あれは媚薬のせいだから

乙女田スミレ

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31 さようならも言わずに

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 声がしたほうを向いたデイラは、はっと目をみはる。

「プロウ侯爵令嬢……」

 そこには、紅い街着姿のフェイニア・テリューが、黄色い髪を逆立てんばかりに怒気を漂わせて立っていた。

「デイラ・クラーチ、あなたがここまで恥知らずだとは……!」

 この村とは縁もゆかりもなさそうな彼女がいきなり現れたことに唖然としているデイラを、フェイニアは鋭く睨みつける。

「ご出張から戻られたはずのキアルズさまとなかなかお目にかかることができなくて、おかしいと思って探らせてみたら……」

 侯爵令嬢は、唇をわなわなと震わせた。

「こ、公共の場であんなっ……ふしだらな」

 先ほどの光景を見られていたのだと、デイラの頬がうっすらと染まる。それを目にしたフェイニアは、かっとなったように声を荒らげた。

「なんて卑怯な人なの!? ずっと『ただのお目付け役です』みたいなていでキアルズさまのおそばにいたくせに! あの方は今、あなたが親戚から譲り受けたお家で寝泊まりしていらっしゃるんですって……!?」

 何と返していいのか分からないデイラに向かって、フェイニアは畳み掛ける。

「年の功の手練手管で若者を骨抜きにしてさぞかしいい気分でしょうけど、さすがに大っぴらにできるような関係ではないことはお分かりよね!? わたくし、前にも言いましたものね? 前途洋々の若き辺境伯さまが、かなり年上の女騎士に篭絡されているなんて噂が立ったら、不名誉でしかないと!」

 キアルズへの想いに気づいてしまったせいだろうか。令嬢の言葉は、あのときよりもデイラの心に深く突き刺さる。

「あなた、騎士を辞めたそうですけど、まさか、あの方の妻の座に収まる気じゃないでしょうね?」
「そんな……」

 デイラの返事を待たずに、フェイニアは大げさに鼻でせせら笑った。

「無理よねえ! あなたがキアルズさまのお母さまのようになれるわけないもの!」

 にこやかで優しく美しく、様々な事柄に関心と教養があり、心配りも行き届いた前辺境伯夫人と自分とでは、あまりにもかけ離れていることはデイラにも分かっている。

「とうに娘ざかりを過ぎていて、無愛想で無表情で、恐ろしい戦いの場で蛮勇をふるってきた〝鋼鉄の氷柱つらら〟が、若々しさに満ちた領主さまの妻にふさわしいはずないわよね!」

 自覚しているはずなのに、言葉のひとつひとつが石つぶてのようにデイラの心にぶつかって傷をつけていった。
 デイラの顔がこわばったことに気づいた侯爵令嬢は、小気味良さそうな笑みを浮かべる。

「――まあ、わたくしは夫に愛人のひとりやふたりいても許せるような寛大な妻になるつもりですから、日陰の身としてなら変わり種のあなたの存在を認めてあげてもよろしくてよ」

 まるでキアルズの婚約者であるかのような口をきいたフェイニアは、得意げに胸を張って宣言した。

「キアルズさまとわたくしは、結婚するのよ」

 デイラは黙ったまま怪訝そうに眉根を寄せる。

「昨日、わたくしの父がエルトウィンを訪れて、辺境伯家に正式に婚約を申し入れたの。何もご存じでなかったキアルズさまのお母さまは驚いていらしたけれど、責任は取らせるとおっしゃって」
「責任……?」
「ああ、やっぱりあの方から聞かされていないのね」

 気の毒そうに言ったフェイニアの仕草は大仰で、どこか芝居がかって見えた。

「キアルズさまがチェドラスに出掛けられる前夜、判事会主催の舞踏会からわたくしたちが姿を消したことには、あなたも気づいていたでしょう? あの夜、キアルズさまとわたくしは結ばれたのよ」
「えっ……」
「前もって釘を刺しておいたせいか、舞踏会の中休みにわたくしたちが連れ立って庭園に出たとき、あなたはついてこなかったわよね? あずまやあたりでずっと話し込んでいたと思っていたかも知れないけど、実は、裏手にある侯爵家の邸で情熱的な時間を過ごしていたの」

 思わずデイラの口から呟きが漏れる。
「そんなはずは……」

「あら、どうしてそんなことがあなたに言え――」

 はっとしたようにフェイニアは言葉を途切れさせ、「まさか……」と不穏そうに眉を曇らせた。

「あれから、キアルズさまはあなたと……?」

 気まずそうに唇を結んだデイラを見て、フェイニアは顔に血を上らせる。

「ずるいわっ……! キアルズさまが正気じゃなくなったところに乗じて、深い仲になるなんて! なんて卑劣な人なの!?」

 まさにそうしようと画策していた自分を棚に上げ、侯爵令嬢はデイラを責め立てた。

「だけど、もう遅いわよ! 今ごろ、私の父が両家の署名入りの結婚申請書を携えて王都に向かっているころだわ!」

 条件的には何の問題もないふたりの結婚は、すぐに認められるだろう。国王の許可が軽いものではないということは、デイラにも分かっている。

 あの思慮深いキアルズの母が本人に確認もせずに手続きを進めるだろうかという疑問はあったが、自分はそれを質す立場にないとデイラは思った。

「あなたとはもう二度と会いたくないけれど、わたくしがうるさく口出しする女だと思われるのも損だから、あの方から飽きられるまでは愛人としてこの片田舎でひっそり暮らしていただいて結構よ。――でも」

 フェイニアの声が一段低くなる。

「子供だけは作らないでちょうだい」

 暗く底光りするような目で睨まれ、デイラは息を呑んだ。

「もしそんなことになったら……わたくし、何をしてしまうか分からないわ」

   ◇  ◇  ◇

 小さなパン屋で焼き菓子を手に入れたキアルズは、デイラのもとへと足を急がせていた。

 先客のかわいらしい兄妹きょうだいが狭い店先でどの菓子を買おうかと悩んでいるのを気長に待っていたら、すっかり時間がかかってしまった。

「デイラ、遅くなってごめ――」

 ひさしつきの木製の長椅子のそばまで来たキアルズは、訝しげに眉をひそめる。

「デイラ……?」

 そこには誰も座っていなかった。

 キアルズは不安そうにあたりを見回す。
 通行人はまばらで見通しはいいが、デイラの姿はどこにもなかった。

「どこに行ったんだ……」

 ついさっきまで晴れていた空に、にわかに灰色の雲がかかる。落ちてきた雨粒が、ぽつりとキアルズの頬に当たった。

「デイラ……」

 雨のなか村じゅうを捜し回った後、びしょ濡れで森の家に戻ってきたキアルズは、食事用の机の上に走り書きされた紙片を見つけた。

「どうして……」

――ありがとうございました――

 それだけを書き残し、デイラ・クラーチは姿を消した。
 森から、村から、キアルズが思いつくすべての場所から。
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