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5 わが妻リーネ
しおりを挟む「ずいぶん活気があるんだね……!」
馬車の窓から外を覗いたアイリーネが、感心したような声を上げる。
正午ごろに教区の境で辻馬車に乗り換えた三人は、日の入り前にはチェドラスの中心街に入ることができた。
目抜き通りには様々な形をした看板を吊るした店が軒を並べ、多くの人々が行き交う路傍では、行商人たちが身振り手振りを加えて自慢の品を売り込んでいる。
「国で二番目に大きな大聖堂がある街だからなあ」
手荷物の中をごそごそと探りながらキールトが言った。
「打ち合わせどおり、馬車から降りたらさっそく今夜の宿を探そう。二人とも、楢の鍵は鞄に付いてるな?」
アイリーネとフィンは頷いた。聖地を巡礼する者は、目印として鍵を模った木工細工を荷物にぶら下げることになっている。
「隊長から預かった巡礼証を配るぞ」
キールトから手渡された革製の薄い手帳のようなものをアイリーネが開くと、一枚の紙が貼り付けられていた。
氏名と大まかな旅程が記され、居住地域の首長と主教の署名が入ったその書付が、巡礼者の旅中の身分証になる。
アイリーネたちが携帯するのは、隊長が手配して架空の人物の情報を記載させた偽物だ。
「僕はこれから、王都の大学に通う神学生〝キーレン・マロイド〟になる」
灰色の掛け襟を整えながら、キールトは説明を始めた。
「ひと月ほど前に王都から東廻りで巡礼の旅を始めたキーレンは、折り返しのエルトゥイン大聖堂で知り合った新婚夫婦と親しくなり、道が東西に分かれるこのチェドラスまで一緒に来た、という筋書きだ」
アイリーネは自分のために準備された巡礼証を眺め、しばらく名乗らなくてはいけない偽名を読み上げた。
「私は……〝フィリーネ・ケラン〟……」
「フィリーネは、港町セアナの織物問屋の息子と結婚したばかりで、婚礼の祝宴を終えてすぐに夫婦で巡礼の旅に出た、っていう設定だから忘れないようにな」
「うん」
誰かになりすます類の任務は初めてなので、アイリーネは神妙な面持ちで返事をする。
「――はあ?」
手にした巡礼証を見ながら、フィンが訝しげな声を上げた。
「なんで俺は〝フィン〟のままなんだよ。隊長ヌケてねえ?」
アイリーネが横から覗くと、巡礼証には〝フィン・ケラン〟と書かれていた。
「まあ、フィンってのはよくある名前だし、お前たちが喧嘩になると、うっかり本名で呼び合っちまいそうだからじゃないか?」
キールトの推測に、フィンは納得いかないような顔をする。
「だったら、アイリーネも本名でいいじゃないっすか」
「うーん、アイリは数少ない女騎士で、地域によっては異名つきの有名人だし……特徴的な黒髪と名前が一致するのはまずいから、変えた方がいいってことになったのかもなあ……」
そこでふと、キールトは何かひらめいたような表情をした。
「そうだ、フィンの方からはアイリのことを愛称で呼ぶようにしたらいいんじゃないか?」
「……愛称?」
眉を顰めたフィンに、キールトはにっこりと微笑んだ。
「本名の〝アイリーネ〟と、偽名の〝フィリーネ〟に共通する部分を取って、〝リーネ〟なんてのはどうだ?」
アイリーネがびくりと肩を揺らす。
「キールト、それ……っ」
心なしか頬を赤らめておたおたするアイリーネを、フィンは目を眇めて不可解そうに見た。
「この呼び方だったら、〝漆黒のハヤブサ〟を思い起こさせることはないだろう。それに、〝リーネ〟って何だかこう、愛する妻を呼ぶのにふさわしい、優しい響きじゃないか?」
妙案だとばかりに愛称呼びを推しまくるキールトに向かって、アイリーネはうろたえながら「ばっ」「なっ」「やめっ」と言葉にならない声を上げた。
「ふーん……」
フィンは慌てているアイリーネをじっと眺めて少し考えると、にやりと意地悪そうに笑った。
「そうしよう」
アイリーネが驚愕したように目を見開くと、フィンはいっそう愉快そうな顔になった。
「よろしくな、リーネ。我が妻よ」
◇ ◇ ◇
日照時間がぐんと伸び、旅人が増える季節だということもあり、三人の宿探しは予想以上に難航した。
夕食を後回しにして街じゅうを歩き回り、宿屋や宿坊付きの修道院を片っ端からあたってみたが、どこもかしこも満杯で宿泊を断られてしまった。
「ああ、二階の端に一部屋だけ空いてるけど、ずいぶん狭いよ。それでもいいならどうぞ」
ようやく、市壁の際の、あまりひと気のない一画で見つけた居酒屋を兼ねた宿屋でそう言われたとき、疲れ果てていた三人の目には無愛想なおかみが女神に見えた。
「ケラン夫人、同じお部屋を使わせていただいてもよろしいでしょうか?」
おかみの目の前で芝居が始まった。
神学生キーレン・マロイドに礼儀正しく伺いを立てられ、商家の跡取り息子フィン・ケランの新妻フィリーネは鷹揚に頷く。
「ええ。困ったときはお互いさまですもの。構いませんわ、神学生さま」
庶民の旅人にとっては、相部屋で宿泊するのはおろか、やむを得ず初対面の客同士が広い寝台を分け合って使うようなこともないわけではない。
大抵の貴族の令嬢にはそんな経験はないだろうが、アイリーネは修行時代から雑魚寝には慣れているため、軽く考えていたのだが――。
「嘘だろ……」
フィンが呻き声を上げた。
「想像以上だな……」
キールトも困惑気味に呟く。
一階の居酒屋で夕食を済ませている間に準備してもらった部屋の中を、三人は呆然とした表情で眺めた。他に立っていられる余地などないので、扉の内側に背中をくっつけて、横並びになりながら。
天井が斜めになったその窮屈な室内には、大人三人が詰め合ってやっと横になれるくらいの幅の寝台が、どうやって運び入れたのか見当もつかないほどぴったりとねじ込んであるだけだった。もちろん、誰かが床で寝られそうな隙間も全く見当たらない。
「お……俺はどっかで野宿を……」
荷物を抱えたまま出ていこうとするフィンをキールトが制する。
「市街地で野宿なんかしたら取り締まられるぞ。目立つ行動は厳禁だ」
アイリーネにも戸惑いはあったが、気を取り直すようにして言った。
「寝具は清潔そうだし、戦場に比べたら上等だよ」
とにかく、今日の疲労を明日に残さないよう身体を休めなくてはならない。
驚いたように瞳を揺らすフィンと、「まあ、仕方ないよな」と苦笑するキールトに、アイリーネは朗らかに微笑んでみせた。
「汗かいたから、階下でお湯もらってくるね」
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