幸せでも、どうしたってその未来に緑はいないのに?
 菜穂は、また胸の奥から熱いものが込み上げてくるのを感じた。
 わがままだ。こんなことを考えるだなんてわがままだ。
 一番つらいのは誰だ。緑でしょう?
 未来の私を幸せにしたかったと言ってくれた、緑の方でしょう?。
 頭と心の両方で、様々な思いが嵐のように入り乱れてはぶつかった。
 それはきっと、緑も同じなはずだ。
 それでも言葉を……。
 私にくれる。
 私の幸せを願って。
 私の未来を、信じているから。
 幸せになれるって、信じてるから。
「幸せって、何だろう……」
 ぽつりと菜穂の口からそんな言葉が漏れた。
 言ってから、自分は何としょうもないことを口にしたのだろうと思った。
「確かに……」
 緑が生真面目そうに眉を顰めた。
「そう言われてみれば、菜穂を幸せにしたいしたいと言いながら、僕は幸せが何かを分かっていなかったな……」
 緑が腕を組み目を瞑る。
 あ、これは……。
 菜穂の頭にある思いが浮かんだ。
 くねり始めるぞ。
 そんな姿が見れるのもあと何回だろう、と菜穂はしかと目を見開いた。
「でも僕は確かに幸せだったな」
 緑がばっちりと丸い目を向けて菜穂を振り向いた。
 菜穂は思わず前のめりになる。膝に置いていた筆箱が零れ落ちそうになり、手で受け止めた。
「ん? どうしたの? 菜穂」
「い、いや、何でもない、良かったな~、と思って」
 あははぁと、菜穂は笑って見せた。
「この幸せはね~、そうだね、何でだろう……うーん……やり残したことはあるけど……でも、精一杯やったなって感じはする。あと、菜穂と会えたし、菜穂に気持ちも言えたし……それになにより、どうやら僕と菜穂は同じくらいの熱量で両想いらしいし?」
 と、緑が菜穂の膝の上から生徒手帳をとり、表紙を広げて中を菜穂に見せた。
 勿論そのカバーそでには、緑の羽が差したままである。
「ちょっ」
 菜穂は急いで緑の手から生徒手帳を取り上げた。
「……ま、まぁ……否定はしないけど」
 納得のいかない表情をしながらも、菜穂はほっと胸を撫で下ろした。
 あぁ良かった。やっと素直になれた。
 心の中でそっと呟いた。これのどこが素直というのか。そんな声が、どこかから聞こえた気がしないでもなかったが。
「やったね、斎藤なんてくそくらえだ!」
 緑が大袈裟にガッツポーズをした。
 緑は間違いなく粘着気質だな。
 菜穂は小さく苦笑いを浮かべた。
 その時、ピカッ、と目の前が白く光った。
「うわっ」
 間を置くことなくゴロゴロゴロ……と不穏な音が響き渡った。
 菜穂と緑はお互いの顔を見合った。
「……じゃあ、いい加減そろそろ帰ろうかな。緑、また明日も来るから。絶対に来るから」
 菜穂は筆箱と生徒手帳をそれぞれのあるべき場所へそそくさとしまうと、そっと切り株から立ち上がった。
 胸がひゅんっとした。
 足元がふわふわとして立っている心地がしなかった。
 苦しかった。帰りたくなかった。離れたくなかった。
「うん……気を付けて帰ってね、菜穂」
 緑の声が、胸を締め付ける。
 あ、やっぱり私は帰るんだ、と菜穂は改めて実感した。
 自分で帰ると言っておきながら、どこかで帰らないという選択肢があるように思っていたのだ。
「じゃ……」
 ダンボールに座る緑の通り過ぎる。緑は今、どんな顔をしているのだろう。振り返っても緑の背中と後頭部しか見えなかった。菜穂たちを囲んでいた木に手をかける。足を一歩、切り株園の外に踏み出そうとする。
ふと思いとどまって立ち止まる。
何かを言い忘れたような気がした。
けれど、何も思い出せなかった。
大丈夫、明日がある。
再び足を踏みだそうとする。
「……待って、菜穂!」
 後ろで、ダンボールがゴソリッと倒れる音がした。
 振り返る。
振り返った瞬間、目の前に緑の肩と首筋が見えた。
緑は勢いよく菜穂を抱きしめた。
「緑!?」
 あまりの勢いに、菜穂は彼ごと後ろに倒れそうになる。
 菜穂は既の所で左足を一歩後ろへ踏み出し、体を支えた。
 緑はかまわず菜穂の肩へ顔をうずめていた。
「菜穂……」
 先程の勢いとは反対に、緑は静かに落ち着いていた。
身動ぎ一つすることなく、ただただ沈黙の中で自分の思いを探しているかのようだった。
 菜穂は待った。
 彼を待った。
「……ありがとう」
 あの日、緑と出会った日から、何も変わることはない。
木漏れ日の匂いが、微かに香った。

「緑、緑!」
 菜穂は叫び、走り出す。
 生い茂る木々の向こう側に、彼の小さな背中が見えたから。
「緑!」
 顔が、腕が、足が、木の枝に掠れる。傷になっているかもしれない。血が流れているかもしれない。でも、そんなこと、どうだってよかった。
 この喜びの前では、私を悲しませることなど決して不可能だ。
地面から不規則に顔を出している木の根に足を取られ、菜穂はバランスを崩しかけた。
「うわぁっ」
 急いで足を回し、はやるエネルギーを逃そうと試みる。
 ゆっくりと地面になだれ込んだ。両手を地面に着いたので大事ない。
 ほっと一息ついたのも束の間、菜穂は飛び跳ねるように両手を上げた。
 が、そこには何もいない。
 てっきりトカゲがまたいるのではないかと菜穂は恐れていたのだ。
 顔を上げて緑を探す。
 相変わらず、彼はダンボールの上にちょこんと座り、菜穂を待っていた。
 菜穂は立ち上がり、足と手に着いた土を払う。土が少し湿っていた。
 昨日降っていた雨のせいだろう。
 菜穂は今度はゆっくりと歩き出す。
 緑の背中がどんどんと近づいてくる。
 最後の木の枝を掻き分ける。
「緑」
 菜穂は穏やかな面持ちで彼の背中に声をかけた。
 緑の耳がその声にピクリと反応する。
 振り返る。
「菜穂……!」
 彼の瞳は透き通っていた。
 そこには溢れんばかりの生命の輝きが宿っていた。
「緑……羽、生えてきたんだね、元気になったんだね……!」
 菜穂の顔には、これ以上ないくらいの笑みが広がる。
 自分は本当に嬉しいとき、こんなにも顔をくちゃくちゃにさせるものなんだな、と意外に思った。それくらい、菜穂の頬の筋肉が、素直に菜穂の心によって盛り上がっていたのである。
 緑の羽は、綺麗に生えそろっていた。
 一枚たりともほつれることはなく、それがまるで一つの世界であるかのように、乱れることなく光を放っていた。
 空は澄み、涼やかな風が吹いていた。
 苔色、藍色、碧色、柳色、若葉色……。
 久しぶりに見た緑の羽の放つその美しい色の数々を、菜穂は心の中で数え上げた。
 サワサワと風が吹く。
 菜穂の二つに結われた髪の毛が揺れる。
 勿論三つ編みも結われている。
 緑が褒めてくれたから。
「菜穂!」
 緑もはちきれんばかりの笑みを浮かべ、ダンボールから立ち上がると、菜穂を抱きしめようと腕を広げた。
「いや、ちょっと、最近緑抱きつき過ぎじゃない?」
 菜穂が緑の胸に手をあて、諫める。
「え?」
 緑が目を丸くする。
「違うよ、抱きついてくるのは大抵菜穂の方だよ。昨日は僕だったけどさっ。ほら、僕はそこら辺気を付けてるから、男の子だからさ」
「へ? そうだっけ?」
 菜穂は思考を巡らせた。
 男の子だから、と言うのは気にしないことにした。
「そうだよっ、菜穂は抱きつきがちっ」
 くくくっと緑は菜穂をからかうように嬉しそうに笑った。
そして、ぎゅっと菜穂を抱きしめた。
「良かったぁ、でも。また会えて」
 緑がほっと息を吐くのが緑の胸から伝わってくる。
「うん……良かった」
 菜穂も緑の背中にそっと手を回す。
「あ、べじたチップス忘れちゃった。ごめん、また明日持ってくるね」
 菜穂がはっと思い出して顔を上げる。
「いいよ、菜穂そんなの」
 緑がおかしそうに肩を揺らして笑った。
「あぁ、でも本当に良かったぁ……」
 緑の胸に頭をうずめる。
「もう駄目かと思った……」
 そのまま静かに瞼を閉じた。
「菜穂……」
 緑がポンポンポンと子供を励ますように菜穂の背中に軽く触れた。
「……菜穂?」
「ん?」
「ありがとうね」
「ううん、こちらこそありがとう」
「……菜穂?」
「……ん?」
「ずっと一緒だよね?」
「……うん、ずっと一緒」
 緑が身動ぎをして、腕の位置をちょうど良い位置へ変えた。
 大きく鼻から息を吸って、深く吐く音が頭の上から聞こえる。
 そして彼は、自身の気持ちを探るように、少しの間、黙り込んだ。
 昨日と同じように。
 菜穂は彼の胸の中で瞳をはっきりと見開いた。
 その瞳が一瞬揺れる。
そしてゆっくりと閉じられた。
 菜穂はこの間に、すべてを悟った。
「……離れてても」
「……うん……うん、離れてても……」
「……菜穂」
「……」
「……菜穂」
「……」
「顔を上げて」
 上げた頬に、ぼたぼたっ、と何かが当たって菜穂の頬をつたった。
 それは菜穂の涙と一緒になって、止まることなく流れていった。
 深い瞳が、濡れた瞳が、菜穂を上から一心に捉えた。
 しわくちゃになった菜穂の顔は、その瞳の中で絶えず揺れた。
「菜穂……!」
 彼の呼吸が、声が、今にもひしゃげて潰れてしまいそうになった。
 それでも彼は、諦めなかった。
「僕は、君をっ……」
 思いが菜穂に流れ込む。
心が壊れてしまう程に。
菜穂は分かった。
 緑は、本当はこのことを私に伝えたかったのだ。

「愛している」





パラパラと、雨がまばらに屋根を打つ音が聞こえた。
 菜穂の意識は、たった今この瞬間に覚めたばかりのはずであるのに、起きたその瞬間から心臓がどくどくと波打っていた。
 呼吸も荒い。深く息を吸って吐こうと試みるが鼓動に急かされ上手くいかない。
 ベッド脇の時計を見る。まだ朝の五時半を回ったところだった。
 カーテンの向こうから、光の気配を感じる。
 片手でそっとカーテンの裾を引くと、どうやら途切れた雲の間から太陽が顔を覗かせているらしかった。
 菜穂は宙に浮いたままの心臓を抱えながら、ベッドに手をつき身体を起こした。
 何気なく視線を正面にあげる。
 その時、ぱっと目に入ってきたのは、机の上の自由帳だった。
 心臓が止まった。
 床を蹴り、飛びつくように壁にかけてあった制服のポケットをまさぐる。
 あった、生徒手帳。
 手が震える。
 表紙をめくる。
「……ない……!」
 階段を転げるように駆け落ちて玄関に向かう。
 靴、靴、私の運動靴。
 菜穂の運動靴はつま先をこちらに向けて置かれていた。
 昨日、半ば放心状態で帰って来たので靴を揃えるのを忘れていたのだ。
 わずらわしい。
 菜穂は体を反転させ、靴に足をねじ込もうとする。
 その時、自分がはだしのままであることに気が付いた。
というより、パジャマ姿のままだった。
 もうっ、と手に持ったままの生徒手帳を宙に振る。
 着替えるか……?
 けれど、ドクドク波打つ鼓動は変わらず菜穂をせかしている。
 菜穂は、迷いを振り切るようにスニーカーに裸足の足を乱暴に押し込むと、そのまま家の扉を開け、外へ飛び出していった。
 雨がパラパラと降っていた。
 頬に当たるそれは、生ぬるいような、冷たいような。
思っていたよりも空を這う雲の量は少なく、お天気雨のようにも思えた。
 しんとした、静寂な朝の空気が辺りを包んでいる。
 まだ新しい、雨に浄化された後の香りがした。
 鳥が頭上で声を上げた。
 カラスの羽音が近くで響いた。
 けれど、菜穂の耳に切り取られたように聞こえてくるのは、胸で繰り返される鼓動の音と、必死に肺と絞められた気道を行き来する呼吸の音だけだった。
 雑木林が、道路を走る菜穂の脇を流れていく。
ふと、黒い羽に青の筋を携えた、丁度手のひらほどの大きさの蝶が、隣を並ぶようにして飛んでいることに気が付いた。ふわふわと優雅に暫く飛ぶと、まるでもう満足したかのように、途切れる雲の空へと風に乗って舞い上がっていった。
 蝶の黒は、緑の黒でもなく、蝶の青は、緑の青でもなかった。
 蝶は緑と違う世界の住人だった。
 這い上がりひりつく自分の呼吸と、舞い上がっていった彼、もしくは彼女のその悠々自適さが、今、菜穂の生きるこの世界の現実を、物語っているように思えた。
 鉄線が途切れているのが見えた。
 私はいつもここから、緑のいるあの場所へと駆けて行ったのだ。
途切れた鉄線の前で、菜穂はいったん、鉄のパイプに身体を任せ、ひぃひぃと悲鳴を上げる肺を落ち着かせた。胸の中が焦げるようで、呼吸を繰り返すこと度にしんどかった。
 足の親指が痛かった。小指だって痛かった。
 靴下ぐらい履いてくればよかったのかな。
 いや、その時間すら、今は惜しい。
 唾を飲み込み、顔を上げる。
 少しの間隠れていた太陽が、再びスッと顔を出したようだ。
 菜穂の正面から雑木林の合間を縫って、白い光が斜めに差した。
 低い角度で指されたそれは、無垢で強い、光だった。
 前にぐっと足を踏み込む。
 いつもと変わらない場所のはずだ。
 太陽の光が、一日の終わりではなく一日の始まりを告げていること以外は。
 何もいつもと変わらないはずだ。
 辺りに漂う空気が、活動の最中、生命の躍動ではなく、始まりの前の静けさと期待をはらんでいること以外は。
 枝を掻き分ける。
 地面に横たわる倒木をまたぐ。
 変わらない。
 いつもと変わらない。
 虫がたまに顔を出す。
 鳥たちが不意に飛び立っていく。
 変わらない。変わってなんかない。
 何も、変わってなんかないはずなのに。
 足に力が入らなくて、緑の元へ、いつものように駆けて行くことが叶わない。
 最後の枝に手をかける。
 見えた。
いつもの切り株が見えた。
あたかもそこに座る為だけに作られたような、小さな可愛らしい、菜穂のお気に入りの切り株。
 ほら、あった。
緑愛用のダンボールも、ちゃんと。
緑に焼きもちを妬かせながらも、斎藤に手伝ってもらってスーパー花丸から運んできたダンボールが、隣に、ちゃんと。
 それはまるで、菜穂の座る切り株に寄り添っているかのように、穏やかに光に佇んでいた。
 それはまるで、しゃんと伸ばされた緑の背中がその上に見えるかのようだった。
 ほらね、いつもと変わらない。
 いつもと何ら、変わることはない。
 けれど、菜穂は気づいてしまった。
 いや、気づかないことなど不可能だった。
 ダンボールの上に、綺麗に折りたたんで置かれた水玉の合羽。
その上に、ちょこんと丁寧に乗せられた、未開封のべじたチップス。
生徒手帳が指をすり抜ける。
あるはずの地を打つ音は、期待外れに吸われていった。


「うお~、あったあった。あー、本当だ、もう駄目だな、こりゃ」
 斎藤が、切り株園に足を踏み入れるとダンボールへと一直線に進み、まじまじとその側面を覗き込みながら言った。
この一週間の間に、幾度もにわか雨や雷雨が街を訪れ去っていった。
雨に打たれ、日に乾かされ、風に攫われ転がされを繰り返し、ダンボールはダンボールらしさを着実に失っていった。定位置に戻した時によろりと切り株にもたれかかるその姿は、さながら真っ白に燃え尽きた孤高の戦士だった。菜穂は、この忠誠を誓うべき主を失った戦士を、これ以上見ていることがいたたまれなくなってきた。おまけに、菜穂がいない間を見計らってカラスがこの戦士にちょっかいを出しているらしかった。彼らはからかいの途中で菜穂の姿を見つけると、急いで飛び去って逃げてしまった。
「そうでしょ? だからもう捨てちゃおうと思って」
 胸の中にある諸々の思いをしまって、菜穂は斎藤にその言葉を返した。
 “捨てる”なんて、何と悲しい言葉なんだろう。
「……そのまま置いといても、別にほっときゃ土に還りそうだけどな」
「え?」
 菜穂は隣に立つ斎藤の顔を振り仰いだ。
 まるで私の心中が分かっているようじゃないか。
 本当は、最後までこのダンボールを見届けたいという、私の気持ちが……。
 斎藤は菜穂が驚いたように見開いた瞳を自分に向けていることに気が付くと、焦ったように言い訳をした。
「冗談だよ、やったとしても相当時間かかるだろ? ちゃんと捨てに行く方が絶対良いって。じゃないと不法投棄かと思われる」
 斎藤は、自分の発言が菜穂に引かれたと勘違いしたようだった。
「あぁ、そっか、そうだよね」
 菜穂はやっぱりそうだよね、と少し残念な気持ちになって肩を落とした。
「わ!」
「ん? 斎藤、どうしたの?」
「わ、わわわわ、わぁ!」
 斎藤が頭の周りで手を振り出し、変なダンスを踊り出した。
「……え、何やってるの?」
 菜穂は目を細めて斎藤をじっと見つめた。
 何だか緑みたいだな、と彼のことを思い出して悲しくなった。
「や、ちがう、虫! 虫が、何か、すっげーくる! 虫が、なにこれ、何の虫ぃ!?」
 小躍りする斎藤をよく見てみると、確かにその周りを数匹の虫が、斎藤に挑むかのように飛び交っていた。
「ちょっ、何で俺の周りにだけ飛んでくんだよ! 雨宮の方にも行けよ! このっ、あーもう、ちくしょう!」
 菜穂は斎藤の叫びにドキンとした。
 そして、何だかとても愉快な気持ちになって、腹を抱えて笑いだした。
「何だよ、何がおかしいんだよっ」
「ごめんごめん」
 菜穂は目尻から流れそうになる涙を指で拭う。
「あー、面白い。悪いけど、ここにいる限り虫は斎藤にしか絶対つかないよ」
 と菜穂は斎藤の周りを飛ぶ虫を手を振って追い払ってやる。
 虫たちはそそくさと退散していった。
「えー、何あれ、あ、分かった。虫よけスプレーしてきたんだろ。せこ、お前せこっ」
 あー、はいはい、そうですね。と菜穂はおざなりに斎藤をあしらった。
「まだ時間に余裕あんだろ、スーパーから新しいダンボール持ってくるか?」
 斎藤がよれたダンボールをたたみ、脇に抱えながら言った。
 それはまるで、緑が連れていかれてしまうような寂しさがあった。
「ううん、大丈夫、もういらないから……ありがとう」
 頭上で葉が揺れ、バササっと音がした。
 鳩たちがこっそり様子を窺っていたみたいだ。
 と、菜穂が顔を上げた瞬間、雨が菜穂の顔を弾いた。
「うわっ」
 通り雨だ。
 斎藤が咄嗟にダンボールを頭の上に持ち上げ、少しかがんで菜穂をその陰にかくまった。
「!?」
菜穂の体がぎょっとこわばる。
頭のすぐ近くで、ボタボタボターっとダンボールに雨が当たる音がした。
 斎藤の胸が、顔が、自分のすぐそばで呼吸を繰り返していた。
 うわっ、斎藤って体温高いんだ、と触れていないのに感じるその温かさに驚いた。
 斎藤って、生きてるんだ。
 そんな突拍子のないことも、考えてみる。
 雨はすぐに降りやんだ。その間十秒だったか、二十秒だったか。取り合えず、菜穂が息を止めていられる範囲内であったことは確かだ。
 変な天気だなあ。
 空の大部分は晴れているのに、時折灰色の大きな雲が、旅するように頭を通る。
「ねぇ、斎藤……今日の夜、晴れるって言ってたよね?」
 不安になり斎藤に聞いてみる。
「ん? あぁ、晴れるって一応言ってたけどな……まぁ、最近天気変わりやすいから……」
 と、斎藤はかがんでいた体を伸ばし、ダンボールに流れる雨水を落とす。
 何なの、普通の顔しやがって。
 菜穂はちょっと悔しくなって、誤魔化すように空をまた見上げた。
ふと、緑がいなくなった時のことを思い出す。
 あの日もこんな風に、晴れているようで、雨が降ったりしたのだった。
「そんな顔すんなよ、大丈夫だって」
 斎藤が、ぽんっと菜穂の頭に手を置いた。
 その振動で、菜穂の体が僅かに揺れた。
 菜穂はまたしても固まっていた。
「え、わ、あれ、ごめん!!」
 斎藤は無意識にやっていたらしく、自分でも驚いたように後ずさった。
「あれ、俺、何やってんだ? 雨宮相手に……あー気持ち悪っ、あー、最悪、手が汚れたわ、ほ、ほらっ、早く行こうぜ」
 斎藤がすたすたと、鬱蒼と立ち並ぶ木の中に向かって歩き始める。
「斎藤」
「あ?」
 彼が面倒くさそうに振り返る。
「反対」
 菜穂は後ろを親指で指した。

「斎藤は星になんてお願いするの?」
 菜穂の家にダンボールを置くと、土手への道中で菜穂は尋ねた。
 斎藤が流星群を見に行こうと誘ってきたのだ。
 願い事ぐらいあるはずだ。
 というか、流星群を見たいなんて斎藤から言い出すなんて、意外だ。
 ロマンチストなのか? でも今回の流星群は十三年に一度の当たり年らしいから、まぁそりゃあ見たくもなるか。
「えー、あー、うん、まー」
 何と言うやる気のない返事だ。
 自分から言い出したくせに。
 菜穂はじろりと斎藤を見上げた。
 まだ日は沈んでおらず、斎藤の顔は茜色に染まっていた。
「そんなんじゃ願い事叶わないよ。気合が足りん!」
「いやいやいや、ある、あるよ!? けど、なんつーかな、人に言うようなことじゃないっつーか……」
「何それやらしー」
 菜穂はニヤニヤと頬をあげた。
「何だよっ、じゃあお前は何なんだよ!」
「私?」
 私はそんなこと、もうとっくに決まっている。
「教えなーいっ」
「うわ……うっわー」
 せけー、と何だか気に食わなそうに彼はぼやいていたが、斎藤だって結局教えてくれなかったのだから同じじゃないか。
「そう言えばさ」
 二人の時間が終わりに近づいている。
 土手の上では美和や樹里、斎藤とつるんでいる男子達とも待ち合わせをしている。
「家のことは……その、大丈夫かよ」
 あぁ、と菜穂は思った。
 お父さんのこと、遠回しに聞いているのかな。
 離婚しているのか、別居中なのか、斎藤が予想しているのはそんなところだろうか。
「うん。実はね、お父さん、今度家に帰ってくることになった」
 菜穂が穏やかな笑みを浮かべて斎藤を見上げた。
「お、まじか……! えっと……それは、雨宮にとって……その、喜ばしいことなの?」
 彼はまたもや遠慮がちに聞いてくる。
 私が話をぼやかして言ってしまったせいで、彼に余計な気を遣わせてしまっているなと思った。
「……うん、喜ばしいこと」
 それを聞いて、斎藤が安堵したように頬を緩めた。
 斎藤は本当に優しい奴だね……。
 本当は、少し怖かった。
 お父さんに、これからどう接していけばいいのか。
どう接すれば、お父さんを傷つけないで済むのか。
 私はまた、お父さんを傷つけてしまわないだろうか。
 それでも、帰ってきてくれることが嬉しいのは、本当だった。
 菜穂にとってお父さんはお父さん。
 世界にたった一人の、大事なお父さんなのだ。
「何かあったらさ」
 菜穂のその声に斎藤の顔がキリッと引き締まった。
「斎藤に相談させてよ」
 ニコッと笑う。
 斎藤が不意打ちされたように「え」と身じろいだ。
「やっぱ男のことは男に聞いた方が良いよねっ」
 ちょっとした照れ隠しを添えて、菜穂は大きく伸びをした。
 そのまま土手に沿う道へ向かって二人で右に曲がる。
「あ!」
 菜穂は目を見開いた。
「斎藤、斎藤! 虹! 虹だよ!?」
 斎藤は隣に並んでいるというのに、菜穂はほとんど叫んでいた。
 待ち合わせの地点までは、太陽を背にして土手に沿って歩いていくだけだった。
その前方に、大きな虹が、途切れることのない半円を描いて太陽に向かって佇んでいた。
「うわーっ、すげー……」
 斎藤も口をぽかんと開けている。
 辺りを歩く人も、その存在に気が付いているようで、所々で指をさしては、嬉しそうに笑っているのだった。
「……死んだ俺のばあちゃんが」
 虹に瞳を預けたまま、斎藤がおもむろに口を開いた。
「虹は龍神様の知らせだって」
「は?」
 菜穂の喉から太い声が付いて出た。
 りゅうじん? いきなり何ファンシーなことをしゃべりだすのだ。
「だから俺のばあちゃんが言ってたんだって!」
 斎藤が一瞬声を荒げた。自分でも言っていて恥ずかしかったらしい。
「……お前は今まで様々な困難を乗り越えたから、私が褒美をつかわそうって……」
「ふーん、それは嬉しい」
 褒美って言っても、何を貰えるのか分からないけれど。
 貰えるものは、貰っておきたい。
「で、褒美って何?」
 菜穂が話しに乗ってきたことが嬉しかったのか、斎藤は、ふふんっと嬉しそうに含み笑いをした。
「明るい未来」
 おぉっ、と菜穂が口を開いた。
 それは何と、たいそうな褒美だ。
 たまたま虹を見かけただけなのに。
「ほら、虹ってさ、雨が降った後にしか見られないだろう? だからさ、止まない雨はないっ、的な感じでさ、辛いことの後には、虹が見れてラッキー! みたいな、良いことがちゃんとあるから信じろっ、ってことを俺に伝えたかったんだと思うんだよね、おれのばあちゃんは」
 斎藤が指をポキポキと鳴らしながら解説する。
 あまりにもテンポよく鳴らしていくので、大丈夫なのかなと心配になる。
「ちょうど俺がばあちゃんの膝の上で泣いてる時に虹が見えたからさ。あっ、小さい頃の話だぞ!? 俺がまだ小学……。まぁ、そんで、ばあちゃんはとにかく俺を励ましたかったんだよ。それでちょうど良く虹が現れたからさ。良い突破口を見つけたと思ってその話をしてくれたんだと思う。けど、俺はその話を聞いて、そんな子供だましに騙されるもんかって思ったわけ。当時の斎藤少年は、今よりもっとひねくれてて、人生に対して半ばなげやりでもありましたからね。んで、俺は、自分を元気づけようとしてくれたばあちゃんに向かって、『嘘つくなっ。龍神様なんているわけない! 明るい未来なんてあるわけない!』って、ぷんすか怒りながらばあちゃんの膝を叩いたわけですよ」
「なんか、可愛いね」
 菜穂は微笑んだ。
「や、可愛くねーよ、まぁまぁ力強かったから」
 斎藤が真面目な顔をして菜穂を見下ろした。
「ばあちゃん、怒って俺を突き飛ばしやがった」
「え」
悲劇である。
「俺が床に倒れ込むと、『嘘じゃないやい!』って鬼の形相でばあちゃんは俺を睨んだ。一瞬俺はそのあまりの迫力に怯んだんだけど、命の危険を感じたからか、急に闘う勇気が湧いてきたんだ。『じゃあショーコをみせろよ! ショーコを! この……くそばばあ!』気が付いたら、俺はばあちゃんに向かって突進し始めていた」
「ちょっと、おばあちゃんなのに……」
「ばあちゃんは軽々と俺をかわして、言った」
 あら、おばあちゃんったらお強いのね。
「『虹って漢字を知ってるかあ!?』 床に両手をつき膝まづく俺の背後に、ばあちゃんの足音が近づいてきた」
 え、何、何この展開。
 菜穂は固唾をのんで斎藤の次の言葉を待った。
「『知らねぇ、そんな漢字、学校で習ってねえ!』俺は振り返り、ばあちゃんを睨みつけた」
 そう言えば、虹って漢字、小学校で習ったっけ?
 ふと疑問に思う。
 斎藤は、菜穂のそんな思考の寄り道に気づくことも無く話を続ける。
「『虹ってのはなぁ、虫に大工のクって書いて虹って読むんだ!』ばあちゃんは言った。俺は答えた。『大工のクってどう書くんだ!』」
 ぷっ。菜穂は思わず噴き出した。
 それに気がつき斎藤が渋面を作ってみせる。が、すぐにその瞳は和らぎ、少し嬉しそうにも見えた。
「……『工事のコウだよ!』ばあちゃんは言った。『分かった、それがどうしたんだよ!』俺は聞いた。するとばあちゃんは、白い靴下を履いたまま縁側から庭に飛び降りた。俺は、ばあちゃんの白い靴下が汚れてしまう、と、なぜかひどく心配になった。けれどばあちゃんはそんなことを気にするでもなく、地面の上を歩き回り、すぐ傍に小石が転がっていたことに気が付くと、それをさっと拾いあげた。尻を突き上げ頭を下げると、ばあちゃんは土の上に大きく、“虹”という文字を書き始めた。俺はそれが“虹”だと分かった瞬間、どうせ書くなら回りくどい説明をしないで最初から書いて説明してくれれば良かったのに、と内心思ったが、縁側で四つん這いになったまま、口を紡いでその様子を見守っていた。書き終えるとばあちゃんは言った。『いいかい、この“虫”という字は巨大な蛇、つまり大蛇を表している。そしてこっちの“工”という字は道。これは、大蛇が地上から天空に昇って行くときにできた通り道のことを指す。ほら、この上の横棒が天、下の棒が地上、そしてそれを繋ぐ縦の線が、その二つをしっかりと繋いでいるだろう? ……天に昇ると大蛇は龍と化す。つまり虹はね、天と地、そして龍、そうだ、龍神様の住む天界と、私たちの住む地上を繋ぐ架け橋であり、龍神様がお姿を現した“ショーコ”でもあるんだよ』」
 そこまで言うと、斎藤はちらりとこちらに視線を向け、はにかんだように笑った。
「そう言ってばあちゃんは流石に疲れたみたいで、よっこらせっ、て、満足そうに縁側にいる俺の隣に腰掛けたんだ。俺は、やりきったようなその横顔を見て、その話が明るい未来が来ることの何の証拠になるんだと少しだけ思ったけど、でも、虹という漢字の成り立ちは面白かったし、何だか遠い昔に、本当に龍がいたんじゃないかな、と思えてきて……ほら、それに、天と地を道があの大きな虹だなんて、ロマンがあるだろ? だから、まぁ、もういっかって」
「明るい未来の証拠はもう必要なくなってたんだ」
 菜穂は聞いた。
「あぁ。正直、その時はどうでも良くなってた」
 薄くなっていく虹を、二人は黄昏るように見守っていた。
「でも、今になって思うんだ」
「え?」
 菜穂は斎藤の横顔を見上げる。
「あの時の俺にとって、今の俺は、明るい未来だ」
 斎藤の視線は、遠くの虹にじっと向けられていた。
 まるで、あの時の自分と今の自分をそっと重ねて、消えゆく虹をともに眺めているかのようだった。
「俺は、こんな風になれるなんて、思ってもなかった。今も兄貴とは色々あるけど、自分は自分だって、兄貴がいくら俺を否定しようと、俺の価値が変わることはないんだって、俺の価値は決して変わらないって、今はちゃんと、思えてる。……てかむしろ、兄貴に対する反発を力に変えらている。こんな未来、あの時の俺には想像なんて出来なかった……」
「斎藤……」
 今の斎藤は、もう緑の見た、あの頃の斎藤ではない。
 彼は乗り越えた。
そして、強さを得た。
困難を乗り越えることでしか得られない強さを。
この強さは、きっとこれからの斎藤の人生を輝かせる。
周りの人をも照らしながら。
「斎藤がそんな風になれたきっかけは何だったの?」
 菜穂は斎藤の背中に尋ねかける。
「え?」
 彼が眉を上げて振り返った。本人は気が付いてないだろうけど、相変わらず素っ頓狂な顔だな。
「だから言っただろ? 虹だって」
「……うん?」
「だから、虹を見てから気持ちの持ちようが変わったの」
 斎藤は、すねる女子のように唇を尖らせた。
「虹見てばあちゃんと闘って漢字の話を聞いたら、なんか、証拠なんかなくても未来を信じられるようになったの!」
「え、あぁ……、ええ? まぁ、そっか……」
 納得のいくような、いかないような。
 小さい子供だから、そんなものか? 大切な誰かの励まし一つで、劇的に人生が変わっていく。……うん、そうかもしれない。
 菜穂が上へ下へと一人視線を泳がせていると、
「あぁ」
 言い忘れてた。と、斎藤が屈託のない笑顔を浮かべた。
「ばあちゃんがその後言ってくれたんだった」
「え、何?」
 やっぱり! と、菜穂が食い入るように斎藤を見つめた。
「『いつだって、ばあちゃんは輝人の未来を信じてるよ』、って」
 あれ、その言葉は……。
「……俺、だから、兄貴にボコボコにされても、それを見て家族が助けてくれなくても、ぜってー一人なんかじゃねーんだ。ばあちゃんがいなくても、ばあちゃんが信じてくれた俺の未来はここにある」
 珍しく、斎藤は穏やかな声音でそう言った。
「うん……」
 斎藤のその静けさに刺激され、
 菜穂の胸に、様々な色が蘇っては消えた。
 それは切なくて、嬉しくて、悲しくて、怒っていて、
 人懐っこくて、優しくて、荒々しくて、寂しそうで。
 そしてやっぱり、愛おしかった。
 虹が旅立つように、消えていく。
「樹里たち、虹、見れたかなぁ……」
「土手に来てたら見てただろ」
 斎藤は、額に手をかざして、待ち合わせの公園前の土手上を見上げていた。
「上にあがんねぇと分かんねえな」
 斎藤は、すぐ横にあった灰色の土手階段を上りだす。
 ひょいひょいっと二段飛ばしに上るものだから、菜穂との距離はすぐに開けてしまった。
 階段を上がる時だけ、何でこんなに早足に斎藤はなるわけ。
「ちょっと!」
彼の背中を追いかける。
彼は一瞬立ち止まると、嬉しそうに菜穂を見下ろし、再び土手を駆け上がっていった。
 あー、もういいや、好きにして。
 ため息をつく。ゆっくりいこう。
 一人になると、風が吹いた。
 サワサワと周りで揺れる草が、雨上がりの渋い匂いを菜穂の鼻に運んできた。
 ……緑。
なんとなく、その名を胸の内で呟いてみた。
 緑。緑。緑……。
 斎藤とは反対に、菜穂はゆっくりと、一段一段着実にその階段を上っていく。
 緑は虹を見たことがあったのだろうか。見たとしたら、何を思ったのだろうか。
 もし今ここに緑がいたら、緑はいったいどんな言葉を私にかけてくれたのだろうか。
 流れ星を一緒に見たら、緑はどんな表情を浮かべて、どんな言葉を上げて喜んだだろうか。
 こんなこと考えるなんておかしい? こんなことなんて考えてたら未来に進めない?
 いいや、そんなことないよ。
 緑のくれた眼差し。
 緑のくれた微笑み。
 緑のくれた愛情。
 緑のくれた言葉。
 緑がくるりと振り返る。
「お、いた! おーい! 田所ー!」
 斎藤が大きく手を振り上げる。
「あ、お前、斎藤! 何雨宮さんと二人で……!」
 斎藤に呼ばれた長身のバスケ少年、田所が叫んだ。
「あー! 菜穂! こっちこっちー!」
 樹里がのっぽの田所をたやすく押しのけ、飛び跳ねながら菜穂に手を振る。
「痛いっ、足立さん、痛いっ」
 田所が長い手足をしならせ、しおらしく土手道に崩れおちた。
「あ? 何だ、あの二人? 仲良くなったのか?」
 斎藤が呆けた声を出した。
 田所の後ろでは、美和がおろおろと心配そうに腰を屈めていた。
「ふふっ、そうだね、良い感じだねっ」
「え、何が……」
 菜穂は斎藤を横目に思いっきり駆けだした。
 足元で運動靴が唸るのが聞こえた。
 空が、景色が流れていく。
 後ろで「おい!」と斎藤の呼ぶ声がした。
「せこいぞ!」
 何がせこいんだか。
 菜穂は笑う。
 心が弾む。抑えきれない。
 弾むから走るのか、走るから弾んだのか。
 太陽が一瞬の閃光を世界に残し、地平線へと沈んでいった。
夜が始まり、雲が流れる。
今はそんなこと、おかまいなしだ。
空がどんどん、開かれていく。
星が輝きを、解き放っていく。
 緑がくれた、私の未来。
 緑の信じる、私の未来。
 菜穂は信じた。
 信じて進む。
 私はもう、一人なんかじゃない。
 前にも後ろにも、仲間がいるじゃない。
 星が一つ、長い尾を引いた。
 樹里たちが口に手をあて、大きく目を見開くのが見えた。
 まるで堰が切れたかのように、菜穂の後ろからいくつもの星が流れ出していく。
菜穂はただただ、あほみたいに笑って走る。
―ねぇ、緑!
皆もあほみたいに空を見上げる。
 いつかまた、どこかで会おう。
 その時はきっと、私も明るい未来を生きてる!
 斎藤が菜穂を追い抜かす。
振り向いて得意げに舌を出した彼は、バランスを崩して宙に舞った。




---完---☆彡
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