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49 逝かないで
しおりを挟む狭くて薄暗い廊下をアイリーネは歩いていた。
秘密の区域に入るために使った通路とよく似ているが、あれよりも更に暗く感じる。
突き当たりに見える光を目指して行けば、晩餐をとった部屋にたどり着けるのだろうか。
宰相に案内されて通ったときには、ご馳走の匂いが漂ってきたが、今はそれもない。
あのときと違い、アイリーネはひとりだ。
音もしない。自身の足音さえもなぜか耳に届いてこない。
奇妙さに、背筋がぶるっと震える。
早くここを抜けて、あの明るいところに出たいとアイリーネは願った。
足を急がせているつもりだが、なかなか思うように前に進まない。
長い裾のせいだろうか。本当に、ドレスなんて動きづらいだけで、いいことなんて何ひとつない――はずだった。
不思議なことに、ひだ付きの袖や長い裾がさらさらと優しく揺れると、アイリーネの心はほんの少し浮き立つ。
昨日、盛装したアイリーネのことを「すっごく綺麗だよねえ?」とヴリアンから訊ねられたフィンが、耳たぶを赤くして「ああ」と答えてからだ。
歩きながら、アイリーネは自分の衣装を見下ろす。
前日のドレスはヤグルマギクのような青色だったが、いま身に着けているのは深みのある紅色だ。
今日の恰好はフィンの目にどう映っていただろうか……などと今さらながら考えてしまい、アイリーネは何年か前の出来事を思い出し、気恥ずかしそうな苦笑いを浮かべた。
ドミナン伯爵家の跡取りである一番上の姉の縁談がまとまり、盛大に結婚式が執り行われたときのことだ。
休暇が取れたのでアイリーネも出席することになり、実家に三日ほど滞在した。
式の朝、主役である長姉は別の部屋で支度をしていたが、三人の妹たちは広い部屋で一緒に準備をすることになった。
アイリーネは騎士の正装である儀礼服で出席したかったのだが両親が認めるはずもなく、母が用意しておいてくれた衣装や宝飾品をおとなしく身に着けた。髪型なども「いかがいたしましょうか」と訊かれても全く分からないので、侍女に一任した。
順調に身繕いが終わり、やれやれと思いながらアイリーネが振り返ると、次姉と妹の周りは騒乱状態になっていた。
それぞれがまるで主役であるかのように細部にこだわり、衣装や宝飾品、髪型や化粧、靴や香りに至るまであれこれと熱心に注文をつけ、侍女たちを右往左往させていた。
目を丸くしたアイリーネに、傍らにいた侍女がこっそりと「今日は、お嬢様がたが気になっている男性たちも出席されるそうですよ」と教えてくれたのだが、それを聞いてアイリーネはますます驚いた。
好感を持っている男性と同席するというだけで、ここまで大騒ぎするなんて……と。
お気に入りの耳飾りが修復不可能なほど壊れてしまったと悲嘆にくれる姉を慰め、注文して取り寄せた髪飾りの色が見本と全然違うと癇癪を起こす妹をなだめ、慌てた侍女が床にばらまいてしまった髪留め針を拾うのを手伝ったりしているうちにだんだん疲れてきたアイリーネは、やんわりと「もうそれで十分素敵だと思うよ?」と声を掛けてみた。
すると、まだ十二の誕生日も迎えていない妹が、「アイリお姉さま」とキッと眉間に皺を寄せ、まるでこの世の真理のように言い放った。
「好きな人には、最高にきれいな姿を見せたいものでしょう!?」
自身が抱いたことのない心理に接したアイリーネは衝撃を受け、喧噪に満ちた部屋から抜け出して厩舎で馬を撫でて心を和ませたりしたのだが、今なら少しは姉妹の気持ちが解るような気がする。
フィンから眩しげに見られたり、褒められたりすると、気恥ずかしいけれどなんだか嬉しい。
ふと、フィンはどこにいるんだろうかとアイリーネは思う。
通路の中で視線をさまよわせ、フィン、と名前を口にしてみると、声は静寂に吸い込まれた。
再び胸がざわめく。沼地を行軍しているときの靴の中のようにじゅくじゅくと浸み込んでくる不安を振り切ろうと、アイリーネは懸命に足を前に動かした。
「あ……」
ようやく通路を抜けると、予想通り、そこは王を囲んで食事をした部屋だった。
皿が並んでいた机の上はきれいに片づけられ、しんとして誰もいない。
「みんな……どこ?」
大きな扉を開けて廊下に出る。やはり人の気配はなかった。
アイリーネはルーディカが使っていた部屋を目指した。そこで何かが起きたような気がするのに、霧に包まれたかのようにはっきりしない。
不穏な胸騒ぎばかりが募ってきて、アイリーネは早足になった。
扉を開けると、ついさっきまで見ていた内装が目に飛び込んでくる。
――ついさっきまで?
「……私、ここにいたんだっけ……?」
アイリーネは静まり返った室内を不思議そうに見回す。
火が入っていない暖炉、天蓋付きの寝台、長細い窓を覆う鎧戸、もう一つの寝台、続き部屋への小さな扉。
蝋燭の火が揺れている机の上には、ルーディカが暗記しようとしていた挨拶の原稿と、色とりどりの細工で飾られた美しい小箱が蓋が開いた状態で置かれていた。
その箱に入っていたものが何だったのか、思い出したいのに思い出せない。近づいて見ようとしたアイリーネのつま先に、何かが当たった。
足下に視線を向けたアイリーネは、ぎょっとしたように目を見開く。
扉を開けた瞬間になぜ気づかなかったのだろうと慌てながら、アイリーネはその場に跪いた。
「フィン?」
そこには、夕餉のときと同じ服装のフィンが仰向けで横たわっていた。
「ど、どうして……」
灯りが点いていても薄暗い床の上で、目をつぶったフィンの顔は蝋のように白く見える。
「ね、ねえ、なんでこんなところに――」
不安げにフィンの身体に視線を走らせたアイリーネはヒッと喉の奥を鳴らすと、その音を引きずるように長い悲鳴を上げた。
豪華な刺繍が施された上着に包まれたフィンの胸には、木製の開封刀が禍々しく突き立っていた。
「フィン、フィンッ」
動かない腕をさすり、肩を揺さぶり、両手で頬を包み込む。
昨夜はあんなに熱かったフィンの頬は氷のように冷たい。温めようとするかのように、アイリーネは震える手で頬を擦った。
ひんやりとした唇に触れ、閉じられたままのまぶたをなぞりながら、アイリーネは何度も何度もフィンの名前を呼ぶ。
返事はない。顔を寄せても小さな吐息すら感じられない。首を触っても脈が拾えない。冷たい。どこもかしこも、冷気が立ち上ってきそうなほどひんやりとしている。
「フィン……いや……」
かき抱くアイリーネの身体も、触れているところからどんどん冷え凍っていく。
「いやだ、フィン、いやっ……!」
目を開けて。逝かないで。いなくならないで。
アイリーネは声を限りに叫んだ。
◇ ◇ ◇
水中から顔を出したときのように大きく口を開けて呼吸すると、アイリーネの目にはうっすらと一対の水宝玉が映った。
母が特別な日にだけ着けるあの耳飾りだろうかと、アイリーネはぼんやり思う。
父からの初めての贈り物だというそれは、姉の結婚式の際にも母の耳たぶで輝いていた。
宝飾品には殆ど興味がないアイリーネだが、その爽やかな色合いは小さい頃から好きだった。仔犬だったグロートの瞳を初めて見たときにも、あの石が浮かんだ。
不思議なことに、いま目の前で揺れている水宝玉は、とけかかった氷のように、ぽた、ぽたと雫を落としている。
宝石ってとけるときも綺麗なんだな……などと眺めているうちに、霞んでいたアイリーネの視界は徐々に晴れていった。
「……リーネ……?」
突然耳に入ってきた声にアイリーネが目を凝らすと、そこには水宝玉ではなく、大きく見開かれた水色の双眸があった。
「……ィ……!?」
フィンだ。フィンが生きている! アイリーネは飛び上がりたいような気分で名前を呼ぼうとした。
「……ィ……ッ」
しかし、喉に力が入らなくて上手く声が出せない。
「リーネ……!」
握っていたアイリーネの左手をフィンは自分の方に引き寄せ、震える声で呟いた。
「……神様……感謝します」
神様にお礼を言いたいのはアイリーネの方だ。フィンがここにいる。手も、こんなに温かい。
「……フィ……ッ」
「ああ、無理に話そうとしなくていい。目を覚ましたら一安心だって聞いてるけど、口が回るようになるのにはもう暫くかかるらしい」
一安心? と思ったところで、アイリーネは自分が見覚えのない寝台に横たわっていることに気がついた。フィンはその傍らに置かれた椅子に腰掛けている。
「こ……こは……?」
「王宮の医務室だ」
そこでようやく、アイリーネは何があったのかを思い出した。
あの開封刀によって命が危うくなっていたのは、フィンではなくアイリーネの方だったのだ。
「一昨日、式典は無事に終わった。ルーディカさんのお披露目も滞りなく済んだぞ」
ルーディカには危害が及ばなかったことが分かり安堵しながら、いつの間にそんなに時が経っていたのかとアイリーネは驚く。
「フィ……ンは……」
先ほど見ていた光景が夢だったというのは理解したが、意識を失う直前に目にしたのは、イドランが開封刀を構えてフィンに向かっていくところだった。
「だいじょ……うぶ?」
アイリーネは気づかわしげにフィンを見上げた。
毒に侵されたりはしていない様子だが、やつれ顔なのと、両手の甲側の指の付け根あたりが赤黒くなっているのが気になる。
フィンは眉根を寄せた。
「俺の心配なんて――」
水色の目の表面に水分が盛り上がる。
「くそ……」
顔を見せたくないのかフィンは深く俯くが、視点が下にあるアイリーネからは上手く隠すことができなかった。
形の良い鼻先を伝って、きらきらと水滴が落ちていく。
夢現で見た水宝玉の雫の正体を知り、アイリーネは慌てた。
「フ、フィ……、泣いて……るの?」
掠れた返事が戻ってくる。
「……そうだよ」
指で乱暴に涙を払い、また溢れさせて、フィンは言った。
「よく憶えとけ。おまえに何かあったときだけ、俺は泣くんだ……」
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