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25 フィンの想い 前
しおりを挟む移動に数日を費やし、アイリーネたちは王都の隣の教区であるアルナンの大聖堂に到着した。この街を出たら、後は王都を目指すばかりとなる。
最後の報告の手紙を出しに行くと、ちょうど大人数の団体客がやってきたようで、預かり所には長蛇の列ができていた。
「俺が並ぶから、二人は外で座って待っててくれ」
フィンにそう言われ、アイリーネとルーディカは人気のない庭に出て、大きな櫟の木のそばに置かれていた石造りの長椅子に腰を下ろした。
「フィン様、お優しいですねえ」
木漏れ日を浴びながら、頭巾姿のルーディカはにこにこと微笑む。
「イーディンの手形を見に行った後あたりから、なんだかお二人の雰囲気が変わりましたよね」
「え……」
目を泳がせるアイリーネに、ルーディカは嬉しそうに訊ねた。
「仲直りされたんですね?」
「な、仲直りっていうか」
もともと仲が良かったってわけでもないんだけど……と、恥ずかしそうにアイリーネは呟く。
自覚したばかりの嫉妬心をフィンに打ち明けることになってしまったあの日、お下げ髪の少女が大鍋を落として現れてからは居たたまれなくなり、あれ以上何を話したわけでもなかったが、二人の間に漂っていた重苦しい緊張感は消えた。
醜い感情を晒してしまったと恥じ入っているアイリーネには決まり悪さが残っているが、フィンの方には特にわだかまりなどもないように見える。
以前のように過剰な愛妻家を演じることはなくなったが、何かにつけ先程のように親切な申し出をしてくれるようになっていた。
アイリーネの額が、じわじわと熱くなってくる。
「他の女の人にばかり優しいと嫌」などと告げてしまってから、フィンは他人の目があるかどうかにかかわらず、なんだかアイリーネにも優しいのだ。
自分が駄々っ子のようにねだったせいなのだと思うたびに、立派な騎士になることを目指して幼い頃から私心を抑えるよう心がけてきたアイリーネは、激しい羞恥に襲われ居ても立ってもいられなくなってしまう。
アイリーネのそんな胸中を知らないルーディカは、ほんのりと頬を赤らめる幼なじみに温かいまなざしを向けた。
「ほっとしました。仲たがいされていたときも、フィン様はいつもアイリ様を気にかけていらして、優しくしたくて仕方がないご様子でしたけど、ようやく行動に移せるようになってご本人も嬉しそうですよね」
アイリーネは訝しげな表情を浮かべた。
「気にかけて……優しくしたくて……仕方がない……?」
ルーディカは「隠し切れていらっしゃいませんでしたけどね」と楽しげに言う。
「道中、暑くないか寒くないか、喉は渇いていないかお腹は空いていないかと私に訊ねてくださるときも、フィン様の視線は必ずアイリ様の方に動いてしまわれて。本当は、真っ先にアイリ様にお訊きになりたかったんですよね」
「は……?」
「足場が悪いところでは、慣れていない私のことを支えたりしてくださるんですが、やっぱりアイリ様のことが心配だから、何度もちらちらと振り返って様子をうかがわれて」
「え……?」
「馬車を乗り降りするときだって、よくアイリ様に手を差し出そうか迷われては引っ込めていらっしゃいましたね。仲直りされた後は、『裾が引っかかりそうで危なっかしい』なんていちいち言い訳しながら補助されてますけど」
ルーディカは口に手を当てて、ふふっと笑った。
「ご本人には言えませんけど、なんだかお可愛いらしいですよね」
信じられないことを聞かされたとでもいうように瞬きを繰り返すアイリーネを見て、ルーディカは眉根を寄せた。
「――まさかとは思いますが、お気づきではなかったのですか?」
「そ、そんな素振りなんて、あった……?」
ルーディカは呆れたように口を開け、小さくため息をついた。
「確かにフィン様は素直にお気持ちを示すのは得意ではないようですけど、恋人なんですから、もう少し酌んで差し上げても……」
「恋人……」
アイリーネは戸惑ったように、その言葉を繰り返す。
嫉妬心を抱いたことは自覚したが、それを吐露してしまった恥ずかしさにばかり囚われていて、そもそもなぜ妬いたのかというところまでアイリーネは突き詰めていなかった。
オディーナなら「この期に及んでなに寝ボケてるのようっ」などと、もどかしそうに叱咤しただろうが、ルーディカはもう少し根気強かった。
「お互いに、恋しく想い合っていらっしゃるのでしょう?」
「えっ……」
アイリーネにとって〝恋〟はずっと、遠く輝く小さな星のようなものだった。
仲睦まじい幼なじみの恋人たちを見ていても、オディーナや姉妹がうっとりと恋愛について語っても、何か素晴らしいことのようだけど、天空に浮かぶ星と同じで自身の手では届かないところにあるように感じていた。
騎士として生きていくのだから、それくらいがちょうどいいとさえ思っていた。
「そ、そんなの……」
うろたえるアイリーネの脳裏に、ふいにフィンの水色の瞳が浮かぶ。「俺がどれだけ嬉しいのか分からないのか」と言ったときの、眩しそうなあの目が。
視覚の記憶は他の感覚もするすると呼び起こし、アイリーネの頬を大切そうに包み込んだ手の温かさや、柔らかく押しつけられた唇の感触、息づかいまでが押し寄せるように甦り、アイリーネの胸を驚くほど甘く締めつける。
「ルッ、ルーディカ」
アイリーネは心臓のあたりを手で押さえて訊ねた。
「やきもち焼くのって、……恋?」
「えっ、アイリ様がやきもちを?」
ルーディカはなぜか顔を輝かせたが、アイリーネは申し訳なさそうに目を伏せた。
「――ごめん。私、ルーディカに嫉妬したんだ……」
「私に?」
アイリーネの告白に、ルーディカは気を悪くするどころか、感激したように声を弾ませた。
「アイリ様からこんなお話が聞けるようになるなんて……!」
「えっ」
「年ごとに美しさを増していかれるのに、いつになっても隊務と鍛錬のことだけに頭がいっぱいのご様子で、キールト様と少し気を揉んでいたんです。偽装婚約のせいで意識して恋愛しないように歯止めをかけていらしたのなら、本当に申し訳なかったのですが……」
「そ、そんなつもりはなかったけど……あの、ルーディカ、私は嫉妬の話を」
ルーディカは優しくアイリーネの顔を覗き込む。
「フィン様と仲直りされてからも、私が妬ましいですか?」
「えっ? ……あ」
あのモヤモヤとした胸のざわつきがなくなっていることにアイリーネが気づくと、ルーディカは青い目を柔らかく細めた。
「不安なときは、厄介な気持ちに苛まされたりするものです。私もずいぶん前に、意見が合わなくて気まずくなったままキールト様を見送ったときには、同行されるアイリ様のことがなんだか羨ましくて妬ましくて、自分がとても嫌になりました」
「ルーディカ……」
「恋じゃなかったら何なんですか」
ルーディカにじっと見つめられ、アイリーネは視線をさまよわせた後、顔を真っ赤にしてうつむいた。
「わ、私の方は、たぶん、そう……みたいだけど」
「フィン様だって」
「フィンの方の気持ちは分からないよ」
「そんな。フィン様は、いい加減なお気持ちで、その……」
ルーディカも少し頬を染める。
「仲を深められるような方ではないでしょう?」
アイリーネもそう思いたいが、男爵邸で立ち聞きしてしまったクロナンの言葉が心のどこかに引っ掛かっていた。
「……元上官に対する征服欲かも……」
口にしてしまうと、自分でも驚くほどアイリーネの胸の奥はひんやりと冷える。
「そんなはずはありません」
ルーディカは、やけにきっぱりと断言した。
「アイリ様、フィン様のお気持ちをそんな風におっしゃるのは、見当違いが過ぎると思いますよ」
確かに、あのときクロナンにそう言われたフィンは、激しく憤っていたようだった。
「でも、以前のフィンの私に対する態度を思うと、そうかも知れないなって……」
アイリーネは視線を落としたまま言う。
「二人で旅に出るまでのフィンは、偉そうで、無愛想で、口を開けば突っかかるようなことばかり言って……。入隊した頃からつい最近まで、ずっと私のことが気に入らなかったみたいだから」
「まあっ、そんなことあるわけないじゃないですか!」
ルーディカは力を込めて否定した。
「燃えさかる火の中に飛び込んで助けてくださったのに」
アイリーネが唖然とすると、ルーディカはハッと息を呑んだ。
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