迷想画廊 肖像画編

マサキ エム

文字の大きさ
上 下
5 / 29

三 支え

しおりを挟む
 画室高梨がしつたかなしは、高梨英介たかなしえいすけが在宅の際はあまり、玄関を施錠していない。
 けい小出こいでも、自分の通う曜日は呼び鈴を鳴らさずに入室し、鍵をかける。

 そっと入室すると、英介は居間のソファで仮眠を取っていた。
 啓が来たら起きるつもりでいるのはわかるが、よく眠っているので起こすのも忍びない。

 洋風建築の一階は画室と水回り、二階は英介の寝室と書斎に分かれている。
 大きな絵を描く都合もあり、英介の画室は吹き抜けになっている。大きな窓から自然光が入り、雨天でも昼間はかなり明るい。
 啓たちが使う教室部分とは、柱と棚で仕切られている。玄関とは別に搬出用の扉もあり、土足で入れる。
 玄関で靴を脱ぎ、階段三段分ほど上がったところから板張りになり、左手は腰の高さの低い壁で仕切られた居間と台所。右手に二階への階段。
 正面の扉を開けると、奥の手洗いと浴室に廊下がのびている。住居部分は画室に比べると落ち着いた色の照明だ。
 居間には窓側にソファ、台所側には広い食卓がある。

 富裕層ではあるが、英介は料理が好きなのもあり、身の回りのことは全て自分でやっている。
 啓と恋人になってからは週に何度か、夕食を振る舞ってくれるようになった。先の事件で啓と共通の知り合いが増えたので、集まる機会も増えた。

 出会って七年。啓は二十歳、英介は二十六歳だ。あの頃より大人の男になった英介も、寝顔にはまだ十代の頃の面影が見える。
 叔父の北原とは特に似ていない。体型も顔の造りも均整が取れていて、清潔感がある。絵を描いている時以外は優しげな印象だ。近くのソファに座ってしばらく眺めていると、啓の気配に気付いたのか、英介はもそもそと動き始めた。
 床に半分落ちた毛布をかけ直そうと立ち上がったところで、吐息とともに薄く目が開く。
坂上さかじょう――今、何時だ?」
 二人の時は啓と呼んでくれるようになっても、教室では坂上、坂上くんと呼ぶ方が多い。啓も、指導される間は先生と呼ぶ方が自然で楽だ。
「まだ来たばかりなので、四時台です」
「あぁ……よく寝たな。もう、日が暮れるのが早い」
 ゆっくり起き上がり、髪を整える。
 清潔感はあるが、顔はまだ眠そうだ。
「徹夜ですか」
「気付いたら夜が明けてて――夜に寝そびれた。風呂には入ったよ。君が来るまで寝ようと思って」
 カーディガンを羽織り、立ち上がる。
「新作、できたんですか」
「まだ修正はするけど、一応ね」
「見てもいいですか」
「もちろん。感想を聞かせて。紅茶でいいか?」
「はい。ありがとうございます」
 啓は眼帯を着けて画室に降り、英介は大きなあくびをしながら台所に向かった。


 英介の新作は、夕焼けの絵だ。
 正確には、夕焼けに照らされている少年の絵。見晴らしの良い高台の突端で、ぼんやりと夕焼けを眺める少年を横から見ている。
 いつもながら、空の色や空気感が美しい色彩で描かれている。空気や風の流れを思わせる細かい筆致が絶妙で、身近な風景でありつつ、幻想的な魅力がある。
 三十号の絵に近寄ったり離れたりしながら見ていると、「お湯が沸くまでもう少しかかる」と、英介が隣に立った。
「綺麗ですね。細かい葉や髪の動きと、光の反射で、風の通り道がよくわかる。夕焼け自体は描かれていないのに、どんな景色が見えているのかが想像できて――」
 あの事件の解決が見え、和美と帰り道を歩いていた時の夕日が、ちょうどこんな色だった。
 気になるところに技術的な質問をし終えたところで、英介と目が合う。
「眼帯を取って見ても同じ?」
「……見てみます」
 右目が反応するのは主に、現実の生き物だ。外を歩く時は意外と不便は無いのだが、作品を鑑賞する際は余計なものが見えると邪魔になる。それでも最近は、自分に関係の強い写真や絵画に少しだけ、光や色が足されて見えることがある。
 英介は、物理化学に関心が強い。絵にもその知識は役立つし、料理もその延長らしい。啓の右目のことも疑ったり笑うことなく、霊的な事象を否定することもなく、事実として受け入れてくれる。
 眼帯を取って再度、絵に向かう。
「――あ」
 ここに描かれている少年は、啓だろう。夕日が映り込む眼球の表面から、彼の頭の中に、啓が感知する光の像が広がっているように見える。
 英介が度々、啓を描いているのは知っている。それは現実にあった場面ではないことが多いが、現実の啓に近い像だからそう見えるのだろうか。
「どんな感じ?」
「この辺りに、僕がいつも見るような光が見える気がする」
 少年の頭の辺りを示して見せると、英介はちょっと嬉しそうに驚いた。
「それ、僕が隣の部屋に行っても見える?」
「え?」
「君、自分と側にいる誰かの思念みたいなものが、混ざることがあるって言ってたろ。髪を塗る前に一旦、そういう光景を描いたから――透視じゃなければ、多分それは、僕の思念の可能性が高いね。ん……お湯が沸いたな。ゆっくり来て」
 薬缶の鳴る音が微かに聞こえ、英介は台所に向かう。
 ――確かに、英介が去ったら、さっきまで見えていたほどの鮮やかな色は見えない。
「おぉ……」
 和美も似たようなことを試そうとはしていたが、具体的な分析の答えが出るのはいつも、この画室で英介といる時だ。
 少年の頃は、啓の絵はもっと混沌としていた。それもそれでいい味だったと言えただろうが、その混乱は啓自身には負担だった。英介の分析で整理されたことで、絵にしやすくなった。
 師弟関係になってすぐ、啓に見えている景色を説明させた。それを聞き取りながら、大きな紙に再現して見せたのは圧巻だった。英介自身もその体験で自分の表現力が上がったと言うが、啓よりも啓の視界を上手く再現できるはずだ。
 英介の観察力や記憶力は、啓に対してだけ発揮されるわけではない。過去に一度だけ呟いたようなことでも、細かく覚えている。北原は執着や独占欲だとからかっているようだが、啓にはありがたい。
 小出の指導でも似たような構想のすり合わせはしているから、彼の才能の一つなのだろう。

「英介さんの言った通り、離れたら薄まりました。やっぱり、相互作用で見えるものなんですね」
「面白いな。他の人が君を描いても、そうなるのかもしれないね」
「そんな物好き、和美と英介さんぐらいだ」
「ライバルが少なくて助かる。さ、どうぞ召し上がれ」
 おどけるようにティーカップを置いて、向かい合って食卓につく。
「いただきます」
「学内展は、どうだった?」
 香りの良い紅茶と、焼き菓子を味わいながら、言葉を探す。
「やっぱり、他の科の方が気軽に見られるかな……和美の絵もいつもと違ったけど良かったし、小出の絵は完成度が高かったです。どうしても自分の弱点が気になって」
「どんなこと?弱点がわかってるなら、意識できる」
「絵を見てどう感じてほしいかとか、そういう気持ちの込め方かな。意識しても直るかどうか」
 後ろ向きでもそれは、正直な気持ちだ。
「そこは私の出番だな。見る人はそれぞれ感じ方も違うし、君の描きたいものはその通り描けてはいると思うけど――演出の仕方は色々あるだろうね。他の学生の絵も見ながら、ゆっくり話そう」
「お願いします。さっきの話で、つかめそうな感じはしました。お祖父さまもたまに、ああいう実験みたいなことをしてくれた。主に、安全に生活するための分析だったけど」
「ああ、ここで預かる時にも話してくれたよ。仕組みは理解できそうだけど、自分の想像力が及ばないから、形にしてやって欲しいと頼まれた。もちろん、君がそれを望んでいたのが前提でね」
「そっか……」
 祖父はあまり世話を焼いてこないが、啓を思ってくれているのはわかる。両親も啓を愛していないわけではない。理解が及ばないのが負担だったのだろう。展覧会にはちゃんと来てくれているし、以前より啓に対しての戸惑いは少なくなった。
 家族とはいえ、僕には今の距離感がちょうどいい。
標文すえふみ先生も同じ日にも来るんだよね。楽しみだ」
 英介は啓の祖父に書道を習っていた時期があったらしい。
 啓がまだ両親と暮らしていた頃だから、当時の様子は知らないが、英介が祖父を慕っているのはわかる。
「次に描くものは決まった?」
「すぐには特にないので――課題が欲しいです」
「わかった。できれば叔父にもきいてみたらいい。あの人が見たがるものは難しいけど」
 新人の育成にも熱心な北原は、英介の絵だけでなく、啓の絵も画廊に置いてくれている。彼は技術の熟練度より個性や趣向に寄って助言してくれるだろう。
「そういえば、時間がある日に画廊に寄るように言われました。売り買いの話ではなさそうでしたね」
 画材を買いに行った時、北原は不在で、愛子から伝言された。
「のろけじゃないか?あの人、すっかり無流さんに夢中だろ。私も無流さんは好きだし、叔父の好みそのものって感じの人だから、気持ちはわかるけどね。愛子も楽しそうで何よりだ」
 北原と英介は仲が良い。啓にも絵画指導の際は厳しい面があるが、北原にはもっと率直で、遠慮のないやり取りをしている。愛子と英介も同様だ。
「僕も無流さんは好きです。羨ましいな」
「……二人が?」
「支え合ってる感じがして――僕は、英介さんを全然、支えられないから」
 家族とも縁が薄く、友達も少ない。啓は支えてもらうばかりで、自分が誰かを支えることには不慣れだ。
「成長して、いくら世慣れしたところで、誰にでも不得意なことはあるし、知らない方が幸せなことだってある。狭く思える世界でも深く知れば、多くを得られるよ。君が健やかでいることが、僕の心の支えになってる。君や小出くんを指導することで、自分の力を確かめられることも多いし、刺激にも癒しにもなってる。何より、君に見せたくて描いてるようなものだし」
「だと、いいですけど」
「支えたいと思ってくれるだけで充分だ」
 食卓の上に置いていた啓の手に、英介の手が優しく包むように重ねられた。
しおりを挟む
感想 2

あなたにおすすめの小説

騙されて快楽地獄

てけてとん
BL
友人におすすめされたマッサージ店で快楽地獄に落とされる話です。長すぎたので2話に分けています。

美しき父親の誘惑に、今宵も息子は抗えない

すいかちゃん
BL
大学生の数馬には、人には言えない秘密があった。それは、実の父親から身体の関係を強いられている事だ。次第に心まで父親に取り込まれそうになった数馬は、彼女を作り父親との関係にピリオドを打とうとする。だが、父の誘惑は止まる事はなかった。 実の親子による禁断の関係です。

壁乳

リリーブルー
BL
俺は後輩に「壁乳」に行こうと誘われた。 (作者の挿絵付きです。)

BL団地妻-恥じらい新妻、絶頂淫具の罠-

おととななな
BL
タイトル通りです。 楽しんでいただけたら幸いです。

アルバイトで実験台

夏向りん
BL
給料いいバイトあるよ、と教えてもらったバイト先は大人用玩具実験台だった! ローター、オナホ、フェラ、玩具責め、放置、等々の要素有り

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

吊るされた少年は惨めな絶頂を繰り返す

五月雨時雨
BL
ブログに掲載した短編です。

隣の親父

むちむちボディ
BL
隣に住んでいる中年親父との出来事です。

処理中です...