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30 思いがけない宣言
しおりを挟む議会が開かれていない時期とはいえ、大きな式典間近の王宮に伯爵である父がいるというのは、よく考えてみればおかしなことではなかった。
だが、全く予想だにしていなかったアイリーネにとっては、あまりにも突然の遭遇だった。
「お前、どうしてこんなところに……?」
先ほど忙しそうに行過ぎていった人々と同じように、父も何かの用事の途中なのか、書類のようなものを片手に持っている。
「それに、その恰好……」
アイリーネとよく似た色合いの目で、ドミナン伯爵は娘の姿に視線を走らせた。
幼くして騎士を志して以来、アイリーネがこのような貴族の女性の盛装に身を包んだことはほとんどない。居たたまれなくなり、アイリーネは目を伏せた。
「……あ、あの」
「なぜエルトウィンにいない。騎士の務めはどうした」
威圧感のある硬質な声に、アイリーネの気持ちは竦む。
「に……任務でこちらに来ておりまして……」
「任務だと?」
いかめしい顔つきの伯爵は片眉を上げた。
「中尉にまでなったはずなのに、そのようにチャラチャラと着飾らされてか?」
アイリーネの頬がかっと熱くなる。
「――やはり、女騎士に与えられる仕事など、たかが知れているな」
父の頬には皮肉な笑みが浮かんだ。
「女だてらに功を急いで大怪我を負って、縁遠い身になってまで騎士の座にしがみついた結果がそれか」
呆れたようなため息が、アイリーネの心に爪を立てる。
「わ、私は……」
『男のまねごとの時間はもう終わりだ』と父に告げられてから、幾度となく味わってきた寂寥感が押し寄せ、アイリーネの口はうまく回らなくなる。
「アイリーネ、そのようにはっきりしない受け答えで、よく小隊長など務まる――」
「ドミナン伯爵、お初にお目にかかります」
堂々とした挨拶が、唐突に父娘の間に割り込んだ。
よく知っている声の響きにアイリーネが慌てて振り返ると、思ったとおり、歩廊を少し入ったところにフィンの姿があった。
その後ろには、目尻に柔和な皺を刻んだ白髪まじりの赤毛の中年男性と、その人とよく似た面差しの三十前後の男性が、少し驚いたような顔をして立っている。
父とのやり取りをフィンに聞かれただろうかとアイリーネは身を固くしたが、フィンの背後の男性たちに気がついたドミナン伯爵は表情を緩め、愛想よく呼び掛けた。
「おおこれは、モードラッド伯とご長男の――」
それを遮るようにして、フィンは名乗りを上げる。
「私は、ここにおりますモードラッド伯爵の五男、フィン・マナカールと申します」
ドミナン伯爵は少々面食らったように瞬きをした後、笑顔を作った。
「あ、ああ。こちらもご子息で――」
「私も」
またもフィンは言葉を被せる。
「アイリーネ・グラーニ中尉と同じ駐屯地に所属する騎士ですが、現在はエルトウィンを離れ、このようにチャラチャラと着飾らされて任務に当たっているところです」
フィンはドミナン伯爵に強い視線を注いだまま、アイリーネのすぐ横までつかつかと歩み寄った。
「グラーニ中尉のようにひとつの村を救ったこともなければ、幼い命を助けるため真っ先に火事場に飛び込んだこともございませんが、ありがたいことに現在は同等の役目に就くことができております」
何が起きているのかと、アイリーネは隣に立ったフィンを戸惑いのまなざしで見るが、水色の瞳はまっすぐにドミナン伯爵の方を向いていた。
「――それから私は、近い将来」
横から伸びてきた手が、素早くアイリーネの肩を抱き寄せる。
「彼女と結婚するつもりです」
ぎょっとしたアイリーネの目が最大限に見開かれたのと同時に、父であるドミナン伯爵も目を剥いた。
「ああ、フィン、その方なんだね!?」
背後から年若い方の男性が嬉しそうに声を弾ませたが、フィンはそれには答えず、アイリーネの父を挑戦的に見据えたまま口許だけで微笑んだ。
「――ご挨拶が遅れまして、大変申し訳ありません」
◇ ◇ ◇
「婚約、おっめでとー!」
ガーヴァン侯爵家別邸に戻ったその夜、勧められるがままにアイリーネとフィンが手に取った杯に、ヴリアンは勝手に自分の杯をコンコンと当てて寿いだ。
「こ、婚約してないし!」
アイリーネが「ねえっ?」と同意を求めると、フィンは気まずそうに無言で目を逸らす。
「まあまあ、照れないで。双方のお父上が『具体的な話を進めるのは王の誕生日式典が終わってから』って申し合わせていらしたから、正式なものはもう少し先になるってことくらい僕だって分かってるよ」
あのとき、王から帰宅を許すとの伝言が届いたためアイリーネを捜していたヴリアンは、歩廊の手前でフィンの結婚宣言を偶然耳にしてしまったのだそうだ。
「さすがにそんなところまで二人の意志が固まってたなんて知らなかったよ~。君たち、あっという間に仲が深まったんだねえ。やっぱり二人っきりで旅なんかしてると、ちょっとしたことがきっかけで――」
「そ、そんな話はいいからっ!」
アイリーネは力いっぱい話題を変えた。
「それより、どうして今夜ルーディカとキールトは王宮に泊まることになったの?」
なぜかそのように告げられ、この邸には三人だけで戻ってきたのだ。
「さあ……僕もキールトも、陛下の言伝に従っただけだから……」
説明を促すようにヴリアンの視線がちらりと向けられると、理由を知っているらしいフィンは少し困ったような顔をしながら言った。
「ふ……二人だけでよく話し合えるようにとの陛下のご配慮からだ」
「は……?」
全く要領を得ない答えに、アイリーネがさらに質問を重ねようとすると、ヴリアンが「僕はいない方がいいんじゃない?」と口を挟んだ。
「君たちも水入らずでじっくり話すといいよ」
「え……」
ヴリアンは召使いを呼び、何やらてきぱきと指示をすると、アイリーネたちの方に向き直った。
「今夜から君たちの寝室は東翼にしつらえさせるからね。昨晩泊まったそれぞれの客室から荷物を運んでおくように言っておいたから。――あ、僕の寝室は西翼の端っこで、全然、なーんにも聴こえないから安心して!」
◇ ◇ ◇
「な、何これ……」
アイリーネとフィンが案内された豪奢な部屋に置かれた寝台の上には、甘い色合いの花びらがふんだんに撒き散らされていた。
「これじゃまるで――」
新婚の床みたい、という言葉を呑み込んだアイリーネは、部屋の片隅にある扉を見つけると、急ぎ足でそちらへと向かった。
「つ、続き部屋があるみたいだから、私はこっちで――」
勢いよく扉を開けたアイリーネは言葉を失う。
後ろから覗き込んだフィンも、黙ったまま小さく喉を鳴らした。
爽やかな果実のような香りがする温かい蒸気に満ちたその部屋には、楕円形の大きな浴槽が備えられ、そこに張られた湯にも色とりどりの花びらがゆらゆらと浮かんでいた。
「わ、わあ、さすが侯爵家……。お、お風呂も豪華だね……」
「あ、ああ」
「フィン、先に使いなよ」
「あ、ああ……」
二人の間に沈黙が流れた後、思い切ったようにアイリーネは振り向くと、険しい目つきでフィンを見た。
「――ねえ、け、結婚って」
足を踏み出し、距離を縮める。
「どういうこと!?」
訊きたいことは他にも山ほどあったが、やはり真っ先にアイリーネの口から出たのはその件だった。
詰め寄られたフィンは、少し後ずさりしながら言った。
「わ、悪かった」
アイリーネは途方に暮れたように眉尻を下げる。
「出まかせであんなこと……どうしよう。父もすっかり真に受けてたし、フィンのお父様とお兄様なんか、あんなに手放しで喜んでくださって……」
フィンは口を尖らせた。
「出まかせってなんだよ」
「え、だって……。フィンだってさっき、『悪かった』って……」
フィンはむっとすると、「風呂、入ってくる」と素っ気なく言いながら浴室に足を踏み入れ、アイリーネの目の前で扉をばたんと閉めた。
「もう、なにがなんだか……」
アイリーネが混乱し続けている間にフィンはさっさと入浴を済ませ、浴室に置かれていたらしい上質そうな生地で作られた就寝用の脚衣だけを穿いて、面白くなさそうな顔をしたまま寝室に戻ってきた。
「湯が冷めないうちに、おまえも入ってこいよ」
「あ、うん……」
落ち着かない気持ちのまま湯浴みを終えてアイリーネが浴室から出てくると、フィンは花びらを除けた掛布の上で腕を枕にして仰向けに寝転がっていた。
まぶたを閉じて眠ってしまったかのように見えるフィンの様子をうかがいながら、アイリーネは濡れ髪を大きな布で拭く。
アイリーネも浴室内に用意されていた肌ざわりの良い寝衣を身に着けていたが、丈の長い女性用のそれは細い肩紐だけで吊り下げられ、布が重なっているだけの前合わせは、胸元で結んだ布紐が解けたら簡単に開いてしまうような作りになっていて、どうにも心許ない。
やはり手持ちのものに着替えようとアイリーネが自分の鞄に手を伸ばしかけたとき、突然、寝台の上から声がした。
「――なあ」
アイリーネの肩がびくりと揺れる。
「お、起きてたんだ……」
振り返ると、フィンは半身を起こしてアイリーネを見ていた。
少し不機嫌そうに結ばれていた唇が開く。
「さっき、俺が『悪かった』って言ったのは、いろいろと順番を間違えたことに対してで……」
「……順番?」
「結婚は、したい」
水色の瞳がアイリーネをまっすぐに捉えた。
「もちろん、おまえと」
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