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43 どうして
しおりを挟む「まっ、まだ分かんないわよ!」
しんみりとした空気を振り払うかのように、からし色の髪の女性が大きな声を出した。
「今のところエーレ……じゃなくてサーヴさまがどういう目的でここにいらしたのか、はっきりしてないんだし」
設備管理の男性も「だな」と頷く。
「過去にこじれたから、こんなことになってるんだろうしなあ」
警備係の男性が、どこか不可解そうに「俺……」と呟いた。
「デイラさんにすべてを一人で背負わせるなんて、相手の男はどんなひどい奴だったんだろうってずっと思ってたんだ。でも、あの七番棟のお客さまは、そんな悪党には見えないんだよな……」
年嵩の客室係の女性も「そうなのよねえ」と同調する。
「正体を隠してらしたのには驚いたけど、そのことは旧知の仲だという会長さんもご承知だったようだし、数日だけ接してきたあたしたちにとっては文句のつけようがない方に思えるのよね」
頭巾の清掃係も「ほんとに」と目尻を下げた。
「立派なのにちっとも威張ってなくて、爽やかで温かみがあってさ」
長机の端で裁縫をしていた看護係の女性が、何かを思い出して「そういえば」と小さく笑みを浮かべる。
「あんな素敵な方に釣り合うお相手はどんな人なのかしらーって何度かみんなで盛り上がったけど、なるほどそう来たかって感じ。凛としたデイラさんと、もの柔らかなサーヴさま……不思議としっくりくるわよね」
「デイラさんのほうが年上なんだろうけど、なんだかお似合いだよな」
「美男美女だしなあ」
「盛装して並んだら、さぞかし絵になるでしょうね」
「デイラさんってドレスも似合いそうだもんね」
弾んだ声を上げた後、からし色の髪の女性は物憂げに眉を曇らせた。
「……身分が違うから、結婚は難しかったのかしら……」
「じゃあ、どうしてサーヴさまは今さらここにいらしたんだ?」
警備係が疑問を口にすると、からし色の髪の女性は想像力を働かせる。
「うーん……例えば、身分の高い女性と結婚したけど跡取りができなくて、アイオンを引き取りたい……とか?」
「なんだよ、それ!」
従業員たちは色めき立った。
「デイラさんがアイオンを手放すわけないだろ」
「名家にはありがちな話だけどさ」
「そんなの、あたしゃ承知しないよ」
「俺だって許さねえ」
「――ねえ、落ち着いて」
ざわつく同僚たちに向かって、エニアが冷静に声を掛ける。
「勝手に妄想を膨らませて腹を立てるなんてばかばかしいわよ。――それに、たぶんデイラさんはそれなりの家の出身だろうし」
「えっ」
「エニア、何か聞いてるの?」
同僚の問い掛けに、エニアは「何も」と首を横に振った。
「でも去年の夏、酔狂な貴族がこの宿を借り切って夜会を開いたことがあったでしょ?」
「あ、ああ……」
旅荘フレイで初めて行われた催しを、皆は振り返る。
「いい経験にはなったけど、とにかく大変だったなあ」
「慣れないことばかりで緊張したわー」
「これでもかってくらい食堂を飾り立てたわね」
「広場にたいまつを灯して、舞踏会までやったよな」
「あのとき、貴族のしきたりや夜会の決まりごとなんてさっぱり分かんないあたしたちが準備に四苦八苦してたら、デイラさんが『前の職場で聞きかじったことだけど……』なんて遠慮がちに前置きして、いろいろ助言してくれたじゃない」
「あ……」
「そうだったわねえ」
憶えている者も多いようだった。
「後から思うと、そのすべてが的確だったのよ。普段の所作もなんだか洗練されてるし、サーヴさまと結婚が許されないほど身分差があるとは思えないのよね」
従業員たちは再び考え込むような顔つきになる。
「……ただ会いにいらしたのか、それとも迎えにいらしたのか……」
誰かの呟きに、誰かが応えた。
「どっちにしたって……あの母子が幸せならいいさ」
「そうね」
「もちろんだ」
皆の願いは同じだった。
たとえ、自分たちが寂しい思いをすることになったとしても。
◇ ◇ ◇
白い石造りのあずまやの丸い屋根に、傾いた西日が当たっている。
――どうして――
夕刻になるまで、デイラは心の中で幾度となくその言葉を繰り返していた。
「アイオンは〝高い高い〟が好きなんだってね」
――どうして、エルトウィンから遠く離れたこの地で、この人とこんなふうに向かい合って座っているんだろう。
「鳥になったような気がするらしい」
――どうして、この人はごく自然にアイオンのことを語ってるんだろう。
「最近は重くなってきたから、お母さんと警備係のモールさん、それから荷運び係のリューチさんくらいしかやってくれないって言ってたな」
――どうして、そんな話ができるほどアイオンと親しくなっているんだろう。
「あの子は、宿の皆さんからずいぶん可愛がられてるんだね」
そもそも、どうしてここに来たのか。どうして居どころが分かったのか。どうして別人になりすましていたのか。――いくつもいくつも疑問が渦巻く。
「――あの」
穏やかな面持ちのキアルズに、デイラは硬い表情で切り出した。
「うん?」
「アイオンとはほとんど話せていないのですが……」
「ああ、今はお友達と一緒に過ごす時間が長いからね」
「……なんでもご存じなんですね」
「そうでもないよ」
キアルズは軽く微笑む。
黒髪の鬘を被るのをやめたその姿は、デイラが別れも告げずに森を発ったころとほぼ変わらず、国境地帯の領主らしい凛々しさだけが増しているように見えた。
「実は昨日まで、そのアイオンの仲良しのお友達が、ぼくの知人のお子さんたちだと知らなかったんだ」
驚きながらデイラは訊ねる。
「〝ダン・エド商会〟の方たちと、お知り合いだったんですか?」
「お互いここに滞在してるなんて思ってなかったんだけどね。マナカール会長とは、留学先が同じだったんだ」
「そう……だったんですか」
「何年か前、彼の末の弟さんが結婚したときに辺境伯邸で再会して――ああ、その弟さん夫妻もエルトウィンの騎士なんだよ」
「えっ」
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デイラは「あ……」と声を漏らす。
そういえば他所の中隊で、マナカール姓の若い騎士がめきめきと頭角を現してきていた。
「彼は……会長の弟さんだったんですか」
「世界は狭いね。――おかげで、あなたを見つけることができた」
翠玉色の瞳をまっすぐに向けられ、デイラは慌てて視線を下げる。
「弟さんの結婚披露に邸を提供したお礼に宿の招待券をいただいたんで、母と乳母がここを訪れたら……ぼくの小さいころにそっくりの男の子がいたんだ」
デイラはハッとした。以前アイオンが報告してくれた、散策路で出会ったという不思議な貴婦人とは――。
「それまでは、どこを当たっても手がかりすら掴めなかったんだけどね」
キアルズがずっと自分を捜していたことを知り、デイラは動揺する。
しばらくは気がかりだったかも知れないが、一言だけ書き残して姿を消した不義理なデイラのことなど、もう忘れてしまっただろうと思っていた。
それに、キアルズには侯爵令嬢との縁談が進んでいたはずだ。とうに結婚して子供をもうけていてもおかしくないほどの月日が経っている。
「どうして……」
ついに心の声がデイラの口からこぼれてしまうと、キアルズは真顔になった。
「――どうして?」
真ん中に据えられた小さな丸机の上にキアルズは前腕をつき、デイラのほうにぐっと身を乗り出す。
「ぼくのほうこそ聞かせて欲しいな。あの日、どうしてあなたは突然いなくなったの?」
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