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4 旅のはじまり
しおりを挟む「バタバタしたけど、なんとか出発できて良かった……」
馬車の中で、キールトが安堵の声を漏らす。
密命が下った翌日にヴリアンは一足早く王都へと旅立ち、それから二日して支度が整った残りの三人も、馬車に同乗してつい今しがた駐屯地を出た。
三人の小隊長たちの旅の名目は〝近隣の教区にあるいくつかの騎士団の視察〟だが、これから実際に目指すのは、隣の教区チェドラス郊外の駐屯地――ではなく、大聖堂を擁する中心街となる。
「準備しておかないとな」
そう言いながら、キールトは黒い上着を脱いだ。
教区の境で辻馬車に乗り換えるまでに、それぞれが成りすます人物に姿を変えておく必要がある。
今夜は〝巡礼路で知り合い、意気投合した神学生と新婚夫婦〟を装って同じ宿で一泊し、その後は東西の巡礼路に分かれて王都を目指すという段取りになっている。
「三人が同時に脱ぎ着するとあちこちぶつかりそうだから、順番にひとりずつ着替えよう」
アイリーネとフィンの向かいの席に座っていたキールトはそう提案すると、さっそく黒い脚衣に手を掛け、腰を浮かせてするすると下ろし始めた。
「ちょ、ちょっと!」
アイリーネの隣のフィンが慌てたような声を上げ、キールトはぴたりと手を止める。
「こいつがいるんっすけど」
言われたキールトも、親指を向けられた「こいつ」であるアイリーネも、きょとんとした顔になった。
「……ああ」
キールトが笑みを浮かべる。
「僕たち元婚約者同士だし。――ってのは冗談だけど」
眉間に皺を寄せたフィンの反応など意に介さぬ様子で、キールトは「アイリとは子供のころからこんな感じだったからなあ」とのんびりと語った。
「とはいえ、女性の了解を得ずにこんな至近距離で脱ぎ出すなんて、『高潔であれ』っていう騎士団の信条に反してたよな。アイリ、失礼」
「どこかのお嬢さんやご夫人と乗り合わせてるわけじゃないんだから、いちいち気にしなくていいよ」
自身も伯爵家の令嬢であるはずのアイリーネだが、事もなげに言う。
「隊員の着替えなんて見慣れてる」
不機嫌そうに押し黙ったフィンを横目で見ながら、言葉遣いは雑なのに、こういうことには妙に細かいんだなとアイリーネが意外に思っていると、身支度を再開したキールトが軽口めいた調子でフィンに声を掛けた。
「でも、アイリが着替えてるときは見ちゃダメだぞ?」
「い、言われなくても分かってるし!」
フィンは噛みつくように返し、ふてくされた顔で付け加えた。
「そもそも、見たくもねえし……」
第一中隊で唯一の女性隊員であるアイリーネには、専用の小さな更衣室が設けられている。当然、入浴も男性隊員とは時間をずらし、最後に大浴場を一人で使うことになっている。
前線や遠征先ではそこまでのことはできないが、「高潔であれ」の信条に誓いを立てている騎士たちには〝ところ構わず裸にならない・誰かが肌を晒すときは不躾に見るようなことはしない〟という暗黙の了解がある。
「――これでいいかな」
いつもは分けている銀髪の前髪を下ろしながらキールトが言った。
「わあ……」
足首まである灰白色の長衣の腰に細い帯革を締め、頭巾付きの灰色の掛け襟を身に着けたキールトは、まるで本物の神学生のように見えた。
「キールト、完璧」
「全く違和感ないっすね」
「よかった。じゃあフィン、席を替わろう」
フィンはキールトが座っていた向かい側の席に座るなり、緊急出動時並みの速さで服を脱ぎ始めた。
「フィン、そこまで急がなくても大丈夫だぞ」
キールトが声を掛けると、フィンはシャツの袖から腕を抜きながら言った。
「アイリーネの女装には時間が掛かるだろうから」
もともと女ですけど! とアイリーネが厳しい目を向けたとき、フィンはすでに腰を覆う短い下着だけになっており、これから着るものを手に取ろうとしていた。
「…………」
アイリーネは息を呑み、驚きの瞬きを繰り返す。
フィンはもう線の細い少年ではなかった。隅々まで鍛えられたしなやかな筋肉を、なめらかな素肌が覆う伸びざかりの引き締まった肢体は、王都の広場にある伝説の若き英雄の彫像を思い起こさせるほどだった。
「……じろじろ見んなよ」
アイリーネの視線に気づいたフィンが、口を尖らせる。
「やらしい目つきで」
「や……!?」
アイリーネは顔を赤くして抗議した。
「そんな目で見るわけないでしょ!」
憤慨したアイリーネがそっぽを向いているうちに、フィンの着替えは終わった。
「おー、似合ってるぞ、フィン」
キールトの感心したような声に誘われて、アイリーネも視線を向ける。
フィンは、仕立ての良い柔らかなシャツに袖なしの青い上着を羽織り、太股のあたりがやや太くなった長い脚衣を身に着けて、商人の息子らしく仕上がっていた。
「あー、うん。苦労知らずのお気楽坊ちゃんって感じ」
アイリーネの挑発的な感想に、今度はフィンが不穏な表情になる。
「二人とも、隙あらば喧嘩を売り合うのはやめろよ……」
キールトは呆れ声で仲裁すると、てきぱきと指示を出した。
「じゃあアイリ、フィンと席替わって。フィン、僕たちはしばらく窓の外を見てような」
「喜んで!」
嫌味たっぷりにそう言いながら席を移ったフィンをひと睨みし、アイリーネはごそごそと着替えを始めた。
片方の窓側に腰掛けているキールトは、ごく自然な姿勢で流れていく車窓の風景を眺めているが、その反対側に座るフィンは、上半身を思いきり外の方へと捻り、窓にくっつきそうになるほど顔を近づけて、「見たくもねえし」をあからさまに体現していた。
「――き、着替えた……けど」
「おお、いいな……!」
商家の新妻に変身したアイリーネを目にしたキールトは、声を弾ませる。
「まさに素敵な若奥さんって感じだよ、アイリ」
「そっ、そう……?」
一つに括ってあった黒髪をほどき、襟元を深く刳った白いブラウスの上に更に大きく襟ぐりが開いた袖なしの赤い胴衣を重ね、同じ色の長いスカートを穿いたアイリーネは、居たたまれなさそうに衣装のあちこちを引っ張った。
「これ……なんかちょっと……」
胸元が強調されているような着慣れない服装に、恥ずかしいと言葉にするのも恥ずかしくて、アイリーネは口ごもった。
「いやいや、しっくりきてるって。なあ、フィン?」
キールトが声を掛けると、黙っていたフィンはハッと我に返ったかのように瞬きをした。
「あ……。か、かろうじて女に見えるかも知れませんね」
ムッとするアイリーネをキールトは取りなすように言った。
「アイリ、麗しいご婦人がそんな顔するなよ。フィンも突っかかるような物言いはもうよせ。今日からしばらく二人は夫婦なんだから。な?」
「……最っ悪」
アイリーネが毒づくと、フィンも「本当にな!」と言い放った。
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