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☆ショートストーリー☆

恋は遠い夜空で輝く星 4

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「え……」

 唐突な問い掛けにアイリーネがぽかんとすると、ルーディカは「不躾で申し訳ありません……」と、気まずそうに視線を下げた。

「キールト様と私がぎくしゃくしているのはお気づきですよね。……実は、冬にお会いしたときに――」

 アイリーネはハッとすると、慌ててあたりを見回した。

 今、この家庭的な温かみのある別荘には、アイリーネとルーディカ、管理人のケニース夫妻、そしてキールトがいる。

 アイリーネに励まされてフォルザに同行することにしたキールトだったが、到着から三日経っても未だにルーディカに声をかけることができず、この日もアイリーネと一緒に朝の鍛錬と食事を済ませると、そそくさと自分が寝起きしている部屋に引っ込んでしまった。

 そのためキールトがこの薬草園の近くにいる可能性は低いが、仕事熱心なケニース夫妻は庭の手入れや清掃のためしょっちゅう屋外に出ているし、ここに隣接する菜園に野菜を採りに来ることもある。

「ル、ルーディカ、急いで草むしりを済ませて、私の部屋に行こう!」

   ◇  ◇  ◇

『今日は、あなたたちにとても大切なお話をします』

 シーン侯爵家で修行を始めて三年が過ぎたころ、女子の見習いであるアイリーネとオディーナだけが侯爵夫人の部屋に呼ばれたことがあった。

 かつては騎士だったという経歴を持つ長身の侯爵夫人は、普段は大口を開けて笑っているような豪快な雰囲気の女性だったが、このときはいつもと違い少々かしこまった様子だった。

 夫人は落ち着いた声で、大人になっていく少年少女の身体に起こる変化や、男女の営みを経て新しい命が生まれること、女性が騎士として生きていく中で気をつけなければならないことなどを、アイリーネたちに説明した。

 子を成すために男女が行うことを簡単な言葉で知らされたとき、修行の一環で世話をしている家畜のことが浮かんだアイリーネは、「へえ、人も同じなのかあ」と思っただけだった。
 オディーナも動物たちの繁殖を連想したようだったが、彼女の方はそれだけに留まらなかった。
 
 夫人の話のあと二人で廊下を歩いていたとき、オディーナは悲愴な表情を浮かべ、「大好きな人に裸のお尻を向けるなんて……どうやって乗り越えたらいいの」と悲しげに呟いた。

 オディーナがそれをしっかりと我が身に引き寄せて捉えていたことを知ったアイリーネは、内心とても驚いた。一方の自分は、まるで部外者のような心持ちでいたからだ。
 当事者になったことを想像しようとしてみたが、霧に覆われているかのように何も浮かんでこなかった。

 月日は経ち、あのとき侯爵夫人から聞かされたような変化が自らの身体にも訪れ、十五おとなになって騎士の叙任を受け、若くしてオディーナが結婚し、同僚たちは日常的に娼館に通い、人間は必ずしも動物のような体勢で交わるわけではないらしいと知ってからも、男女の房事はアイリーネにとって相変わらず遠い世界の出来事だった。

 そんなアイリーネに向かって、作業を終えて部屋に移動したルーディカは、冬に恋人との間に起きたことを包み隠さず打ち明け始めた。

   ◇  ◇  ◇

 ――今夜は、ずっと一緒にいたい――

 前回フォルザに滞在していたとき、キールトはルーディカにそう求めたのだという。
 冬の日の夕食後のこと。その翌朝には、アイリーネと共にフォルザを発たねばならなかった。

 またしばらく離れて過ごさなくてはならない恋人たちは別れを惜しみ、他に誰もいない厨房の釜戸の前で密かにくちづけを交わした。いつも通りに。
 そしてルーディカは、逞しく成長した恋人の背中に腕を回して力いっぱいしがみつき、キールトもそれに応えて華奢な身体をぎゅっと抱いた。――これも、いつも通りに。

 そのときだった。キールトがいつも通りではない言葉を発したのは。

『今夜は、ずっと一緒にいたい』

 そう囁いたキールトは、防寒のためにルーディカが襟元に巻いていた布をほどき、鎖骨のあたりにも柔らかく唇を落とした。

 十三歳の夏に中庭で初めてくちづけをして以来、そうするだけで自分は幸福感でいっぱいになっていたのに、恋人のほうはもっと深い触れ合いを求めていたことを知ったルーディカは愕然とし、思わずキールトを押しのけてしまった。

 出会ったとたんに恋に落ちたあの日から、不思議なほど気持ちが寄り添い、楽しいと思うことや美しいと感じるもの、何かを一緒にしたいと思う瞬間まで、まるで響き合うようにぴたりと重なっていたふたりの、初めての大きな食い違いだった。

 互いに戸惑いながらも、ふたりは自分の気持ちを相手に解ってもらおうとした。

「私は、結婚してからそうなるものだと思っていたと言い、キールト様は、それまで待つのは辛いと……」

 最初から結婚を誓い合っていたふたりだが、身分の違いを越えておおやけに結ばれるにはまだいくつかの課題があり、それが叶うのはいつになるのか分からない。

 ルーディカがどこかの貴族か名士の養女になるか、自らが薬師として大成して名士並みの地位を築かなくては貴族との結婚の許可が下りることはないだろうし、キールトも周りから口出しをさせないために、もっと昇進して士官としての立場を確固たるものにしておく必要がある。

「私も薬師として医療に携わる一員です。未婚でも肌を合わせる恋人たちが、少なからずいるのは知っていますが……」

 窓辺に置かれた椅子にアイリーネと向かい合って腰掛けたルーディカは、青い瞳に憂いを浮かべて言った。

「確実に妊娠を避ける方法などないことも、よく知っています」

 アイリーネも神妙な面持ちで頷く。――しかし、心の中ではおろおろとしていた。
 ルーディカが深刻なのはよく伝わってくるが、ごく身近な幼なじみたちのそんな話をいきなり聞かされたため、頭がついていかない。

 あの夏、くちづけを交わすふたりを見てしまったときも驚きはしたが、おとぎ話の挿絵のような光景だったので全く生々しさはなかった。
 今回はさすがにおとぎ話とはいかない。現実的な悩みに直面した男女の話だ。
 アイリーネからすると濃い霧の向こうにあるものが、彼らの目の前には差し迫った問題として横たわっている。

 自分だけが子供のような感覚でいたことを改めて思い知ったアイリーネの動揺に気づくことなく、ルーディカは話を続けた。

「ご存じのように、私の母は未婚のままで私を産み、すぐに身まかりました」

 ルーディカによく似た美しい女性だったと、アイリーネは聞いたことがある。

「母との思い出はなく、父の素性も分かりませんが、私、ずっと勝手に信じているんです。何らかの事情があったにせよ、父と母は心から愛し合って私に生を授けてくれたんだと」

 ルーディカは目許を優しく和らげた。

「そんなふうに思えるのはきっと、私が祖父母から愛情をたくさん注がれ、伯爵家からも過分なご支援を賜り、アイリ様やキールト様と親しくさせていただいて、ありがたいことに物足りなさを感じることなくここまで来られたからなんだと思います」

 それでも、とルーディカは言葉をつなぐ。

「叶うことなら『あなたが信じているとおり、お父さんとお母さんは深く愛し合っていたんだよ』と誰かからはっきりと言ってもらいたいという気持ちもあるんです」

 祖父母は、ルーディカ誕生の経緯について詳しく語ってはくれない。

「私が相手を明かせないままひとりで出産したとしても、元気でいられるなら子供にそのように話してあげることができますが、もし私も母のように産後すぐに儚くなってしまったら……と思うと、キールト様との仲を公表できないうちは、軽はずみなことはしたくありません」

「あ……あの、そういう心配をしてるってことはキールトにも伝えたの?」

 ルーディカは物憂げな笑みを浮かべた。

「身ごもる可能性があるので不安だと言いましたら、キールトさまは『もしそうなったら、誰が文句を言ってもすぐに結婚する』なんて夢みたいなことを……」

 思慮深いキールトが発した言葉だとアイリーネには思えなかった。
 遊び人の同僚が、「可愛い子とヤるためなら、聞こえのいい美辞麗句がいっくらでもスラスラ出てくるんだよなあ~」などと調子よく語っていたのが頭をよぎり、さすがにキールトは違うはずだと心の中で打ち消す。

「それで私も、『現実を見てください!』って感情的になってしまって。キールト様の方も、『ルーディカは僕のことを信じてないんだな』って苦々しげにおっしゃって……」

 ルーディカは哀しそうにうつむいた。

「きちんと話をしなきゃいけないのは分かっているんですが、また意見が噛み合わなくて険悪な雰囲気になるのが怖いんです……」

 再び不穏になることを恐れているだけで、本当はふたりとも向き合いたいのだと分かったアイリーネは、まずは気軽に言葉を交わせるような機会を設けてみようと考えた。

   ◇  ◇  ◇

「あの青い看板の店?」
「はい。店舗は小さいんですが、外国でしか採れない薬草を乾燥させたものもあって、すごく品揃えのいい薬種店なんですよ」

 次の日、アイリーネはルーディカとキールトを誘い、フォルザの中心街へと出かけた。

 まだ直接話しかけたりするのはためらっている様子のふたりだが、アイリーネが片方と話しているときには、もう一方も隣で穏やかに相槌を打ったりして、徐々に距離が縮まってきているようだ。

「狭い店内なので、私だけ中に入って薬の材料を見てきてもいいですか?」
「もちろん。私とキールトはこのあたりにいるね」
「すみませんが、少しお待ち下さいね」
「慌てないで、ゆっくり買い物してきて」

 温泉保養地ということで、目抜き通りには湯治客らしき人々がのんびりと行き交っている。
 通行の邪魔にならないように道の端に寄り、アイリーネとキールトが温泉の泉質談義をしていると、突然華やいだ女性の声が響いた。

「まあっ、騎士様がたじゃありませんか!?」

 声がしたほうを見てみると、赤味がかった金髪を無造作に束ねた可愛らしい女性が、驚きと嬉しさが混ざったような顔をして立っていた。
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