32 / 52
32 愛する人だけに
しおりを挟む「フィン、聞いて……!」
花の香りが残る上掛けに、制圧術の手本のようにうつぶせに組み伏せられたフィンは、抵抗しようとはせず呆れ声でアイリーネに頼んだ。
「聞くから放してくれ……」
拘束を解かれたフィンは、身体を起こしてあぐらをかき、腕をさすりながらぼやく。
「……結婚を承諾した直後に、相手に制圧術を繰り出す女なんて聞いたことねえぞ」
「ご、ごめん、つい……」
アイリーネはフィンと向かい合うようにしてぺたりと座ると、肩をすぼめて視線を落とした。
「い……嫌なわけじゃないんだけど」
「――けど?」
勢いを削がれたフィンは、不満げに腕組みをする。
「……あっ、あんまり」
「あんまり?」
「……気持ち良くしすぎないで欲しい……」
消え入りそうな声で言ったアイリーネを、フィンは虚を衝かれたような顔で見た。
「……は?」
アイリーネは胸元まで紅潮させて言う。
「わけ分かんなくなるの、すごく恥ずかしい……。そ、そっちは、征服欲が満たされたりするのかも知れないけど」
「征服欲……?」
訝しげに繰り返したフィンは、はっとしたような顔をした。
「男爵邸でクロナンが話してたのを聞いたのか?」
アイリーネは下を向いたまま、寝衣の腿のあたりをぎゅっと握りしめる。
「わ、私ばかりあんなふうにみっともなくなるのは嫌だ……」
しばらく言葉もなくアイリーネを見つめ、フィンは小さく息を吐いた。
「……アホのクロナンの戯言なんか真に受けんなよ」
その声には、先ほどまでの刺々しさはなかった。
「よく聞けよ? 身も心も征服されて翻弄されてるのは、俺の方だからな。おまえに受け容れてもらいたくて、気持ち良くなって欲しくて、奥の奥まで触れたくて、鼻息荒くして情けないくらい必死なのはこっちだぞ」
アイリーネが顔を上げると、フィンはきっぱりと言い切った。
「おまえはどんなふうになろうが、可愛いだけだ」
煙水晶の瞳が大きく見開かれると、今度はフィンが照れくさそうに視線を逸らした。
「そ、それより、あのときは俺も初めてだったから全然余裕なくて、おまえにはいい思い出なんてなかっただろうと思ってたから、わけが分からなくなるくらい気持ち良かったなんて聞くと、正直……」
「――ええっ!?」
アイリーネは素っ頓狂な声を上げる。
「なんだよ?」
「フィンも……初めてだったの?」
フィンは眉間に皺を寄せた。
「そんなにびっくりすることかよ?」
「だ、だって……」
不機嫌そうに睨まれ、アイリーネの声は小さくなる。
「駐屯地のそばには花街だってあるし……」
「俺は好きな女とがいい」
「それに初めてにしては、その……なんか、いろいろと心得てたような」
「はあ? こっちは無我夢中でそんな――」
話の途中で、フィンは何か思い当たったような顔をした。
「まあ、騎士仲間からしょっちゅうそういう話を聞かされるからってのもあるだろうし、俺の場合は兄貴が……」
「お兄様?」
フィンはあまり気が進まない様子で打ち明けた。
「四人もいると、中にはお節介なのもいて……独身時代かなりの遊び人だった二番目の兄貴なんだけど。俺が騎士に叙任されてエルトウィンに向かう前に、頼んでもねーのに『今後、絶対に役に立つから!』って、三日くらいかけて微に入り細に穿ち、勝手にあれこれ解説やら忠告やらしてきて……」
「三日……」
「うるせーとか言って聞き流してたつもりだったんだけど、結構頭に残ってたのかもな」
アイリーネは「それにしたって、話を聞いただけでそこまで――」と言い掛けたところで口をつぐんだ。
新入隊員のころから、フィン・マナカールの呑み込みの早さは、上官や先輩たちの間で定評があった。
座学から実技に移るとき、いつもいち早くコツを掴んで上手くこなせるようになるのがフィンだったのだ。
その才能は騎士としての分野にのみ発揮されるわけではなかったのかと、アイリーネが密かに慄いていると、フィンがボソッと呟いた。
「おまえが初めてだったって方がよっぽど驚きだろ」
あの夜、破瓜の徴を目にして動転していたフィンがアイリーネの脳裏に浮かぶ。
「長期休暇に入るといつも、幼なじみの婚約者と嬉しそうにフォルザの別荘に向かうんだから、当然、とっくにそういう仲だと思うだろ?」
「あ……」
「俺は、長い休みのたびに無駄にモヤモヤしてたってことだよなあ……」
面白くなさそうに言うフィンを前に、アイリーネは身を縮こまらせた。
「な、なんかごめん……」
「……いや。結果的には……嬉しかったし……」
フィンはうっすらと赤くなった顔を隠すかのように片方の手の甲で頬をこすった。
「二番目の兄貴は、『相手の過去に一喜一憂するような奴は器が小さい』って言ってた気がするけど」
自分も似たようなことで何となくつまらないような気分になったことがあったのを、アイリーネは思い出した。
愛妻家を見事に演じていたフィンの所作が、誰かとの交際経験によって身に付いたものなのではないかと勘繰ったときだ。
もしかしたらあの頃にはもうフィンのことが気になり始めていたのだろうかなどと考えている間に、フィンは膝立ちで移動してアイリーネの背後に回り込んでいた。
「あっ、え……?」
腰を下ろしたフィンに肩を引き寄せられ、アイリーネはフィンの胸に背中を預ける形になる。
「……リーネ」
どきっとするほど近くで聴こえたフィンの声は、いつもより少し低く響いた。
「これからも、俺だけが『リーネ』って呼んでいいんだよな?」
「え?」
「シーン侯爵家があるセイヴィス地方の言い伝えなんだって?」
「そのこともオディが話したの? それともキールト?」
まだ乾ききっていない黒髪を撫で寄せ、フィンは耳の後ろに口づける。アイリーネの素肌の肩がびくっと揺れた。
「愛する人だけに許した呼び名を持つ妻は、一生幸せに暮らせるんだってな」
侯爵家で修行をしていたとき、その伝説を聞きつけて宿舎に走り込んできたオディーナが「わたし、未来の旦那さまには『ディー』って呼んでもらうことにするわ! アイリはどうする?」と目を輝かせて迫ってきたので、アイリーネはぴんと来ないながらも懸命に想像力を働かせ、「私は……『リーネ』かなあ」と答えたことがあった。
「偽の夫からそんなふうに呼ばれて気分悪かったか?」
後ろから回って来た腕が、柔らかい布地に包まれたアイリーネの身体を抱きすくめる。
「は……初めのころは変な感じだったけど、だんだん……あっ」
胸元で結ばれていた幅の広い布紐がフィンの指に引っ張られて解けると、はらりと寝衣が開けて、ふたつの白い膨らみが露わになった。
0
お気に入りに追加
103
あなたにおすすめの小説

サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由
フルーツパフェ
大衆娯楽
クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。
トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。
いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。
考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。
赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。
言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。
たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。
後宮の胡蝶 ~皇帝陛下の秘密の妃~
菱沼あゆ
キャラ文芸
突然の譲位により、若き皇帝となった苑楊は封印されているはずの宮殿で女官らしき娘、洋蘭と出会う。
洋蘭はこの宮殿の牢に住む老人の世話をしているのだと言う。
天女のごとき外見と豊富な知識を持つ洋蘭に心惹かれはじめる苑楊だったが。
洋蘭はまったく思い通りにならないうえに、なにかが怪しい女だった――。
中華後宮ラブコメディ。

今夜は帰さない~憧れの騎士団長と濃厚な一夜を
澤谷弥(さわたに わたる)
恋愛
ラウニは騎士団で働く事務官である。
そんな彼女が仕事で第五騎士団団長であるオリベルの執務室を訪ねると、彼の姿はなかった。
だが隣の部屋からは、彼が苦しそうに呻いている声が聞こえてきた。
そんな彼を助けようと隣室へと続く扉を開けたラウニが目にしたのは――。
極悪家庭教師の溺愛レッスン~悪魔な彼はお隣さん~
恵喜 どうこ
恋愛
「高校合格のお礼をくれない?」
そう言っておねだりしてきたのはお隣の家庭教師のお兄ちゃん。
私よりも10歳上のお兄ちゃんはずっと憧れの人だったんだけど、好きだという告白もないままに男女の関係に発展してしまった私は苦しくて、どうしようもなくて、彼の一挙手一投足にただ振り回されてしまっていた。
葵は私のことを本当はどう思ってるの?
私は葵のことをどう思ってるの?
意地悪なカテキョに翻弄されっぱなし。
こうなったら確かめなくちゃ!
葵の気持ちも、自分の気持ちも!
だけど甘い誘惑が多すぎて――
ちょっぴりスパイスをきかせた大人の男と女子高生のラブストーリーです。
どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします
文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。
夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。
エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。
「ゲルハルトさま、愛しています」
ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。
「エレーヌ、俺はあなたが憎い」
エレーヌは凍り付いた。
月の後宮~孤高の皇帝の寵姫~
真木
恋愛
新皇帝セルヴィウスが即位の日に閨に引きずり込んだのは、まだ十三歳の皇妹セシルだった。大好きだった兄皇帝の突然の行為に混乱し、心を閉ざすセシル。それから十年後、セシルの心が見えないまま、セルヴィウスはある決断をすることになるのだが……。
私に告白してきたはずの先輩が、私の友人とキスをしてました。黙って退散して食事をしていたら、ハイスペックなイケメン彼氏ができちゃったのですが。
石河 翠
恋愛
飲み会の最中に席を立った主人公。化粧室に向かった彼女は、自分に告白してきた先輩と自分の友人がキスをしている現場を目撃する。
自分への告白は、何だったのか。あまりの出来事に衝撃を受けた彼女は、そのまま行きつけの喫茶店に退散する。
そこでやけ食いをする予定が、美味しいものに満足してご機嫌に。ちょっとしてネタとして先ほどのできごとを話したところ、ずっと片想いをしていた相手に押し倒されて……。
好きなひとは高嶺の花だからと諦めつつそばにいたい主人公と、アピールし過ぎているせいで冗談だと思われている愛が重たいヒーローの恋物語。
この作品は、小説家になろう及びエブリスタでも投稿しております。
扉絵は、写真ACよりチョコラテさまの作品をお借りしております。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる