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ぃ、言えません……
しおりを挟む――あれ?
気がついたら、ひとりでベッドに寝ていた。
ひとまずメガネを探そう。
――あ、あったあった。
ベッドのサイドテーブルに置いてあった銀縁メガネを手にしてかけると、視界がはっきりした。
ガチャ、とドアが開く音がしたので、そちらへ視線を向ける。
寝室の扉を開けて、入ってきたのはベルダー様だった。
昨晩の記憶と同じように、ボタンを使わず頭から被って着るタイプのシャツにゆったりとしたズボン姿という家で寛ぐ時にしか着ない服装。
でも、色は記憶と少し違うような気がするから、着替えたのかもしれない。
リラックスした格好も、研究所でお会いする時と違って束ねられていない髪も、普通の人がしたらなんてことない格好なのに。
ベルダー様だと何故か神々しいまでに美しい。
手を合わせて拝みたい気分。
「おはようございます、サクラ」
ベルダー様が優しく私に微笑んでくれた。
カーテンが閉まっているから時間がいまいち分からなかったけれど、おそらく朝なのですね。
「おはようございます、ベルダー様」
「昨日サクラの着ていた服が、ちょうど乾いたところです」
寝室へ入ってきたベルダー様が持っているのは、綺麗に畳まれた私の服。
「ぁ、ありがとうございます」
「雨で泥水が撥ねている所もあったので、一式洗濯させていただきました。勝手に洗ってしまって申し訳ありません」
そういえば研究所を出る前に、シーツは通いの使用人が交換しているって、ベルダー様がおっしゃっていたっけ。
「もう通いの使用人の方がいらしていたのですね。もし差し支えなければ、その方に洗濯をしていただいたお礼を申し上げたいのですが」
「いえ、今日は来ていません。休みの日はひとりでゆっくり過ごしたいので、使用人は呼んでいないんです」
使用人の方を、呼んでいない……。
「ぇ、それじゃ洗濯はいったい誰が……」
「洗濯ぐらいなら、私もできます」
そういわれて思い出した。
私がこちらの世界へ来て初めての仕事が、洗濯のための魔導具を改良する作業の手伝いだったことを。
最初に発明したのも、ベルダー様だったと誰かが言っていた。
「洗濯のための魔導具を開発したの、ベルダー様ですものね」
「魔導具を使わない洗濯だってできますよ、ひとりで暮らしているのですから。手洗いしかできない物もあるでしょう?」
「ぇ、そうなのですか、すごいですね」
貴族の人は、自分で洗濯なんて絶対にしないのかと思っていた。
ベルダー様から私の洋服一式を受け取る。
受け取った瞬間、ピタッと時が止まったように一瞬だけ動けなくなってしまった。
そういえば私の下着、レースが使われているから魔導具では洗えなくて『手洗い』しかできないはず……。
誰がどのように洗ったのか疑問が湧いたけれど、その疑問には蓋をした。
「き、着替えるのに、脱衣所をお借りしてもいいですか」
「自由に使っていただいて大丈夫です。着替えが終わったら寝室の隣の部屋へ来てください。食事を用意しておきますから」
「寝室の隣が食堂になっているのですか?」
「いえ、私の部屋です」
思わず目を見開いてしまった。
「ぇ、ベルダー様のお部屋に私が入ってしまってよいのですか」
「かまいませんよ。私はもう食事を済ませてしまったのですが、サクラが食べている間、隣で家に届いた手紙の整理をさせてください」
お風呂を済ませてシャツとロングスカートに着替えベルダー様の部屋へ行くと、サンドイッチとスープが用意されていた。
素敵なお庭が見える窓際で、ベルダー様とテーブルを挟んで向かい合って座る。
私が食べている間、ベルダー様は手紙に目を通していた。
「いい天気ですねベルダー様、昨日の雨が嘘のようです」
「……そうですね」
ベルダー様は顔を上げて私に答えると、再び手に持って読んでいた手紙へと視線を戻す。
私は何とはなしに机に置かれたいくつかの手紙へ目を向けて、気付いてしまった。
クローシェ王女の名前が書かれた封筒があることに。
手紙をやり取りするような仲なんだ……。
この国では、独身の男女が異性へ手紙を送るのは求愛を意味していると聞いた事がある。
クローシェ王女から届いた手紙。
ベルダー様とクローシェ王女が恋仲だという噂が本当なのかな。
手紙を書いているのだから少なくともクローシェ王女はベルダー様の事が好きって事だよね。
……王女と結婚したら、ベルダー様には輝かしい未来が約束される。
将来の事を考えると私がふたりの邪魔をしてはいけない事は明らか。
ベルダー様とクローシェ王女は美男美女で家柄も釣り合っているし、誰が見たってお似合いのふたりだもの。
急に鼻の奥がツン、としてきた。
なんか、このままここにいたら泣いてしまいそう。
「ぁ、あの……私、用事を思い出したので帰ります」
「用事……ですか、それは明日以降に予定を変更する事はできませんか? このあと一緒に買い物にでも行こうかと思っていたのですが」
「は、はい。人と会うので変えられません。約束していたのをうっかり忘れてました。申し訳ありません」
ブンッ、と音がしそうな勢いで頭を下げる。
「人と、会う……誰とですか、サクラ?」
今まで聞いた事のないベルダー様の声。
まるで氷のような冷たさを感じる。
「ぃ、言えません……」
会う人なんて、いないもの。
ベルダー様は大きなため息をつきながら、ご自分の髪をスルリと耳にかけた。
左耳が露わになり、昨日と同じイヤーカフをつけているのが見える。
それが髪を耳へかけた時にズレたのか、ベルダー様はイヤーカフを気にするように指で触った。
「で、では、失礼します、ベルダー様……」
ガタンと音をたてて立ち上がり、急いで部屋を出て行く。
食器も片付けずに申し訳なかったけれど、泣かないうちに帰りたかった。
エントランスを通り、扉を開けて建物の外へ出る。
そこでビクッと、足を止めてしまった。
さっきまであんなに晴れていたのに、バケツをひっくり返したような土砂降りだったから。
上に広めのバルコニーがあり屋根のようになっているから、ここにいれば濡れる事はないけれど。
これ以上、外へ行くのは無理。
「サクラ」
私が戸惑っている間にベルダー様まで建物の外へ出てきてしまった。
ベルダー様は私の肩をグッと掴むと、身体の位置を入れ替えるようにして扉の方を向く。
私を囲うように扉へ両手をついて、壁ドン状態に。
イケメンの壁ドンがこんなに迫力があるなんて知らなかった。
私の身体は屋敷の扉とベルダー様に挟まれて身動きがとれない。
「デートに誘われているのですか? 相手はアスラン? それともセロルですか? もしくはイソットでしょうか?」
全員違う。
三人とも同じ研究所に勤務していて、疲れている時にお茶を淹れてくれたり飴をくれたり、とても親切な人たちだけれど。
そもそも私に、恋人なんていない。
「ち、違います……ッ」
「では誰ですか?」
「ど、どうしてそんな事を聞くんですかぁ……っ」
相手なんていないのに~っ
「好きな女性の事が心配だからです。相手がもし不誠実な男なら全力で奪わなければ」
「へ? 好きな女性って……?」
クローシェ王女の美しい微笑みが頭に浮かぶ。
なぜ突然、好きな女性の話に飛んだのだろう。
「……サクラ以外に誰がいるんですか」
「え? 私!?」
私の頭の横に手をついたままベルダー様が、目の前で小さくため息をついた。
「鈍感なところも可愛いです」
「ええ? 可愛い???」
ベルダー様の女性の好みって、普通の人と違うのかな。
「もし不快だったら、突き飛ばしてください」
「ッ!」
ジュ……、とベルダー様に首を強く吸われた。
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