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48 白い靄のなか
しおりを挟むアイオンが不審者と遭遇する少し前、デイラは散策路で転んだ宿泊客の老婦人を医務室に運び、しばらく付き添っていた。
「本当に助かりました。どうもありがとう」
「お大事になさってください」
膝の軽い打撲だけで済んだという診立てにほっとしながら、デイラは老婦人を看護係に任せて門の方へと向かった。
今朝は、商人の団体が出立すると聞いている。
今ごろ旅荘フレイの門扉は大きく開け放たれ、宿の前の通りには買い付けた品々を載せるための荷馬車が列をなし、商人たちは声を張り上げてあれこれと指示を出して、さながら門前市のような賑やかさになっていることだろう。
手が空いている従業員は全て駆り出され、ダンステンとエドルドの経営者兄弟も一緒になって積み込みや送り出しに大わらわのはずだ。
自分も早く作業に加わらなくてはと、デイラは足を急がせた。
――アイオンは、裏庭であの方と遊んでいるんだろうか。
ひとりになるとすぐにキアルズのことが浮かんできてしまう。
『あなたがいいと言わないかぎり父親だと名乗ることはしないから、今まで通りアイオンと遊ばせて欲しい』
穏やかな口調の申し入れだったが、翠玉色の瞳は切実さを帯びていて、断ることなどできなかった。
キアルズが息子の存在を知り実際に顔を合わせたのはごく最近のはずだが、言動の端々からアイオンのことをこよなく大切に思っているのが伝わってくる。
それだけに〝家族になりたい〟という望みに応えられないデイラの胸は痛んだ。
――もし私が、キアルズさまにふさわしい女性だったら。
愛嬌があって、表情豊かだったら。
貴婦人のように優雅にふるまえたら。
もっと若かったら。
いくつもの〝もし〟が浮かんできて、デイラは苦い笑みを浮かべる。
『呪いを解くことができるのは、あなた自身だけだ』
昨日、キアルズはそう言った。
努力を重ねたらキアルズにふさわしくなれるものだろうか? デイラは首を横に振った。
訓練しだいで多少は身につく要素もあるかも知れないが、八歳という年の差を縮めることはできない。
数年ぶりに会った彼は相変わらず眩いほどに美しく、デイラは自分ばかりが更に年を取ってしまったような気がして居たたまれなかった。
国王陛下から篤い信頼を受けて重要な地域を任されている若き辺境伯の人生に、釣り合いの取れない女がいつまでも中途半端に係わっていてはいけない。
明日には一旦ここを離れなくてはならないとキアルズは言っていた。
彼がフォルザから発つ前に「私たちのことはもう忘れてください」とはっきり告げようとデイラは心に決める。
もともと媚薬など盛られなければ、一夜を共にすることはなかったふたりなのだから。
苦しそうに唇を結んだとき、突然デイラの耳に甲高い声が響いた。
「どろぼうーっ!!」
デイラは立ち止まり、通り過ぎようとしていた管理棟を振り返る。
聞き間違えるはずがない。その叫び声は、かけがえのない息子のものだった。
◇ ◇ ◇
管理棟の正面から駆け込んだデイラは、誰もいない受付を足早に通り過ぎ、大きな泣き声が上がった奥の扉を勢いよく開けた。
「……っ」
事務室の中の一画に視線を向け、デイラは言葉を失う。
そこには、壊れた戸棚を背にして黒髪で背の高い男がこちらを睨んで立っていた。
片方の腕には、涙で頬をぐっしょりと濡らしたアイオンを荒っぽく抱きかかえている。
「ぁ、さまっ……」
しゃくり上げながら母を呼ぼうとするアイオンの喉元には、まがまがしく光る短刀の切っ先が当てられていた。
「警備係の女か……!」
ざらざらとした声が、デイラに投げつけられる。
アイオンの涙まじりの呼び掛けは男には聴き取れなかったらしく、ただデイラの身なりから職務を察したようだった。
「女ッ、腰に提げてる武器を捨てろ!」
息子のことが気がかりで、男の指図はデイラの耳をすり抜けていく。
短刀が向けられているアイオンの首に傷などは見当たらない。でもあんなに泣いているのだから、どこか他の場所に怪我をしている可能性もある。
捕まったときに暴力をふるわれたのかも知れないと考えたとたん、足元から駆け上るように肌が粟立っていくのをデイラは感じた。
「おいっ、聞いてるのかっ!?」
男は苛立ったように声を荒らげるが、デイラは白くて深い靄の中にいるようにどうしたらいいのか判らず、身動きが取れなくなる。
これまで緊急事態にこんなふうになったことはなかった。
騎士だったころ戦闘中に味方を人質に取られたときも、少年時代のキアルズが路地裏で悪党に捕まったときも、裏庭でアイオンが謎の男に〝高い高い〟をされているのに遭遇したときも、すぐに取るべき行動と進むべき軌道がくっきりと浮き上がってきた。
今回は、捕らわれているアイオンが激しく泣きじゃくっているためか冷静に頭が働かない。
侵入者の腕が巻きついている息子の身体はいつもより更に小さく儚く感じられ、何かひとつでも判断を誤ったら取り返しのつかないことになりそうで、デイラは恐ろしくてたまらなかった。
「とっとと腰の得物を捨てろっつってんだろ! このガキがどうなってもいいのか!?」
ようやく男の言っていることが意味をなして聴こえたデイラは、警備用の棍棒を腰から抜き取って床に投げる。
「――よし、他に武器は持ってねえな?」
丸腰を示すように、デイラは両手を上げてみせた。
どうすれば無事にアイオンを助けられるのか、デイラは最善の方法を探すため乱れる心を必死で落ち着かせようとする。
「もっと後ろに下がれっ。さもねえとこいつをぶっ刺すぞ!」
全身をびくっと震わせたアイオンは、喉の奥を鳴らしながらぼたぼたと涙をこぼした。それを目にしたデイラの頭はカッと熱くなる。
脅し文句のかけらさえ、これ以上息子の耳には触れさせたくない。
子供さえ助かれば相打ちになっても構わないと素手で飛び掛かりそうになったとき、いきなり裏の倉庫につながる扉が大きく開いた。
「――デイラ!」
厚い靄をいっぺんに消し去るような凛とした声に名前を呼ばれ、デイラはハッとする。
次の瞬間、長い棒状のものが弧を描いてデイラのほうへ飛んできた。
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