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51 これは媚薬のせいじゃない
しおりを挟む――まさか。
じわりと胸の中に広がった疑いを、すぐさまデイラは打ち消そうとする。
キアルズがそんなことをするはずがない。
お茶に媚薬を入れるなんて。
波立つ心を必死に抑え、デイラは探るような視線をキアルズに向けた。
かすかに笑みをたたえているようなその表情は、切なさを押し殺しているふうにも、いたずらっぽく笑い出しそうにも、仄暗い企みを抱えている感じにも見えてしまい、デイラはますます混乱する。
「あ、あの――」
身体の芯がぽかぽかと温かくなってきたのを感じ、デイラの心臓はどきんと跳ね上がった。
――本当に……?
冷静にならなくてはと思いながらも、鼓動は速まる。
――いつも誠実なこの人が、そんな卑怯なことを?
浮かんだ「卑怯」という言葉に、デイラはハッとした。
――卑怯なのは……どっちだろう。
どんなときもまっすぐにこちらを見ていてくれた彼から逃げてばかりいて、きちんと向き合ってこなかったのは――。
「ま……まだっ!」
デイラは勢いよく立ち上がる。
「えっ」
「ま、まだ効いてません、まだ効いていませんから!」
大きな声を出したデイラを、キアルズは目を丸くして見上げた。
「デイラ?」
切迫した顔つきで、デイラは懸命に訴える。
「いたって私は正気ですので、どうか今のうちにお聞きください!」
「お、落ち着いて」
「けっして媚薬のせいではありませんっ」
「もしかして、ぼくがさっき……」
「キアルズさまっ」
騎士として培われたよく通る声が、きりりと室内に響き渡った。
「あなたが好きです……!」
口をぽかんと開けたキアルズに、デイラは言葉を重ねる。
「離れてからも、ずっと想い続けていました……!」
凛とした発声は甘い告白とは程遠かったが、秘めていた想いは堰を切ったように唇からこぼれ出ていった。
「遠くから幸せを願っているだけで良かったはずなのに、もう二度と会えないと思っていたあなたの姿を目にしたときは、ただ嬉しかった」
どんどん頭が熱くなってくる。薬がすっかり効いてしまう前にきちんと伝えなくてはと、デイラの気は逸った。
「私がそばにいてもあなたのためにならないと身を引いたつもりでいましたが、本当は、大好きなあなたにふさわしくないと何度も思い知らされるのが怖くて、自分のために逃げていたのだと気がつきました」
情けなさに俯いてしまいそうになるが、デイラはなんとか自身を奮い立たせる。
「侵入者に捕らわれたアイオンを見たとき、頭の中が真っ白になって身動きが取れませんでした。あなたが駆けつけてきてくださらなかったら、無事に助けることはできなかったかも知れません」
呆然としたままのキアルズを、デイラは真剣な眼差しで見つめた。
「どうか、私たちの息子を一緒に護ってください」
これだけではまだ言い足りないと、デイラはさらに願いを口にする。
「不釣り合いでも、愛するあなたのそばにいたいんです。そばにいさせてください……!」
すべてを伝えきったデイラは、深く息を吐いた。
七番棟の居間に短い沈黙が落ちる。
「あ……」
キアルズは目覚めたばかりのような瞬きを繰り返すと、ゆっくりと手で自分の口許を覆った。
「あの……そんなふうにも取れるような言い方をしたぼくが悪いんだけど……」
気まずそうにキアルズは告げる。
「あなたが飲んだのは、ただの薬草茶だよ」
「……えっ?」
「媚薬なんて、いっさい入ってない」
今度はデイラの口が半開きになった。
「で……でも」
「マンネンロウに生姜、それからりんご草だったかな? 運んできたときにも言ったように、身体を温めてくれるものがいろいろと入ったお茶だよ」
「ええっ……」
顔を火照らせたデイラを、キアルズは腰掛けたまま眩しげに仰ぐ。
「夢じゃないよね?」
「は、果たし合いの口上のように、声を張り上げて言うつもりはなかったのですが……」
恥じ入っておろおろとしているデイラに微笑み、キアルズは立ち上がった。
「熱くて勇ましくて、しっかり胸に届いたよ」
足を踏み出したキアルズは、そっとデイラの片方の手を握る。
「あなたはずっと勇敢だね。九歳のぼくがエルトウィン騎士団の剣術大会で初めて会ったときも……」
デイラは不思議そうにキアルズを見た。最初に顔を合わせたのは、その大会の数日後に駐屯地で護衛を依頼されたときだったはずだ。
「あの日、両親は主賓として招かれてたけど、ぼくは一般客を装って兄役の従者と人込みの中にいたんだ。見物客向けの軽食の露店を眺めてたら、いつの間にか〝兄〟とはぐれてしまってね。ひとりで会場をうろうろしてたら、端のほうの石造りの建物の裏からパシンと何かが弾けたような音が聴こえてきたんだ」
デイラは、はっと目を見開く。
「……今のぼくだったら、ただじゃおかないんだけど」
当時の気持ちがよみがえったのか、キアルズは不愉快そうに眉をひそめた。
「こっそり覗いてみると、銀灰色の長い髪をひとつにまとめた若い女性騎士が、壁を背にして三人の体格のいい男性騎士たちに囲まれていた。女性の片頬が赤くなってたから、彼らのうちの誰かから叩かれたんだとすぐに分かったよ」
そのことはデイラも憶えている。三人は、同じ中隊に所属する先輩騎士たちだった。
精鋭ばかりを集めたこの剣術大会に出るには、まずエルトウィンの各駐屯地で行われる武術大会の剣の部で優秀な成績を収めなくてはならない。デイラはそこで先輩たちに辛勝し、初めて出場権を得ていた。
「試合に出るのを辞退するよう迫られてたね。ずいぶん酷いことも言われてた……」
令息として大切に育てられてきた九歳のキアルズにとって、荒々しい罵倒はさぞ衝撃的だったことだろう。「審判に股を開いて勝たせてもらったくせに」などという下品な誹りも。
「でも、あなたは臆することなく冷静に彼らを見据えて、『僅差での不甲斐ない勝利では審判を務めてくださった方の公平性まで汚すことになるようですので、今日の試合ではよりいっそう奮起しようと思います』って言ったんだ」
「よ……よく憶えていらっしゃいますね」
「忘れないよ」
目許を和らげてキアルズは微笑んだ。
「静かな迫力に気圧された彼らがみっともない捨てぜりふを吐いて建物の中へ入っていった後、一粒だけこぼれた涙をあなたが拭ったことも」
「……っ」
「どうしたら慰められるのかとうろたえたぼくが足をもつれさせて転んだら、あなたが気づいて駆け寄って起こしてくれたことも」
「えっ……」
「日常的に人助けをしていたあなたは憶えてないよね」
キアルズは照れくさそうに肩をすくめる。
「その美しい騎士は、まだ少し片方の睫毛を濡らしたまま『大丈夫?』ってぼくに声を掛けてくれたんだ」
どうやって従者と再会できたのかは記憶にないとキアルズは言った。
「だけど、試合でのあなたの戦いぶりは鮮明に思い出せるよ。屈強な男性騎士たちを相手に、どんどん勝ち進んでいったよね」
「優勝はできませんでしたが……」
「歴戦の猛者との決勝でも、あなたは全く引けを取らなかった。あの試合を見たら、もう誰もあなたに文句を言えなくなっただろうね。鋭い剣筋、素早くて的確な判断、軽やかな身のこなし……。陽を浴びて輝く銀灰色の髪が舞うように揺れて、きれいできれいで目が離せなかった……」
キアルズの指がデイラの髪に触れる。
「……あの日からずっと、あなたに恋焦がれてる」
内緒話のような囁きが甘く耳をかすめ、温かい手のひらがデイラの頬を包み込んだ。
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