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☆ショートストーリー☆

林檎草の薬湯【+台詞つきイラスト】

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「そろそろ出発しようぜ」

 雨上がりの朝、巡礼路の途上にある小さな宿の一室で、靴の革紐をしっかりと結び直したフィンは、アイリーネに向かってそう声を掛けた。

「うん」
 アイリーネの方も準備はすっかり整っている。

「今日は峠を越えるんだったよね」
「ああ。宿の主人から聞いたんだが、峠の途中までは馬車で行けるが、上の方はかなりの悪路になってるから、そこは歩いて通り抜けるしかないらしい」
「わかった」

 頷くアイリーネに、フィンはふと目を留めた。
「おまえ、なんだか顔色悪くねえか?」

「そう?」
 アイリーネは自分の荷物をさっと持ち上げた。
「平気だよ。早く行こ」

   ◇  ◇  ◇

 二人が食堂のある一階へと下りていくと、宿のあるじ夫婦は、朝食をとっている客たちを相手に忙しそうに立ち働いていた。

 宿代の支払いは済ませていたので、滑り込ませるための穴が穿うがたれた木箱に部屋の鍵を返し、開け放たれた扉から出て行こうとしたとき、ちょうどおかみと視線が合った。

「お世話になりました」
 離れたところからそれだけ告げて立ち去ろうとすると、おかみは大きな声を出した。
「あっ、ケランさん」

 偽名で呼ばれることにまだ馴染んでいない二人が一拍置いて足を止めると、おかみは「ちょっとお待ちくださいな」と、急いで奥へと駆け込んでいった。

 邪魔にならないよう二人が扉を出たところで待っていると、片手に何かを持ったおかみが息を弾ませて現れた。

「奥さん、よかったらこちらをどうぞ!」
 さらっとした生地で作られた巾着袋が、アイリーネに渡される。

 下膨れの梨が三つは入りそうな大きさのそれは、中身が詰まっているように見えるわりには軽く、手触りはふかふかとしていた。

「え……? あの……」
「昨晩お分けしたものの予備が入ってます」

 アイリーネの頬が、さっと薄赤くなる。
「あ……ありがとうございます。き、昨日も助かりました……」

 おかみは福々しい頬に嬉しそうな笑みを浮かべた。
「このあたりに伝わってるものは工夫されてて使いやすいって、他所よそからいらした方にも好評なんですよ!」
「あ……わ、私もそう思いました……」

 隣で不思議そうな顔をするフィンを気にしながら巾着袋を手早く鞄にしまい、アイリーネは話を切り上げようとした。
「ほ、本当にお世話になりました。もう行かないと……」

「お気をつけて! 次はダラナン湖ですか?」
 おかみが口にした聖地の名前は、二人の旅程とは逆回りの目的地だった。その湖には、この町に到着する前にすでに訪れている。

「いえ、俺たちは北の方から来たんで、次に目指してるのはシノーンなんです」
 フィンがそう答えると、おかみは驚いたような声を上げた。
「えっ、それじゃあ、これからラゲ峠を越えられるんですか?」
「ええ」

 おかみは心配そうに眉を曇らす。
「あの峠は、険しい道をご自分の足で進まなきゃいけないところがあるんですよ」

「ああ、ご主人からもそう聞きました。昨日みたいに急に天気が変わるかも知れないし、早く向かった方が良さそうですね」

 それには答えず、おかみは少しだけ沈黙すると、遠慮がちに切り出した。
「差し出がましいようですが、どうしても今日発たなきゃなりませんか?」

 戸惑いを浮かべた二人を、おかみは気づかわしげに見る。
「うちには今夜も空いてるお部屋がありますし、せめて一日でもご出発を遅らせた方が……」
「え……」



 アイリーネとフィンは今、そりが合わない同僚の騎士ではなく、結婚の記念に聖地を巡礼している若夫婦……ということになっている。
 本物の夫なら、共に旅する妻の月の巡りくらい把握しているものだろう。――だが。

「だっ、大丈夫です!」
 アイリーネは慌てておかみに言った。
「私は全然――」

 突然、きっぱりとした声が横から遮る。
「延泊、お願いします」

「えっ」
 思わず隣に目をやると、フィンもアイリーネの方に顔を向けた。

「リーネ……ごめん」
 水色の瞳を切なそうに細めたフィンから謝罪され、一瞬アイリーネはぎょっとしたが、その大げさな表情から例の愛妻家芝居が始まったのだとすぐに気がついた。

「そこまで大変な道のりだとは思っていなかったんだ……。危うく君に無理をさせてしまうところだったよ」

 おかみの手前、フィンが〝妻を案じる夫〟を演じているのは解ったが、いくら旅程に余裕があるからといって、ここでモタモタすることもなかろうとアイリーネは思う。
「でも、峠越えくらい私は……」

「――リーネ」
〝妻〟の言葉を封じるかのように、〝夫〟の指先がそっと唇に触れる。
「そこまで急ぐ旅じゃないだろう? おかみさんの言う通り、今日はゆっくり身体を休めて欲しいんだ」

 懇願するようなまなざしでじっと見つめながら、フィンはアイリーネの頬を優しく撫でた。
「何よりも君が大切なんだよ……。お願いだから、出発は明日に延ばそう」

 熱演が過ぎるんだけど!? と心の中で叫びながら、小っ恥ずかしい茶番を一刻も早く止めたい一心でアイリーネが唇を結んで頷くと、フィンは安堵したように表情を和らげた。

 二人のやりとりを見守っていたおかみがにっこりと笑う。
「新婚さんはいいですねえ……!」

   ◇  ◇  ◇

 改めて部屋に案内された二人は、中に入るとさっそく押し問答を始めた。

「平気なのに!」
「うるっせーな」

 フィンは愛妻家の仮面を外し、いつもの不機嫌顔になる。
「ごちゃごちゃ言わずに、おとなしく休んどけ」

「た、隊務がこなせるくらいなんだから、私は軽いのっ」
 毎月の症状が重いことが原因で泣く泣く騎士を辞める女性隊員もいるそうだが、幸いアイリーネの体調は平常時とほとんど変わらない。

「どこかが痛くなったりもしないし、強いて言えば、いつもより眠くなりやすいくらいで――」
 自分の身体について詳しく語っていることが急に気恥ずかしくなってきたアイリーネが途中で口ごもると、フィンは眉間に皺を寄せた。

「じゃあ、寝ろ」
 フィンの足は扉の方へと向かう。
「少ししたら戻るから、それまでに寝間着で横になっとけよ」
 かつての部下は、かつての上官に命じるかのようにそう言い残し、部屋を出て行った。

   ◇  ◇  ◇

 言いつけ通りにするのは癪なような気もしたが、これ以上揉めるのもばかばかしいので、アイリーネは寝衣に着替えて二人用の大きな寝台に上がった。

 上掛けに両脚を突っ込み、枕元の飾り板にもたれ、ふう、と息を漏らす。

 王都まではひと月以上かかるのだから、この日が巡ってくることは分かっていたし、準備だってきちんとしてきた。しかし間が悪いことに、昨夕この町に着いたときに突然の大雨に見舞われ、鞄の中まで濡らしてしまったところに始まってしまったのだ。

 やむなく宿のおかみを頼ったことで、まさかフィンにまで知られるはめになるとは……。アイリーネは再び溜め息をついた。

 小さな窓の向こうでは、樫の木の葉っぱが軟らかな風に揺らされて陽光をきらきらと照り返し、小鳥たちは軽やかに跳ねながら枝を渡っている。
 のどかな風景をアイリーネが眺めていると、扉を叩く音がしてフィンが入ってきた。

「――ほら」
 アイリーネの側の小さな机の上にフィンが置いた脚付きの杯から、湯気とともに甘くて爽やかな匂いがふわっと立ちのぼる。

「……林檎草?」
 リンゴのような香りがするその花を煎じた薬湯は、女性特有の辛い症状を和らげると言われている。
 フォルザの別荘でも、早くから薬師を志していた幼なじみのルーディカが、よく姉たちから頼まれて作っていた。

 驚いたように顔を上げたアイリーネから、フィンは少しきまりが悪そうに視線を逸らす。
「……おかみさんに訊いたらちょうど乾燥させたものがあったから、淹れさせてもらった。熱いから気をつけろよ。飲んだら寝ろ」

「ど、どうも……。でも本当に、横になって休むほどじゃ……」

 フィンはアイリーネを無言で睨むと、上着を脱いで椅子の背に引っ掛け、アイリーネの隣にごろりと寝転がった。
「せっかくだから、俺は寝る」

 そう宣言し、フィンはまぶたを閉じる。
「夜勤明けでもない限り、昼間っから眠れることなんてなかなかねーからな。おまえだって、『こんなふうにのんびり旅行できる機会なんてめったにない』って言ってただろ。恩恵にあずかっとけ」
「けど……」

「身体冷やすなよ。……上掛けは、必ず……しっかり……」
 眠そうな声が途切れたかと思うと、たちまちフィンは寝息を立て始めた。

 少し呆気に取られていたアイリーネの鼻腔を、リンゴを思わせる香りがくすぐる。
 アイリーネは傍らの杯をそっと手に取り、湯気を漂わせている黄水晶のような色をした液体をじっと眺めた。
 匂いは知っているが、薬湯のたぐいが苦手なアイリーネは、これを口にしたことはない。

 恐る恐るといった様子でひと口飲んでみたアイリーネは、目を見開いた。
「……おいしい……」

 蜂蜜が加えてあるのか少し甘いそれは、身体の中からほわりとしみ込んでくるようだ。
 ふた口めからはもう止まらず、アイリーネはあっという間にすべてを飲み干してしまった。
 
 空になった杯を机の上に戻し、アイリーネはすやすやと眠っているフィンを見おろした。
 起きているときのちょっとふてくされたような表情が消えていると、邪気のない子供のようだ。

 正直、先刻のフィンの反応はアイリーネにとって意外だった。
 
 男性が大半を占める騎士の世界で、月のものが揶揄や皮肉まじりに語られる場面には幾度となく遭遇してきた。
 もちろん、そういうことは未熟な子供たちが集まる見習い時代に顕著だったのだが、『高潔であれ』を信条にしているはずのエルトウィン騎士団に配属されてからも、全くなかったわけではない。

 思っていたよりもフィンは大人なのかも知れない。

 薬湯を「淹れさせてもらった」とフィンが言っていたのをアイリーネは思い出す。
 林檎草の効能や上手な煎じ方、身体を冷やしてはいけないなどの留意点を、この年下騎士はいったい誰から教わったのだろう。
 フィンが幼いころから修行時代を過ごしたというティアス侯爵家は女子の見習いに門戸を開いていないし、叙任されてからずっと所属している隊にも、女性はアイリーネしかいない。

「やっぱり……」
 以前にもよぎったことがあるが、フィンには親密な女性がいるのかも知れない。
 
「……へえ」
 異性への理解が深まるような相手と付き合うのは、喜ばしいことのはずだ。

 同等の立場になってからは何かと張り合ってばかりだが、個人的な色恋沙汰にまで対抗心を燃やすつもりはない。けれど、どこか面白くないような気分になってしまうのがアイリーネは自分でも不可解だった。

 モヤモヤを断ち切るかのように、アイリーネは上掛けをぐいっと引き上げて横になった。

「……ん」
 振動が伝わったのか、フィンは身じろぎすると、かすかに唇を開いた。
「……リーネ……」

 アイリーネの動きが止まる。
 その囁き声は、妻を愛する夫を演じているときのように甘やかだった。

「……は……?」
 困惑しつつアイリーネが様子をうかがうと、先ほどまでと同じように、フィンは平和な顔をして寝息を立てていた。

 アイリーネの唇から気が抜けたような息が漏れ、笑みが浮かぶ。
 夢の中まで頑張って演技しているのかと思うと、いつもは小憎らしいこの年下騎士が何だか健気に見えてきた。

 最初は憂鬱でしかなかったフィンとの二人旅だが、案外うまくいっているのかも知れない。

 規則正しい呼吸音と林檎草の残り香が妙に心地よく、アイリーネも眠りへと誘われていった。
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