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11 ただの護衛と警護対象

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 大叔母が遺してくれたこの家の中に、デイラ以外の人物はいないはずだ。警戒心をみなぎらせてデイラが上半身を起こすと、ゆっくりと扉が開いた。

「あ、起きてた?」

 木製の盆を持ったキアルズが姿を現し、デイラは大きく目を見開く。

 キアルズは寝台のほうに歩いてくると、傍らの小机の上に湯気を立てている陶製の杯を静かに置いた。

「台所の棚にあった蒲公英たんぽぽ茶を淹れてみたよ。書き添えられてた期限は来月の日付だったから、まだおいしく飲めると思う」

 驚きすぎて言葉が出てこないデイラにキアルズは微笑みかけると、近くに置かれていた椅子に腰を下ろした。

「――さて」
 翠玉色の瞳がデイラを見据える。

「ぼくの出張中に、騎士を辞めて姿を消した理由を話してもらおうか」

「……どうして……ここに……?」
 立ちくらみを起こしたときにキアルズが家に入ってきたのも、デイラは夢だと思っていた。

「エルトウィンに戻ってきて真っ先にあなたに会いに行ったら、『デイラ・クラーチは隊を退きました』って言われたぼくの気持ちが分かる?」

 デイラは口ごもり、視線を下げた。

「さっきも床に座り込んでたし……もしかして身体の具合が悪いの?」

 答えないデイラの横顔を、心配そうにキアルズはうかがう。

「実家にいるならまだしも、ひとりで集落から離れた森の奥で療養しようなんて無謀だよ。うちの邸でゆっくり休んで、医者にかかったほうがいい」
「……そんなことをしていただくわけには」
「何言ってるの」

 年下の辺境伯は、どこか諭すような口調で言った。

「ぼくたちはもう、ただの護衛と警護対象じゃないんだよ?」

   ◇  ◇  ◇

 護衛と警護対象――長く続いてきたその関係が期せずして変わってしまったのは、つい先月のことだった。

 社交の季節が近づいてきたため、デイラのもとにはいつも通り辺境伯邸から護衛の依頼が来た。
 例年と違っていたのは、キアルズの肩書きが〝辺境伯〟になっていたことだ。

 数か月前にさきの辺境伯が身まかり、夫人は静かに故人を偲ぶためこの季節は巡礼地のひとつであるリルという街で過ごすことにしたが、爵位を継いだキアルズは新しい領主としてより多くの集まりに顔を出さなくてはならなくなった。

「――北部地方の領主の会合があって今月末にはチェドラスに発たなきゃならないから、それまではできるだけ地元の人たちと交流しようと思ってる。しばらく忙しい日程になるだろうけど、よろしく」
「承知しました」

 社交の季節が始まった日、馬車の中でキアルズはデイラに事務的な連絡を伝えると、黙って窓の外に視線を向けた。
 ふたりは盛装に身を包み、エルトウィン商工会議所主催の夜会へと向かっていた。
 車内は沈黙に包まれていたが、キアルズがデイラに親しげに話し掛けなくなってずいぶん経つので、珍しいことではなかった。

「……あの」
 少し遠慮がちに、デイラが口を開く。

「直接申し上げる機会がなく遅くなりましたが、辺境伯――お父上のこと、お悔やみ申し上げます」

 デイラはエルトウィンの騎士として葬儀にも参列し、その後も夫人とは幾度となく会っていたが、故人を悼む言葉をキアルズに掛けたのはこれが初めてだった。

「――ありがとう」

 キアルズは翠玉色の目を細める。

「父は高齢だったとはいえ、やっぱり寂しいね……。まだまだ教わりたいこともあったし」

 前辺境伯と夫人は、かなり年の離れた夫婦だった。

「母もすっかり気落ちしてたけど、ずいぶんあなたに力づけてもらったんだってね。ぼくからもお礼を言いたいと思ってたんだ」
「私は何も……」

 エルトウィン大聖堂での葬儀の後、前辺境伯夫人の姿が見当たらなくなったことがあった。

 騎士たちが手分けして捜すことになり、念のためと思いデイラが鐘塔の最上階まで階段を上っていくと、暗い色のドレスに身を包んだ夫人の姿が目に映った。

 壁をくりぬいた覆いのない窓から身を乗り出しているように見えたため慌ててデイラが近づいていくと、それに気がついた夫人はゆったりと微笑んだ。
 早まったことをするつもりはなさそうだとデイラがほっとしていると、夫人は再び外に顔を向け、「結婚式を挙げた後も旦那さまとここに来て、ふたりでエルトウィンの景色を眺めたのよ」と懐かしそうに呟いた。

 吹き抜ける風に栗色の後れ毛を揺らしながら、夫人は「旦那さまは『こんな北の果てまで来てくれてありがとう。何もないように見えるこの地が、あなたにとって何もかもがある場所になるよう願っているよ』とおっしゃったの。――本当にそうなったわ。豊かな自然、善き領民、頼もしい騎士、最愛の家族……。わたくしの愛のすべて」と言い、静かに涙を流した。

 大きな喪失感を埋められるような言葉は見つからず、デイラは夫人が泣きやむまでただ傍についていることしかできなかった。

 それから静養先に発つまでの間、夫人は「次の社交の季節の準備をしておきましょう」と幾度となくデイラを邸に招き、「あなたの装いを考える時間はとても楽しいわ」と、少しずつ元気な笑顔を見せるようになっていった。

 励ますことができればと常に思いながらも、実際には気の利いたことなど何ひとつできなかったとデイラは振り返る。

「爵位を継いだばかりのぼくが忙しく動き回ってる間、あなたが一緒に過ごしてくれて母は本当に救われたって言ってたよ。〝鋼鉄の氷柱つらら〟なんてとんでもない、心優しくて温かい人だって」
「そんな……」

 デイラが首を横に振ると、キアルズの手が頬のあたりにすっと伸びてきた。

「……っ?」

 長い指が耳朶をかすめ、デイラはびくんと肩を揺らす。

「――落ちそうだったよ」

 キアルズの指先には、碧い宝石が摘ままれていた。

「耳飾り」

 若き辺境伯は、六年ぶりに真正面から柔らかいまなざしでデイラを見た。
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