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10 火傷痕
しおりを挟むアイリーネが身体を起こすと同時に扉が開き、フィンが室内へと入ってきた。
「おまえの湯、もらってきたぞ」
「あ、ありが……」
木桶を片手に持ったフィンの上半身はなぜか裸で、栗色の髪はぐっしょりと濡れている。
「頭、どうしたの?」
「ああ、井戸端借りて洗ってきた」
「えっ。いいなあ……。私も洗いたい」
フィンは大きな布で頭をがしがしと拭きながら笑った。
「商家の嫁さんが、井戸んとこで水かぶったりしないだろ。その湯で拭いとけ」
「拭くだけだと、頭皮がさっぱりしないんだよね」
「次は風呂を用意してくれる宿を探そうぜ」
「それいいね」
温泉保養地でもない限り、リルで泊まった宿屋のように貸し切りの浴室まで備えられているのは稀だが、部屋に大きな木桶の浴槽を運び入れて風呂をしつらえてくれるところなら見つかりそうだ。
アイリーネはふと、少し前までフィンとはぶつかり合ってばかりで、こういった何気ないやりとりすらままならなかったことを思い出した。
いつの間にか普通に会話できていることがなんだか可笑しくて、思わず顔がほころぶ。
「な、なんだよ。そんなに風呂が楽しみなのか」
「まあね」
アイリーネがさらに笑みをこぼすと、フィンは瞬きをして、顔を逸らした。
「あ、あっち向いてるから早く拭けよ」
フィンが背を向けて寝台に腰を下ろしたので、アイリーネは離れたところで手早く衣服を脱いで、顔や身体を拭き清める。
「――リーネ」
全身を拭き終えて寝衣を身に着けようとしていたとき、突然〝妻〟を演じているときのように声を掛けられ、アイリーネは驚いてフィンの背中を見た。
「な、何?」
「おまえ、俺に頼みたいことがあるんじゃないか?」
不思議そうにするアイリーネに、フィンは少し焦れたように言った。
「軟膏」
「えっ」
「塗ってやるよ」
アイリーネは目を丸くする。
「キールトから聞いたの?」
それには答えず、フィンは無愛想に指図した。
「十数えたら振り返るから、準備して背中こっちに向けとけ」
「え、でも」
「いーち……」
アイリーネは慌てて裸のまま鞄に駆け寄って、軟膏の瓶を取り出した。
寝台に上ってフィンの方に背中を向けて座り、上掛けを引っ張って念入りに腰まわりを隠す。
十まで数え終わると、背後で寝台が軋む音がした。ゆっくりとフィンの気配が近づいてくる。
長い黒髪を除けたアイリーネの背中のすぐ後ろまで来たところでフィンの影は止まり、しばらく沈黙があった。
火傷の痕を眺めているのだろうと察したアイリーネの脳裏に、これを目にするたびに泣いていた母や姉妹の顔が浮かぶ。
「ひどい痕だよね。驚いた?」
「別に……」
そっけなく言うとフィンはアイリーネの後ろにどっかと腰を下ろし、傍に置かれていた陶製の瓶に手を伸ばした。
「痕になってるとこに満遍なく塗り伸ばせばいいのか?」
「うん……」
キールトに塗ってもらったときにはなかった妙な緊張感をアイリーネは覚える。軟膏をすくったフィンの指が、アイリーネの背中に触れた。
「んっ」
アイリーネがびくんと反応すると、フィンの手が離れた。
「痛むのか?」
「あ……冷たくてちょっとびっくりしただけ。大丈夫」
「痛かったりしたら言えよ」
フィンは丁寧に軟膏を塗り始める。
「……ティリンとリーサ、元気にしてるって聞いたか?」
フィンの唐突な問いに、アイリーネは首をかしげた。
「おまえが助けた兄妹だよ。第三中隊の奴がうちの駐屯地に来たときにそう言ってたぞ」
この火傷を負った日、アイリーネとキールトの二つの小隊は、水路の補修工事を手伝うため、エルトウィンの西にある第三中隊の駐屯地近くに出向いていた。
「よかった。……でも私が助けたわけじゃないよ」
アイリーネの小隊が作業をしていた場所のそばには大きな作物小屋があり、そこから火の手が上がった。
騒ぎに気づいて真っ先に駆けつけると、煙を噴き上げる小屋の前で、若い母親が中に子供が二人いると半狂乱で泣き叫んでいた。
アイリーネは後を追ってきた隊員たちに消火活動を指示して、自分は急いで水をかぶり、燃えさかる小屋へと飛び込んだ。
幸いなことに、思っていたよりも入口から近いところで子供の泣き声が聴こえ、見回すと五歳くらいの男の子が目に映り、少し離れて更に小さな女の子が立ちすくんでいるのも確認できた。
ほっとして二人に声を掛けようとしたとき、女の子の真上の梁が焼け落ちてくるのが視界に飛び込んできた。
「ふたりで頑張ったから、あの兄妹は助かったんだよ」
無我夢中で女の子を突き飛ばした次の瞬間、アイリーネは燃える梁の下敷きになっていた。
身動きが取れなくなったアイリーネは、転がった女の子が自力で立ち上がるのを見て一安心すると、男の子に「出口はあっち! 妹を連れてまっすぐ行ったらお母さんが待ってるから、行けっ! ふたりで走れ!」と力の限り叫ぶことしかできなかった。
「私はしくじって迷惑かけただけ」
示した方向に手をつないだ兄妹が走っていくのを見届けた後の記憶はない。気がついたら第三中隊の救護室にいた。
あの炎と煙の中、誰がアイリーネを救出してくれたのかは分からずじまいになっている。
キールトは、離れた場所で作業していて到着が遅れたので知らないと言っていた。隊に復帰してからも何人かの隊員に訊ねてみたが、「現場はかなり混乱していたので分からない」という答えしか返って来なかった。
ふと、当時の部下だったフィンもその場に居合わせていたことをアイリーネは思い出した。
「ねえ、フィンは誰が私を小屋の中から助けてくれたのか知らない?」
フィンの手が止まる。
「……憶えてねえな。消火作業ですっげえバタバタしてたし。それより、この軟膏、珍しく薬臭くないんだな。いい匂いがする。花みたいな」
「ああ」
アイリーネは嬉しそうな声を出した。
「香りがよくて効能も高い薬草が入ってるんだって。フォルザに住んでる薬師の友達が作ってくれたんだ」
「フォルザ……。おまえが静養してた温泉保養地か」
「うん。うちの別荘があるから、小さいころからよく行ってる」
フィンはぼそっと呟いた。
「キールト・ケリブレとの思い出の場所、か」
「うん? 確かにキールトはしょっちゅう来てたね」
フィンはそれきり何も喋らずに軟膏を塗り終えた。
「毎日塗った方がいいんだろ? 遠慮せず俺に頼め」
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