年下騎士は生意気で

乙女田スミレ

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32 愛する人だけに

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「フィン、聞いて……!」

  花の香りが残る上掛けに、制圧術の手本のようにうつぶせに組み伏せられたフィンは、抵抗しようとはせず呆れ声でアイリーネに頼んだ。

「聞くから放してくれ……」

  拘束を解かれたフィンは、身体を起こしてあぐらをかき、腕をさすりながらぼやく。

「……結婚を承諾した直後に、相手に制圧術を繰り出す女なんて聞いたことねえぞ」
「ご、ごめん、つい……」

 アイリーネはフィンと向かい合うようにしてぺたりと座ると、肩をすぼめて視線を落とした。

「い……嫌なわけじゃないんだけど」
「――けど?」

  勢いを削がれたフィンは、不満げに腕組みをする。

「……あっ、あんまり」
「あんまり?」

「……気持ち良くしすぎないで欲しい……」

  消え入りそうな声で言ったアイリーネを、フィンは虚を衝かれたような顔で見た。

「……は?」
 
 アイリーネは胸元まで紅潮させて言う。

「わけ分かんなくなるの、すごく恥ずかしい……。そ、そっちは、征服欲が満たされたりするのかも知れないけど」

「征服欲……?」
  訝しげに繰り返したフィンは、はっとしたような顔をした。
「男爵邸でクロナンが話してたのを聞いたのか?」

  アイリーネは下を向いたまま、寝衣の腿のあたりをぎゅっと握りしめる。
「わ、私ばかりあんなふうにみっともなくなるのは嫌だ……」

  しばらく言葉もなくアイリーネを見つめ、フィンは小さく息を吐いた。

「……アホのクロナンの戯言なんか真に受けんなよ」

 その声には、先ほどまでの刺々とげとげしさはなかった。

「よく聞けよ? 身も心も征服されて翻弄されてるのは、俺の方だからな。おまえに受け容れてもらいたくて、気持ち良くなって欲しくて、奥の奥まで触れたくて、鼻息荒くして情けないくらい必死なのはこっちだぞ」

  アイリーネが顔を上げると、フィンはきっぱりと言い切った。
「おまえはどんなふうになろうが、可愛いだけだ」

  煙水晶の瞳が大きく見開かれると、今度はフィンが照れくさそうに視線を逸らした。

「そ、それより、あのときは俺も初めてだったから全然余裕なくて、おまえにはいい思い出なんてなかっただろうと思ってたから、わけが分からなくなるくらい気持ち良かったなんて聞くと、正直……」

「――ええっ!?」
  アイリーネは素っ頓狂な声を上げる。

「なんだよ?」
「フィンも……初めてだったの?」

 フィンは眉間に皺を寄せた。
「そんなにびっくりすることかよ?」

「だ、だって……」
  不機嫌そうに睨まれ、アイリーネの声は小さくなる。

「駐屯地のそばには花街だってあるし……」
「俺は好きな女とがいい」

「それに初めてにしては、その……なんか、いろいろと心得てたような」
「はあ? こっちは無我夢中でそんな――」

  話の途中で、フィンは何か思い当たったような顔をした。

「まあ、騎士仲間からしょっちゅうそういう話を聞かされるからってのもあるだろうし、俺の場合は兄貴が……」
「お兄様?」

  フィンはあまり気が進まない様子で打ち明けた。

「四人もいると、中にはお節介なのもいて……独身時代かなりの遊び人だった二番目の兄貴なんだけど。俺が騎士に叙任されてエルトウィンに向かう前に、頼んでもねーのに『今後、絶対に役に立つから!』って、三日くらいかけて微に入り細に穿ち、勝手にあれこれ解説やら忠告やらしてきて……」
「三日……」
「うるせーとか言って聞き流してたつもりだったんだけど、結構頭に残ってたのかもな」

  アイリーネは「それにしたって、話を聞いただけでそこまで――」と言い掛けたところで口をつぐんだ。

  新入隊員のころから、フィン・マナカールの呑み込みの早さは、上官や先輩たちの間で定評があった。
 座学から実技に移るとき、いつもいち早くコツを掴んで上手くこなせるようになるのがフィンだったのだ。

  その才能は騎士としての分野にのみ発揮されるわけではなかったのかと、アイリーネが密かにおののいていると、フィンがボソッと呟いた。

「おまえが初めてだったって方がよっぽど驚きだろ」

  あの夜、破瓜のしるしを目にして動転していたフィンがアイリーネの脳裏に浮かぶ。

「長期休暇に入るといつも、幼なじみの婚約者と嬉しそうにフォルザの別荘に向かうんだから、当然、とっくにそういう仲だと思うだろ?」
「あ……」

「俺は、長い休みのたびに無駄にモヤモヤしてたってことだよなあ……」

  面白くなさそうに言うフィンを前に、アイリーネは身を縮こまらせた。
「な、なんかごめん……」

 「……いや。結果的には……嬉しかったし……」
  フィンはうっすらと赤くなった顔を隠すかのように片方の手の甲で頬をこすった。

「二番目の兄貴は、『相手の過去に一喜一憂するような奴は器が小さい』って言ってた気がするけど」

  自分も似たようなことで何となくつまらないような気分になったことがあったのを、アイリーネは思い出した。
 愛妻家を見事に演じていたフィンの所作が、誰かとの交際経験によって身に付いたものなのではないかと勘繰ったときだ。

  もしかしたらあの頃にはもうフィンのことが気になり始めていたのだろうかなどと考えている間に、フィンは膝立ちで移動してアイリーネの背後に回り込んでいた。

「あっ、え……?」
  腰を下ろしたフィンに肩を引き寄せられ、アイリーネはフィンの胸に背中を預ける形になる。

「……リーネ」
  どきっとするほど近くで聴こえたフィンの声は、いつもより少し低く響いた。

「これからも、俺だけが『リーネ』って呼んでいいんだよな?」
「え?」
「シーン侯爵家があるセイヴィス地方の言い伝えなんだって?」
「そのこともオディが話したの? それともキールト?」

  まだ乾ききっていない黒髪を撫で寄せ、フィンは耳の後ろに口づける。アイリーネの素肌の肩がびくっと揺れた。

「愛する人だけに許した呼び名を持つ妻は、一生幸せに暮らせるんだってな」

  侯爵家で修行をしていたとき、その伝説を聞きつけて宿舎に走り込んできたオディーナが「わたし、未来の旦那さまには『ディー』って呼んでもらうことにするわ! アイリはどうする?」と目を輝かせて迫ってきたので、アイリーネはぴんと来ないながらも懸命に想像力を働かせ、「私は……『リーネ』かなあ」と答えたことがあった。

「偽の夫からそんなふうに呼ばれて気分悪かったか?」

  後ろから回って来た腕が、柔らかい布地に包まれたアイリーネの身体を抱きすくめる。

「は……初めのころは変な感じだったけど、だんだん……あっ」

  胸元で結ばれていた幅の広い布紐がフィンの指に引っ張られてほどけると、はらりと寝衣がはだけて、ふたつの白い膨らみが露わになった。 
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