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私の人生

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「あ、あの、もし良ければ私がハナコを相澤さんの家に連れて行きます」
 私がそう言うと、相澤さんは恐縮したように、片手で頭上の枝を掴んだ姿勢のまま空いている方の手を振った。
「いえ、改めて僕がそちらへ伺います。お気遣いいただいて申し訳ありません」

「いいえ、大丈夫です。ちょうどお宅へ伺おうと思っていたんです。お爺様にお礼をお伝えしたくて」
 自分でもちょっと驚くくらい強引な言い方だったかもしれない。
 彼は少し戸惑ったような表情を浮かべた。しかしそれは一瞬のことで、すぐに柔らかく微笑む。
「そういうことでしたら、お言葉に甘えてもいいですか。お待ちしています」

 彼は立っていた足元の枝に手をかけてぶら下がると、身軽にひょいと飛び降りて着地した。
 こちらを見上げて目を細めて微笑み、バイバイというように手を振っている。
 クールな見た目にそぐわない子供っぽい仕草がなんとも可愛くて、つられて微笑んでしまった。

 その姿をもう少し見ていたくなったが、足元でハナコが「にゃー」と鳴くので抱き上げて、彼に手を振ってから部屋に入る。
「おうちに連れて行ってあげるからね」
 そう言うとハナコは嬉しそうに「にゃあ」と鳴いた。
 ハナコには幸せな家があって羨ましい。

 「隣の桜が大きくて邪魔だ」と継母はいつも小言を言っていたけれど、ハナコが登ってきた桜の木は私の大切な思い出の木。
 小学校の入学式の日、父と母と、相澤のお爺様も一緒にあの桜の木の下で写真を撮った。
 その数日後、母が交通事故でこの世からいなくなるなんて、あの時は知らない。母との最後の幸せな記憶。

 母が亡くなってしばらくすると、顔も知らなかった親戚が「娘さんには母親が必要だ」と言い出した。私は欲しいなんて一言も言っていないのに。
 自分自身の心も酷く弱っていた父は、「花には寂しい思いをさせたくない」と言って勧められるままに再婚した。
 新しい母と、血のつながりのない妹が同時にできたのは、私が小学2年生に上がる時。

 桜の木が大きくなってうちの敷地に入るようになると、継母が苦情を言ったようだ。木を切る話をお爺様から聞いたときは大泣きして、「切らないで」とお願いしたのを覚えている。
 桜を守ってと父にも訴え、お爺様を説得してもらった。「花のわがままを初めて聞いた」と父は困ったような表情をして、でも何故か嬉しそうな声で言っていたっけ。

 玄関でブーツを履いていると、後ろから声をかけられた。
「花さん、日取りが決まりました。お見合いは月末の土曜日になったから、準備をしておくように」
 今日初めて継母から話しかけられた。まだ「卒業おめでとう」の言葉は聞いていない。
「服装は、和装だとお金もかかるから、ワンピースかしらね。麗羅の服を借りてもいいんじゃないかしら」

 ブーツを履く手を止めて、声のした方を見上げる。
 花を見下ろすその目は、細く吊り上がっているのを隠すように厚い化粧で塗りたくられていた。

 ――この人は、また私の人生を変えようとするのか。
 父と同じ道を行きたくてずっと医学部を目指していた。父が院長を務めていた病院は、この地域の医療を支える重要な役割を担っていて、私も力になりたかったから。
 中学の時から、そして高校生になっても、周りの友達がおしゃれや恋愛に夢中になっている時間を、私は勉強に費やした。

 医者の不養生とはよく言ったもので、私が高校三年生の時、自分の事をいつも後回しにしていた父に癌が発見される。その時にはもう手の施しようがなかった。
 父が亡くなると、「お金がかかるから」という理由で継母は医学部受験を反対し、高校の附属の大学を奨学生枠で受験させた。
 私が入学したのは文学部。

 良い成績を取って学費免除の奨学生枠を維持する必要もあったし、医者になれないならせめて事務の方面から病院を支えられる職員になりたいと思い、大学ではなるべく遅くまで図書館に籠って勉強した。
 そのうえ学費以外のお金も出せないと継母に宣言されてしまったので、昼食代や定期代を稼ぐために少しでも時間があれば家庭教師のバイトを入れていたから、遊ぶ時間なんて無い。
 もちろん男性と付き合った経験も……ない。

 念願が叶って父の病院に就職が決まった時は、本当に嬉しかった。
 働いてお金が貯まったら家を出て一人暮らしをしよう、友達と遊んで、素敵な恋愛もしよう、なんてことも考えてあの頃は希望にあふれていたと思う。

 ところが先日、現院長と継母に呼び出されて、どん底に落とされた。
 父が亡くなってからは継母が病院経営に口を出すようになり、この数年で少しずつ少しずつ毒が回るように病院の経営状況は悪化していったらしい。
 それはもう、父の癌の時と同じく手の施しようがないくらいに。

 このままでは、まず人員削減、設備縮小、病床数削減は免れない。
 そうしたら今まで父と共に働いてきてくれた人はどうなるのか、それにこの規模と医療設備を持つ病院は遠方にしかないから、転院するにしても患者さんの負担は相当なものだ。
 人の命を預かっているのだから、医療機器だって安かろう悪かろうのものに変えるわけにはいかない。
 そんな考えが頭の中をぐるぐる巡り、気分が悪くなった。

 「でも大丈夫、良い話があるのよ」と継母が口を開く。
 継母の知り合いで、条件によっては病院に援助してくれる人がいるという。
 その人は西園寺大介48才、バツイチ。援助の条件は、私との結婚。

 写真を見せられて、思い出した。
 大学3年生の頃だったか、一度だけ、家で会ったことがある。
 小太りで、小刻みに足を揺らしている人だった。
 そしてお茶を出した私のお尻をぺろりと撫でた。睨んだら素知らぬふりをしていたけれど、確かに撫でた。
 気持ち悪い感触にゾワリと鳥肌が立ったのを覚えている。
 
 外聞もあるから、お見合い結婚という体裁にすると継母は言う。
 どうだお前にとっても良い話だろう、といった感じにふんぞり返っている継母の横で、現院長の吉岡さんは本当に辛そうな顔をしていた。こちらの方が申し訳ない気持ちになるくらいに。
 吉岡さんは少しお人好しすぎるくらいに優しい人だし、副院長の頃から父の事を尊敬して慕っていたから、その妻である継母のことを無下にできなかったのだろう。

 結婚を断れば、病院は今のままではいられない。
 私の内定だって取り消され、病院が崩壊していくのを外から眺めることしかできなくなってしまうだろう。
 ――私に選択権はなかった。
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