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32 あたたかな朝
しおりを挟む「アイオン、起きて」
騎士になって大きな熊と戦う夢を見ていたアイオン・リラーグは、母の声で目を覚ました。
「かあさま……」
「おはよう」
窓から射し込む朝陽を浴びて微笑んでいる母の姿を見て、アイオンはホッとする。熊との戦いは劣勢で、もうちょっとで負けそうだったのだ。
「おはよ、かあさま……」
少しぼんやりしたままアイオンは身体を起こす。寝台の端に腰を下ろした母は、乱れた淡褐色の髪を指で梳くようにして整えてくれた。
母の身支度は既に済んでいて、きれいな銀灰色の長い髪もいつものように頭の後ろでひとつに結ばれている。
アイオンは母に寄りかかるようにして抱きつき、さっきまで見ていた夢の内容を報告した。
「あのね、ぼく、きしになったんだよ」
「夢の中で?」
背中を撫でてくれる母の手が心地よくて、アイオンは目を細める。
「くまとたたかったの」
「それはすごいね」
「かあさまも、むかし、きしだったんでしょう?」
母はどこか困ったように笑った。
「見習いだけどね」
「でも、すっごくつよいよね」
「それほどでもないよ」
そのとき、慌てたように部屋の扉を叩く音がした。
「ごめん、もう起きてる?」
廊下から響いてきた声を聴き、アイオンは「エニアさんだ」と思う。
アイオンを腕に抱いて母が扉を開けにいくと、同じ寮に住むエニアという名の女性が息を切らして立っていた。
急いで走ってきたのか、甘い色合いの金髪が少しもつれている。
普段なら「アイオン、おっはよー」と、とびきりの笑顔で挨拶してくれる気さくなお姉さんだが、今朝はそんな余裕はなさそうだ。
「夜勤のモールがいつもより早く帰っちゃって」
「どうかした?」
「門の中に迷い込んできた酔っ払いが、入り口の一番大きな花壇のところで暴れてんのよ。囲いのレンガまで引っこ抜いて投げ始めて、手がつけらんないの」
「――分かった」
母の表情がきりっと引き締まる。その顔をアイオンは眩しげに眺めた。
「エニアさん、悪いけどアイオンを」
「任せて。着替えを済ませたら食堂に連れてく」
「ありがとう。――じゃあアイオン、また後でね」
そう言い残し、紺色の脚衣姿の母は素早く部屋から出ていった。
◇ ◇ ◇
国内でも有数の温泉保養地フォルザ。
その町にある宿の中でも随一の規模と人気を誇るのが、この旅荘『フレイ』だ。
木立ちに囲まれた広い敷地内には、古代風の意匠が施された大浴場や豪華な食堂などの他に、一組ずつ泊まることができる専用浴場つきの客室棟が十分な間隔を空けて二十ほど建てられている。
「いやあ、いつものことながら実に鮮やかでしたな!」
従業員用の食堂で、胡桃色の口髭の端をぴんと尖らせた支配人がそう言うと、同じ食卓についている他の人たちも警備係のデイラ・リラーグを口々に讃えた。
「ほんと、あっという間の制圧だったわね」
「あんな暴れ牛みたいな酔っ払いを……。やっぱりデイラさんはすげえよ!」
「頼りになるわあ」
賞賛を浴びて気恥ずかしそうにしているデイラの隣で、子供用の椅子に腰掛けたアイオンは誇らしげに満面の笑みを浮かべる。
実際に酔っ払いを取り押さえたところを見たわけではないが、母がどれほど勇敢だったのかは皆の話しぶりからしっかりと伝わってきていた。
「アイオンのお母さんは本当に強いねえ」
エニアに声を掛けられたアイオンは、翠玉色の瞳を輝かせて「うんっ」と答える。
「ぼくもつよくなるんだ!」
焼きたてのパンが入った籠を運んできた体格のいい厨房係がそれを聞きつけ、にこにこしながら訊ねた。
「おっ、アイオン、騎士にでもなるつもりかい?」
「うん、なりたい!」
元気に返事したアイオンに、橙色の髪の客室係の女性が言う。
「あら、じゃあ修行先を探さないとね」
アイオンは不思議そうに首をかしげた。
「しゅぎょうさき?」
「そうよー。騎士になるには、小さいころから親元を離れてそこで鍛錬を積まなきゃならないのよ」
皆は楽しげに会話を弾ませる。
「アイオンは三歳だから、修行に出るとしたら四年後ですかな」
「修行先をじっくり検討したいなら、五歳くらいから動かないと」
「退官した騎士宅に住み込むには、紹介状が要ると聞いたことがあるぞ」
「最近、寮つきの騎士学校もできたわよね」
「それにしたって、このフォルザのあたりにはないからなあ」
アイオンは困ったように眉尻を下げ、デイラの袖をきゅっと掴んだ。
「かあさまと、はなれたくないから……きしにはならない」
それを聞いた皆は、温かい笑みを浮かべる。
「そうか、離れたくないか」
「アイオンはお母さんが大好きだもんね」
こくりと頷く息子を、デイラも優しい眼差しで見下ろした。
「まあ、将来のことはゆっくり決めればいいさ」
「今はいっぱい食べていっぱい遊ぶときよ」
この宿の人たちは、いつもこんなふうにアイオンを可愛がってくれている。
短い書き置きを残して小さな鞄ひとつで森の家を出たときには、まさかこんな未来が待っているなんてデイラは想像もしなかった。
「そういえばアイオン、来月、会長ご一家が保養にいらっしゃるそうですよ」
支配人の言葉に、アイオンはパッと顔を輝かせた。
「オーリーもくる!? スランとグラーナも!?」
「もちろんです。アイオンと遊ぶのを楽しみにしていると、お手紙に書いてありました」
「わあ……!」
旅荘フレイは、ここから少し離れた商業都市ブロールに拠点を置く中堅の商会が所有している。
共同経営者に名を連ねる兄弟はともに三十代前半で、その子供たちはアイオンより少しだけ年上だ。
小さなお兄ちゃんお姉ちゃんたちは、フォルザを訪れるたびに快くアイオンを仲間に入れてくれる。
デイラたちが今こうしてここにいられるのも、経営者一家の、とりわけ弟のほうの妻であるフィアーナ・オイアーのお陰だ。
大喜びしているアイオンの隣で、デイラはフィアーナと出会った日のことを思い出していた。
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