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9 ふたりきりの旅
しおりを挟む「参ったよなあ……」
だるそうに欠伸をしながらフィンが言った。
「寝かかっても何回起こされたことか……。子宝の湯すげえ……」
黙って隣を歩くアイリーネの目の下にも、くっきりと隈が浮かんでいる。
同じく睡眠不足だったはずのパン職人夫婦とは今朝がた別れたが、二人とも元気いっぱいで、ツヤツヤと輝いているようにさえ見えた。
「――こっちの道で良さそうだな」
白い岩肌に湧き出すリルの泉を見物した後、アイリーネたちは木立に囲まれたひと気のない細道を歩き、近くにあるという聖堂へと向かっていた。
「ねえ、他の人たちと相部屋になるのは今後避けた方がいいんじゃないかな」
あたりをうかがいつつ発したアイリーネの言葉に、フィンは少し間を置いて返事した。
「……できればな」
珍しく対立意見をぶつけられなかったことに、アイリーネは気を良くする。
「やっぱり、そうした方がいいよね? 何かのきっかけで密書に気づかれて関心を持たれても困るし、私たちが本物の夫婦らしくないって怪しまれるかも知れないし、それに、ゆ、昨夜みたいなことで安眠を妨げられたくないし……」
「……まあな」
またしても否定されなかったアイリーネは、がぜん勢いづいた。
「だから、巡礼者で宿が溢れ返ってる聖地のお膝下の街に頑張って泊まろうとしないで、そこに着くまでの通過点にある小さな街で、ふたりだけで泊まれる部屋がある宿を探した方がいいと思うんだよね!」
張り切った提案に対して、少しおざなりな賛同が返ってきた。
「……おまえがいいなら、それでいいんじゃね」
アイリーネは訝しげにフィンの横顔を見る。
こんなふうにつまらなそうな顔をしているのは珍しくないが、何も突っ掛かって来ないのはいつものフィンらしくない。
眠れなかったことが相当こたえているのかも知れないと、アイリーネはフィンを気遣った。
「今夜は、早く寝ようね」
フィンはふうとため息を漏らすと、遠くを見た。
「……聖堂ってあれか?」
木々の向こうに、リルの泉の岩肌の色によく似た白い石造りの建物が見えてきた。
◇ ◇ ◇
「セアナのフィン・ケランさん宛てのお手紙は、えーと……お預かりしていませんね」
聖堂内の一画に据えられた長机の向こうで、淡茶色の掛け襟をつけた若い修道僧が、台帳を覗き込みながらそう言った。
彼の背後の壁面には、細かく仕切られた棚が造り付けられており、そこには何十通もの封書が整理されて差し込まれている。
「じゃあ、こちらが手紙を書きたいんですが」
フィンが頼むと、修道僧は慣れた様子で紙と羽根ペンとインク壺を手渡してくれた。
この国の巡礼路にある聖堂や修道院には、他の巡礼者に宛てた手紙を託しておくことができ、アイリーネたちはその仕組みを利用して、連絡係を務める王の隠密とやりとりをすることになっている。
前回キールトと三人で立ち寄ったチェドラス大聖堂でも、現状報告の手紙を書いて預けてきていた。
壁際に置かれた小さな机と椅子を借り、順調に旅が進んでいることをフィンが暗号で記述した。
国王の改革によって教育制度が変わりつつあるとはいえ、地方によっては平民女性の識字率はまだそこまで高くはないので、公の場所での筆記は〝夫〟役のフィンが担っている。
紙を折りたたみ、先ほどの修道僧のところへ持って行く。
「印璽はどうなさいますか」
溶かした蝋を紙の合わせ目に垂らそうとしながら僧が訊ねると、フィンは襟元から細い鎖を引っ張り出して頭から抜き、それに通されていた幅広の指輪を手に取った。
「これで」
丸く落とされた熱い蝋にフィンが指輪の平たい部分を押し付けると、複雑な模様がついた。
「アルナンのリオール・コーヴァートさん宛てですね。確かにお預かりしました」
隠密の偽名宛ての手紙が壁の棚に差し込まれる。近いうちに、アイリーネたちのように偽の巡礼証を持った者が回収に来るだろう。
「次はダラナン湖か……」
聖者が現れて水を満たしたという伝説があるその湖は、リルから峠ひとつ越えた場所にある。来た道を戻りながら、フィンは嘆息するようにして言った。
「んあー、最短距離でとっとと王都まで行きてー」
聖地を巡りながら王都を目指すと、一番短い経路で向かうよりも二倍以上の時間がかかる。二人の旅はまだひと月ほど続くはずだ。
フィンのもどかしい気持ちも分かるが、これも任務なのだからとアイリーネは元気づけるように声を掛けた。
「まあ、こんなふうにのんびりと旅できる機会なんてめったにないんだし、聖地に寄るたびに任務の成功を祈願しつつ指令どおりにゆっくり進もうよ」
フィンは冷めた横目でアイリーネを見る。
「……おめでてえよなあ」
「は?」
「おまえ、静養休暇取ってから、心身ともにフニャフニャになり過ぎじゃね?」
「なにそれっ。私はねえ――」
抗議しかかったアイリーネは途中で口をつぐみ、以前より細くなってしまった自分の腕を悔しそうに眺めた。
「……そりゃ、まだ鍛錬は足りてないかも知れないけど……」
ふわふわとしたブラウスごしに触ってみると、筋肉が減っているのがはっきりと分かる。
「旅してるだけだとなかなか鍛え直せないんだよね……。そうだ! フィンの鞄も私が持ってあげるよ」
手を差し出したアイリーネを、フィンは呆れ顔で見る。
「嫁さんに荷物全部持たせる旦那なんていねーんだよ」
◇ ◇ ◇
日中にアイリーネが提案したように、二人はその夜、次の目的地への途上にある小さな町の宿に泊まった。
目論見通り、巡礼の通過点というだけのその町の宿屋の客入りはそこそこで、アイリーネたちは相部屋を頼まれるようなこともなく、大きな寝台が置かれた広めの一室に案内された。
荷物を置いてすぐに「ちょっと出てくる」とフィンがいなくなったので、アイリーネは寝台の掛布の上にゴロンと仰向けになる。
「……あの演技派め……」
眉根を寄せ、焦げ茶色の梁が何本も這っている天井を睨みながら、アイリーネはいまいましげに呟いた。
この町に到着するまでの馬車の中でも、乗り合わせた客たちを前にフィンは例の過剰な愛妻家劇場を繰り広げた。
妻を褒めちぎり、熱い想いを語り、引き寄せて肩にもたれかからせ、「昨夜はあまり眠れなかっただろう?」などと意味深長に囁いて仮眠を勧め、「着いたら起こすよ」と、まぶたに口づけまで落としたのだ。
「は、恥ずかしげもなく、よくもまあ……」
居たたまれなさが蘇ってきて、アイリーネは頬を赤くする。
行き過ぎた芝居だと抗議したいところだが、フィンが〝妻のことが愛しくてたまらない新婚の夫〟に上手くなりすましているために出会った人々から怪しまれないのだと思うと、強く責めるわけにもいかなかった。
フィンの演技は大げさだとは思うが、なかなか真に迫っている。
眼差しや触れてくる手が優しくて、まるで本当に愛する女性の扱いを心得ている男性のようだ。
「フィンのくせに……」
アイリーネの脳裏に、入隊したころのひときわ子供っぽく見えたフィンの姿が浮かぶ。
当時のフィンは、他の隊員たちから「おまえ、可愛いな~」などと言われるたびに威勢よく食って掛かっていた。まるで仔犬時代のグロートみたいに。
あの頃に比べたら外見はずいぶんと大人びたかも知れないが、中身はそう変わっていないだろうと思っていた。のに。
「一体どこであんな物言いや所作を身につけたんだ……」
恋愛小説を何冊か読んだくらいであそこまでできるものだろうか。
フィンに婚約者や恋人がいるという話は小耳に挟んだことすらないが、一人や二人くらい居たことでもあるような……と眉間に皺を寄せて考えていたアイリーネは、はっとしたように目を見開いた。
駐屯地からそう離れていない場所には花街がある。
アイリーネにとっては周辺の巡回でしか近づかない場所だが、隊員の中には頻繁に娼館通いをしている者も少なくないようだ。
花街で女性の扱いを教わるのだと言っていた騎士もいる。もしかしたら、フィンにだって馴染みの娼婦でもいるのかも知れない。
「……ふーん……」
アイリーネは口を尖らせた。
以前は上官と部下だったとはいえ、フィンの余暇の過ごし方まで把握しているわけではない。フィンについて知っていることを、アイリーネは心の中で挙げていった。
モードラッド伯爵の末っ子五男坊で、ティアス侯爵の下で修行を積み、十五で騎士に叙任。
物怖じしなくて、言葉遣いは乱暴で、意外と器用で何をやらせても呑み込みは早いけど、重い剣の扱いだけはちょっと苦手。
「……じゃないんだよね、今はもう」
アイリーネがいない間に、御前試合で優勝するほどの腕前になっていた。
夫婦のふりをして手を握られると、剣を扱う者らしく手のひらは硬く仕上がっている。
剣術も制圧術もかつてはアイリーネが指南した。
敵わないと悔しそうだったし、親しげに接してくることはなかったが、助言はいつも真剣な顔で聞いていた。
「あのころは少しくらい敬意みたいなものがあったような気もするんだけどな……」
自身の過失で大きな傷を負った先輩からは、もう学ぶことなどないのかも知れない。アイリーネがため息を漏らしたとき、部屋の扉を叩く音がした。
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