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☆ショートストーリー☆
入隊の日 2
しおりを挟む大浴場だと教えてもらった建物の二重扉を開けると、壁一面に棚が取り付けられた広い脱衣所があった。
就寝時刻を過ぎているため人の気配はないが、小さな台の上でぽつんと蝋燭の火が揺れている。
消し忘れなんて不用心だなと思いながらフィンは足を踏み入れた。
荷物を下ろすと、浴室に続いているらしき扉の向こうから、かすかな水音が聴こえてきた。
もしかしたら誰かいるのだろうかと、フィンがその扉を薄く開けてみると、湯気の向こうに人影がひとつ見えた。
大きな浴室の奥にある浴槽の手前で、扉の方に背中を向けて立っていたその人は、長い黒髪を手でまとめて肩の前に持っていく。
フィンが声を掛けようとしたとき、浴室の高窓からさあっと明るい月の光が射し込んだ。
発光するように浮かびあがった後ろ姿に、フィンは息を呑む。
それは、フィンが今までに見たことのないような裸身だった。
濡れた黒髪はつややかに輝き、白いうなじと背中に続く腰はなめらかな曲線を描いてくびれ、その下の臀部はくりんと丸く光り、脚はしなやかにすらりと伸びている。
時が止まったかのように呆然とその姿を見ていたフィンは、ふいに外から響いてきた小夜啼鳥のよく通る声で、はっと我に返った。
かろうじて音を立てずに扉を閉めると、フィンは自分の胸を押さえた。驚くほど鼓動が速い。
ここにいてはいけないという思いが湧いてきて、フィンは急いで荷物を抱えて外に出た。
庇の下で外壁にもたれ、今のは何だ? と自分に訊ねる。
にわかに現実とは思えないような光景だった。
フィンの頭の中に、妖精、という言葉がよぎる。
この国には、月夜になると海岸に上がってくるという美しい妖精の言い伝えがある。海の国の服を脱いで月光を浴びているところを見てしまった男性は、すっかり魅了されてしまうのだという。
「あ、あれはただの作り話だし……」
疲労が見せた幻影でもないかぎり、あの人は妖精でも幽霊でもなく、人間なのだろう。
けど、女に見えたぞ? とフィンは訝しげに眉根を寄せた。
女子の見習いを受け容れていない修行先にいたとはいえ、この国に女性の騎士が存在することは当然フィンも知っている。
しかし王宮での叙任式の際に、北の荒くれ者たちと呼ばれるエルトウィン騎士団に同期の女性は一人も配属されなかったので、この最果ての地には女性隊員がいないものだとフィンは思い込んでいた。
駐屯地の近所に住む人たちを雑用のために雇うこともあるようだが、情報漏洩や風紀の乱れなどを防ぐため、晩鐘までには帰宅させるはずだ。女性が働いていたとしても、こんな時間まで残っていることはないだろう。
「じゃあ……やっぱり、さっきの人は……男なのか……?」
フィンは無性にそれを打ち消したい気持ちになる。
「いや、でも、あんなに髪の長い野郎なんて――」
ざらにいる。背後から狙われたときに首を保護するため、わざわざ伸ばしている者もいるくらいだ。
「あ、あんなにケツが丸い野郎なんて――」
男子しかいなかった修行先に丸くて大きな尻をした同輩がいたことをフィンは思い出す。下半身の動きが安定していると教官から褒められていた。
他に否定材料が浮かんで来ず、フィンは呻き声を漏らした。
「てことは、俺は男に……」
そのとき、中から誰かが出てくるような物音がした。フィンは慌てて建物の角を曲がったところに身を潜める。
去っていく足音がする先をそっと覗くと、薄明りの中、黒い脚衣を身に着けて上着を肩に羽織った人物が、ひとつに括った長い黒髪を揺らして颯爽と宿舎の方向に歩いていくのが見えた。
細身だが、確実にフィンよりは背が高い。
「ああ……」
あのぴしっと伸びた背筋は騎士だ。やはり、この駐屯地の隊員だったのだ。
フィンは眉間の皺を深くした。
俺は男にドキドキしたのか? と。
◇ ◇ ◇
ぼんやりと風呂を使い、ぼんやりと宿舎の出入り口に向かうと、庇の下に灯りを持った人が立っているのが見えて、フィンはびくっとした。
「フィン・マナカールか?」
その人が長い黒髪ではなく麦わらのようなボサボサ頭だったことに、フィンはなぜかとてもホッとする。
「あ……はい」
ひょろっとした体型のそばかすの男は、気さくに笑った。
「入隊二年目の、おまえと同室のカノート・クニオルだ。よろしくな。おれのことはカノートでいいぞ。フィンでいいか?」
フィンが頷いて挨拶を返すと、カノートは「長旅お疲れ」と、荷物をひとつ持ってくれた。
「夜勤の先輩が、おまえが着いたってさっき報せに来てくれたんだ」
あの銀髪の先輩が気を回してくれたのだろうかとフィンは思う。
「もう消灯時間に入ってて殆どの人が寝てるから、大きな声は出すなよ」
そう言いながらカノートが宿舎の扉を開けてくれると、どこか土臭いような匂いがした。
「こっちが共用の雨具なんかを掛けとくとこで……ああ、今は暗いから、いろんなとこの説明は明日な」
廊下を並んで歩きながらカノートは言う。
「四人部屋なんだけど、あとの二人はもうぐっすり眠ってるから、絶対に起こすなよ。面倒なことになる」
「はあ……」
「あれっ、おまえ……」
カノートは何かに気づいたかのように蝋燭の灯りをかざし、フィンの姿をまじまじと眺めた。
またチビだの可愛いだの言われるのかと、フィンは身構える。
「かっこよくね?」
フィンは拍子抜けしたようにカノートを見た。
「いいなー。女の子にモテるだろ」
思いがけない言葉にフィンは戸惑う。
今まで身内以外の女性とまともに接する機会などなく、自分がモテるかどうかなんて考えたこともなかった。
「い、いえ……」
モテた記憶はないので素直にそう答えたフィンに、またまたあ、とカノートは肘を軽くぶつける。
「余裕がある奴にかぎってそんなこと言うんだよなあ~。あ、そうだ、おまえ寝つきはいい方か?」
「はあ……。横になると、割とすぐ」
「雑音とかあっても、眠れるか?」
「けっこう平気です」
「良かった」
一番奥の部屋の前に着くと、カノートは神妙な面持ちになって忍び声で念を押した。
「いいか、マジで奴らを起こすなよ? 眠りを妨げられると暴れ出す猛獣だと思え」
フィンもかしこまって頷くと、カノートはそろそろと扉を開けた。
とたんに、大音量のいびきと歯ぎしりが耳に飛び込んでくる。
石畳の上を鉄球でも引きずり回しているかのような音と、硬い異物を挟み込んでしまった石臼のような音の二重奏に、フィンは唖然とした。
カノートは困ったような笑みを浮かべ、ひそひそ声で紹介する。
「いびきがオスレンで、歯ぎしりがガイムだ」
彼らが眠っている上下二段の寝台と同じものが反対側の壁際にも設置されていて、カノートはその近くにフィンの荷物を下ろしながら言った。
「おまえは下の段な。明日の朝は起こしてやるから、あれは斬新な子守歌だとでも思って早く寝ろよ」
カノートは小机に蝋燭を置き、フィンが礼を言う前に「おやすみい」と、素早く梯子を上っていった。
フィンは壁から飛び出している頑丈そうな釘に湿った外套を引っ掛け、いつものように上半身裸になると、灯りを吹き消した。
潜り込んだ寝具は清潔で暖かく、寝台もフィンの身体にはかなり余裕がある大きさで、修行先での雑魚寝よりもずいぶん快適だった。
明日は晴れそうだなと、窓から煌々と部屋の中を照らしている月明かりに何気なく目をやると、ふいにフィンの脳裏に大浴場で目撃した光景が鮮烈によみがえった。
あのときと同じように鼓動が速くなってきて、フィンはうろたえる。
今まで、男から迫られたことはあっても、男に胸が高鳴ったことはない。
あの人だって男だぞ? 湯気や光の加減で女みたいに見えただけだ、とフィンは自分に言い聞かせる。
後ろ姿じゃなくて、いっそこっちを向いていてくれてたらさすがに見間違えなかっただろうに……などと思った瞬間、頭の中であの人がくるりと振り返り、フィンは叫び声を上げそうになった。
どうかしてる、とフィンは頭を振る。
妄想が生み出したあの人の身体は、正面から見てもまろやかな女の形をしていた。
若い女性の全裸などまともに見たことはないが、男を誘惑するという美しい海の妖精のように、とにかくあちこちが魅力的な曲線を描いていた。
フィンは「やべ……」と心の中で呟く。下半身の一部が熱を持って変化し始めているのが分かった。
気を散らさなくてはと寝返りを打ったそのとき、いきなりカノートが上段から顔を覗かせた。
「なあ、言い忘れたけど」
「うわぁっ!?」
フィンの大声が室内にこだまし、カノートが大きく目を見開く。
次の瞬間、ピタリといびきと歯ぎしりが止んだ。
不穏な静けさが漂う中、カノートとフィンは視線を合わせたまま、じっと固唾を呑む。
ややあって不協和音の二重奏が競い合うように再開すると、二人は同時に安堵のため息をついた。
カノートは苦笑しながら「危なかったな」と囁き、話そうとしていたことを思い出したのか、そうそう、と言った。
「フィン、就寝時間中にはするなよ?」
「は……?」
片手を丸め、棒状のものを上下にこするような仕草をした先輩を見て、フィンの耳たぶが染まる。
「そういうことだけは妙に敏感に察知するあいつらに、不名誉なあだ名をつけられたくなかったらな」
いびきと歯ぎしりが発生しているあたりに視線を動かしてカノートはそう忠告すると、「大丈夫そうな時間帯とか、穴場とか、明日教えてやるから」と、ニヤリとして頭を引っ込めた。
肝を冷やしたせいか、いつの間にかフィンの熱くなっていた身体は程よく冷めていた。
予想していた通り、意地の悪いことを言う奴も、親切にしてくれる人もいる。これからもここで沢山の出会いがあるのだろうとフィンは改めて思う。
まずは、〝漆黒のハヤブサ〟の異名を取る小隊長に会えるのが楽しみだな……などと考えているうちに、フィンのまぶたは重くなっていった。
その強者こそがあの月下の人であり、駐屯地で唯一の女性隊員だとフィンが知るのは、もう数刻経ってからのことになる。
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