32 / 56
32 あたたかな朝
しおりを挟む「アイオン、起きて」
騎士になって大きな熊と戦う夢を見ていたアイオン・リラーグは、母の声で目を覚ました。
「かあさま……」
「おはよう」
窓から射し込む朝陽を浴びて微笑んでいる母の姿を見て、アイオンはホッとする。熊との戦いは劣勢で、もうちょっとで負けそうだったのだ。
「おはよ、かあさま……」
少しぼんやりしたままアイオンは身体を起こす。寝台の端に腰を下ろした母は、乱れた淡褐色の髪を指で梳くようにして整えてくれた。
母の身支度は既に済んでいて、きれいな銀灰色の長い髪もいつものように頭の後ろでひとつに結ばれている。
アイオンは母に寄りかかるようにして抱きつき、さっきまで見ていた夢の内容を報告した。
「あのね、ぼく、きしになったんだよ」
「夢の中で?」
背中を撫でてくれる母の手が心地よくて、アイオンは目を細める。
「くまとたたかったの」
「それはすごいね」
「かあさまも、むかし、きしだったんでしょう?」
母はどこか困ったように笑った。
「見習いだけどね」
「でも、すっごくつよいよね」
「それほどでもないよ」
そのとき、慌てたように部屋の扉を叩く音がした。
「ごめん、もう起きてる?」
廊下から響いてきた声を聴き、アイオンは「エニアさんだ」と思う。
アイオンを腕に抱いて母が扉を開けにいくと、同じ寮に住むエニアという名の女性が息を切らして立っていた。
急いで走ってきたのか、甘い色合いの金髪が少しもつれている。
普段なら「アイオン、おっはよー」と、とびきりの笑顔で挨拶してくれる気さくなお姉さんだが、今朝はそんな余裕はなさそうだ。
「夜勤のモールがいつもより早く帰っちゃって」
「どうかした?」
「門の中に迷い込んできた酔っ払いが、入り口の一番大きな花壇のところで暴れてんのよ。囲いのレンガまで引っこ抜いて投げ始めて、手がつけらんないの」
「――分かった」
母の表情がきりっと引き締まる。その顔をアイオンは眩しげに眺めた。
「エニアさん、悪いけどアイオンを」
「任せて。着替えを済ませたら食堂に連れてく」
「ありがとう。――じゃあアイオン、また後でね」
そう言い残し、紺色の脚衣姿の母は素早く部屋から出ていった。
◇ ◇ ◇
国内でも有数の温泉保養地フォルザ。
その町にある宿の中でも随一の規模と人気を誇るのが、この旅荘『フレイ』だ。
木立ちに囲まれた広い敷地内には、古代風の意匠が施された大浴場や豪華な食堂などの他に、一組ずつ泊まることができる専用浴場つきの客室棟が十分な間隔を空けて二十ほど建てられている。
「いやあ、いつものことながら実に鮮やかでしたな!」
従業員用の食堂で、胡桃色の口髭の端をぴんと尖らせた支配人がそう言うと、同じ食卓についている他の人たちも警備係のデイラ・リラーグを口々に讃えた。
「ほんと、あっという間の制圧だったわね」
「あんな暴れ牛みたいな酔っ払いを……。やっぱりデイラさんはすげえよ!」
「頼りになるわあ」
賞賛を浴びて気恥ずかしそうにしているデイラの隣で、子供用の椅子に腰掛けたアイオンは誇らしげに満面の笑みを浮かべる。
実際に酔っ払いを取り押さえたところを見たわけではないが、母がどれほど勇敢だったのかは皆の話しぶりからしっかりと伝わってきていた。
「アイオンのお母さんは本当に強いねえ」
エニアに声を掛けられたアイオンは、翠玉色の瞳を輝かせて「うんっ」と答える。
「ぼくもつよくなるんだ!」
焼きたてのパンが入った籠を運んできた体格のいい厨房係がそれを聞きつけ、にこにこしながら訊ねた。
「おっ、アイオン、騎士にでもなるつもりかい?」
「うん、なりたい!」
元気に返事したアイオンに、橙色の髪の客室係の女性が言う。
「あら、じゃあ修行先を探さないとね」
アイオンは不思議そうに首をかしげた。
「しゅぎょうさき?」
「そうよー。騎士になるには、小さいころから親元を離れてそこで鍛錬を積まなきゃならないのよ」
皆は楽しげに会話を弾ませる。
「アイオンは三歳だから、修行に出るとしたら四年後ですかな」
「修行先をじっくり検討したいなら、五歳くらいから動かないと」
「退官した騎士宅に住み込むには、紹介状が要ると聞いたことがあるぞ」
「最近、寮つきの騎士学校もできたわよね」
「それにしたって、このフォルザのあたりにはないからなあ」
アイオンは困ったように眉尻を下げ、デイラの袖をきゅっと掴んだ。
「かあさまと、はなれたくないから……きしにはならない」
それを聞いた皆は、温かい笑みを浮かべる。
「そうか、離れたくないか」
「アイオンはお母さんが大好きだもんね」
こくりと頷く息子を、デイラも優しい眼差しで見下ろした。
「まあ、将来のことはゆっくり決めればいいさ」
「今はいっぱい食べていっぱい遊ぶときよ」
この宿の人たちは、いつもこんなふうにアイオンを可愛がってくれている。
短い書き置きを残して小さな鞄ひとつで森の家を出たときには、まさかこんな未来が待っているなんてデイラは想像もしなかった。
「そういえばアイオン、来月、会長ご一家が保養にいらっしゃるそうですよ」
支配人の言葉に、アイオンはパッと顔を輝かせた。
「オーリーもくる!? スランとグラーナも!?」
「もちろんです。アイオンと遊ぶのを楽しみにしていると、お手紙に書いてありました」
「わあ……!」
旅荘フレイは、ここから少し離れた商業都市ブロールに拠点を置く中堅の商会が所有している。
共同経営者に名を連ねる兄弟はともに三十代前半で、その子供たちはアイオンより少しだけ年上だ。
小さなお兄ちゃんお姉ちゃんたちは、フォルザを訪れるたびに快くアイオンを仲間に入れてくれる。
デイラたちが今こうしてここにいられるのも、経営者一家の、とりわけ弟のほうの妻であるフィアーナ・オイアーのお陰だ。
大喜びしているアイオンの隣で、デイラはフィアーナと出会った日のことを思い出していた。
0
お気に入りに追加
83
あなたにおすすめの小説
私に告白してきたはずの先輩が、私の友人とキスをしてました。黙って退散して食事をしていたら、ハイスペックなイケメン彼氏ができちゃったのですが。
石河 翠
恋愛
飲み会の最中に席を立った主人公。化粧室に向かった彼女は、自分に告白してきた先輩と自分の友人がキスをしている現場を目撃する。
自分への告白は、何だったのか。あまりの出来事に衝撃を受けた彼女は、そのまま行きつけの喫茶店に退散する。
そこでやけ食いをする予定が、美味しいものに満足してご機嫌に。ちょっとしてネタとして先ほどのできごとを話したところ、ずっと片想いをしていた相手に押し倒されて……。
好きなひとは高嶺の花だからと諦めつつそばにいたい主人公と、アピールし過ぎているせいで冗談だと思われている愛が重たいヒーローの恋物語。
この作品は、小説家になろう及びエブリスタでも投稿しております。
扉絵は、写真ACよりチョコラテさまの作品をお借りしております。
極悪家庭教師の溺愛レッスン~悪魔な彼はお隣さん~
恵喜 どうこ
恋愛
「高校合格のお礼をくれない?」
そう言っておねだりしてきたのはお隣の家庭教師のお兄ちゃん。
私よりも10歳上のお兄ちゃんはずっと憧れの人だったんだけど、好きだという告白もないままに男女の関係に発展してしまった私は苦しくて、どうしようもなくて、彼の一挙手一投足にただ振り回されてしまっていた。
葵は私のことを本当はどう思ってるの?
私は葵のことをどう思ってるの?
意地悪なカテキョに翻弄されっぱなし。
こうなったら確かめなくちゃ!
葵の気持ちも、自分の気持ちも!
だけど甘い誘惑が多すぎて――
ちょっぴりスパイスをきかせた大人の男と女子高生のラブストーリーです。

後宮の棘
香月みまり
キャラ文芸
蔑ろにされ婚期をのがした25歳皇女がついに輿入り!相手は敵国の禁軍将軍。冷めた姫vs堅物男のチグハグな夫婦は帝国内の騒乱に巻き込まれていく。
☆完結しました☆
スピンオフ「孤児が皇后陛下と呼ばれるまで」の進捗と合わせて番外編を不定期に公開していきます。
第13回ファンタジー大賞特別賞受賞!
ありがとうございました!!
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
光のもとで2
葉野りるは
青春
一年の療養を経て高校へ入学した翠葉は「高校一年」という濃厚な時間を過ごし、
新たな気持ちで新学期を迎える。
好きな人と両思いにはなれたけれど、だからといって順風満帆にいくわけではないみたい。
少し環境が変わっただけで会う機会は減ってしまったし、気持ちがすれ違うことも多々。
それでも、同じ時間を過ごし共に歩めることに感謝を……。
この世界には当たり前のことなどひとつもなく、あるのは光のような奇跡だけだから。
何か問題が起きたとしても、一つひとつ乗り越えて行きたい――
(10万文字を一冊として、文庫本10冊ほどの長さです)
月の後宮~孤高の皇帝の寵姫~
真木
恋愛
新皇帝セルヴィウスが即位の日に閨に引きずり込んだのは、まだ十三歳の皇妹セシルだった。大好きだった兄皇帝の突然の行為に混乱し、心を閉ざすセシル。それから十年後、セシルの心が見えないまま、セルヴィウスはある決断をすることになるのだが……。
断る――――前にもそう言ったはずだ
鈴宮(すずみや)
恋愛
「寝室を分けませんか?」
結婚して三年。王太子エルネストと妃モニカの間にはまだ子供が居ない。
周囲からは『そろそろ側妃を』という声が上がっているものの、彼はモニカと寝室を分けることを拒んでいる。
けれど、エルネストはいつだって、モニカにだけ冷たかった。
他の人々に向けられる優しい言葉、笑顔が彼女に向けられることない。
(わたくし以外の女性が妃ならば、エルネスト様はもっと幸せだろうに……)
そんな時、侍女のコゼットが『エルネストから想いを寄せられている』ことをモニカに打ち明ける。
ようやく側妃を娶る気になったのか――――エルネストがコゼットと過ごせるよう、私室で休むことにしたモニカ。
そんな彼女の元に、護衛騎士であるヴィクトルがやってきて――――?
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる